16年度の卒業生(新版)   作:Ray May

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渇望する怪物

『すみませんたづなさん! 見つかりました!!』

 

 携帯電話からようやく届けられたその声に、たづなはため息に近い安堵の息を吐いていた。

 

「……まぁ、見つかったのならよかったです」

『本当にすみません! 『コイツ』を使う機会なんかそうないもので……!!』

「すぐに取り出せる場所に置いておいてくださいね。というか、元からそういう規定になっているはずです」

『わかりました! 気を付けます……!!』

 

 そんな通話を最後に、たづなは電話を切る。それから改めて目の前にするのは、依然として、『彼女』が中にいるトレーナー室だ。

 いつもならただの空き室。次なる利用者を待つばかりの、寂しげなドアは。今や異界へと続く扉にも感じる。

 

「……」

 

 しばし無言で見つめた末に、たづなはそれを開けた。中は、元の姿など見る影もない、無残な状態――などということはなく、相変わらず、殺風景な部屋の中心で、車椅子に縛られたダイヤアールヴァクが鎮座しているばかり。

 特段の変化もない。現実というレイヤーから、静止画としてこの部分だけを切り取って貼り付けたかのようである。

 コミュニケーションを取ろうとすること自体が無意味である――とすら、考えさせるほどに、異様。

 

 それでもたづなは――

 後ろ手で扉を閉めると、ダイヤアールヴァクの元に歩み寄る。

 彼女が何者であろうとも、どうにか心を開いてもらいたい。その一心だった。

 ただ、呼び掛けようとも返事はない。返事が無いのだから、やり取りも出来ない。ならばそれ以外の方法で――と。

 

 しゃがみこみながら取り出したのは、携帯用の『櫛』だった。

 

「……髪は女の子の命ですよ」

 

 そして彼女は、母親のような、優しい声で言う。

 

「整えて差し上げます」

 

 せめて。

 せめて少しでも、距離を縮められたら――と、それは、たづななりの心配りだった。

 下心も敵意もない、純粋な善意。

 

「……」

 

 ――ただ。

 その瞬間。

 

「――!」

 

 それまで、どんな刺激にも。

 どのような呼びかけにも応答しなかった、ダイヤアールヴァクが。

 弾かれたように、顔を上げていた。

 

 伸び放題に伸びた前髪が垂れ、その表情が、初めて露わになる。

 丸みを帯びた、可愛らしい銀の瞳は。

 

 ――なぜか、歪んでいた。

 

 名状しがたきをモノを目の当たりにしたように――

 

 染まっていた。

『恐怖』、一色に。

 

「……え」

「――だめ」

 

 驚愕と疑問で困惑に陥ったたづなは、呆然と声を漏らす。

 そんな彼女に、ダイヤアールヴァクは言った。

 

「だめ……それ……しまって……」

 

 か細い声で。

 消え入りそうな声で。

 

「そういうの……だめ……あのこが……また……」

 

 縋るように。

 

「また――おこっちゃう――……!」

「あ、アールヴァク、さん? え――え……?」

「だめ、だ――」

 

 繰り返す彼女に。

 たづなは、意味を汲み取れず、

 狼狽するしかなかったが。

 

「――め……」

 

 そんな彼女が、落ち着きを取り戻すのを待たず。

 ダイヤアールヴァクは、不穏なほどに不審に続けていたその言葉を。

 

「――っ」

 

 唐突に。

 切っていた。

 

「――!?」

 

 切って。

 がくんと、大きく身体を震わせたかと思うと。

 再び顔を、下げていた。

 

 ゆっくりではない、まるで、何か大きな衝撃を受けたかのように。激しく、一瞬にして。

 

「え……」

 

 たづなは、呆然と声を漏らしながらも、慌ててアールヴァクの両肩を掴んでいた。

 

「アルさん? アルさん!? どうしたのです!? 大丈夫ですか!?」

 

