レースは、まずセイウンスカイがハナを切る展開となった。
背後の五人を率いるように、先頭を駆けていく。
トウチュウエイは、そのすぐ背後にピタリとくっ付いた。
その事実を、スカイはちらりと背後に目をやることで確認する。
表情が、くしゃりと、困ったように綻ぶ。
「いや~、そんなに迫られてもセイちゃん応えられませんよ~」
「そう言うな。優しくしてヤるからよッ!!」
軽口を叩きながらも、彼女は簡単には前を譲らない。
二人、熾烈に競い合いながら、先へと進んでいく。
その背後に、トウの同志である二人のウマ娘が続き――
その更に背後に続くのは、サファイアアリオンと、ルビーフェアの二人だ。
フェアに至っては――今現在、最後尾。
トウチュウエイは――内心ほくそ笑みながらも、まさかこれで終わるわけでもあるまい、と思う。
仮にも中央で走っているウマ娘が、何の考えもなしに背後に控えるわけもない。
きっと何かを狙っているだろう――と、決して警戒を解かない。
相手を徹底的に叩き潰すために、確実に勝利を手にするために。
見下しはすれど、油断はしない。彼女はそういう考え方をする。
ただ、肩透かし気味であることも、また事実だった。
彼女も、曲がりなりにも競争ウマ娘だ。
中央の競技レベルの高さは良く知っている。
だから今日、どんなレベルの
だが蓋を開けてみれば、目の当たりにしたのは平々凡々なレース。
その現実に、失望すらする。
それでいいのか、と。
自分は、お前たちに勝ってしまうぞと。
――何せ今日の自分は。
今までにないくらい調子がいいぞ――と。
セイウンスカイのすぐ背後で――
経験したことがないほどに、身体が軽い。
今なら誰をも、ぶっちぎって行ける――と。
ただ、彼女はすぐには追い抜かない。
獲物を喰らうのは、存分に追い詰めてからだ。
狩りを楽しむ肉食獣のように、執拗に追い立て続ける。
その背中に――
食らいつき続ける――
レースは2,000m。
ウマ娘のスピードをもってすれば、数分も費やさずに走り切ることが出来る。
つまりは、一瞬にして終わる勝負だ。
もたもたしている暇などない。
「……?」
だが、中盤まで差し掛かっても――
レースは、大きくは動かなかった。
何かしら動きを見せるだろう、と思っていた中央勢でさえ――
最初の位置を保ったまま、レースを走り続けている。
何か思惑があるのか、動けない他の理由があるのか。
どちらにせよ、このまま普通にレースを終える気など、トウチュウエイにはなかった。
「――、」
彼女は、ちらと背後へと目をやる。
それは合図であり――
目を合わせた彼女の仲間は、お互いに顔を見合わせていた。
このレースは、形式上は公式のレースだ。
『いつもの』違法行為は、本来であれば許されない。
だが言い訳などどうとでもつくし、バレなければいい――そもそも、自分は経営者とは『仲良し』なのだ。
何より――
このような舞台で、『良い子』で戦う理由なぞ、どこにもないのだ。
だから、動き始める。
リーダーの指示に従って。
彼女らは、自身らの背後。
サファイアアリオンの近くへと、位置取ろうとして――
「――プラン!!」
『――!?』
刹那だった。
アリオンが、高らかに叫んだのは。
「B!!」
「……!!」
ぞくり、と寒気を覚えるトウ。
同時、やはり仕掛けてきたか、と納得もする。
だが恐れはしなかった――何せ体制は万全だ。
警戒は敷き、油断もしていなかった。
何が来ても、何をされても、動じずに対応出来る自信があった――
「……?」
……が。
それからしばし、時が過ぎるも。
「……、……??」
何も起きない。
彼女らは、依然として走っているだけ。
「――っ」
ふざけやがって。
真剣勝負に水を差されたかのような気になった彼女は、再度仲間に目配せする。
彼女らもまた、困惑の表情を浮かべていたが。それを受けて、再びアリオンの元へ「プロジェクト、
ポセイドン!!」
『!?!?』
ただ、更にアリオンがそのように叫ぶ。
それに釘を刺されたように、彼女らは再びつんのめる。
