「──申し訳ありませんでした」
スレイエメラルドが深々と頭を下げた先、一軒家の扉が、やや荒々しく閉められる。
彼女はしばらく頭を下げたままだったが、やがてゆっくりと顔を上げていた。
扉にはそれ以上の変化は見られず、物言わずに佇み続けている。
まるで無言で、彼女の存在を拒絶しているかのようだった。
「……」
それでも、彼女が『仕事』を終えたのは確かだった。
踵を返し、その場を後にする。
このような事は、もはやいつものこと。
気にすることでは無い、と自分に言い聞かせる。
言い聞かせるが――いつものように、それはやがて疑問へと変わり。
いつものように──ぐるぐると、頭の中を巡り始めた。
相手を怒らせてしまったこと。それに関して、スレイは非を感じないわけではない。
怒るということは、不愉快にさせてしまったということだ。そしてその感情を、何物かを引き換えにしないままに処理するのは難しい。
だから、せめてもの手助けとして、頭を下げるわけだが──
肝心の、その理由に関しては、彼女はいつまでも理解し切れないままだった。
自分は、間違ったことを言っているわけではない。
自他共に認めるとおり、正しいことを言っている。
感心こそすれど、怒るなど筋違いでは?──いつもそう感じている。
理由を聞いてみても、更なる逆上を生むか、言い訳するか。
生産性のある回答からは程遠い。
それを紐解くヒントすら得られていない。
結果として、今の今まで、決着を付けられずにいる。
この問いかけの答えに。
この疑問の解消法に。
『答え』を、見つけられずにいる。
そしてそれは、今回の場合でも同じだった。
ぐるぐると巡る疑問。
そういう時、スレイはとりあえず散歩をする。
わざといつもの道を外れ、遠回りし、歩いて、時間が解決してくれるのを待つ。
つまりは気晴らしだ──本当なら、そんな風に、時間をムダにしたくないのだが。
答えのない問いかけのために、業務に支障を来すわけにはいかなかった。
だから今日も、彼女は歩く。
商店街の中を歩く。
いつもなら、この場所には寄り付かない。
立ち寄るとしても、買い出しなどの必要性に駆られた時だけだ。
自ら進んで近付くことなどまずない。
なぜならその場所は──
『娯楽』に塗れているからだ。
忌避しているわけではない。
嫌悪しているわけでもない。
が、彼女にとって、娯楽というのは、『時間のムダ』にしか映らなかった。
そんなことをする暇があるなら、やるべきことを。彼女はそう考えていた。
時間は有限──ムダになど出来ない。娯楽に興じるなら好きにすればいい、ただ自分は──
同調出来ない。いや、『してはならない』。ずっとそういう風に考えてきた。
ずっと、そういう風に、自分に言い聞かせてきた。何があろうとも――
寄り付かない。
立ち寄らない。
関わらない。
関心を向けない。
だからその日も、スレイは、特に感動することもなく、その場所を通り抜けるはずだった。
一人の、ウマ娘を見た。
「……」
ボリュームのある鹿毛と、どこか気品ある佇まい。特徴的な制服のデザインから、彼女がかの中央校の生徒であることは一目でわかった。
彼女はそこに直立し──
視線は、目の前の店の、ショーウィンドウに向けられている。
ほとんど動くこともなく──
見るからに釘付けになっている、その様子を。スレイは気にせず、素通りするつもりだったが。
「いえ……確かにそうかもですが……うぅん……しかし……」
ぶつぶつと、何やら独り言を呟いていることもあって。
気になってしまった。
そのちょうど隣に立ち──
自身もまた、ショーウィンドウに目をやっていた。
ポーズを決めた3種類のマネキンが、それぞれに個性的な服で着飾っている。
