冬天家。
日本競レースの勃興期を支えた、四つの名家のうちの一つである。
司っていたのは『規則』、形のない『了解』であったため、没落を食い止めるには相当の犠牲を要した。
当時の当主のみならず、末端の分家、幹部の一部すらも切り離し。
結果として、要衝であった本家は、こうして今も屹立している。
サファイアアリオンのトレーナーは、そうして首の皮一枚繋がっている本家の現状を、ほとんど気に掛けていない。
生き延びるためとはいえ、実の父を無情に切り捨てた一家なのだから、当然のことではあった。
だがまだ血脈は絶えていないことは把握しており、妙な因縁を付けられないためにも、その周辺には出来る限り近づかないよう、これまで細心の注意を払ってきた。
彼女は、思ってもみなかった。
まさかそのような注意を――自分から、破る日が来るとは。
「どうした、」
冷静な交渉の場に、憎悪や怨嗟の類はノイズだ。
成すべきことのために話すべきことを整理するため、口を閉ざしていた彼女に、『彼』は言う。
冬天家現当主――
さらに言えば、彼女の義兄に当たる眼鏡の男は――
玉座から、不遜なまでの態度で、言う。
「久々の『家族』との再会だぞ。もっと喜んだらどうだ?」
「……そうですね」
彼女の声に、感情はない。
見下すわけでもなければ、見上げるわけでもない。
平坦な声色に――男は、態度を崩すことなく、鼻を鳴らしていた。
「――オメーのその案のダメな点は、違法なレースに参加しようとしてるとこだ」
トレーナー寮で仕事に励んでいた彼女は、担当からの提案に面食らったものの。気を取り直し、軌道修正を図る。
「だがオメーに引く気はなさそうだし、そのお友だちを救う手立ても他にはない。ブラックレースで悪名高いような奴なら、外のレース場で走らせるのも難しいだろう。……ならどうすればいいか?」
そしてその修正の方法は、そう難しいものでもなかった。
彼女の口が――いつかのように、悪人のように、吊り上がる。
簡単だ、と言葉を繋いだ。
「――『合法』にすりゃいい」
『……言ってる意味が分かんないんですけど』
「まぁー任せとけよ。こう見えてもあたし、『元』・名家の一員だぜ」
やれやれ、と彼女は背凭れに背を預ける。
前のめりな担当の手綱を握るのも楽じゃないな、と考えながら。
「……オメーのために、一肌脱いでやるよ」
何度目かの『悪巧み』を。
彼女のために、企てる。
「それで?」
男の促しにも関わらず、頑なに立つことを選んだ担当に、男は問いかける。
「どうしてわざわざ、会いに来たんだ?」
彼は、担当が自分のことを毛嫌いしていることは知っている。
本人の口から直接聞いたわけではないが、例の一件に関して、謝罪のひとつも入れない人間を、そう簡単に受け入れられるはずもない。
ただ、男の方はというと、そうではない。
男はこれまで、てっきり彼女は、今や抜け殻のように母方の実家で過ごしていると思ってばかりいた。
それがこうして、あの『秋川家』傘下の学園に入り、トレーナーとして勤務しているときて。
偶然で片付けようというほど、彼も鈍感ではない。
裏を。
策謀めいたものを、そこに感じずにはいられなかった。
「ただ事じゃあないだろう」
ただ――それがなんであれ。
自分の思い違いであれ、印象は同じであった。
あらゆる手段を尽くそうという彼女のその、危うさに似た気高さを。
彼は、いたく気に入っていた。
そんな彼女が、こうして会いに来るのだ――
普通ではない。
何か、浅からぬ思惑がある。
そう思い至るのは、ある種当然のことであった。
「……」
担当は、すぐには本題に入らない。
一呼吸、二呼吸と間を置く。
中庭の鹿威しの音が、厳格に緊張感を煽る。
「……今日は」
折り入って、お願いがあって来ました。
そうだろうな、と男は思う。単なる世間話のために、わざわざ訪れるはずもない
