窓の外の景色が、高速で流れていく。
見覚えのある長い髪が、『通路』を駆け抜けていく。
ハッとなってその後ろ姿を追うけれど。それは見ず知らずの子供だった。
思わずため息を吐き、視線を再び窓へと移す。
どこか気だるげな車内放送が、周囲を満たす騒音を縫って通り抜けた。
「……そんなにブルーになっても仕方ないぞー」
呆れたような声は向かい側から。
そこには、見慣れた顔、鹿毛のツインテール。
「こうして生きて見つかったんだからさ。なんとかなるって」
「……そうですね」
……それもそうだ。ついこの間まで、彼女が生きているかどうかもわからない状態だったのだ。ちゃんと生きている、それがわかっただけでも御の字じゃないか。
落ち込み過ぎで、手掛かりを見逃すわけにもいかない。ちゃんと前を向かないと。
「その通りです」
そう自分に言い聞かせたけれど、彼女――ネイチャさんは、私が立ち直り切れていないことを見抜いているみたいだった。それでも、私のその気持ちを汲んでくれたのか。それ以上は何も言わなかった。
……アルちゃんが、学園に保護されてから、二日。
トレーナーさんの提案に従い、私は、数年ぶりとなる『生まれ故郷』へと向かっている。
本来ならその任務は、私ひとりによるものとなる予定だったのだけれど。心身共に不安定な私の身を案じてか、トレーナーさんは同行者を一人連れていくことを追加で提案してくれていた。
でもこれは、私の、私たちの、目標に関わるもの。無関係な人を巻き込むわけには……と考えたのだけれど。
拒否する間もなく、その役目を買って出てくれたわけだ――その場に居合わせていた、ネイチャさんが。
「……、」
ここまでの旅程――と言っても、駅から電車に乗るだけだけど――で、彼女は嫌な顔一つ浮かべていない。
不満の一つも口にしていない。
けれど、彼女も忙しいだろうに。こうして付き合ってくれていることには、感謝よりも、申し訳なさの方が勝ってしまって……
「……ごめんなさい」
途切れた会話の間隙。
私は、ぼそりと零していた。
「ん?」
「いえ……ネイチャさんも忙しいのに、こんなことに付き合わせちゃって」
ウマ娘というのは、基本的に忙しい。
それこそ、こうして外出なんて、おちおちしていられないほどだ。
加えて彼女は、生徒会という、輪にかけて忙しい立場にある。……実際、スレイちゃんの時も、一度は同行を断られたわけだし。
それなのに、協力してくれるだなんて……
「……ごめんなさい。私の、自分勝手で」
「ね。ちょっと顔上げてみ?」
「え?」
対して。
ネイチャさんに言われ、私は、俯かせた顔を上げた。
何ですか、と問いかけるつもりだったのだけれど――
「――っ!?」
叶わなかった。
なぜなら、顔を上げた瞬間――
おでこに、鋭い痛みが走っていたからだ。
直後見える、身を乗り出していたらしいネイチャさんが席に戻る様子。
……どうやら、彼女は。
私のおでこに、デコピンをかましたらしかった。
「……なら、アタシがアンタを助ける為だけにこうしてるって?」
私が、おでこを擦る中――
ネイチャさんは、特大のため息を吐いた。
「あのね、『同族』があんな扱いされて、黙っていられるほどネイチャさんは優しくないよ。これはアタシがしたいからこうしてんの。そりゃ、多少なりアンタのことも考えてはいるけどさ。100%じゃないからね。あんま自惚れんなよー?」
「でも……」
「でもも何もない。それにアタシは、自分の意志で着いて行くって決めたんだから。アンタに止められる筋合いないよ」
「……」
「まぁそれでも」
ネイチャさんは、余裕そうに足を組む。
優しそうにも、厳しそうにも見えるその目は、私を試しているようで。
「アンタが着いてくんなって言うなら、今すぐ引き返すけど?」
「……」
……結局は。
そういうことだった。
「……よろしくお願いします」
「よろしい」
先輩の、ぶっきらぼうな優しさを感じながら。
私たちは、目的地へと近づいていく。
そこまでは……あと、数駅ほどみたいだった。
ダイヤアールヴァクの一時的な居室から、駿川たづなが退室する。
扉を閉め、ため息を吐くと。こちらへと近付く影に気が付いた。
長い橙色の髪に、白と青色の映えるハット、小柄な体躯に、頭上には猫。
「……相変わらずか?」
秋川やよいは、彼女の元に辿り着くなり訊ねた。
たづなは、それに残念そうに頷く。
「耳が全く動いていないわけではないので、聞こえているとは思うのですが……」