「……」
やがて、そのウマ娘は──
メジロブライトは。
スレイエメラルドの存在に気付いたらしく、徐に視線を向けていた。
スレイもその事実に気付き、どこか遠慮がちに目を向ける。
「……あら〜、これはどうも〜」
一拍置いて、メジロブライトは言った。その様子は、何かを理解したようにも見えた。
「あなたも、お買い物ですか~? ごめんなさい。ここにいては、迷惑ですわね~」
「いえ、そんなことは……」
言うまでもなく、二人は初対面。
にも関わらず、柔らかく笑うブライトは、まるで旧友のように流暢に話す。
「ここのお店は、色々な商品が売っていますから~。足を止めてしまうのも、無理はございませんわ~」
「いえ、ですから私は……」
「実はわたくし、家族と喧嘩をしてしまいまして~」
思わずしどろもどろになるスレイに、しかしブライトはマイペースに続ける。
「仲直りのために、何かプレゼントを.と思っていたのですが……なかなか決められないのです」
しゅんと肩を落とすブライト。とにかく、当たり障りのない返事をするしかない――そう結論して、スレイは自分の頭の中の辞書を開いた。
「それは、お気の毒に」
「……あっ、もしかしてあなたも、そのような目的で?」
「いえ……私は、たまたま通りかかっただけです」
だからこそ、こんなところでムダ話をしていたくもないのだが。
そんな彼女の思いを知ってか知らずか、
「……でしたら、少し、付き合っていただけませんか~?」
ブライトは――
唐突な提案をしていた。
「はっ?」
「これも何かの縁ですし、あなたはどことなく、ドーベルと似てらっしゃいます。付き合って下さると、とても助かるのですが~」
「い、いえ、しかし……」
「……あっ、ちなみに、ドーベルというのは、今喧嘩してる家族のことですわ~」
聞いてねーよ、とスレイは、動揺しながらも心の中でツッコむ。そしてブライトは、その動揺の隙を突いたかのように、
「さ、こちらですわ~」
「あっ、ちょ……」
スレイの手を取ると――目の前の店に駆け込んでいた。
……スレイは、こうしたショッピングに興じたことがない。
遠い昔、『友人』の付き合いで数度行ったきりだ。
前述したように、気分転換として視界に収めることはあっても、入店にまでは至らない。
だから、たとえ何かアドバイスを求められようとも、生産的なものは返せないに等しいぞ――
ブライトのことも思って、彼女はそう進言したのだが。
「ん~、あの子は派手なものは苦手ですから……もっと落ち着いたモノがいいかもしれませんわ……」
聞いちゃいなかった。そこに『友人』の面影を見たスレイは、もはやこれ以上はどうにもならないと判じ、諦めて、ブライトの買い物に付き合うことにした。
ふわふわとおっとりした言動とは裏腹に、メジロブライトのフットワークは軽かった。
あれでもないこれでもない、とアパレルショップを中心に店舗を練り歩く。
「そもそも、服という発想を変えるべきでしょうか……」
その先々で、スレイエメラルドは。
「わ~、よくお似合いですわ~っ」
着せ替え人形のごとく。
「有り触れたアクセサリーをも着こなす才能……羨ましい限りですわ……!」
彼女の思うまま、様々なモノを着せられたり、装着させられたりで。
結局解放されたのは日暮れ、一時間ほど経った頃だった。
それでいて購入したのは――
それなりに値の張るネックレス一点、だけだった。
「良かったですわ~、お陰様で、いいモノを見つけられましたの~」
長方形の箱を手に、ブライトは満足そうに言う。
「これでようやく、仲直りできますね〜」
「……そうですか」
「……?」
対照的に、辟易とした顔で答えたスレイに、ブライトは不思議そうに小首を傾げた。