だからこそ、その先は促さない。
飽くまで、彼女自身が、先を話すことを待つ。
「事の発端は……」
数週間前に、遡ります。
担当は、怖気付くことなく、男へと説明を始めた。
自身が担当するウマ娘のこと。
彼女が標榜する目的のこと。
見つかった親友。
巻き込まれた事件――
一連の話は、男への大きな協力を求めるもので結ばれていた。つまりは――レース場を『乗っ取ろう』というのだ。
ブラックレースの違法性は、ひとえに賭博として用いられていることにある。
そこに出走すること自体は、法的に咎められているわけではない。
だから、限定的に賭博行為を禁止とし。
『合法の』レースとして開催させよう、ということである。
ただ――言うは易く行うは難し、というもので。
実行に移すならば、それもそれで様々な損害が発生することになる。
ブラックレースは、裏稼業にとっての数少ない『出会いの場』だ。
下支えする莫大な資本も、それら無しには成立しない。
その日一日が『無駄』になるだけでも、看過できない損失となり――
更には、前例を作ることによる信用問題に発展する可能性すらある。
それら全てを、権利や
実行する側も、ただでは済まない。
「……」
聞き終えた男の顔が、深刻そうな『無』に変わっていたのは。
そういったリスクを瞬時に理解し、天秤へと掛けていたからだ。
世の中は『等価交換』。
対価無しに結果だけを得ようなど、そこまで都合のいい話もない。
「……話は分かった」
だから、彼は身を乗り出す。
鋭く、威圧的な視線にて――担当を射貫く。
彼女の佇まいは変わらない。
「だがまさか……俺が、何の条件もなく『それ』をしてくれるとも思ってないだろう」
どんな因縁があれ、お互い、短くない日々を過ごしてきた仲だ。
自分がどんな人物なのかを知らないはずがない。
知らないにしろ――世の中が、そこまで甘くはないということも。
「協力はしてやらんこともない。その代わりに……お前は何を差し出すんだ?」
「……」
男は問い詰める。
担当は、なおも無表情でいる。
一歩も引かず、半歩も怯えず、男に口を開く。
「……義兄様は」
その果てに――
彼女は、言った。
「何を差し出せば、
応じてくださいますか」
「――……」
その――
予想外の問い返しに、男は目を見開く。
それは搦め手――というより、禁じ手に近かった。
同時に、攻めでもあり。
何よりも醜い、逃げでもあった。
「……なんだそれは?」
男の声は。
それまで、飽くまで平静を帯びていた彼の声色は、いよいよ不快に歪む。
「俺が、金を寄こせと言えば、寄こすってのか」
「はい」
「██を差し出せ、と言っても、応じるってのか」
「……、はい」
「どうしちまったんだ一体……」
男は、嘆くように片手で顔を覆う。担当の言動は、その姿は、もはや男の知るものと一致していなかった。
幼い頃より、醜悪な大人の世界で揉まれた彼女。
生き延びるために、時に汚れた手にすら手を染めてきた彼女。
――自分は、そんな彼女の生き様を気に入っていたというのに。
なんだそのザマは。
なんだその有様は。
「今までの生活で何を学んできた? 俺がそんな願いに応えると思うか? 俺が……そんな安い男だったか? 今まで?」
「……」
「変わっちまったなお前も。例の『事件』のあった時は、あの時のまんまだと思ってたもんなんだがな。そこまでの無様を平気で晒すとは」
「……」
「……何があった?」
「……『私』は」
追い詰めるように言う男に、担当は、変わらぬ調子で応じた。
「まだ、罰を受けていません」
それは、かつての過ちの話。
「父も母も、相応の報いを受けました。その中で……私一人だけは、未だにのうのうと生きている。そんな状況に、ただ甘んじて生きることなど出来ません」
かつて経験した、悲劇の話。
「罰を受けます。報いを受けます。……どんな代償も、支払ってみせます」