「ふーむ……今まで色々なウマ娘と会ってきたが、ここまでコミュニケーションの難しい子は初めてだな」
何事かを思案する素振りを見せた彼女は、やがてよし、と顔を上げた。
「私が直接見よう」
「は!? よ、よろしいのですか!?」
「なんだ。私が会ってはならない理由があるのか?」
「いえ……ありませんけれど……」
「ならいいだろう。何。会ったらくたばるわけじゃない。少し様子見をするだけだ」
「……しかし」
「ん?」
「……」
小首を傾げる秋川のその仕草は、見た目相応の少女のもののように思える。しかしたづなは、冷汗を垂らすと、観念したように息を吐いた。
「……わかりました」
「うむ」
たづなは、居室のドアを開ける。
秋川は、導かれるようにその中へと入った。
にも関わらず、ダイヤアールヴァクは、相変わらず顔を上げない。
微動だにせず、視線を落とすばかりだ。
その得体の知れない雰囲気に、秋川も、思わず眉を顰めていた。
何人かは見てきた。
卑屈な生徒も。
引っ込み思案な生徒も。
敵対的な生徒も。
ミステリアスな生徒も。
話さない理由、話せない理由。誰もが相応の背景を持っている。
だが誰もが、優しく、寄り添い、根気よく話すことで、いずれは心を開いてくれていた。
しかし、今目の前にいる彼女は――
そのどれとも違っていた。
なんだこれは?
思わず、そう疑問に思ってしまった。
目も合わせられず、言葉もろくに交わせず。
まるでそこには――一人のウマ娘ではなく。
そういう形をした、
深淵が座しているかのようだった。
「――はーっはっはっはっは!」
秋川は。
とりあえず、笑っていた。
「歓迎ッ!! すまんな! 昨日は執務が忙しくてな! 会うことが出来なんだ!」
とにかく、彼女の警戒心を解くところから始めよう、という考えのもとで、明るく話し掛ける。
「学園は気に入ってもらえたかな!! 何、そう怯えることはない。ここに君の敵はいないし、設備も充実している! 何か不自由があったら、遠慮なく申し付けることだ!」
壁を打ち砕くように。門戸をこじ開けるように。
「頼りになる先輩もいる! 競い合える同輩もいる! 存分に遺憾なく、自由に生きるのがいいぞ!!」
太陽のような、光芒のような。
その、神々しいまでの言葉の数々に――
「……」
ダイヤアールヴァクは。
顔を、上げていた。
といっても、ほんの少しだけだが――
長く伸びた前髪の間から。
真っ黒な瞳が覗く。
「……」
秋川もまた、その目を真っ直ぐに見つめるが。
そこから産まれる暖かさはない。
「……」
「……」
ただただ、不気味なまでの静寂が。
居室の中を満たした。
「……さ、行くぞたづな! 私も忙しいからな!」
「……はい。仰せのままに」
そんな静寂に追い立てられるように。
二人は、部屋から退室した。
ドアを閉め――
秋川は、扇子を開き、口元を隠していた。
「……たづなはどういう話を?」
「いえ……これといって特別なことは。年頃の女の子が興味を示しそうな話題を、片っ端から」
つまりはそれは、有効そうな手は既に使い切ったことと同義だった。これ以上踏み込むとなれば、専門的な分野の知見が必要になる。
安易に心を開かせようとすれば。
何か、良くないことが起きるかもしれない。
「……」
なるほど、これは思っていたよりも――
簡単な話ではなさそうだ、と、秋川は扇子を閉じた。
「……とにかく、見守るしかないな」
現状、最も安全で、出来そうなことはそれだった。たづなも同じ考えらしく。しかしどこか苦しそうに頷く。
「ですが、例の『暴走』というのだけが気掛かりですね。比喩的な話なのか、それとも……」
「……高強度鎮圧装備を用意しておけ。いつ、何が起きてもいいように」
「わかりました」
よし、と秋川は背を向けた。
「じゃあ、何か動きがあったらまた伝えてくれ。私は理事長室に戻る」
「はい」
たづなはその背中を見送り、ダイヤアールヴァクの居室に振り返る。
そこに、ぼんやりと、不穏な気配を感じながら。
「……もしもし」
有事に備えた『厳戒態勢』を整えるため、 携帯電話を取り出し、職員へと連絡を始めた。
目的地である駅に降り立つと、ネイチャさんは大きめの伸びをしていた。
「――っは~。疲れたぁ。電車の長旅って何度やっても慣れないよねぇ」
ついで首を左右に倒し、肩をぐるぐる。いかにも疲れました、といった振る舞い。斯く言う私も、同じ気持ちだ。深呼吸をすると、一仕事終えたような、ほんのりとした解放感を感じた。