それまで平静を保っていたトウも、いよいよ困惑を示し始めていた。
なんだ、なんだ、なんだ。
何をする気だ。一体何の作戦だ。
再度身構え、それに対応しようとするも――
「――、」
何も起きない。
やはり、何も起きない。
しいて言えば、アリオンが少し位置取りを修正したくらいだが。
それ以上、大きな動きはない――
そうこうしているうちに、最初の1,000mが終わりかける。
相手がどうするつもりなのかは何一つわからない。
だがもたもたしていれば、何も出来ずに終わるのはこちらの方だ。
「――っ!!」
だからトウは、再三視線を飛ばす。
彼女の仲間らは、もはやこんな行動に意味があるのか、言外にそう問うているかのようだった。
それでも彼女らは、自身のリーダーに逆らうわけにはいかず――
「フォーメーション、デルターっ!!」
『――っ』
動こうとして。
重ねられる言葉に、やはり止まってしまう。
相手が実力者だ、とわかっているからこそ、下手に動くことが出来ない。
その考えはトウも汲むことが出来るからこそ――
「――、――……!」
内心にはイライラが募り。
見るからに、その走りは乱れ、冷静さが失われ始める。
追走する仲間たちも――
果たして自分たちは、どうするのが正解なのか。わかりかね、足取りに迷いが表れ始めた。
その時だった。
「――!!」
その隙を突いたかのように――
栗毛のポニーテールが、前へと疾走する。
サファイアアリオンが――
当惑する彼女らを、一気に追い抜いていたのだ。
「――来たね」
あっという間に並んだアリオンに、スカイはにやりと笑いながら呼びかける。
彼女には言葉を紡ぐ余裕が無いのか、浅く頷きを返すだけだった。
それでも、スカイにとっては、応答としては十分だった。
「ちゃんと着いてきなよ!」
だから――
彼女は、ペースを上げる。
後続の選手を突き放すように――
一気に、速度を上げ始める。
「……!!」
それを目撃したトウは、奥歯を噛み締める。
やはり――策略だったのか、と。
あのようにそれらしく呼びかけることで、自分たちを油断させ、追い抜くための隙を作るための作戦だったのかと。
発した言葉は全てでたらめ、所詮は油断させるための布石でしかなかった。
あまりにも見下し切った、あまりにも嘲笑うかのようなその作戦に、彼女は憤慨する。
同時に――
自分の仲間の、使えなさにも。
「――ッ!!」
その怒りをぶつけるように、彼女は脚に力を籠める。
嘗めるな、と。
今日の自分は違うのだと。
すぐに追いついてみせると、速度を上げる二つの背中を、猛然と追い始め――
「……!?」
しかし、すぐに異変を感じた。
いつも通り、彼女はスパートをかけ始めたつもりだった。
が――
動かない。
脚が、思うように動かない。
やもすれば、先ほどよりも体が重く、それまでのペースを維持することすらも苦しくなる。
このような距離など、苦に思ったことはないというのに。
何も問題がない長さのはずなのに――
「――っ、」
一体、何故――
そんな彼女が、疑問を解消する余裕を。
状況は、与えてくれなかった。
「――!!」
困惑する彼女の傍を、深紅の影が通り抜ける。
それまで、最後方で控えていたルビーフェアが――
彼女を、無慈悲に追い抜いていたのだ。
その光景に、トウチュウエイは呆気にとられる。
なぜこんなことになっているのか。
なぜ簡単に追い抜かれたのか。
なぜ身体が思うように動かないのか――
術中に嵌まったとして。
なぜ嵌まってしまったのか。
いつ嵌められたのか。
何をされたのか――
短時間で、いくつもの疑問が頭の中を飛び交う。
さなかで――
「……」
観客席から様子を見守っていた、サファイアアリオンの担当は――
トウの悪意を奪ったかのように、その口端を、深々と歪めていた。
「――そういうわけで、当日の作戦だけど」
『義兄さん』と話を付けた翌日――
トレーナー室にて、トレーナーさんは、その作戦を説明し始める。