 緩めに揺さぶるも、彼女は反応しない。一体何が――その手は、再び携帯電話を取り出す。

 画面を素早く開き、理事長のそれに繋がる番号を打ち、発信した。

 その拍子、櫛が、音を立てて床に零れ落ちる。

 

「――!」

 

 その時だった。

 項垂れていたアールヴァクが、身じろぎするように震える。

 たづなの目にも、それはしかと映っていた。

 

「アルさん!」

 

 それを見た彼女は、携帯電話を床に置くと、その顔を覗き込みながら呼びかける。

 

「聞こえますか? 大丈夫ですか!? 何が――」

「  」

「な――なんですか?」

 

 アールヴァクは、それに応答する。

 応答するが――たづなには、完全には伝わらない。それの音量が、さきのか細い声とほぼ同等だったからだ。

 ただ。

 

「  しろ」

 

 言葉は繰り返され。

 

「  は  いい  が  ……」

「あ……」

 

 そのたびに。

 声の大きさが、変わっていく。

 

「アールヴァク、さん?」

「おれが」

 

 やがてそれは、はっきりと聞き取れるものになる。

 その頃には、彼女の顔は、先ほどよりも上げられており。

 前髪の間に、再び、瞳を見て取ることが出来た。

 

 その色は。

 

 深淵のような暗さをたたえながらも

 確かに彼女を、捉えていた。

 

 

 

「おれが

 

 まもってやる」

 

 

 

 それが。

 その時に彼女が見た、最後の光景だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――たづな!! しっかりしろたづな!!」

 

 駿川たづなは、激しい身体の揺さぶりとけたたましいほどの声に、意識を引き上げられていた。

 開いた瞼の向こう側。

 そこには、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた、秋川やよいの姿がある。

 

「り……じちょう……?」

「よかった、気が付いたか……!」

「私は……」

「説明は後だ、これを!」

 

 秋川は、説明もほどほどに、たづなに『それ』を握らせる。その見てくれは、チープなモデルガンのように見えたが。れっきとした、自分たちに許された『武器』だった。

 

「クソッ、まさかこんなことが起こるとは……」

「り、理事長? 一体何が……」

「とにかく着いてこい! 走りながら説明する!」

 

 今までに見たことのない彼女の様子に、たづなは何となく事態を察する。彼女の言うとおり――とにかく、その場から退室し、共に走りだす。

 

 ……『居室』のドアは。

 悲惨なまでに、ひしゃげ、破壊されていた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 人通りの少ない側道を、私たちはかけ抜けていく。

 本当なら、ヘルメットとかそういうの着けなくちゃいけないけど。歩道だから、今の私たちは歩行者。

 そう、ちょっと足が速いだけの歩行者! しょっ引かれる可能性を危惧しなくてもいい――本当はダメだけど!

 

 決まりを無視してでも。

 規則を踏みにじってでも。

 私たちには、走らないといけない理由があった。

 

「ッ――!!」

 

 いや――

 出来てしまった、と表現するべきだろうか――

 

『――は!? 暴走!?』

 

 ついさっきあった、電話越しでの、トレーナーさんとのやり取りを思い出す。

 

『そうだ、経緯はわからないが、ダイヤアールヴァクが拘束から抜け出した。今どこにいるかはわからないが、校舎内を徘徊して、出会った生徒を片っ端から襲ってるらしい』

『え、あ……襲う!? こう、暴力的にですか!?』

『それ以外に何があんだバカ』

 

 事態の割に、トレーナーさんの声が落ち着いていたからだろうか、その時、背後に何かが聞こえたのだ。

 はっきりとはわからないけれど――

 確かに、放送のようなものが――

 

『――情報が得られたんならとにかく急げ。金は後で補填する。どんな手を使ってもいい。一刻も早く戻ってこい』

『ちょ、トレーナーさん――』

 

 それでも、もう少し情報が欲しくて。呼びかけようとしたけれど。ぶつり、と通話は切れてしまった――どうやら、それだけあちらの状況は逼迫しているらしかった。

 

『え……ど、どういうこと。暴走? まさか、あの『暴走』って、そういう……!?』

『大変なことになったわね……』

 