小ぢんまりとした駅舎に、背の高い建物ひとつ見当たらない街並み。青空は伸び伸びと頭上に広がっていて、心なしか居心地が良さそうにも見える。
……帰ってきたんだなぁ。
この場所に。それを、実感する。
「んで、どうする? すぐ向かう? その『心当たり』」
感慨に耽っていると、ネイチャさんが早速とばかりに問いかけてきていた。
「……んと」
もちろん、それにはそうします、と二つ返事で返すべきだ。
私たちは今、重要な務めのためにここに来ている。寄り道なんてしている暇はない。
けれど、それでも……久々に、こうして帰ってきたのだから、という思いも多少なりあって。
「実はその……少し、見ておきたいところがあるっていうか」
「見ておきたいとこ?」
「はい……あ! でもダメならダメで、全然いいので!」
慌てて両手を振る。これこそ、私の個人的な感情の話だ。彼女に付き合ってもらう必要はない。
「もしよかったら……でいいので……」
「……、やるべきことのために来たけどさ」
そんな私の思いは、実際わかりやすかったろうか。ネイチャさんは、また呆れ気味な笑みを浮かべていた。
「だからって、寄り道のひとつもダメ、ってのは息苦しくない?」
「! じゃあ……!」
「っていうか、アタシもちょっと息抜きしたいしね。正直」
私の心配など、取り越し苦労というやつ。
元より彼女は、そういうつもりみたいだった。
「いいよ。お付き合いしますよ、お嬢様方」
「あ……ありがとうございます!」
「ただまぁさすがに、映画観たいとかだったらちょっと難しいと思うけどね」
「大丈夫です! この辺映画館とかないので!」
「いや、それもそれでどーなんだよって」
ともあれ、同意し合えた、ということで。私は彼女を先導する。ネイチャさんに言った通り、別に浮ついたことをするわけじゃない。ただちょっと、見たい場所があるだけだ……
……穏やかな町の中を歩いていく。
車はほとんど通っておらず、人通りも少ない。
もちろん、ウマ娘の姿なんて、欠片ほどもない。
だから、そういう数少ない人たちの注目は、自然、私たちの方へと向けられた。
ちょっと驚いたような顔の彼らに、気さくに手を振るネイチャさん。
そういう対応に慣れているところは、さすがとしか言いようが無かった。
「……あ」
十数分ほど歩いただろうか。
視界の中に、『それ』が入る。
広大で、舗装された道。停まっている、何台もの工業車両――
「着いた着いた。ほら、ここですよ、ネイチャさん!」
「……うん?」
『それ』を紹介するみたいに、ちょっと大げさな素振りでネイチャさんに示したけれど。
彼女は、怪訝そうに首をかしげていた。
「アリオン。でもここって……」
「はい。そうです」
その感情を、そのまま声色に灯しながら言うネイチャさんに、私は答えた。
「ここは……病院建設地」
そう。
「――アシカガトレセン学園が、あったところです」
「……」
目を丸くし、言葉を失うネイチャさん。
反面私は、悪戯に成功した気分になって、思わず笑ってしまった。
「……私たちが卒業した後も、二年くらいは残ってたみたいなんですけどね」
そしてそのまま、彼女に説明する。
「コースとか校舎とか……県外のローカルシリーズの子たちが、合宿先として利用したりしたみたいです。ただそれも途絶えると、再開発計画が立って……えっと、去年の暮れだったかな。それくらいから工事を始めたんですって。私たち、『色々』忙しい時期だったので……取り壊しには立ち会えなかったんですけど」
「……ま、本当に『色々』、忙しかったしね」
思い出して、自虐的な笑みを浮かべる。それらの出来事が、私には、既に遠い昔のことのように思われた。
「……話を聞いた時には、ちょっと寂しかったですけど、でも、古い建物って倒壊の危険もありますし。しょうがないかなって思いました。何より……誰かを救う場所になるのなら。それもそれでいいよね、って。ま、まぁ。私が思わなかったところで、計画を頓挫させるなんて出来っこないので。無意味だったんですけどね」
「そっか……」
「……あ。そうだ」
ネイチャさんの瞳が、慈愛に緩む。それにちょっと恥ずかしくなって、私は再び歩き出す。
「来てください。確かまだ『残ってる』はず……」
そういう感じで、側道を通り、病院(仮)の敷地を通り過ぎる。見えてくるのは広大な公園だ。
その、病院の敷地との境界辺り――
「……あ!」
『それ』は。
遠目でもわかるくらいに、雄大に、佇んでいた。