「レースが始まったら……まずスカイ。お前がハナを切れ。バカウマは相手三人を挟んで後方、最後方はルビーフェアだ。……あいつは追込戦術が得意みたいだからな。無理に先団に乗じる必要はない……で、スカイ。ハナを切ったなら、トウチュウエイが追い付けるか追い付けないかくらいの速度でペースメイクしろ」
「……ん? 置いてっちゃうんじゃないの?」
「まぁ、そこで『普通に』走れるに越したことはない。仮に『何も起きずに』レースが進むなら、特別これ以上指示することはない。……流れで走れ」
「……『流れ』で」
「流れで」
復唱するけれど、トレーナーさんはそれに関して何も思ってなさそうだ。いや、流れで、じゃなくて。もっと具体的な指示が欲しいんですけども。
「まぁ心配せずとも、素の実力で言えば、お前らの方が明らかに上だ。『普通に』走る分には、惨敗するなんてことは無いだろう」
あるとしたら大勝か辛勝だ――彼女は言う。
「ただ、今回臨むのはブラックレース。公式レースとは勝手の違う『違法レース』だ……『まともな』観衆の目があるからと言って、あの『悪役』が、『普通の』レースをするとは思えない」
何かしら仕掛けてくるのは、目に見えている。
「ここ数日で、トウチュウエイのことは一通り調べた――奴は警戒心が強く、油断もなかなかしない。相手を徹底的に追込み、追い詰めた上で刈り取ろうとする。このレースも同じような戦い方をするだろうさ。……だからあたしたちは、その思考を逆手に取る」
トレーナーさんの目が、スカイさんの方を見ていた。
「スカイ。トウチュウエイは、きっとお前のすぐ背後に着く。お前にプレッシャーをかけて、体力を浪費させるためだ……だが『それでいい』。お前は位置と速度を調整して、常にトウチュウエイを背後に控えさせろ。そうすることで……奴に速度を『誤認』させる」
「誤認……っていうと?」
「スリップストリームだ」
お前らも知っているだろう? 言葉に、頭の引き出しにしまってあった知識を引っ張り出した。
「あいつは走っている最中、こう感じるはずだ――いつもより身体が楽だと。当然だ。そしてそれは錯覚じゃない――あいつがそれを知っているかどうかはわからんが、どちらにせよ、それを有利な状況だと錯覚するだろう。その感覚に身を任せるまま……お前を追い詰める一心で、ペースを落とさないまま走り続ける」
――そう、たとえ。
『いつもよりも、速いペースで走っていたとしても』。
「……そうだな。そのまま1,000mを切るまで同じ状況が続いたなら、バカウマ。いつも通りに追い抜いちまっていい。けどたぶんそうはならない……痺れを切らした『悪役』サマは、『手下』を使うなり何なりして、『妨害工作』を働くだろう」
そこでお前だ――その視線が、私に向けられた。
「バカウマ。お前は後方から連中の様子を監視して、不審な動きが少しでも見られたら……なんでもいい。『テキトーな言葉を叫べ』。何かしら作戦名っぽい単語だ。『プランB』だとか『オペレーションなんちゃか』とか……そういうのでいい。重要なのは内容じゃなくて、そう宣言すること自体だ。
警戒心をむき出しにしているあいつは、それがどんな意味を持っているにしろ、行動を中断するはずだ。あたしらを認めているからこそ、油断していないからこそ、意味のありそうな言動をも聞き逃せない……実際、そこに意味はないっていうのにな」
で……彼女は、悪そうに笑った。こりゃ、どっちが悪役かわからんな。
「そうなれば、奴らは行動を中断するだろう。もしかしたら、それでも諦めずに何かをしようとするかもしれない。ただ一度気にしてしまえば、もう二度と気にしないわけにはいかないさ。そうだな……三回くらいだ。たぶんそれくらいで、連中の混乱はピークになる。とても、不正を働く余裕なんざなくなる。逆にそこを越えたら、落ち着きを取り戻しちまうだろうな」
だから、そうなったなら――
落ち着きを取り戻す前に。
「バカウマ。連中を追い抜いてやれ。スカイ。お前も、バカウマが追いついたのを確認したら、ペースを『戻して』いい。そして……ルビーフェアも。これだけお膳立てしてやれば、容易く先団に追い付けるだろうよ」