 スピーカーだったから、その場にいた全員が通話を聞いていた。一番に反応したのはネイチャさん、そして次に先生だった。

 

『こんなこと、『外』に知られたら大変よ。『過激派』がどんな反応をするか……』

『――っ、先生ごめんなさい、私たち行きます!』

『えぇ、もちろんよ』

 

 先生は二つ返事で承諾し、玄関まで私たちを送ってくれる。

 

『ごめんなさい! 次はもっとゆっくりできる時に……!!』

『アリオンさん』

『! はい!!』

 

 別れの挨拶もほどほどに。走り出そうとしたけれど。呼び止められて、立ち止まる。

 

『……あの子は、きっと今……帰り道が、分からなくなっているわ』

 

 そして、先生は言う。

 

『だから、示してあげてちょうだい。いるべき場所は……いつだって、すぐ傍にあることを』

 

 それが、何を思っての、何を意味する言葉かは、瞬時にはわからなかった。

 それでも、その言葉の温もりを、しっかりと受け止めて。

 

『――はい!』

 

 大きく返事をし。

 ネイチャさんと共に、そこからかけ出したのだ。

 

「――アリオン!!」

 

 かけ抜ける中――ネイチャさんの、稲妻みたいな声が聞こえる。

 

「まだ行ける!?」

「はい!! 全然!!」

「そんじゃ、もう少し先の駅まで『降りる』よ!」

 

 最寄り駅では、次の電車が出るまで一時間ほども待たないといけない。

 そんなに待っていられない――だから私たちは、その分少しでも走って、『稼ぐ』。

 一分でも早く、一秒でも短く。学園へと、戻れるように――

 

「しっかり着いて来て!!」

「はいッ!!」

 

 走る。

 道をかけ抜けていく。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 そう。

 携帯電話への新たな着信にも気づかずに。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 教室内で待機しているセイウンスカイは、サファイアアリオンにLANEで連絡を飛ばしたものの、特に反応が無いことに息を吐いていた。

 学園で大ごとが起きたのだ。自分と関わることを面倒臭がって無視しているわけではないだろう。浅からぬ事情がある――それを汲み取って電話を仕舞う。

 どのみち、学園にいない以上、彼女の安全は保障されている。こちらから確認を取ることもない。きっと担当が事態を伝えてくれているはず。

 ならば自分が今すべきは、その安否を心配し、事態を伝達することではなく――

 今、自分の身を案じることだ。そう結論し、思考を切り替えた。

 

「……」

 

 何事かと思った。

 校内緊急事態宣言なるものが存在していることは、兼ねてより把握していたが。まさか在学中に出くわすことになるとは、夢にも思っていなかった。

 ただ、それによって伝えられたことは、緊急事態が起きたということ。

 それと、指示があるまで教室で待機しているように、というものだけ。

 校外に出ている生徒が、窓から見えることから、これがただ事ではないことは理解出来たものの。

 何が起きたのか、これからどうなるのか。事態は――収拾出来るのか、などは、確定出来そうになかった。

 

「……一体何なんだろうねぇ」

 

 何にせよ、このような息苦しい雰囲気は耐え難い。

 気を紛らわすためにも、スカイは問いかけた。

 

「でっかいバケモノでも出てきたのかな~」

「……さぁ。わかりません」

「……」

 

 その相手――

 目の前の席のサクラチヨノオーは、素っ気なく答える。

 視線は窓の外へと向けられており、合わせようという気持ちすらも感じられない。

 外界との接触の、その一切を拒絶しているかのような――振る舞い。

 

「……、」

 

 見るに見かねて。

 スカイは、一歩踏み込むことにした。

 

「……いつまで拗ねてるつもりなの~?」

「拗ねてません」

「拗ねてるじゃーん。あの模擬レースからずっと、アリオンちゃんのことあからさまに避けてさぁ」

 

