16年度の卒業生(新版)   作:Ray May

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雨の日◎

「──申し訳ありませんでした」

 

 スレイエメラルドが深々と頭を下げた先、一軒家の扉が、やや荒々しく閉められる。

 彼女はしばらく頭を下げたままだったが、やがてゆっくりと顔を上げていた。

 扉にはそれ以上の変化は見られず、物言わずに佇み続けている。

 まるで無言で、彼女の存在を拒絶しているかのようだった。

 

「……」

 

 それでも、彼女が『仕事』を終えたのは確かだった。

 踵を返し、その場を後にする。

 このような事は、もはやいつものこと。

 気にすることでは無い、と自分に言い聞かせる。

 

 言い聞かせるが――いつものように、それはやがて疑問へと変わり。

 いつものように──ぐるぐると、頭の中を巡り始めた。

 

 相手を怒らせてしまったこと。それに関して、スレイは非を感じないわけではない。

 怒るということは、不愉快にさせてしまったということだ。そしてその感情を、何物かを引き換えにしないままに処理するのは難しい。

 だから、せめてもの手助けとして、頭を下げるわけだが──

 肝心の、その理由に関しては、彼女はいつまでも理解し切れないままだった。

 

 自分は、間違ったことを言っているわけではない。

 自他共に認めるとおり、正しいことを言っている。

 感心こそすれど、怒るなど筋違いでは?──いつもそう感じている。

 

 理由を聞いてみても、更なる逆上を生むか、言い訳するか。

 生産性のある回答からは程遠い。

 それを紐解くヒントすら得られていない。

 結果として、今の今まで、決着を付けられずにいる。

 

 この問いかけの答えに。

 この疑問の解消法に。

 『答え』を、見つけられずにいる。

 そしてそれは、今回の場合でも同じだった。

 

 ぐるぐると巡る疑問。

 そういう時、スレイはとりあえず散歩をする。

 わざといつもの道を外れ、遠回りし、歩いて、時間が解決してくれるのを待つ。

 つまりは気晴らしだ──本当なら、そんな風に、時間をムダにしたくないのだが。

 答えのない問いかけのために、業務に支障を来すわけにはいかなかった。

 

 だから今日も、彼女は歩く。

 商店街の中を歩く。

 いつもなら、この場所には寄り付かない。

 立ち寄るとしても、買い出しなどの必要性に駆られた時だけだ。

 自ら進んで近付くことなどまずない。

 

 なぜならその場所は──

『娯楽』に塗れているからだ。

 

 忌避しているわけではない。

 嫌悪しているわけでもない。

 が、彼女にとって、娯楽というのは、『時間のムダ』にしか映らなかった。

 そんなことをする暇があるなら、やるべきことを。彼女はそう考えていた。

 時間は有限──ムダになど出来ない。娯楽に興じるなら好きにすればいい、ただ自分は──

 同調出来ない。いや、『してはならない』。ずっとそういう風に考えてきた。

 ずっと、そういう風に、自分に言い聞かせてきた。何があろうとも――

 

 寄り付かない。

 立ち寄らない。

 関わらない。

 関心を向けない。

 だからその日も、スレイは、特に感動することもなく、その場所を通り抜けるはずだった。

 

 一人の、ウマ娘を見た。

 

「……」

 

 ボリュームのある鹿毛と、どこか気品ある佇まい。特徴的な制服のデザインから、彼女がかの中央校の生徒であることは一目でわかった。

 彼女はそこに直立し──

 視線は、目の前の店の、ショーウィンドウに向けられている。

 

 ほとんど動くこともなく──

 見るからに釘付けになっている、その様子を。スレイは気にせず、素通りするつもりだったが。

 

「いえ……確かにそうかもですが……うぅん……しかし……」

 

 ぶつぶつと、何やら独り言を呟いていることもあって。

 気になってしまった。

 そのちょうど隣に立ち──

 自身もまた、ショーウィンドウに目をやっていた。

 

 ポーズを決めた3種類のマネキンが、それぞれに個性的な服で着飾っている。

 

「……」

 

 やがて、そのウマ娘は──

 メジロブライトは。

 スレイエメラルドの存在に気付いたらしく、徐に視線を向けていた。

 スレイもその事実に気付き、どこか遠慮がちに目を向ける。

 