「不服そうですわ……?」
「そ――そりゃそうでしょう!」
そして、なおもマイペースに言う彼女に、スレイは思わず声を荒げていた。
「見ず知らずの人にいきなり連れ回されて、不服にならない人がいますか!?」
「あら…….そうだったのですか~? わたくしには、そうは見えませんでしたが……」
「一体どこをどう見ればそんな風に感じるのですか……」
「わたくしの目には……」
声を荒げてしまったことへの自己嫌悪。
的外れにのんびりとしているメジロブライト。
双方に板挟みになり、スレイは片手を額に当てていた。
ブライトは――
「……とても、楽しそうに見えましたけれど」
途端、凪の水面のような声を発した。
「は……?」
「窮屈そうに歩いていたのが、まるで解放されたかのように見えましたわ~」
「……でたらめを」
スレイは目を逸らし、吐き捨てるように言う。
ブライトはそれに、口元を綻ばせた。
「……なぜ、そんなにも苦しそうなのです?」
そして、続ける。
「選ぶ権利も、そのために必要なものも持っているのであれば、躊躇わずに、自分のしたいことをすればいいのではありませんか~?」
「……仰っている意味がわかりません。私には使命が――」
「
抵抗するように。
もがくように答えるスレイに、突き付けるように。
「
「――……」
スレイは、それに言葉を失い――
思わず目を見開く。
視線の先、ブライトは笑みは妖艶なものに変わっており――
スレイは悟っていた。――出会いは偶然だっただろうが。
彼女が、
必然であったということに。
「……わかりませんわ。誰もあなたを縛っておりませんの」
一歩を、ブライトは踏み出す。
「強制も、しておりませんの」
更にもう一歩を、踏み出し。
「ですのに、」
あなたは一体、
何に縛られているのです?
「……」
「……」
身を乗り出し――
覗き込むように、スレイの瞳と目を合わせたブライトは、徐に身体を離すと、空を見上げた。
まだ晴れている、と定義出来た橙の空は、今やすっかり、不穏な雲に覆われてしまっている。
「ひと雨来そうですわね」
目がスレイの方に向け直される。
そこにはもはや、先ほどまでの妖しい様子はなかった。
朗らかで柔らかな、愛らしい少女の顔つき。
「ともあれ、付き合っていただいて、ありがとうございました」
上品な所作で――
彼女は頭を下げ、言った。
「縁があったら、またお会いしましょう」
返事を待たずして――
ブライトは、速足にそこから立ち去る。
スレイはしばし、そこに立ち尽くしていたが。
微かな空の唸りに気付くと、やがて、家路に着いていた。
誰かを特別、見下したことはない。
自分がそうであるように、誰しもが各々のやるべきことを帯びているからだ。
たとえ遊び歩いていようが、バカ騒ぎしていようが、それも当人にとっては必要なこと。
スレイエメラルドの関心の外だった。
他人を気にする余裕があるのなら。
誰かを気にかける暇があるのなら。
少しでも自分の使命を。僅かでも自分の責務を。それを心に、これまでやってきたのだ。
それは誰かに強制されたわけではない。誰かに頼まれたわけでもない。当然として自分がすべきこと――心にはただ、その考えだけを胸に。
不動の考え方だった。スレイにとって、今更特別、気にかけるようなことではないはずだった。
……にも関わらず、メジロブライトのその言葉は、スレイの胸にこびりついて離れなかった。
――何に縛られているのか?
バカバカしい、と一笑に伏せばいいものを、そう出来ないのは、それだけ図星を指されてしまったことの表れか。
無意識でも――
縛られている、と自分が感じているからか。
「……」
まさか、羨ましがっているのか?