それらを、噛み締めるように。
彼女は、言った。
「ですから……どうか。協力してくださいませんか」
「……」
「お願いします」
深々と頭を下げる担当。
男はその様子に、舌打ちしそうになるのを堪える。
そう、彼は彼女のことをいたく気に入っていた。
だが同時に、気に入らなくもあった。
どんなに目上の人間にも靡かず、謙りもしない姿勢。
毅然とお家の頂点に立ち、導き続けてきた元・当主の面影がちらつき――
何度、不愉快にさせられてきたことか。
「……」
変わっていなかった。
何も変わっていなかった。
自己犠牲をも厭わない気高さも、目的のために、何もかもをかなぐり捨てられる危うさも――
何一つ、変わってなどいなかった。
「……、」
男はもちろん、手放しでそれを受け入れようとは思っていなかった。
ただかといって、一方的に拒むことも許せなかった。
拒む、という考え方を基本に、何か手はないかとしばし思案し――
「……」
ほどなくして。
彼は、にやり、と笑っていた。
「……いいだろう」
担当は、弾かれたように顔を上げる。
男の返答が予想外だったのだろう。
驚きに、目を丸くしてもいたが。
「ただし」
続けざま彼が言うと、すぐさま感情を消していた。
その情動の現れは、男の目にはコミカルに映り、思わず笑みを深める。
「条件がある」
「……なんでしょうか」
「世の中は等価交換だ」
お前が何を考えているにしろ――
その法則は揺らがないと。
何の対価もなしに何かを得ようなど。
そんな簡単な話はない、と。
「こんな大掛かりな話に協力してくれっていうんだ。相応の誠意を見せてくれないとなぁ?」
「……誠意、ですか」
答えた担当を、男は冷たく見下ろしていた。
「――土下座しろ」
彼女は――
目を見張っていた。
想像通りのその反応に、男は楽しそうに立ち上がる。
彼女に背を向け、その様子をまともには確認しようとしない。
「それが出来ないなら、応じられんな。逆に言えば、それさえすりゃあ考えてやらんこともない」
男にはわかっていた。
彼女のことを、よくわかっていた。
「どうせ、難しいことじゃないしな。おまけで、広報も担当してやろうか。今の俺は、いささか気分がいいからなぁ。はっはっは」
いくら、あの当主の地を引くとはいえ。自分の教え子のためとはいえ。
人並み以上のプライドを持っていることを、よく知っていた。
「……どうした。早くしろ」
男は言う。
無理難題を吹っ掛け、冷たい声で言う。
「俺は気の長い方じゃないんだ」
男は、壁と相対する。
急かしながらも、既に見えている結末に。
もはや彼女から視線を切り、顔を醜悪に歪ませ始める。
その背後で――
――担当は。
ぺたりと、その場に座り込んでいた。
「……、」
その様子を、男は背中で感じ――
だろうな、と思う。
そう――『父』に似て、プライドの高い彼女だ。そんな恥晒しを、そんな屈辱を。簡単に出来るはずが。
簡単に、
受け入れる、はずが――
「――!?」
……そう。
簡単に、出来るはずが、なかったのだ。
男は振り返る。
ほんの気のせいだと、本来なら信じたかった。
だがそこに広がる光景は、嘘でも見間違いでもない。
担当は、
間違いなく、その場に跪いていた。
「……これで、よろしいでしょうか」
彼女は言う。
驚愕する男の傍らで、言う。
「他にも何か……要求が、あるでしょうか」
頭を下げたまま、視線を落としたまま――
……言う。
「……いかがでしょうか。お義兄様」
「……っ」
ぴくり、と男の口端が動いた。
あぁ――自分は、彼女をいたく気に入っているが。
やはり、やはり、それ以上に、嫌いだ。
その気高さが。
その孤高さが。
本当に。
心底に。
嫌いだ――……
「……何故」
男の声は、枯れ木のようだった。
「何故、そこまでする」
自身の常識では、到底理解しがたい現実を、それでも理解しようと努める。