「……あら〜、これはどうも〜」

 

 一拍置いて、メジロブライトは言った。その様子は、何かを理解したようにも見えた。

 

「あなたも、お買い物ですか~? ごめんなさい。ここにいては、迷惑ですわね~」

「いえ、そんなことは……」

 

 言うまでもなく、二人は初対面。

 にも関わらず、柔らかく笑うブライトは、まるで旧友のように流暢に話す。

 

「ここのお店は、色々な商品が売っていますから~。足を止めてしまうのも、無理はございませんわ~」

「いえ、ですから私は……」

「実はわたくし、家族と喧嘩をしてしまいまして~」

 

 思わずしどろもどろになるスレイに、しかしブライトはマイペースに続ける。

 

「仲直りのために、何かプレゼントを.と思っていたのですが……なかなか決められないのです」

 

 しゅんと肩を落とすブライト。とにかく、当たり障りのない返事をするしかない――そう結論して、スレイは自分の頭の中の辞書を開いた。

 

「それは、お気の毒に」

「……あっ、もしかしてあなたも、そのような目的で?」

「いえ……私は、たまたま通りかかっただけです」

 

 だからこそ、こんなところでムダ話をしていたくもないのだが。

 そんな彼女の思いを知ってか知らずか、

 

「……でしたら、少し、付き合っていただけませんか~?」

 

 ブライトは――

 唐突な提案をしていた。

 

「はっ?」

「これも何かの縁ですし、あなたはどことなく、ドーベルと似てらっしゃいます。付き合って下さると、とても助かるのですが~」

「い、いえ、しかし……」

「……あっ、ちなみに、ドーベルというのは、今喧嘩してる家族のことですわ~」

 

 聞いてねーよ、とスレイは、動揺しながらも心の中でツッコむ。そしてブライトは、その動揺の隙を突いたかのように、

 

「さ、こちらですわ~」

「あっ、ちょ……」

 

 スレイの手を取ると――目の前の店に駆け込んでいた。

 

 ……スレイは、こうしたショッピングに興じたことがない。

 遠い昔、『友人』の付き合いで数度行ったきりだ。

 前述したように、気分転換として視界に収めることはあっても、入店にまでは至らない。

 だから、たとえ何かアドバイスを求められようとも、生産的なものは返せないに等しいぞ――

 

 ブライトのことも思って、彼女はそう進言したのだが。

 

「ん~、あの子は派手なものは苦手ですから……もっと落ち着いたモノがいいかもしれませんわ……」

 

 聞いちゃいなかった。そこに『友人』の面影を見たスレイは、もはやこれ以上はどうにもならないと判じ、諦めて、ブライトの買い物に付き合うことにした。

 

 ふわふわとおっとりした言動とは裏腹に、メジロブライトのフットワークは軽かった。

 あれでもないこれでもない、とアパレルショップを中心に店舗を練り歩く。

 

「そもそも、服という発想を変えるべきでしょうか……」

 

 その先々で、スレイエメラルドは。

 

「わ~、よくお似合いですわ~っ」

 

 着せ替え人形のごとく。

 

「有り触れたアクセサリーをも着こなす才能……羨ましい限りですわ……!」

 

 彼女の思うまま、様々なモノを着せられたり、装着させられたりで。

 結局解放されたのは日暮れ、一時間ほど経った頃だった。

 それでいて購入したのは――

 それなりに値の張るネックレス一点、だけだった。

 

「良かったですわ~、お陰様で、いいモノを見つけられましたの~」

 

 長方形の箱を手に、ブライトは満足そうに言う。

 

「これでようやく、仲直りできますね〜」

「……そうですか」

「……?」

 

 対照的に、辟易とした顔で答えたスレイに、ブライトは不思議そうに小首を傾げた。

 

「不服そうですわ……?」

「そ――そりゃそうでしょう!」

 

 そして、なおもマイペースに言う彼女に、スレイは思わず声を荒げていた。

 

「見ず知らずの人にいきなり連れ回されて、不服にならない人がいますか!?」

「あら…….そうだったのですか~? わたくしには、そうは見えませんでしたが……」

「一体どこをどう見ればそんな風に感じるのですか……」

「わたくしの目には……」

 