そこまで来たら、相手は作戦に気付くかもしれない。
術中に嵌まったことに気付き、巻き返してくるかもしれない。
「……だが、もう遅い」
そう、でも、遅い。
もう、『何もかも』遅い。
「スリップストリームから抜けた直後も、しばらくは高速を維持出来るだろうが、元々自分の身の丈に合わない速度だ。そう長くは続かない。そうなれば――もう奴は、本気のお前らには追い付けない。身体はいつもより重く、脚も思うように動かないまま、遠ざかっていくお前らを見届けるしかない。……そうなったら、
それ以上は、あたしから言うことはない。
「あとは――好きに
なぜやる気を出さないのか。
と言われても、とスカイは思う。
そこに、特別な理由などない。
いくら叱られても、呆れられても――やる気が出ないもんは出ないのである。
我慢しないで生きてきた。自重しないでやってきた。気の赴くまま、尻尾の向くまま、自由気ままに生きてきた。無知の井戸の中で、大海など知る由もなく、そしてそれでいいとずっと思ってきたのだ。
――しかし、いざ漕ぎ出した先で見つけたものは、自分が予想だにしないものだった。
今、自分のすぐ傍には、この一件において、苦楽を共にしてきた仲間がいる。彼女は今や、親の仇を見るかのような形相で、自分を追い越そうとしている。
気迫が伝わってきて、びりびりと本能が駆り立てられているようだ。それに呼応するように、自分の中で眠っていた何かが、重い瞼を開き始めたのを感じる。
「……」
ウマ娘の本能は、走ることに紐づけられている。それになかなか本気で臨めない自分は、どこかオカシイのかもしれないと考えたことすらあった。
だが何のことは無かった――ただ知ろうとすればいいだけの話だった。
目の前の井戸の壁を、少し這い上がってしまえばいいだけの話だった。
「……、……、、、」
苦労と苦難、少しばかりの我慢の末に見つけたものは、眩い光を以て自分の中に新たな気付きを齎す。夜明けのように広がる閃きが、これまでの時間を僅かばかりの後悔と共に攫っていく。
「――っ」
あぁ、どうして今までそうしなかったのか。
あぁ、どうしてこれまで、こうしようとしなかったのか。
気の赴くままに生きていくのは。尻尾のままに動くのは。自分の精神衛生という意味でも大切なことではあった。それでも――その先に。
「――はは」
ほんの少し、我慢してみた、その先に。
「は、は、は――……」
こんなにも。
こんなにも、楽しいコトが、あっただなんて――!!
「――はははははははッ!!」
笑っていた。
セイウンスカイは、笑っていた。
好敵手と力をぶつけ合う楽しさに、笑っていた。
翻弄してきた運命の厭らしさに、笑っていた。
結局、このように簡単に絆されてしまう――自分の可笑しさに、笑っていた。
哄笑の如きその感情の発露に――
更に鞭打たれたように、彼女は速度を上げていた。
呼応して、アリオンも速度を上げていく。
ルビーフェアもまた。
その様子を見て、笑っていた。
「……っ」
中央の住む世界は、自分たちと異なるとはわかっていた。
だからこそこれまで、なるだけ関わらずにこうしてやってきたのだ。
見くびっていたわけではない。侮っていたわけでもない――それでも、疑わしく思うところはあった。
そこまで明確な線引きが必要なのかと。
本質的には同じ種族なのだ。
実際、それほどの違いはないのではないか――と。
だが、今、目の当たりにした。
その認識が、間違っていたと、感じていた。
中央という舞台で戦う二人を見て――明らかな開きがあることを、突き付けられていた。
自分は走っている。
全力で、走っている。
しかし、追い抜こうという発想にまでなれない。必死に決死に走って、追い付いていくのがやっとだ。
その姿を前に、その気迫を前に、ただただ、圧倒されるばかりだ――
そして――実感していたのだ。
「……ははっ」
――これが。
これが――中央レベル――!