「何があった? お前はもっと狡猾で、冷酷で、冷徹な女だったろうが。そのお前が……お前が、何故、こうも簡単に跪く。何があった」
困惑。
当惑。
混乱に迷う彼に、担当は目を合わせない。
「……何が、あったんだ」
「……何も、ありません」
そんな彼に――
彼女は、そのまま、答える。
「私は、自分の力を過信していました。自分一人だけでも、なんだってできると、ずっと、そう思って生きてきました」
けれど、それは違っていた。
「私は無力です。一人では何も変えられない。独りでは何も成せない。……誰かの肩を借りないと、相棒の夢すらも、満足に叶えてやることも出来ない」
力が必要なのです、と。
助けが必要なのです、と。
「手助けが……欲しいのです」
だから。
お願いします、と。
「――私に、」
どうか、
力を、
貸してください。
……と。
その体勢のまま――
改めて、深く、深く、首を、垂れていた。
「……」
体勢からしてみれば。
男の方が、明らかに上だ。
にも関わらず、男は、自分がひどく格下の人間のように思われた。
築き上げた立場の全てが、虚栄であると突き付けられた気分になる。
見るからに跪き、命を乞うているようですらある彼女を前に。
その実、縋っているのは、むしろ自分のように感じられてしまった。
男の口端が、歪む。
今度のそれは、楽しそうではなく。
いかにも楽しくなさそうに。
心底に、つまらなそうに――
「……一週間後、だったな」
男は言う。
「ここらでブラックレースが行われてるところと言えば、██通りの裏の、地下競レース場しかない」
その言葉を、担当は頭を下げたまま聞いていたが。
「……いいだろう」
果たして、告げた言葉に。
彼女が、頭をゆっくりと上げたところを、男は、背中で見届ける。
「望みどおりに準備してやる。……精々恥をかかないよう、練習に励むんだな」
「……義兄様」
「――っ」
一転して、柔らかくなった担当の声色に。
男は、忌々しげに舌を鳴らした。
「――とっとと出てけぇ! 目障りだぁ!」
「……」
担当は、その場に立ち上がる。
なおも背中を向け続けている彼に、姿勢を正し。
もう一度、恭しく、一礼していた。
踵を返す。
玄関口を通り、門の前まで。
帰路へと着く中――
おもむろに携帯電話を取り出すと、慣れた手つきで、ある番号を呼び出した。
耳に当てた電話口からは、聞き慣れた声が、よく聞こえてくる。
「――よぉバカウマ」
それに向けた彼女の声は、今やいつも通りの調子だ。
「明日、スカイを連れて、トレーナー室まで来い」
そう、いつも通りに――
言っていた。
「おっぱじめるぞ」
どたどたと騒がしい足音と共に、控室の扉が開け放たれる。
中に入ってきたのは、息を切らしたエンゲツちゃんだった。
「――ねぇ! 観客席すごいことになってる!!」
彼女は、その顔を驚きと楽しさと怖さの同居した、混沌とした色に染めながら言う。
「今まで見たことないくらいぎっちぎち!! やばい!! あたし今になって緊張してきたんだけど!?」
「あぁもォうっせぇなァ!!」
そんな彼女に負けず劣らずの絶叫をかますのは、ショーちゃんだ。
「んなこたぁ言われなくとモわかってんだヨいちいち騒ぐナこの人面街宣車!!」
「な――なんですってぇ!?」
「もー! 喧嘩だめっ!」
「ははは……今日もお元気そうで何より」
そんな二人を、リョホーちゃんが止め、センちゃんが穏やかに見守る。もはやすっかり見慣れたその光景に、私も思わず苦笑いを浮かべた。
「しかし気前がいい話だね~」
そのさなかで、のんびりと言うのはスカイさんだ。
「てっきり、招待客以外締め出されるって思ってたんだけど~」
「連中も、商機は商機で使うってことだろ。……『向こう』に『お友だち』もいるらしいしな」