 声を荒げてしまったことへの自己嫌悪。

 的外れにのんびりとしているメジロブライト。

 双方に板挟みになり、スレイは片手を額に当てていた。

 ブライトは――

 

「……とても、楽しそうに見えましたけれど」

 

 途端、凪の水面のような声を発した。

 

「は……?」

「窮屈そうに歩いていたのが、まるで解放されたかのように見えましたわ~」

「……でたらめを」

 

 スレイは目を逸らし、吐き捨てるように言う。

 ブライトはそれに、口元を綻ばせた。

 

「……なぜ、そんなにも苦しそうなのです?」

 

 そして、続ける。

 

「選ぶ権利も、そのために必要なものも持っているのであれば、躊躇わずに、自分のしたいことをすればいいのではありませんか~?」

「……仰っている意味がわかりません。私には使命が――」

()()()()()()()()()

 

 抵抗するように。

 もがくように答えるスレイに、突き付けるように。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――……」

 

 スレイは、それに言葉を失い――

 思わず目を見開く。

 視線の先、ブライトは笑みは妖艶なものに変わっており――

 スレイは悟っていた。――出会いは偶然だっただろうが。

 

 彼女が、()()して行動したことは。

 必然であったということに。

 

「……わかりませんわ。誰もあなたを縛っておりませんの」

 

 一歩を、ブライトは踏み出す。

 

「強制も、しておりませんの」

 

 更にもう一歩を、踏み出し。

 

「ですのに、」

 

 あなたは一体、

 何に縛られているのです?

 

「……」

「……」

 

 身を乗り出し――

 覗き込むように、スレイの瞳と目を合わせたブライトは、徐に身体を離すと、空を見上げた。

 まだ晴れている、と定義出来た橙の空は、今やすっかり、不穏な雲に覆われてしまっている。

 

「ひと雨来そうですわね」

 

 目がスレイの方に向け直される。

 そこにはもはや、先ほどまでの妖しい様子はなかった。

 朗らかで柔らかな、愛らしい少女の顔つき。

 

「ともあれ、付き合っていただいて、ありがとうございました」

 

 上品な所作で――

 彼女は頭を下げ、言った。

 

「縁があったら、またお会いしましょう」

 

 返事を待たずして――

 ブライトは、速足にそこから立ち去る。

 スレイはしばし、そこに立ち尽くしていたが。

 微かな空の唸りに気付くと、やがて、家路に着いていた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 誰かを特別、見下したことはない。

 自分がそうであるように、誰しもが各々のやるべきことを帯びているからだ。

 たとえ遊び歩いていようが、バカ騒ぎしていようが、それも当人にとっては必要なこと。

 スレイエメラルドの関心の外だった。

 

 他人を気にする余裕があるのなら。

 誰かを気にかける暇があるのなら。

 少しでも自分の使命を。僅かでも自分の責務を。それを心に、これまでやってきたのだ。

 

 それは誰かに強制されたわけではない。誰かに頼まれたわけでもない。当然として自分がすべきこと――心にはただ、その考えだけを胸に。

 不動の考え方だった。スレイにとって、今更特別、気にかけるようなことではないはずだった。

 ……にも関わらず、メジロブライトのその言葉は、スレイの胸にこびりついて離れなかった。

 

 ――何に縛られているのか?

 

 バカバカしい、と一笑に伏せばいいものを、そう出来ないのは、それだけ図星を指されてしまったことの表れか。

 無意識でも――

 縛られている、と自分が感じているからか。

 

「……」

 

 まさか、羨ましがっているのか?

 胸中に一瞬でも浮かび上がった仮説を、彼女は乱暴に振り払う。

 そんなわけはない。そんなはずはない。娯楽を、お遊びを、見下しているわけではない。それでも自分は、そのような浮ついた考えではなく。

 もっと地に足付いた――現実的な道を選んだはずだ。

 

 そうだ――娯楽も、夢も、叶えたところで、何になる。ただ覚めるだけ、ただ冷めるだけ。なんのためにもならない。時間のムダだ。それならば――

 

 ムダにならないことを。必要とされることを。寄り道など切り捨てるのだ。真面目に真っ直ぐに。なぜなら自分は――

 

 もう夢など、

 とうに棄てたのだ。

 

「――では、お疲れ様でした」

 

 その意志は確固たるものだ。

 だからその日も、恙なく業務を終える。

 