 チヨノオーが、ぴくりと反応する。彼女の振る舞いがおかしいことはわかっていたが、その原因については理解し切れていなかった――その反応で、少なくとも、アリオンが関係していることを、スカイは確信する。

 

「何があったの~?」

 

 思い切って。

 スカイは、更に踏み込んだ問いかけをする。

 

「そんな、気まずくなるようなことなかったでしょ~」

「……あなたにはわかりませんよ」

「わかんないでしょ~。言ってくれないんだからさ~」

「あなたのような、」

 

 ただ、それでもチヨノオーは、視線を合わせないまま――

 それ以上は、身体を動かさないまま、

 

「能天気な人には、わからないです」

 

 棘のある声で――答えるのである。

 ぴくり、とスカイの眉が動いた。思ってもみない発言に、さしもの彼女も不快感を覚える。

 それを吐き出しそうになるのを、寸でのところで踏み止まった。

 深呼吸をし――

 冷静さを取り戻し。

 問い直そうと、言葉を選び始めた時。

 

「――皆さん!」

 

 教室内に教師が入室し、待機していた生徒たちに呼びかけていた。

 

「避難を始めます! 廊下に整列してください!」

「……」

 

 それに従い、動き出す生徒たちに従い。

スカイは立ち上がる。

 

「まぁさ」

 

 すぐには動こうとしないチヨノオーを横目で見ながら、その背中に呼びかけた。

 

「気持ちは()()()()()けど……あんまり人のことを、色眼鏡で見ない方がいいよ」

 

 きみの知るあの子は、

 それほど薄情になれるほど、薄情じゃなかったでしょ――と。

 

 会話はそれまでだった。

 そうして、スカイを含む生徒たちは、ぞろぞろと教室から出て、これまでに何度か行った訓練をなぞるように、整列を始める。

 

 どこか気だるげ――さらに言えば危機感のない挙動に、教師は内心焦り始める。

 仕方のないことではあるが、事態はそうのんびりもしていられない。

 どうにか急いでくれ、もう少し焦ってくれ。でも、慌てないでくれ――そわそわと、矛盾する想いが渦巻く中で。

 

「先生ー」

 

 とある生徒が、彼女のことを呼んだ。

 

「なんですか?」

「あの子はいいんですか?」

 

 あの子? ――と、その生徒の指差した先に目をやった彼女は――

 

 

 

 その刹那に。

 絶句していた。

 

 

 

「――……」

 

 手短に実施された教員会議で伝えられた事態。

 伝達された、要注意人物の外見――

 長い芦毛に。

 ボロボロの衣服。

 低めの背丈――

 廊下の突き当りに見えた、その人影は。

 

 その特徴に。

 合致していた。

 

「っていうか、あんな子いましたっけ――」

 

 なおも呑気に言う生徒の言葉を。

 

「――みんな!!」

 

 遮って。

 教師は、生徒たちに振り返り。

 

「逃げ――」

 

 ――て、と。

 言いかけた。その瞬間。

 

「――……」

 

 突き当りにいたはずの『少女』が、

 彼女の元へと、到達し。

 その手を――振りかぶっていた。

 

 教師の目にも、辛うじてその光景を認識できた。

 あ、と口は声を紡ぎかけたが――

 それは、叶わなかった。

 ――なぜなら。

 

 

 

 ――ほぼ同時。

 横から走った衝撃によって、その場に、押し倒されていたからだ。

 

 

 

 振りかぶられた手は空を切り、

 壁に激突する。

 押し倒された教師は、それを見ると同時。

 視界の下側に、それまで見えていなかったものを見ていた。

 それは、彼女のことを押し倒した張本人――

 鮮やかな、明るい鹿毛。

 

「――スズカさん……!?」

 

 サイレンススズカは――

 上半身を起こし、教師の無事を、目で確認する。

 同時、突如として起きた出来事に、廊下に出た生徒たちは沈黙する。

 芦毛の少女――

 ダイヤアールヴァクも、また、直立して、沈黙する。

 しばし訪れた、奇妙な静寂の時間を――

 

「――みんなッ!!」

 