「あったあった、『ご神木』!」
「ご神木……?」
公園の敷地に入り、ぱたぱたとそれの元に駆け寄る。
『ご神木』――背の高い、太い幹の、その樹木は。既に花を散らしてしまったみたいだけれど。それでも美しく、雄々しく聳え立っていた。
「よかった。まだ元気そう」
「うわ~……立派な木だね」
ネイチャさんは、驚嘆の声を上げつつ、ご神木を指差した。
「近くに神社でも建ってたの?」
「あ、いえいえ。こんなにぶっとくて立派な木なもんですから。みんなが勝手にそう呼んでただけです」
そう、特別な謂れはない。ただここに『ある』だけの、名も無き樹木――しかし、そのあまりに誇らしい姿は、見る者全てを圧倒してやまない。
だから私たちも、当時をして少ない語彙の引き出しから、必死に引っ張り出した単語を名前として、勝手にシンボルにしていたのである。
「春になると、綺麗な桜を咲かせましてね。みんなでお弁当やらお菓子やら持ち込んで、この木の下で、お花見みたいなことしてたんですよ。……」
……思い出す。あの頃の『色々』を。まだ、全校生徒が、数十人はいた頃。
それぞれ、思い思いの食べ物や飲み物を持ち寄って。親御さんまで招いて。
大人はお酒飲んでハメ外して。子供は、疲れてぶっ倒れるまで遊んで……
笑って。
笑って。
笑っていた。
……
……そして。
『――うん! ご神木って、ずーっと前からあるんでしょ。だから、これからもずーっとあると思うから、約束してたんだ!
私、
絶対、 ――……』
「……懐かしいなぁ」
……もうここに、そんな騒がしさはないけれど。住民にはすっかりお馴染みになってるみたいで。
突如上がった楽しげな声に振り向いてみると、近くの公園では、子供たちと青年たちとが混じって、サッカーに興じているみたいだった。
『ご神木』は、その様子を、悠然と見守っているみたいだった。
「……」
「……」
二人、何も言わない。ネイチャさんは木を見上げていて、私も釣られるように見上げる。今日……桜が咲いていれば、良かったんだけどな。
まぁ、そればっかりは仕方がない。元々、来る予定もなかったのだし。そこまで木に求めるのは酷というものだ。
また。
落ち着いたら。ここに来たいな。
……みんなで。
きっと――『みんな』で。
「……さて」
やがて、ネイチャさんは言う。
「それじゃ、そろそろ行こっか?」
「……はい」
促され、木に一礼する。ネイチャさんも、それに倣って礼をしてくれた。そして……私たちは、そこから歩き出す。
これからどこへ行くのか。
電車内で散々話し合ったことを、もう一度話すことはなかった。
「近いの?」
「はい。ちょっと歩くだけです。引っ越しとかしてないといいんですけど……」
「それでも、連絡くらいは取れるようにしたいね」
「ですね……」
あり得そうな可能性。いいものにも、悪いものにも。対応出来るように。色々話しながら――
私たちは歩く。朧げな記憶を頼りに、その道筋をたどる――
その道筋が、当時とほとんど変わっていなかったのは幸いだった。
「……!」
果たして。
それは、そこにあった。
塀に囲まれた、平屋の一軒家。
表札を確認するけれど――うん。変わっている様子もなかった。
「……ここか」
「はい」
ネイチャさんに、私は答えた――そう。
ここが、そう。
現状、私が、私たちが唯一頼れる伝手、宛てになりそうな手掛かり――
「……『教頭先生』の、住まいです」
「おし、いっちょ気合い入れていこっか!」
「い、いや。そこまで気張らなくてもいいと思いますけど……」
ともあれ、こうして話していても仕方がない。敷地内に恐る恐る入り、一軒家の玄関の前に立つ。
昔ながらの引き戸。壁にはインターホン。擦り切れたベルのマークの印字されたそれを、ゆっくりと押した。
ぽーん……と、古風な音が聞こえる。
「――はーい」
「……!」
そして――中から。
聞き覚えのある女声が、聞こえてくる……
どたどたという、床を速足でかける音の末。
目の前の引き戸が開き。
「――はい、」
その人は。
顔を出していた。
総白髪の頭に、薄縁の眼鏡。顔には皺が目立つが、活力までもは失われていない。
そのお陰か――その人が、『その人』だということは、すぐにわかった。
だからこそ。自然、身体が強張る……
「――……」
彼女の目が見開かれる。
私は、姿勢を正して、口を開いた。
「あ――あの。お久しぶり、」
「アリオンさん……?」
が。
「っ!?」