 少し、打ち合わせの場所を間違えてしまったが。

 

 待ち合わせの時間に遅れてしまったが。

 箸を何度も落としてしまったが。

 相手の話を聞き逃してしまったが。

 何もないところで躓き、転びかけたが――

 

 ……

 

「……、」

 

 そうだ、きっと疲れているのだ。

 とっとと帰って休んでしまおう、とエントランスへと向かい。

 外へと出て、正門を潜り抜けた――

 

「――スー、」

 

 その時、

 

「レイ、」

 

 聞こえた、苛立つほどに陽気な声に。

 

「ちゃんっ」

 

 スレイエメラルドは感じた――嗚呼。

 きっと今日は、厄日なのだな、と。

 青いリボンが目を引く、栗毛のポニーテール。

 

 

 

 ジャージ姿のサファイアアリオンが、そこにいた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 バカなのかコイツは?

 それが、スレイエメラルドの真っ先に感じたことだった。

 どうしてここに。などと問うまでもない。数日前、自分の元を訪れた際、何を要求したかを考えれば、安易に想像がついた。

 同時にその時、自分は彼女に、しっかりと意志を伝えたはずだ、とも。

 

 (そんなもの)には付き合えない。

 (そんなこと)をやってはいられない。

 

 にも関わらず、サファイアアリオンは、何事も無かったかのように顔を出すのだ。これで何も感じるな、という方が難しかった。

 

「――、――」

 

 絶対に面倒なことになる。

 確信をもってそう感じたスレイは、頭からアリオンの言葉に耳を貸さなかった。

 素通りしていく言葉の中には、取引だのなんだのというものが含まれており、要約すれば『勝負をしないか』というもの。

 

 それで勝ったら、アリオンに付き合い、負けたら好きにしてくれていい、というもの。

 

 ――バカバカしい。その感情は、驚くほど簡単に胸の中に湧き上がってきていた。

 

 だからスレイは、アリオンの言葉が終るのを待たないまま、その脇を通り抜ける。

 

「――、――?」

 

 彼女はなおも何かを言っている。

 

「――、――。――、――……」

 

 その声色は、いかにもこちらの関心を引きたがっている、呆れ気味な色。

 

「――、――」

 

 もちろん、それに反応する義理もない。

 スレイは立ち止まることもなく、彼女の言葉を背に受けながら――

 家路を歩いた。

 

 

 

「――臆病者」

 

 

 

『――おくびょーもの』

 

 

 

 だが気が付けば。

 スレイは振り返り、アリオンの胸ぐらを掴んでいた。

 仇敵を見るように、鋭く研ぎ澄ました目で。

 目の前の少女を睨みつける。

 

「……なんだ」

 

 それまで素通りしていたはずのアリオンの言葉が、スレイの頭の中に響いた。

 

「まだ出来るんじゃん。そういう目」

 

 スレイは無言だった。

 彼女の提案を、明確に肯定したわけではない。

 だが、本来なら帰るべきを帰らず、立ち向かうべきでないを立ち向かうことを選んだこと。

 それが、全てだった。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 河川敷。

 野良レースの舞台として頻繁に使われる市営コース、2,000mを一周――それが勝負の条件だった。

 

 アリオンはジャージ姿、やる気満々の彼女に対して、スレイは退勤時の服装そのまま。

 いかにも動きづらそうなその出で立ちに、アリオンは指を差す。

 

「大丈夫なの? スーツで」

「構いません」

 

 それは挑発でも何でもない。通常考えられるものとは大きく違う服装に、彼女が気を利かせたことに近い。

 スレイもまた、それをよく理解している。理解していながら、その口から紡がれる言葉は、

 

「どんな服装だろうと、結果は変わりません」

 

 無自覚に、挑発的だった。

 ただ、相手は気心知れた幼馴染。アリオンはそれ以上は追及せず、あぁそう、と淡白に返すだけだった。

 

「さっさとやりましょう」

 

 空はどんよりと曇っている。間もなく天気は崩れるだろう。

 雨風に晒されながらのレースは趣味ではないし――何より。

 

「時間をムダには出来ないでしょう」

「……スレイちゃんてさ」

 

 勝負の先を促したスレイに、アリオンは問うた。

 

「生きてて楽しいの?」

「……は?」

 