 切り裂いていたのは。

 サイレンススズカだった。

 

「逃げてッ!!」

 

 普段の彼女からは想像もつかないほどの絶叫――

 それに弾かれた生徒たちは。

 

『――!!』

 

 事態を、瞬時に理解せざるを得なかった。

 整列することも忘れ――

 一斉に、反対方向へと逃げ始める。

 

「す、スズカさん……!」

「先生!」

 

 なんとか身体を起こした教師は、スズカの名を呼ぶ。だが彼女は、それを遮って伝えた。

 

「ここは私がやります。あなたも――」

 

 ――が。

 そんな二人の傍を通り抜けるのは――白色の風。

 

「!」

 

 ダイヤアールヴァクは。

 そんな彼女らには目もくれず、逃げ始めた生徒の方へとかけ出していた。

 それを見たスズカは、糞、と毒づきたくなったし、何故、と問いかけたくもなった。だがそんなことをしている余裕など、あるはずもない。

 

 緊急事態に、妙な興奮状態に入った思考は、いつもよりも高速に巡り――

 スズカは、一旦教室に入った。

 そこで目に付いた、誰かの教科書を手に取ると、素早く外へと戻り――

 まだ何とか、生徒の集団に到達していないアールヴァクの背中目がけて、

 

 その教科書を。

 思い切り投擲した。

 

「――!」

 

 ばしん、と教科書は、アールヴァクの背中に衝突し。

 それを受けた彼女は、その場に立ち止まる。

 ゆらり、と半身だけスズカの方へと振り返った様子を見て。

 よし――と内心、ガッツポーズをした彼女は。

 

「……そうよ」

 

 その姿に。

 呼びかけた。

 

「こっちよ、化け物!!」

 

 アールヴァクは、完全に振り返る。

 長く垂れた前髪の間。

 相変わらず、そこに浮かぶ表情は『無』、だったが。

 彼女を捉えていることは、明白だった。

 

「――っ!!」

 

 瞬間。

 スズカは踵を返し、逃走を始める。

 そしてアールヴァクも――その背中を追い始める。

 

 教師は、もはや腰を抜かして。

 そこで、彼女らを見送るしかなかった。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 廊下の突き当りまで走ったスズカは、そのまま階段をかけ下りる。

 その背後を、アールヴァクが追走する。

 凄まじい気迫にかり立てられた結果、降り終える頃には、その動作はもはや飛び降りに近しいものになっていた。

 荒れた息を整えながら、ひと時立ち止まり、耳を欹てる。

 

「……」

 

 そこにアールヴァクの姿はなかったが、物騒に過ぎる物音が反響し、彼女にその存在を伝える。

 スズカは、靴のつま先を床に打ち付け、準備を整えた。

 ふぅ、と深めに息を吐く。

 そうしている間にも、反響は大きくなっていき、動悸も高まっていき――

 ――そして。

 

「――っ!!」

 

 踊り場に、芦毛が見えた瞬間。

 再び、走り出す。

 

 思惑通り、苛烈な物音は、彼女の背後をなおも追った。

 唯一の懸念――人の通りが、その廊下に一切なかったのは幸いだった。

 障害物一つない長大な廊下を、一直線に走り抜けていく。

 

 無論の事だが――

 スズカは、こういう時、どういう行動をとるのが正しいのかを知らない。

 手を付けられなくなったウマ娘に対する特別な行動指針、というのは策定されている、というのは聞いたことがあるくらいで。

 そんなものは教わっていないし――これから教わるのかもわからない。

 ならば今のスズカは、考えなしに逃げ続けているのかというと、そういうわけではなかった。

 

「……!」

 

 やがて彼女は、その場所へと飛び込む。

 時刻がいつであれ、いつもなら、多少なりとも生徒の姿が見られるはずの、在校生たちの憩いの場所。

 ――食堂は。

 人っ子一人見当たらず、物音一つ聞こえない、もぬけの殻だった。

 そしてその光景は、スズカが望んでいたものであり、予想していたものでもあった。

 