胸中に一瞬でも浮かび上がった仮説を、彼女は乱暴に振り払う。
そんなわけはない。そんなはずはない。娯楽を、お遊びを、見下しているわけではない。それでも自分は、そのような浮ついた考えではなく。
もっと地に足付いた――現実的な道を選んだはずだ。
そうだ――娯楽も、夢も、叶えたところで、何になる。ただ覚めるだけ、ただ冷めるだけ。なんのためにもならない。時間のムダだ。それならば――
ムダにならないことを。必要とされることを。寄り道など切り捨てるのだ。真面目に真っ直ぐに。なぜなら自分は――
もう夢など、
とうに棄てたのだ。
「――では、お疲れ様でした」
その意志は確固たるものだ。
だからその日も、恙なく業務を終える。
少し、打ち合わせの場所を間違えてしまったが。
待ち合わせの時間に遅れてしまったが。
箸を何度も落としてしまったが。
相手の話を聞き逃してしまったが。
何もないところで躓き、転びかけたが――
……
「……、」
そうだ、きっと疲れているのだ。
とっとと帰って休んでしまおう、とエントランスへと向かい。
外へと出て、正門を潜り抜けた――
「――スー、」
その時、
「レイ、」
聞こえた、苛立つほどに陽気な声に。
「ちゃんっ」
スレイエメラルドは感じた――嗚呼。
きっと今日は、厄日なのだな、と。
青いリボンが目を引く、栗毛のポニーテール。
ジャージ姿のサファイアアリオンが、そこにいた。
バカなのかコイツは?
それが、スレイエメラルドの真っ先に感じたことだった。
どうしてここに。などと問うまでもない。数日前、自分の元を訪れた際、何を要求したかを考えれば、安易に想像がついた。
同時にその時、自分は彼女に、しっかりと意志を伝えたはずだ、とも。
にも関わらず、サファイアアリオンは、何事も無かったかのように顔を出すのだ。これで何も感じるな、という方が難しかった。
「――、――」
絶対に面倒なことになる。
確信をもってそう感じたスレイは、頭からアリオンの言葉に耳を貸さなかった。
素通りしていく言葉の中には、取引だのなんだのというものが含まれており、要約すれば『勝負をしないか』というもの。
それで勝ったら、アリオンに付き合い、負けたら好きにしてくれていい、というもの。
――バカバカしい。その感情は、驚くほど簡単に胸の中に湧き上がってきていた。
だからスレイは、アリオンの言葉が終るのを待たないまま、その脇を通り抜ける。
「――、――?」
彼女はなおも何かを言っている。
「――、――。――、――……」
その声色は、いかにもこちらの関心を引きたがっている、呆れ気味な色。
「――、――」
もちろん、それに反応する義理もない。
スレイは立ち止まることもなく、彼女の言葉を背に受けながら――
家路を歩いた。
「――臆病者」
『――おくびょーもの』
だが気が付けば。
スレイは振り返り、アリオンの胸ぐらを掴んでいた。
仇敵を見るように、鋭く研ぎ澄ました目で。
目の前の少女を睨みつける。
「……なんだ」
それまで素通りしていたはずのアリオンの言葉が、スレイの頭の中に響いた。
「まだ出来るんじゃん。そういう目」
スレイは無言だった。
彼女の提案を、明確に肯定したわけではない。
だが、本来なら帰るべきを帰らず、立ち向かうべきでないを立ち向かうことを選んだこと。
それが、全てだった。
河川敷。
野良レースの舞台として頻繁に使われる市営コース、2,000mを一周――それが勝負の条件だった。
アリオンはジャージ姿、やる気満々の彼女に対して、スレイは退勤時の服装そのまま。
いかにも動きづらそうなその出で立ちに、アリオンは指を差す。
「大丈夫なの? スーツで」
「構いません」
それは挑発でも何でもない。通常考えられるものとは大きく違う服装に、彼女が気を利かせたことに近い。
スレイもまた、それをよく理解している。理解していながら、その口から紡がれる言葉は、
「どんな服装だろうと、結果は変わりません」
無自覚に、挑発的だった。