 唐突なその質問に――

 スレイの声色が尖る。

 アリオンの表情は変わらない。

 勝負に誘った時のような、挑発的なものではない。

 ただ純粋にそれが気になったから聞いただけ――それ以上に何も思っていなさそうな、そんな声。

 

「どういう意味ですか」

「いや、えっと。うーん」

 

 スレイは問い返すも――

 アリオンは言い淀み、腕を組んで唸った末。

 

「……ごめん。やっぱいいや」

 

 消化不良な答えを返して、コースの方へと向かった。

 それを問い詰めることは出来た。わかった、とひとまず聞き流すには、あまりに意味深で、踏み込んだ内容。

 もやもやを抱えたまま臨むのも本意ではなかった――が。その行為が、自身の発言と矛盾することに即座に気が付いた。

 

 時間のムダ。

 問い詰めたところで、あの様子では、アリオンは同じように言い淀む可能性の方が高い。そうしているうちに、自分たちの望まない状況へと転じてしまうかもしれない。

 ならば――そのような、禅問答じみた問いかけなど、もはや切り捨てて。

 

「……、」

 

 ――さっさと終わらせよう。

 だから、スレイもまた、コースの方へと向かった。

 

 河川敷の市営コースに、明確なスタートラインは設定されていない。

 ただ、多くのウマ娘が『そうした』ことにより、自然と作られたラインに沿って。

 二人は並ぶ。――刹那、目の前を、一粒の水滴が、上から下へと通り抜けた。

 それを合図としたように、ぽつぽつと雨粒が降り注ぎ始める。

 

「……始めよっか」

「えぇ」

 

 アリオンは、足元の石ころを拾い上げた。

 目の前に掲げたそれに、自然、二人の目が集中する。

 

「合図」

 

 それ以上の言葉はいらなかった。

 小石が、アリオンの手によって宙に放られる。

 数瞬の間に、小石は頂点に達し、落下した。

 聞き取るには小さすぎる、接地する音。

 

「――ッ!!」

 

 それだけで十分だった。

 それを確かに聞きとった二人は――

 同時に、コースを走り始めていた。

 

「――、」

 

 雨脚が強り始める中、レースはサファイアアリオンが先行する形となった。

 スレイエメラルドの数歩先を、栗毛のポニーテールが忙しそうに揺れる。

 聞いたところによれば、彼女の得意戦術は『差し』。

 本来なら先行してはいけないはずなのだが、そうしてしまっているのは、気持ちが逸ったからか、何か作戦があるからか。

 どちらにせよ――

 

 なるほど確かに――

 特集を組まれるだけのことはある、とスレイは感じた。

 

 アシカガトレセン学園時代――

 何度か、授業の一環で併走をした。

 その時の彼女といえば、未熟と言ったらなく、フォームもペースメイクもてんでダメ、相手にすらならない落ちこぼれといったところだった。

 尤も、当時既に高い能力を実証していたスレイからすれば、だいたいの生徒がそのように映っていたのだが――

 ともかく、彼女にレースで勝つことは、赤子の手を捻ることと大して変わらなかった。

 

 しかし今、先行しているその背中に、当時の姿はない。

 未熟で未完成な走り方はない。

 フォームは整っているし、コース取りも適切。学園での指導は『ムダ』ではなく――

 実力を身に着けてきたのだ、その事実を認識する。

 

「……」

 

 ――負けていたかもしれない、とスレイは感じた。

 自分が、当時のままであれば。

 落ちこぼれ、などと評することは、出来なかったかもしれない。

 

 ――1コーナーを過ぎる。

 雨脚が、見る見る強まっていく。

 間もなく2コーナーを過ぎて。

 レースは次の直線、向こう正面へと入った。

 

「――確かに成長したようですね」

 

 その言葉が、アリオンに伝わるかはわからない。

 しかし、スレイは突然にそう言っていた。

 

「かつての貴女など、見る影もない」

 

 きっと勝っていただろう。

 かつての私と走っていたなら。

 そう。

 ()()()()自分と戦っていたなら。

 

「――ですが、失念しているのではないでしょうか」

 

 だが――現実は、そうではない。

 アリオンがそうであるように。

 自分も――()()なのだ。

 

 ――自分も。

 

「成長しているのは、」

 