彼女は、ずいっ、とこちらに身を寄せたかと思うと、ガッ、と私の両肩を掴んで、ずおっ、と顔を近づけてきていた。
……老健なお顔に浮かぶ皺の数が、今なら正確に数えられそう。
「――アリオンさんよね!?」
そして、彼女は――
……元・教頭先生は。
心底嬉しそうに言っていた。
「間違いない、間違いないわ! この栗毛にポニーテール! えぇ、嘘! どうして!? どうしてここにいるの!?」
「いえ、あの、ちょっと、用事があってですね……」
「え、嘘ーっ!? やだっ、来るなら来るって言ってくれればいいのにっ!!」
「ごめんなさい連絡先がどうしてもわかんなくて……あとそんな激しく揺さぶらないでください中身が出ちゃいます……!!」
がくがくと高速で揺さぶられる私。されるがまま。ネイチャさんの様子は見えないけれど、きっと呆気に取られているに違いない。
先生の齢が幾つなのか、今やわからない。もう70くらいにはなるのかな……にも関わらずお元気そうで。えぇ、何よりです。
「あっ、あぁもうごめんなさい、私ったらもー嬉しくて嬉しくて……」
ようやく解放してくれた彼女は、片頬に手を当てて、困ったように言っていた。私は……うん。中身は特に問題なさそうだ、うん。
「最後に会ったのは五年……六年だったかしら? でも久しぶりねぇ本当! どうしてこんな田舎くんだりまで来たの? お祝い事か何か? あっ、レースの前の願掛けとか! あなたの活躍見てるわよー、いつも! クラシックではどうするの? 三冠路線は挑戦したり――」
「えっとー……」
「――あれっ!? っていうか、あなたもしかしてナイスネイチャさん!?」
「えっ、あ、そーですけど……」
私がもごもごしている隙に、その好奇心は隣へと移っていた。さしものネイチャさんも、それにはたじたじになるしかない。
「えぇーっ!? 嘘っ!! 夢みたい!! 私、あなたのことも追ってるのよ実は!! なになになに!? こんな有名人まで連れてきて!! もしかしておめでた!? おめでたなの!? やだっ、お赤飯炊かなくちゃっ!!」
「……先生。一旦落ち着いてください本当に」
これではいつまで経っても話が進まない。元気によろしくやっていることはよくわかったから、もう少しこちらの話をちゃんと聞いてもらってもいいでしょうか……
「あ……やだもー、ごめんなさいね、本当に」
そこまで来てようやく自覚したのか、一転して恥ずかしそうに笑っていた。
「困るわよね~。おばちゃんはいっつもマシンガントークしちゃうから……」
「あはは……そ、そうですね……」
「……本当に」
苦笑いで応じる私に――
先生は、昔を懐かしむ、慈愛に満ちた表情を浮かべた。
「本当に、立派になって……」
「……」
「……それで、ですね」
じんわりと穏やかな空気に、ネイチャさんの声がやんわりと割り込む。雰囲気に浸りたいのはやまやまだけれど。そうも言っていられないのもまた事実で。
「今日は、お聞きしたいことがあって来たんです」
「お聞きしたいこと?」
「はい。実はですね……」
小首を傾げる先生に、ネイチャさんが一通り説明してくれた。アルちゃんのこと。彼女の今の状態。そうなった経緯――
最初こそ不思議そうな顔をしていた先生だけれど、話の全貌を把握するにつれ、その顔は深刻なそれに変わっていた。ざあ、と風に周囲の木々が揺れる。
「そう……そんなことがね」
聞き切って――先生は、いかにも哀しそうに言う。ふと、携帯電話を確認してみるけれど、新しいメッセージは、特に受信していなかった。
「……何も連絡がないので、たぶん、進展はないんだと思います」
私は、先生に一歩を踏み出した。
「あの、本当に、些細なことでいいんです」
彼女に縋るように。いつかのように、教えを乞うように。
「お願いします! 何か、知っていることがあったら、教えてください!」
「……」
先生は、視線を下げる。その顔には、葛藤のようなものが見え隠れする。
何かを教えるべきか、教えないべきか――そういう迷い。
母のような優しさ――
「……、」
数秒経って、先生は唸るように息を吐いた。
「知らない、と言うと嘘になるわ」
「――!」
そして、口にされた答えに、目を見開く。
その勢いに押されるまま、言葉の先を求めようとしたけれど。先生は、でも、と続けていた。
「立ち話も何でしょ」
どうぞ、上がってちょうだい、と。
「その方が、『あの人』も喜ぶわ」
線香の香りがあたりを漂い、上品な『りん』の音が鳴る。