ただ、相手は気心知れた幼馴染。アリオンはそれ以上は追及せず、あぁそう、と淡白に返すだけだった。
「さっさとやりましょう」
空はどんよりと曇っている。間もなく天気は崩れるだろう。
雨風に晒されながらのレースは趣味ではないし――何より。
「時間をムダには出来ないでしょう」
「……スレイちゃんてさ」
勝負の先を促したスレイに、アリオンは問うた。
「生きてて楽しいの?」
「……は?」
唐突なその質問に――
スレイの声色が尖る。
アリオンの表情は変わらない。
勝負に誘った時のような、挑発的なものではない。
ただ純粋にそれが気になったから聞いただけ――それ以上に何も思っていなさそうな、そんな声。
「どういう意味ですか」
「いや、えっと。うーん」
スレイは問い返すも――
アリオンは言い淀み、腕を組んで唸った末。
「……ごめん。やっぱいいや」
消化不良な答えを返して、コースの方へと向かった。
それを問い詰めることは出来た。わかった、とひとまず聞き流すには、あまりに意味深で、踏み込んだ内容。
もやもやを抱えたまま臨むのも本意ではなかった――が。その行為が、自身の発言と矛盾することに即座に気が付いた。
時間のムダ。
問い詰めたところで、あの様子では、アリオンは同じように言い淀む可能性の方が高い。そうしているうちに、自分たちの望まない状況へと転じてしまうかもしれない。
ならば――そのような、禅問答じみた問いかけなど、もはや切り捨てて。
「……、」
――さっさと終わらせよう。
だから、スレイもまた、コースの方へと向かった。
河川敷の市営コースに、明確なスタートラインは設定されていない。
ただ、多くのウマ娘が『そうした』ことにより、自然と作られたラインに沿って。
二人は並ぶ。――刹那、目の前を、一粒の水滴が、上から下へと通り抜けた。
それを合図としたように、ぽつぽつと雨粒が降り注ぎ始める。
「……始めよっか」
「えぇ」
アリオンは、足元の石ころを拾い上げた。
目の前に掲げたそれに、自然、二人の目が集中する。
「合図」
それ以上の言葉はいらなかった。
小石が、アリオンの手によって宙に放られる。
数瞬の間に、小石は頂点に達し、落下した。
聞き取るには小さすぎる、接地する音。
「――ッ!!」
それだけで十分だった。
それを確かに聞きとった二人は――
同時に、コースを走り始めていた。
「――、」
雨脚が強り始める中、レースはサファイアアリオンが先行する形となった。
スレイエメラルドの数歩先を、栗毛のポニーテールが忙しそうに揺れる。
聞いたところによれば、彼女の得意戦術は『差し』。
本来なら先行してはいけないはずなのだが、そうしてしまっているのは、気持ちが逸ったからか、何か作戦があるからか。
どちらにせよ――
なるほど確かに――
特集を組まれるだけのことはある、とスレイは感じた。
アシカガトレセン学園時代――
何度か、授業の一環で併走をした。
その時の彼女といえば、未熟と言ったらなく、フォームもペースメイクもてんでダメ、相手にすらならない落ちこぼれといったところだった。
尤も、当時既に高い能力を実証していたスレイからすれば、だいたいの生徒がそのように映っていたのだが――
ともかく、彼女にレースで勝つことは、赤子の手を捻ることと大して変わらなかった。
しかし今、先行しているその背中に、当時の姿はない。
未熟で未完成な走り方はない。
フォームは整っているし、コース取りも適切。学園での指導は『ムダ』ではなく――
実力を身に着けてきたのだ、その事実を認識する。
「……」
――負けていたかもしれない、とスレイは感じた。
自分が、当時のままであれば。
落ちこぼれ、などと評することは、出来なかったかもしれない。
――1コーナーを過ぎる。
雨脚が、見る見る強まっていく。
間もなく2コーナーを過ぎて。
レースは次の直線、向こう正面へと入った。
「――確かに成長したようですね」
その言葉が、アリオンに伝わるかはわからない。
しかし、スレイは突然にそう言っていた。