応じるのは、トレーナーさん。あっけらかんと話すけれど、今のこの状況を作ること。簡単な話じゃなかったろう――そう、ブラックレース。件の『決闘』は、彼女の計らいで、『通常の』レースとして開催される運びとなったのだ。
それも、今日ここで開催されるいくつかのレースの大トリとして。加えて、『一般客』まで入場可能となる大盤振る舞い。
一体、どれだけのお金と労力がかかったのか。考えただけで……頭が下がる思いだった。
「……」
そんな、運命の日を迎えてなお――
いや、迎えているからこそ、だろうか。
フェアちゃんの顔は、曇天のように重く曇っていた。
大一番を控えているからか、それとも、申し訳なさからか。
どちらにせよ、見るからに思い悩んでいる様子の旧知の親友を、そのまま放っておくほど、私も薄情じゃない。
「……大丈夫だよ」
だから、出来る限り柔らかく、彼女に呼びかけた。
「確かに私たち、ここで走るのは初めてだけどさ。見たとこ、そこまで芝コースと変わりなさそうだし」
それに、未知のコースだろうと。
不可解な相手だろうと。
こちらには――何よりも信頼のおける相棒がいる。
「今日のために、分析も話し合いもしてきた。作戦に従って、『いつも通り』に走れれば……」
そう出来れば。
自分を貫き通せれば――
「
「……褒めちぎってくれるのはありがたいけどな」
そんな、べた褒めな私の評価に。
相棒は――トレーナーさんは、今まで聞いたことのない声色で言う。
「そういうのは、本人がいないとこでするもんじゃねーのか」
「……あれあれ? もしかして照れてんですかー?」
……で、そんな珍しい様子の彼女を。
からかうな、っていう方が無理なのである。
「いーんですよー? 素直になって。トレーナーさんも大人なんですからー。その方が可愛げありますよー?」
悪戯心に煽られるまま、にやにやと詰め寄ると――突如、脇腹の辺りに走る鈍い痛み。
素早く立ち上がった彼女は――軽やかな身のこなしで、鋭いローキックをかましていたのだ!
「蹴ることないじゃないですかぁ!!」
「やかましい!! テメーはもっと目上の人間を敬いやがれ! あたしじゃなかったら停学もんだぞ!!」
「そこまでじゃないと思うけどな~」
そんな私たちのやり取りに、スカイさんがけらけらと笑う中――
「……みんな、」
フェアちゃんは。
消え入りそうな声で、言っていた。
「……ありがとう」
「……それは」
でもそれは――
ちょっと気が早い、と思った。
「全部が終わってから、ね?」
「……」
そこまで来て、ようやく安心してくれたのか、彼女は柔らかく笑う。
それを見たトレーナーさんは、隅で騒ぐ四人組の方へと歩み寄っていた。
「――おら、そういうわけだガキ共。観客席に行け」
「えー! なんでよ! あたしたち仲間でしょ!?」
「作戦はどこから漏れるかわからん。今回のは特に注意しなくちゃいけないからな。お前らを信用してないわけじゃないが……」
ちらり、とこちらを見るトレーナーさん。その目は、フェアちゃんの方へ向けられていた。
こくり、と彼女は頷く。
「……言うことを聞けお前ら。この試合は、お前らの『大事なもの』がかかってるんだ」
一歩前に出て――
フェアちゃんも、加勢した。
「絶対に勝つために……万全は期しておきたいんだ」
「……フェア姉」
それに応じるのは、センちゃん。
期待と、恐怖と、信頼と。正と負の様々な感情の入り混じる表情で、縋るように言う。
「ごめん。あたしらのせいで……」
「いいんだよ。どのみちあいつとは、いつかケリつけないといけない。……いい機会だよ、むしろ」
「……、」
その整理はつけられていなさそうだったけれど。
フェアちゃんの言葉を聞いて、心に決めたみたいだった。
「――勝ってね」
「当たり前だ」
真っ直ぐに答えるフェアちゃんに――
センちゃんは、力強く頷いた。
「――さ、みんな行こう。スカイさんのトレーナーさんが、場所取りしてくれてるはずだし」