「……、……」

 

 携帯電話を取りだした彼女は、LANEを通じて『連絡』をする。

 それを終えて、仕舞ったと同時。

 

 入口に、ゆらりと現れるのは――

 不気味な空気を纏った、一人の少女だ。

 

「……」

 

 ダイヤアールヴァクは、すぐには動き出さない。

 顔を俯かせたまま、まるで先ほどまでの様子が嘘だったかのように、直立している。

 それを見たスズカは、一歩、二歩と後ずさり――

 甲を見せるように、手を真っ直ぐに掲げた。

 

 そして――その上で。

 

 人差し指を、

 前後させていた。

 

「――っ」

 

 刹那だった。

 それに導かれたように――ダイヤアールヴァクが、動き出す。

 

「ッ!!」

 

 それを見たスズカも、弾かれたように動く。

 背後に振った手が、椅子を捉え――

 力任せに、前方に振りかぶった。

 

 結果として――

 ダイヤアールヴァクの振り翳した腕と、椅子とが接触する。

 派手で物騒な音が響き渡り――椅子が、粉々に砕け散った。

 

「っ!!」

 

 それによって、アールヴァクが若干怯む。

 その隙を逃さず、スズカは後退する。

 ここで彼女が狙うのは制圧ではない、単なる時間稼ぎ――

 そのために取る行動は、とにかくアールヴァクから『逃げる』こと。

 

 長テーブルの上をスライドして移動する、その間にアールヴァクは体勢を立て直し、すぐさまそこに腕を叩きつけた。テーブルが音を立てて真っ二つになり、細かな木片が辺りに散らばる。

 それを背にスズカは、今度は円形のテーブルの影に隠れ、アールヴァクはそれを追う。絶え間なく襲い続ける彼女に向け、スズカはテーブルを押し倒し、突き立てることで対応した。

 テーブルは盾のように機能するものの――

 ウマ娘の攻撃を防ぐには、あまりに脆弱。

 

「――!?」

 

 突き立てられた腕が貫通し、スズカの真横を通過した。

 ごくり、と固唾を飲むのも束の間。

 腕をテーブルに突っ込んでしまったことで、一時身動きが取れなくなったアールヴァクを見て、スズカは一歩を下がる。

 そしてそのまま、テーブルを、足裏で蹴っ飛ばした。

 

 衝撃に耐えきれなかったアールヴァクは、背後に倒れ込む。

 もちろんスズカは、その程度のことで気絶してくれる、などと考えていない。

 ただアールヴァクは、テーブルに刺さった腕を抜くのに手間取っているのか、なかなか起き上がらずに藻掻いていた。

 それを見て、スズカは思わずにやりと笑う。

 

「……どうしたの?」

 

 そして、挑発するように、口が言葉を紡いだ。

 

「もう終わり?」

「……」

 

 それに煽られたように――

 アールヴァクは、机を足で蹴り飛ばした。

 粉砕された机を振り払い、彼女はその場に立ち上がる。

 相も変わらず、その表情は、前髪に隠されて見えない。

 

「――ッ!!」

 

 アールヴァクが動く。

 スズカも動く。

 机と机の間を縫うように、スズカは逃げ。

 アールヴァクは雑に追い、机が無残にも破壊されていく。

 

 勢いを弱めるため、スズカは目に付くものを掴んでは投擲する。

 椅子に、過敏に、皿にコップに――

 ただその効果も限定的だ――調度品が破壊されたことで、現場も徐々に逃げづらくなっている。

 

『まだ』か。

『まだ』なのか。彼女は内心で焦り始める。

 あまりに長引くようなら、一旦ここから離れるのもアリか――そんな風に思考し。

 ならば出入り口に近いところへ、と足を向け――

 

 ――かけた。

 

「――きゃっ!?」

 

 が。

 その時、調度品『だった』ものたちが、彼女の足を奪っていた。

 脚をもつらせたスズカは――そのまま、その場に転倒してしまう。

 

「っ……」

 