「――おぉぉぉぉぉッ!!」
「!」
驚愕する彼女の背後。
その思考を、絶叫が、空間事切り裂いていた。
「待て……待てフェアァ!!」
トウチュウエイが。
一度は大きく置いていかれた彼女が。
ルビーフェアのすぐ背後に、猛然と追い縋る。
「認めねぇ、こんな終わり認めねぇ!!」
視線だけで振り向いた彼女に。
死に物狂いで、訴えかける。
「あたしが最強だ、あたしが最速だ! 負けるわけがねぇ、お前なんぞに負けるわけがねぇ!!」
レースは既に終盤に入り。
訴えかける中でも、確実に終わりへと近づいていく。
「お前を潰すと決めた、ぐちゃぐちゃにすると決めた!! あの二人に負けるのは構わねぇ、だがお前には、お前には――!!」
激しい歯軋りと共に。
彼女は、大口を開いた。
「お前にだけは、負けられねぇんだよぉぉぉぉッ!!」
「……」
ルビーフェアは。
それを、哀れむように見つめていた。
「……トウ、」
その声色は、
諭すように柔らかくなる。
「お前は、哀れだよ」
「あぁ!?」
「あたしを倒す、あたしを倒すっつって……お前は今まで、何をして来た?」
彼女の振る舞いを知らないフェアではない。
彼女が何をして来たか、見ていないフェアではない。
彼女はその悪名を高め、狡猾な知恵を身に着けてきたかもしれないが。
レースに勝つために、最も力を入れるべきことをしてこなかった。
――そう。
真っ当なトレーニングを、ほとんどしてこなかったのだ。
「……あたしらはやってきた。いつも、この世の片隅で走ってきた。いつか前へ進めるように、その時が来ても、恥じなく戦えるように。やれることは、全部やって来た」
ある日は公園で。
ある日は道端で。
ある日は河川敷で。
場所を見つけては、『真っ当に』努力を重ねた。
暗闇の中で。
どこよりも深い、闇の底で――
「……よぉ、覚えてるか。お前とあたしが、引き分けた時」
それは、彼女にとっての苦い記憶。
フェアにとっての、唯一とも言うべき、『勝てなかった』記録。
「あたしは悔しくて悔しくて……無様に地道に、泥臭く練習を続けてきた。お前が……『クソ』みたいな手を磨いてる最中」
一度は切った視線を、再びトウへと向ける。
そこから伝わる眼光は――
獣のように、獰猛だった。
「一秒縮めるのに――
一年かかったぜ」
フェアは行く。
まだ見ぬ運命の先へと。
「――……」
縋るように、伸ばす。
トウチュウエイの手を、振り切って――
『――!!』
歓声が巻き起こる。
レースの決着がつく。
彼女ら、中央校率いる面々は――
見事に、1着から3着を独占していた。
ルビーフェアにとって、そのレースは経験のないものだった。
作戦を立てて走ることはあれど、暴力に頼らなかったことなどなかったし、
乱れた呼吸を整えざるを得ないほどに、精根尽き果てるほどに──
走り尽くしたことなど、なかった。
「スカイさん……今本気で走ったでしょ」
「そりゃそうでしょ〜。セイちゃんはいつでも本気ですよ〜」
「トレーニング平気でサボっといてよくもまぁ……」
「……」
だが結局、自分は3着。
仲間の中では、最も下の順位だ。
けらけらと笑う彼女らの、足元くらいにしか及んでいない。
片や幼なじみ。
片や不思議な縁で知り合った、底の見えないウマ娘。
こんなにも近い距離にいるのに。
手を伸ばせば届きそうなのに。
実際は──届かない。確実な実力の隔たりを見せつけた二人に──
悔しい。
勝ちたい。
ルビーフェアは、そう感じていた。
「……」
ただ。
瞬間、脳裏を過ぎるのは、あの『四人』の姿。
彼女らの言う『大事な物』を奪われたことで、打ちのめされた姿。
一度は鳴りを潜めた怒りが、再び湧き上がり――
その瞳が、膝に手を突いているトウを捉えていた。
「……おい」
それに近付き、声を掛ける。
トウは、ゆっくりと顔を上げる。
悔しさと不満に染まった表情。
フェアはその表情を、侮蔑の籠もった色で見下ろす。