仏壇の前に正座をし、優しげな表情を浮かべている男性の遺影に手を合わせると、色々な思いが込み上げてきた。
「……亡くなられてたんですね」
私のすぐ傍、ちゃぶ台に落ち着いているのであろうネイチャさんの声が聞こえる。
「その、校長先生……」
「えぇ。つい数年前にね」
先生が、それに寂しげに応じた。
「持病でね……突然倒れたの。すぐに救急車を呼んだんだけど……」
「そう……だったんですね」
「――もー、あの人ったらね。だからお酒はほどほどにしなさいって言ったのに」
漂い始めた、薄暗い空気を追い払うかのように、彼女の声は気丈だ。
「あと……あと数年、生きていれば。こんなに立派に育ったあの子を、見られたのに」
「……それは」
「――、言い過ぎですよ、先生」
……それに耐えられなくなって。
私は立ち上がり、二人の元に歩み寄る。
思った通り、ネイチャさんは気まずそうだし、先生は……苦しそうな顔をしていた。
それを取り払うように、私は、出来るだけ明るく言う。
「私はまだ、何にも出来てません。立派には程遠いですよ」
「――もー、謙遜しちゃって。観たんだからね? あの『帝王』と渡り合ったところ。凄かったんだから、こっちの盛り上がりも」
「げ……あれ、全国ネットで流れたんですか」
「そりゃもちろん。あの『帝王』が走るのよ? 流さないわけないじゃない!」
そ、そうだったのか。テレビ局の人が来ているようには見えなかったんだけどな。おかしいなぁ……
「誇っていいのよ、みんな――特にここのみんなは、あなたの頑張りに元気もらってるんだからね!」
「……えと」
「称賛は素直に受け入れるもんだよ」
ネイチャさんは、なんだか悔しそうに見えた。先輩を差し置いて……と言いたげだ。そういえばこんな展開、電車内でも見た気がする……
「……、」
観念するしかない。私はそう感じて、浅く一礼した。
「……ありがとうございます」
「うむ。よろしい」
「ま、そういう謙虚なところも、あなたのいいところだけどね」
そうですか。それは、何よりです……
「……えと、それで」
ともあれ、だ。
こうして落ち着けたのだ。本題に入ろうと、私は口を開くけれど。
「――あ、そうだ!」
瞬間、先生が勢いよく立ち上がる。で、そそくさと姿を消したと思ったら、がたがたと何やらやって、ばたばたと慌ただしく戻ってきた。
その手には……大皿と。
「――あ」
その大皿の上には。
「そ、それは――!!」
満面の笑みでちゃぶ台に置かれたそれを、私は思わず奪いとるように握りしめる。で……誰に見せるでもないのに、高々と掲げた。
「(有)斎藤オーガニックファームの『のびのび☆にんじんスティック』じゃないですか!!」
「そうよ! 懐かしいでしょう!!」
「え……何? のびのび……?」
「のびのび☆にんじんスティックです!!」
しどろもどろなネイチャさんに復唱する。そう――私の地元じゃ知れたもの、知らぬ人なぞいない特産品!!
「品種改良と完全無農薬栽培でのびのび育てられた、それはもう超絶美味なにんじんさんなんですよ!! ほら、この鮮やかな色……あっちじゃまずお目に掛かれないでしょう!? ――あ! 中央の食堂をバカにしてるわけじゃないですけど!」
「う、うーん……ネイチャさんの目には同じに見えるけど……」
そうかな。私の目には、今でも一目で違いがはっきりとわかるのだけれども!
「にんじん一本でそんなに変わるかなぁ……」
「疑うなら試してみてください! 是非とも生で!」
「え、生で……?」
そしてその目は、とうとうこちらを疑うそれに変わった。中央でも、にんじんを『生』で食べる機会なんてそんなにないから……まぁ当然ではあるか。
でも。
でも!!
「大丈夫です! 騙されたと思って!! ね、先生!!」
「えぇ、それはもう。信用していいわよ!」
「……」
それでもなお、彼女は信用し切れないみたいだ。が、申し出を無下にすることも出来なかったのか。やがて恐る恐る、大皿のにんじんスティックを手に取る。
「……い、いただきます……」
で、ゆっくりと、口に運んだ。
硬く、心地いい音が聞こえ、ぽりぽりと、咀嚼したネイチャさんは……
「……」
やがて。
「……!」
手を口に当て、目を見開いていた。
「――え、う、うまっ!!」
「そうでしょう、そうでしょうそうでしょうそうでしょう!!」
テンションが上がって、その言葉に勢いよく同意してしまった。でも仕方ない。それくらい前のめりになるくらい、コイツの美味しさはスゴいんだから!!