「まぁしょうがねぇナ。行くゾ」
「か、勝ってね! 応援してるからね!」
「……がんばって」
そんな彼女に引き連れられて――
四人は、ぞろぞろと部屋から出ていく。
足音が遠ざかり、反比例するみたいに、静けさが室内を満たし始めた。
「……フェアちゃんは……」
そこで私は。
ふと、気になったことを口にする。
「その、トウって人と、どんな関係なの?」
「……どうもしねぇよ。腐れ縁だ」
厳密には、そんな縁すらも持った覚えはねぇんだけどな。――彼女は、語尾にそう付け足す。
「ほら、ここってこんな場所だろ。変に目立つと、変なのに目を付けられるんだよ。あたしの場合は――下手に『紅い閃光』だのと持て囃されたせいもあって、トップクラスの変人に付き纏われたってわけだ」
兼ねてより聞いている、彼女の異名。
私なんて、そんなのまだ欠片ももらっていないのに――なんて、知った当時は悔しがったけれど。
有名になる、ってことは、それだけ敵が出来やすいってことでもある。
「トウは根っからの『悪役』、勝つために手段を選ばないって思考を地で行く危険な奴だ。病院送りにされた奴も数知れない」
その眉が、深刻そうに顰められる。それは、それだけ『彼女』が手強い相手であることの証左だった。
「……そんな奴に、本当に勝てるのか?」
「何……心配すんな。負けたところで、たかが『死ぬ』だけだ」
くつくつと笑うトレーナーさん。悪い笑みだった。
「さてそれじゃ、最後の作戦会議をするぞー」
ともあれ――一言一句、聞き漏らすなよ、と。
彼女は、私たちに話し始める。……
違法レースの温床である地下競レース場は、いつもなら陰鬱とした空気に包まれている。
見るからに悪人と言わんばかりの人間がそこかしこをうろつき、下世話な世間話や、法外な商談に花を咲かせる。
決して何も知らない一般人が寄りついてはならない場所となっているのだが――
今日、観客席をうろついているのは、スーツ姿の屈強な男性。
左右をしきりに見回し、サングラスの奥から放たれる眼光が隅々を監視する。
「――そこの方」
少しでも異常が観測されれば――
その出所をすぐさま塞ぎ。
いかにも、安心で安全なレース場ですよ――と言わんばかりの様相を演出する。
「……」
あまりに『普段』と違う様子に。
エンゲツセイリュウは、かえってひどく落ち着かない。
「……はばかりなラ向こうだゾ」
そわそわしている彼女に、ショーは呼びかけるが。
エンゲツは、顔を真っ赤にして勢いよく振り向いていた。
「な――そ、そういうんじゃないわよ!! あ、あんた、もう少しボキャブラリー考えて言いなさいよ!!」
「それ言うなラ『デリカシー』ナ」
「喧嘩しないのっ」
「……まるで本当の家族だね、みんな」
いつも通りに騒ぎ立てる彼女らを見て、微笑むのは一人の男性。
スーツ姿の彼もまた、本来ならこの場所に縁もゆかりもない人物であったが――今日ばかりは、無関係を貫くわけにはいかなかった。
――『担当』が出るとなって。
観ないわけにはいかなかった。
「関わり始めて長いのかい?」
「……言っても、一年も経ってないですよ。みんなそれぞれ……フェア姉に拾われました」
「家出かい?」
「そこまで話す義理はないですよ」
「確かにそうだ」
男の佇まいは実に普通だ。
警戒心を抱く理由とするには程遠い。
それでもセンは、彼と必要以上に親交を深めるつもりはなかった。
「でも意外でした」
ただそれは、全く話をしないこととは別だった。
「『正規ウマ娘』さんが、こんな穴倉に顔を出すなんて」
「……俺も、ちょうど思い悩んでたからな。『あの子』の進退については」
中央のウマ娘が、このようなレースに出ることなど前代未聞だ。
本来なら、決して承服してはいけないこと。
ただ、『彼女』が駄目と言って聞く性分ではないことは知っていたし。