「……返せ」
そしてその色を、声色に変え――
静かに、叩きつけるように、言う。
「あいつらの言ってた『アタッシュ』……返せよ」
「……」
「そういう『契約』だろ」
「……っ」
それにトウは、歯を食いしばる。
そんな要求になど応えてやるか、と言いたげだったが――
自分の中の、せめてもの矜持とは引き換えに出来なかったのだろう。
「……おい」
同じように意気消沈している仲間へと振り返り、短く呼びかける。
彼女らも顔を見合わせるものの、その意図を汲み取り。
一度は姿を消し、再び現れる。
持ってきたのは、くすんだ銀色に光る直方体の箱――
アタッシュケースだった。
『大事な物』。アリオンは、フェアからはそうとしか聞かされていなかった。なんだかんだ、当日になるまで聞けていなかったが。
あれが、あの子たちの、大事な物。想像とは違う見てくれに、彼女は目を丸くする。
「――、」
それを傍目に、トウは、苛立たしげに受け取ったケースを、フェアに手渡す。
フェアが受け取ったのを認めると、なおも悔しそうに顔を歪めていた。
殺意すら感じられる、凶器のような目。
「……覚えてろ」
吐き捨てるように。
彼女は口にした。
「次は……こうはいかねぇ」
そして――
荒々しく背中を向け、仲間を引き連れて、立ち去っていく。
フェアはしばらく、その背中を見守り――
「……へっ」
べ、と。
赤い舌を出していた。
「ヤだね」
悪戯心の見え隠れするその言葉が、トウに届いたかどうかは定かではない。
「――フェア姉!」
どちらにせよ――
彼女へと飛んでくる声と、駆け寄ってくる姿。
今日、共に走った二人の仲間と。
一人のトレーナー。
そして、四人の『家族』――
「おつかれ、フェアちゃん」
「いい『追込』だったよ~」
「そりゃどうも……」
「……フェア姉」
三人で話す中――
ガゲキホーセンは、どこか気まずそうにもじもじしている。
それを可笑しそうに笑ったフェアは、トウから取り返したケースを差し出していた。
「ほら」
取り返したぞ。
お前らの、大切なものを。
「……」
確かにそれを受け取ったセンは。
手早く中身を確認し、他三人と頷き合う。
どうやら、中身も無事らしかった。
「……一件落着か?」
「……はい。ひとまずは」
アリオンの担当が言うと、フェアは仰々しく応じる。担当はそれに、そうか、と息を吐いた。
背負っていた荷を、ようやく下ろしたかのよう。
「あの……フェア姉」
それでもなお、ガゲキホーセンの様子は変わらなかった。
依然として、何かに悩んでいるかのような、複雑な表情を浮かべるだけ。
フェアはそれを見て、疑問に首を捻った。
大事なものは取り返した。
今、確かに持ち主へと渡した。
言ってしまえば、あとは住処に帰るだけだ。
実際、集まった観客にも、そのようなアナウンスが流されている。
特別悩むことがあるようには思えない。
何故、そのような反応を見せているのか。
「おイ」
そんな彼女の脇を肘で突くのは、ダイトウカンショーだ。
「言うっテ決めただロ」
「……」
センが彼女を見る。
その瞳は、未だ迷いに満ちていたが。
言葉に背を押され――決心したのだろう。
「……フェア姉」
改めて、ルビーフェアと目を合わせると。
手にしていたケースを、彼女に突き出していた。
「――これ、」
そして。
言った。
「受け取ってくれ」
元々このレースは……
センちゃんたち、四人組の大事なものを奪い返すため、って話だった。
トウチュウエイさんとも事前にそういった契約が交わされて、実際、こうして私たちは、目標を達成することが出来た。
彼女らの大切にしていた何かを、見事に取り戻すことが出来たのだ。
「……?」
おかしな話だった。
後はもう、適当に流れ解散、みたいな感じになるのかなーって思ってたのに。
取り返したはずの大事なものを。
アタッシュケースを。
それは、彼女らのもののはずなのに。
……フェアちゃんに渡す?
なんで?