「本当にこれ生なの!?」
「何にもナシです! すごいでしょう!! これが斎藤ファームさんの実力です!! どうぞ中央に広めてください!!」
「うぅ……あの中央の有名人に褒めてもらえるなんて……感動するわ……」
ハンカチで目元を拭う先生。私も感動しといて何だけど、その動作はちょっと大げさなような。
「長旅だったでしょうし、どうぞ遠慮なく召し上がってくださいね!」
「う……でも食べ過ぎたらトレーニングに影響しそう……」
「大丈夫です、今日はチートデーですから、色々と!」
「都合のいい言葉さねぇ……」
ただネイチャさんは、その言葉に同意らしかった。一本目を平らげると、早速とばかりに二本目を手に取っていた。
「……さ。それじゃ」
それを見届けながら――
教頭先生は、口を開いていた。
「そろそろ、本題に入りましょうか」
それから、続けられた言葉で――
場は、一気に、神妙な空気に包まれた。
私もネイチャさんも、気を取り直し……彼女の言葉に耳を傾ける。
「でも……一体何から話すべきかしらね」
「何でもいいです。どんな些細なことでも……今は、手掛かりも何一つない状況なので」
「そう。それなら最初から、順を追って話すわね」
先生は、そこで目を閉じる。周囲の僅かな喧騒に耳を澄ますように、しばらく間を置いた彼女は。
「……正直な話ね」
目を開け。
ぽつりぽつりと、話し始めた。……
――正直な話……
――私たちも、あの子がどこから来た何者なのか、よくわかっていないの。
――というのも、あの子の保護者が、自分のことを話したがらなかったから。
――ここって田舎町でしょ。療養とかで引っ越してくる人自体は珍しくなかったわ。でもあんな風に……説明を全部拒否されたのは、初めてだったわ。
――でもそれでも、お子さんを預かる以上、私たちには、最低限度でもそれを知る権利があるわ。
――わかるでしょう? 人間というのは、よくわからないモノを理由なく怖がってしまうものなの。
――だから、根気よく保護者さんを訪問して……話を聞こうとしたわ。その末に、彼はこれだけ話してくれたの。
――あの子に今必要なのは、『敵』のいない環境です、とね。
――それ以上は、話してくれなかったわ。『敵』というのが、一体何を指すのかもわからなかった。踏み込むことは出来たけれど……顰蹙を買って、気まずい関係になるわけにもいかなかった。だから……調べるのは、そこで一旦は終わったわ。
――全てを忘れて……あの子を、一介のウマ娘と見て、誠心誠意、指導したわ……もしかしたら、そんな恐怖を拭い去りたかったからなのかもしれないけれどね。
――そうして、何もわからないまま、何も解明出来ないまま……それでも卒業の日を迎えて、あなたたちが去って……しばらく胸にしこりは残ったけど、それも時が解決してくれるだろう、って、私も『あの人』もそう思っていたの。
――……あの『事件』が、起きるまではね。
――新聞紙にも、全国ニュースにもなったから、よく覚えているわ。
――██県の、強盗殺人致傷。
――いつもなら、痛々しい凄惨な事件か、で終わるのだけれどね。私たちには、それをそれだけで終わらせることが出来なかった。……なぜなら。
――なぜなら、その事件の唯一の犠牲者が、
――他ならない、その、保護者だったからよ。
――私たちはすぐに、その事件の生き残りの方たちに連絡を取って、アルさんがどうなったのか、無事なのか、今どこにいるのか、何をしているのか、聞いて回ったわ。
――負傷者の欄にいなかったからね、無事なのは確かだったんだけれど……なんだかとても、とても、嫌な予感がしたものだから。
――でもムダだった。彼らは知らない、見たことがない、の一点張りで、ろくな情報も無かった。
――声が震えていたから……知らないなんてことはない、というのはすぐにわかったわ。そして……何かに怯えているのもね。
――彼らが何に怯えていたのか、どうして知らない振りをしたのかは、わからない。ただ私たちの力じゃ、それ以上はどうにもならなくて……
――あの子の行方がわからないまま、また数年が経ったわ。
――そして……今日。
――あなたがやってきて……その話をしてくれた、という感じよ。……
一連の話を聞いて。
私は、いや、きっと、私たちは。その話に、違和感を覚えていた。
「さて、アリオンさん。ここで問題です」
それを見抜いたかのように、先生は言う。