それで、確認したいこともあった。
「今回、ちゃんとあの子の走りを見届けて……今後のことを考えるつもりだよ」
言葉面は深刻そうだったが――
彼の眼差しは、迷いなく、澄んでいた。
「前に進むために……手放す勇気も、持たないとな」
「……」
対して、センは――
揺らいでいた。
揺らいでいたのだ。正直な話。
自分が――自分たちが、事前に『決めたこと』が本当に正しいのかどうか。
いざその時が来た時、本当にそれを選べるのかどうか。
恐れているところがあったのだ。
だが、その表情を見て。その瞳を見て。改めて、心に決める。
自分たちの望む結果を、得られたのであれば。
前に進もうと。固く、心に決める。
日本人はお祭り好きっていうのはよく聞くけれど。
皮肉でも何でもなく、事実なんだなと思った。
「盛況で何よりですな~」
スカイさんの声が、全てを物語っている。先日訪れた時には、悪意に満ちた人間がうろうろしていたはずの観客席は、今や楽しげな空気と、異国の観光客みたいな観客で犇めいている。
一週間。
たった一週間ほどだ。例の襲撃があってから――二分にも満たない一瞬の娯楽のために、これだけの人数が集まるというのは、ウマ娘のレースというものの人気っぷりを再認識すると同時に、みんな暇なんだなというひねくれた感想をも抱かせた。
何にしても、大衆の目がこれだけある目の前だ。失態なんて間違っても出来ないね……
「ほーらフェア姉~」
なんて思う傍ら――
見るからにガッチガチに固まっているフェアちゃんの両肩を、スカイさんは、やや唐突に引っ掴んでいた。
びくり、とフェアちゃんが飛び上がる。
「リラックスリラックス~」
「ちょ――おい、気安く触んな! そこまで仲良くなった覚えは……!」
「まぁまぁフェアちゃん。固くなってたら、いい走りも出来ないよ?」
「余計なお世話だっての! それに……変に慣れ合ってることもねぇだろ」
ほら、と彼女は、スカイさんの手を緩く引き離しながら、顎で示す。
そこから歩いてくるのは――私は、私たちは、初めて見る人影。
「……お出ましだぜ」
憎しみを煮詰めたみたいな声色と、状況から。それが誰か、だなんて問うまでもなかった。
彼女らは――
トウチュウエイ率いる、『敵』は。
私たちの目の前に辿り着くと――黒と白のツートンカラー、不可思議な色合いの髪の彼女が、この世の悪意を凝縮したような、嫌らしい笑みを浮かべる。
「……おぉ、ソレが今日の取り巻きか? 『閃光』サマよ?」
……開口一番、失礼な奴だった。
「言ってろ。今日こそ一泡吹かせてやるぜ」
「……どうも。うちの親友がお世話になったみたいで」
ので。
フェアちゃんの言葉に、続く。
「お手柔らかにお願いね~」
「……はは」
スカイさんも、私の後に続いて――
果たして、彼女の笑みは、ぐにぃ、と悪辣に深まっていた。
「――不用意に『ここ』に近付いたこと。後悔させてやるよ」
低く、威圧的な声が発せられると。
場内に、放送が響く。……ゲートインの時間だ。
「じゃ、しくじらないでねスカイさん」
「そっちこそ~。ちゃんと作戦通りにね~」
「……頼んだぞ、二人とも」
それぞれに言葉を交わし、ゲートへと向かう。間近で見たそれは、普段公式レースで見るものと比べると、随分と古びているように見えた。……いや、実際古びていた。
幾つものレースを、こうして今まで見守ってきたのだろう。儲かってるんだろうから、改修とかしてあげればいいのに。
ともあれ――ゲートの中へと収まる。
私たちと『彼女ら』との間の数人分、ゲートの空席が挟まっているのは、不正を防止するためのせめてものポーズだろうか。
何にしても――
「……」
刹那、場内を静寂が満たしたのは、公式のものと全く同じだった。
ひとつ、ふたつと息を整え。
「――!」
三つ目を数えて。
私たちは――驚くほどいつも通りに、前へと駆け出していた。