「……何、言ってんだ?」
同じような疑問に思い至ったらしいフェアちゃんが、怪訝そうに問う。
ただそれでも、センちゃんの瞳は真剣なままだ。
「それ、お前らの、大事なものなんだろ。なんであたしに……」
「いいから」
困惑する彼女に。
センちゃんは、いつになく強い押しで再度訴える。
「受け取ってよ」
「……」
フェアちゃんは、救いを求めるかのように私たちに目を向ける。
……ただ正直、目を向けられても困る。私たちも私たちで、困惑するしかないのだ。
急に、そんな行動に出られて。
戸惑う以外に、出来ないのだ。
「……、」
その意図を理解したのか――
フェアちゃんは、やがて視線をケースへと戻す。
それを受け取ると――
「中、」
見てみてくれ。
促され、再び私たちと目を合わせる。
従うしかない、と視線を応じると、彼女はケースを地面に置き。
ゆっくりと、蓋を開けた――
「――え」
……果たして。
そこに、収められていたモノに。
私は、声を漏らし。
「わお」
スカイさんが、驚きの声を上げ。
「……」
トレーナーさんは、目を見開き。
「……これ」
フェアちゃんもまた。
呆然と、口にしていた。
そこにあったのは。
そこに、あったのは――……
――金、だった。
何枚も、何十枚も。いや、ことによっては何百枚も――ぎちぎちに、詰め込まれた。
一万円札、だった。
「――っ!!」
ばちん、と蓋が勢いよく閉められる。
再三向けられる目は、さっきとは明らかに違う。
見たよな。
見間違いじゃないよな。
視線に乗って、そういった確認の感情が伝わってくる。
……私は。
私たちは、それに、同じように、目で返した。
見ました。
見間違いじゃないです。
確かに――そこにあった。
目が眩むような。
札束の、山が――
「……正確には数えてないけど」
口を開くのは、センちゃんだった。
「一千万は……あるはずだ」
「!? いっせ……!!」
「え。なになにどゆこと? お礼にしちゃあちょっと多過ぎない……?」
「……今のレースを観て」
確信したんだ。
狼狽する私とスカイさんをよそに、彼女は、続ける。
「フェア姉は、やっぱり、『持ってる』ってこと。こんなとこで、燻ってるタマじゃないってこと。きっと……大きくなれるってこと」
今よりもっと。
もっと、活躍出来るってこと。
「選ばれた……ウマ娘なんだって、こと」
「……何言って」
「だから、フェア姉」
センちゃんは、フェアちゃんと目を合わせる。
もはやそこに、迷いはない。
気まずさもない。
真っ直ぐで、透き通った瞳が、彼女を――あるいは、私たちを。
確かに、捉えていた。
「お願いだよ」
そして。
言っていた――
どうか、この金で。
「この金で、
『中央』に行ってほしいんだ!!」
絶句する私たちに――
彼女は、続ける。
「……本当は」
本当は。
分かっていたんだ、と。
「このままじゃいけないってこと。こんなんじゃ、ダメなんだってこと。あたしたちのせいで、フェア姉はどこにも行けないし、あたしたちだって、いつまでも変われない。いつかは……お互いのために、手放さなくちゃって思ってたんだ。そのためにずっと……ずっと、貯めてきた。ブラックレースでもらってきた賞金、8割……いや、9割くらいかな……それくらい」
「そんなの、いつから」
「わかんない。半年くらい前からかな……」
そ。
そんなに、前から。
この子たちは、あんなにバカやって、気丈に振舞いながら。
準備してきたっていうのか。
「ただ……いつ言い出すかは、決めてなかった。いつかは言おう、と決めてたけど……言えなかった。たぶんそれは……怖かったから。今の生活を失うのが、嫌だったから」
……でも、永遠に続くものなんてない。
幸せで楽しい時間こそ――あっけなく、なくなってしまうものなのだ。
「でも……金がこれだけ貯まったことと、同じタイミングで、中央のあんたたちと出会ったことは、偶然じゃないと思ってる。ここ数日のごたごたで、思ったんだ。あぁ、その時が来たんだなって」
エンゲツちゃんは、俯いて肩を震わせている。きっと泣いているのだろう。
ショーちゃんもまた、俯いているけれど、肩は震えていない。でもそこに、いつもの達観したような空気はない。
リョホーちゃんは、頑張って前を向いている。でも、その顔は今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