 自分ですらも、今でも。

 

「あなただけではないということを」

 

 確かに、否応なく――成長しているのだ。

 

「――ッ」

 

 直線コース。

 そして、向こう正面。

 それらは『彼女』にとっての、絶好のシチュエーションだった。

 

 他を絶え間なく分析するように。

 スレイエメラルドは、自己分析も欠かさない。

 自身の強さの何たるかを知らずに胡坐をかくほど、彼女も愚かではなかった。

 当然、自分の強みを、よく知っていた。

 

 それは、ルビーフェアのような力強い加速でも。

 サファイアアリオンのような、広範な観察力でもなかった。

 その中でも、ひときわ突出していたのは――速度

 

 距離が長ければ長いほど有利に働く。

 最高速度、だった。

 

「――!!」

 

 サファイアアリオンとの距離が、みるみるうちに縮まっていく。

 それを肌で感じたのか、彼女の顔に焦りが灯った。

 追い付かれまい、と速度を上げようとするも――

 元々、そのような走り方の慣れていない彼女なのだ。

 

 あっという間に。

 順位は、入れ替わってしまっていた。

 

 そうだった。

 いつも、そうだった。

 絵に描いたような優等生。誰の目にも明らかな天才。

 反対意見も、反対勢力も、実力で黙らせてきた。

 それは、数年の間を置いた今でも変わっていない。

 

 何も変わっていない。

 笑えるほどに、何も変わらない。

 数年を経た今なお、スレイエメラルドは――

 サファイアアリオンの数歩先を、先行していた。

 

「……」

 

 もはやスレイの目に、彼女の姿は映らない。

 こうなればもう、勝負は決したようなもの。

 鮮やかに最終コーナーを抜け、あとはゴールラインを切るだけ。

 彼女からすれば、機械的な作業も同然だった。

 

 ――背後から、ばしゃり、と痛々しい音が響く。

 それが何なのか、スレイにはすぐに想像がついていた。

 だが、いやだからこそ、振り返らず、関心も寄せない。

 ただ一心に、直向きなまでに、前を走り続け――

 

「――、……」

 

 既定の2,000mを走り切った時。

 辺りはすっかり、土砂降りになっていた。

 

 スレイは、高架橋の下――自分たちの荷物を置いた場所で、纏わりついた水滴を振り払うと。

 自前の傘を差し――『そこ』へ向かう。

 ――そう。

 

「……」

 

 ぬかるんだコースの上。

 

 降り注ぐ雨に打たれながら、倒れ伏しているサファイアアリオンの元へと。

 歩み寄る。

 

 彼女は何も言わない。

 うつ伏せに倒れたまま、微動だにしない。

 それに優しく手を差し伸べるほど――

 スレイは、甘くはなかった。

 

「……気は済みましたか」

 

 ……バカなのかコイツは?

 スレイは、改めて考えた。

 わかっていたはずだ、自分の性質を。

 知っていたはずだ、自分の得意分野を。

 それなのに敢えてその領分で勝負を挑むなど、愚の骨頂。

 

「済んだのなら、あなたもいい加減、その悪い夢から覚めてください」

 

 そして、そんな実力で。そんな力で――

 途方もない『夢』を叶えようなど――更なる愚行だ。

 輝かしい理想、などではない。

 痛々しく、バカバカしい――

 

 悪い、夢だ。

 

「……そして」

 

 続く言葉を連想した時、スレイの脳裏に、かつての映像が過ぎった。

 その意味を理解して、彼女は一瞬、苦い気持ちになる。

 

「……そして、もう」

 

 それでも――

 それでも、彼女は、それを受け入れ。

 映像を振り払い。

 なおも倒れたままの少女に、言葉を投げかけた。

 

「もう二度と……」

 

 私に、

 関わるな、と。

 

「……」

 

 ――アリオンは、返事をしない。

 ただ、スレイは、それ以上は待たない。

 荷物を手に、その場から立ち去る。

 

 河川敷を背に――

 住宅街まで辿り着き――

 

 ふと、立ち止まると。

 傘の中から、灰色の空を見上げた。

 

 ……雨は、まだ止まない。

 

 

 まだ止まない。

 まだ止まない。

 

 

 まだ、

 まだ――

 

 

 

 まだ、

 

 

 止みそうにない。

 

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