「かつての貴女など、見る影もない」
きっと勝っていただろう。
かつての私と走っていたなら。
そう。
「――ですが、失念しているのではないでしょうか」
だが――現実は、そうではない。
アリオンがそうであるように。
自分も――
――自分も。
「成長しているのは、」
自分ですらも、今でも。
「あなただけではないということを」
確かに、否応なく――成長しているのだ。
「――ッ」
直線コース。
そして、向こう正面。
それらは『彼女』にとっての、絶好のシチュエーションだった。
他を絶え間なく分析するように。
スレイエメラルドは、自己分析も欠かさない。
自身の強さの何たるかを知らずに胡坐をかくほど、彼女も愚かではなかった。
当然、自分の強みを、よく知っていた。
それは、ルビーフェアのような力強い加速でも。
サファイアアリオンのような、広範な観察力でもなかった。
その中でも、ひときわ突出していたのは――速度。
距離が長ければ長いほど有利に働く。
最高速度、だった。
「――!!」
サファイアアリオンとの距離が、みるみるうちに縮まっていく。
それを肌で感じたのか、彼女の顔に焦りが灯った。
追い付かれまい、と速度を上げようとするも――
元々、そのような走り方の慣れていない彼女なのだ。
あっという間に。
順位は、入れ替わってしまっていた。
そうだった。
いつも、そうだった。
絵に描いたような優等生。誰の目にも明らかな天才。
反対意見も、反対勢力も、実力で黙らせてきた。
それは、数年の間を置いた今でも変わっていない。
何も変わっていない。
笑えるほどに、何も変わらない。
数年を経た今なお、スレイエメラルドは――
サファイアアリオンの数歩先を、先行していた。
「……」
もはやスレイの目に、彼女の姿は映らない。
こうなればもう、勝負は決したようなもの。
鮮やかに最終コーナーを抜け、あとはゴールラインを切るだけ。
彼女からすれば、機械的な作業も同然だった。
――背後から、ばしゃり、と痛々しい音が響く。
それが何なのか、スレイにはすぐに想像がついていた。
だが、いやだからこそ、振り返らず、関心も寄せない。
ただ一心に、直向きなまでに、前を走り続け――
「――、……」
既定の2,000mを走り切った時。
辺りはすっかり、土砂降りになっていた。
スレイは、高架橋の下――自分たちの荷物を置いた場所で、纏わりついた水滴を振り払うと。
自前の傘を差し――『そこ』へ向かう。
――そう。
「……」
ぬかるんだコースの上。
降り注ぐ雨に打たれながら、倒れ伏しているサファイアアリオンの元へと。
歩み寄る。
彼女は何も言わない。
うつ伏せに倒れたまま、微動だにしない。
それに優しく手を差し伸べるほど――
スレイは、甘くはなかった。
「……気は済みましたか」
……バカなのかコイツは?
スレイは、改めて考えた。
わかっていたはずだ、自分の性質を。
知っていたはずだ、自分の得意分野を。
それなのに敢えてその領分で勝負を挑むなど、愚の骨頂。
「済んだのなら、あなたもいい加減、その悪い夢から覚めてください」
そして、そんな実力で。そんな力で――
途方もない『夢』を叶えようなど――更なる愚行だ。
輝かしい理想、などではない。
痛々しく、バカバカしい――
悪い、夢だ。
「……そして」
続く言葉を連想した時、スレイの脳裏に、かつての映像が過ぎった。
その意味を理解して、彼女は一瞬、苦い気持ちになる。
「……そして、もう」
それでも――
それでも、彼女は、それを受け入れ。
映像を振り払い。
なおも倒れたままの少女に、言葉を投げかけた。
「もう二度と……」
私に、
関わるな、と。
「……」
――アリオンは、返事をしない。
ただ、スレイは、それ以上は待たない。
荷物を手に、その場から立ち去る。
河川敷を背に――
住宅街まで辿り着き――
ふと、立ち止まると。
傘の中から、灰色の空を見上げた。
……雨は、まだ止まない。
まだ止まない。
まだ止まない。
まだ、
まだ――
まだ、
止みそうにない。