「突然こちらに越してきた、アルさん。そしてその唯一の保護者。突如として起きた殺人事件。彼はその事件の唯一の被害者となった。関係者は、知らない、わからない、の一点張り。有り触れた理由で、何とでも説明は付けられるけれど……
果たして『これ』は、本当に偶然でしょうか」
「……」
……ひと言もまともに話すことの出来ないアルちゃん。
そんな彼女に付き添っていた保護者。
突然起きた強盗殺人事件。
その人は――事件の、唯一の犠牲者だった。
事実は小説より奇なり。
偶然、と言われれば、それまでだけれど。
「……出来過ぎだね」
ネイチャさんも同じように感じたようで、例のにんじんスティックを指で揺らしながら呟いていた。
……そう。
出来過ぎている。
偶然にしては、あまりにも、一致し過ぎている、気がする。
「そんな分かりやすい『偶然』が、あってたまるかよって」
「でも……そうだとして、どうしてその保護者さんだけが? 親族からその……ぼこぼこにでもされたんですかね……」
「どーだろ。だったらその親族が一様に襲われてるのも、怯えてるのにも説明がつかない」
他に目撃者はいない。
居合わせた人物もいない。
となれば、あとは、カギを握っているとすれば……
「……アルちゃん」
やっぱり、あの子しかいない。
この不可解な渦の中心には……
彼女がいるような気がして、ならない……
「……あの。もうひとつ、訊いてもいいですか」
ネイチャさんは、先生に恐る恐る言う。
「? はい」
「その……」
きょとんとした顔をする先生に、しかしネイチャさんは口籠る。しばし、『それ』を言おうか言うまいかと逡巡したようで。
「――『暴走』、というのに、覚えは……?」
果たして、口にした問いかけに。
「……暴走……?」
先生は、怪訝そうに返すだけだった。もう、それだけで十分だった。
「というと……?」
「いえ……大丈夫です。心当たりがないようでしたら」
「……??」
「あ、それでその、先生」
こんな物騒な単語の詳細――それを引き出した『手帳』のことなんて、先生は知らない方がいいだろう。だから私は、また別のことを、彼女に訊ねる。
「教えてもらえませんか。せめて……」
その。
保護者さんの、お名前を、と。
「……、そうね」
先生は納得いかなげだったけれど。こちらの『意図』を汲み取ってくれたのか、同意してくれた。
「――、よ」
そして、その情報を口にした。
「――さん、ですか」
「えぇ。調査の役に立てばいいけれど」
「……んん? でもちょっと待って」
そこで、声を上げるのはネイチャさんだ。
彼女は腕を組み、難しそうな顔をすると。
「確か、その名前って……」
何事かを、口にしようとした。
『――あ~♪ ボクはテイオ~♪ テイオ~♪』
……その時だった。
呑気な歌声が、辺りに響きだしたのは。
それが何を示すか――は。私しか知らない。私は慌てて携帯電話を取り出した。
「や、やば……!!」
「ん? アリオン、テイオーの『鼻歌』着信音にしてんの?*1」
「いえあの、いや、そうなんですけど! ごめんなさい、これオフレコでお願いします……!!」
「え~? いいじゃない。可愛らしくて。ママ友たちに広めとくわねっ」
「いやマジでやめてください!!」
「まぁまぁ、とにかく出たげなよ。電話じゃないのそれ?」
「ぜ、絶対オフレコですからね!?」
あぁもう、顔が熱い。なんだよもう。あんだけ神妙な空気だったのに。台無しじゃないか。
テイオーさんめ。帰ったら文句言ってやる……!!
「……え?」
と。
筋違いな怒りを抱いたのも、つかの間。
「トレーナーさんだ」
「トレーナー?」
呟いた言葉に、ネイチャさんが応じる。
私はそれに頷いて――通話開始のボタンをタップした。
「……もしもし」
『バカウマ。今どこにいる』
「え?」
藪から棒だった。
その声色は、いつもと同じ、落ち着き払ったもののように聞こえたけれど。
端々に、私は感じていた。
――焦りを。
彼女に似つかわしくない、焦燥を。
「……その、昔の教頭先生の家にいますけど……」
それに、嫌な予感を覚えながらも。私は、慎重に訊く。
「何か、あったんですか?」
『今すぐ学園に戻れ』
「へ……?」
予想だにしないその指示に、頓狂な声を上げるけれど。
『ダイヤアールヴァクが、』
それにも構わず。
彼女は、言っていた。
『『暴走』してる』