それぞれが。
それぞれの思いを胸に。
センちゃんが語るところを、口を結んで、見守っている。
「だから……だから、フェア姉」
それに応えるように。
彼女もまた、言った。
「どうか、中央に――」
「……けんな」
一方のフェアちゃんが。
震わせていたのは――肩じゃなかった。
その出所は――下。
「……」
固く握りしめた。
彼女の、拳――
「――ふざけんなっ!!」
――間もなくして。
彼女は、その震えを発散するかのように、怒鳴っていた。
「お前らが何かしてることは気付いてたけどな、そんなことのためにずっとこそこそしてたのか!」
目に見えるほどに、明らかに――
激昂していた。
「あたしはお前らを助けた。ここまでお前らを守ってやった、でもそれはこんなことのためじゃねぇ!! お前らを放っておけなかったから、あたしと同じ道を辿ってほしくなかったから、善意でやってたことだ!!」
「……」
……彼女が。
どうしてここまで四人を気にかけるのか、は気になっていたところではあった。
トレーナーさんの考えは、遠からず近からずだったということだろう。
……そっか。
そこには、そんな真意が……
「あたしがいつお前らに教えた、」
彼女の怒りは、収まる気配がない。
「あたしがいつお前らに頼んだ、」
むしろ、言葉を口にするごとに。
「助けてくれなんて、頼んでねぇだろうが!!」
その憤怒は、燃え盛り続け。
「それなのに、それなのにお前は、お前らはっ……!!」
「……」
そんな、鬼の形相で怒り続けるフェアちゃんに。
「……、」
センちゃんは。
ガゲキホーセンは。
「……あたしだって、」
――、
引いてなかった。
「――あたしだって、
助けてくれなんて頼んでないッ!!」
「――……」
きっとフェアちゃんは、そこで彼女が引き下がると思ったのだろう。
面食らったように目を見開き、言葉を失う。
「でもあんたは――あたしたちを、助けてくれたじゃねぇか」
先ほどまでの弱々しさは、どこへやら。
「自分の貴重な時間を引き換えにして、あたしたちをここまで導いてくれたじゃねぇか」
まるで、フェアちゃんの怒りの炎を受け継いだかのように。
「
「……お前」
「だからこれは、押し付けでも、無理強いでもない」
情念の揺らめきを。
その瞳に宿して。
……改めて。
ケースを、フェアちゃんに差し出していた。
「あんたが受け取るべき――正当な、対価なんだ」
「……」
「……フェア姉」
そして、続けるのだ。
「あんたは、あたしらの、憧れなんだよ」
いつも、先頭を走っていた。
「あたしらの希望で……目指すべき、目標なんだよ」
夢。
そのものなんだよ。
「そんなあんたが、中央で、あの
気付けば、みんな、フェアちゃんを見つめていた。
エンゲツセイリュウ。ダイトウカンショー。リョホーテンゲキ――
全員が、迷いのない瞳で、真っ直ぐに、見つめていた。
「あんたが、『自由』になったところを、観てみたいんだよ!!」
だから。
だから――
「……だから、行ってくれよ、フェア姉」
こんなどん底からでも、這い上がれるんだって教えてくれよ。
「負け犬でも、弱虫でも、変われるんだって思わせてくれよ」
どこへでも行けるんだって言ってくれよ。
「あたしらみたいな『クソ』でもッ、夢見ていいんだって!! 信じさせてくれよッ!!」
「…………」
……フェアちゃんは。
とうとう、肩を震わせていた。
そこにいたのは。
目の前にいたのは。
いつもいつも、バカバカしい喧嘩を続ける、子供みたいな四人じゃない。
旅立つ準備を終えた。
巣立つ覚悟を決めた。
四人の――ウマ娘、だった。
「……、」
どれだけ時間が経ったのか、わからない。
それまで、なおも何かを我慢するかのように、立ち尽くしていたフェアちゃんだったけれど。
やがて。
その手が、伸びる。
「……」
差し出された、ケースを。
くすんだ、まばゆい銀の光を反射する、ケースを。
大切そうに。
受け取っていた。
「……っ」
それを両腕で。抱え込んだ彼女は。
その場に、座り込む。
それに応じて、四人もまた彼女に駆け寄り。何事か、小声で話し合う。
涙声で。
それでもどこか。
明るく。
楽しそうに――
「……、」
私たちは。
それを見て、目を合わせる。
普段、陰鬱としているレース場は――今日ばかりは。
柔らかな温もりに、満たされたような気がした。