 幸いにも、大きなケガには至らなかったものの。

 それによって出来た『隙』は、アールヴァクにとっては十分だった。

 

「――!」

 

 瞬時――

 障害を乗り越えた彼女が。

 倒れたスズカの元へと、迫る――

 

 腕を振り上げ。

 その姿に、振り下ろした――

 

「――ゴルシちゃん柔術、」

 

 ――瞬間。

 そこに、別の声が割って入っていた。

 

「鉄ウマ靠ォーッ!!」

 

 絶叫と共に高速で飛び込んできた影が、スズカの目前に迫っていたアールヴァクと、側面から衝突する。

 その衝撃に晒された彼女は、調度品を巻き込みながら壁に激突する。砕けた調度は即席の瓦礫の山と化し、アールヴァクはその中に埋もれてしまった。

 

「ふぅー」

 

 スズカは、床に横たわったまま、介入した影を見上げる。

 艶のある長い芦毛――

 

「ゴールドシップさん……?」

「スズカさん!」

 

 呆然と呟く彼女に語り掛けるのは、薄紫の髪。

 スズカが視線を向けた時には――メジロマックイーンは、彼女に肩を貸そうとしているところだった。

 

「立てますか!?」

「は……はい」

「うわ、すっごい状況じゃんこれ……!」

 

 マックイーンに支えられ、その場に立ち上がるスズカ。そこに更に飛び込んでくる、もうひとつの声――

 ポーチを提げたトウカイテイオーは――肩で息をしながら、全員に目配せした。

 

「平気そうだね、良し!」

「て、テイオーさん……」

「話はあと! マックイーン! スズカをお願い!」

「テイオーさんは?」

「ボクはゴルシのサポートを――」

 

 可能な限り指示を出すテイオーの声を、物騒な破壊音が遮る。

 瓦礫の山の一部が飛び散り――アールヴァクが、そこに立ちあがっていた。

 

『……』

 

 四人分の視線が、彼女に集中する。ゆらゆらと身体を揺らしている彼女は、まるで何事かを待ち望んでいるかのようだ。ゴールドシップは、それを肌で感じ――

 

「――来いよ」

 

 言った。

 

「遊んでやる」

 

 瞬間――

 アールヴァクは、ゴールドシップの方へと飛びかかっていた。

 そうして、苛烈な攻撃と防御の応酬が始まる。

 

「――行って!」

「えぇ!」

 

 テイオーの呼びかけに応じ、スズカを連れて離脱するマックイーン。それを見届けたテイオーは、二人の応酬を、少し距離を取って見守る。

 

 その上で――

 ここからどうする、と自問を始めた。

 

 ゴールドシップの力を信用していないわけではない。だが彼女とて無敵ではない。この壮絶なやり取りを、いつまでも続けられるわけもない。

 この暴走する少女を、確実に抑え込むための、何かしらの策が必要だ。

 

 ――考えろ。

 

 テイオーは自問する。

 

 ――考えろ……

 

 闇の中を手で弄るように、思考を巡らせる。

 

 ――考えろ、考えろ、考えろ――!!

 

 どうする。

 どうする、どうする、どうする。

『あの人』だったら。

『彼女』だったら――

 

 こういう時。

 こういう時、どうする、と――

 

「――テイオー!」

 

 考えた時。

 ゴールドシップは、その思考に割り込んでいた。

 

「あんま深く考えんな――」

 

 見守るしか出来ない彼女に、

 

「アタシを――」

 

 アールヴァクの腕を、肩を、身体を捉え、脚を払いながら――

 

「――信じろッ!」

 

 呼びかけた。

 同時。

 アールヴァクの華奢な体が、床に押さえつけられる。

 

「!」

 

 それを見たテイオーは、ポーチから何かを取り出す。

 蛍光灯の光を眩く反射する金色。

 

「ゴルシ!!」

 

 ゴールドシップに真っ直ぐに投げ渡したそれは――

 手錠だった。

 彼女はそれを受け取ると、器用に回しながら開錠し――

 アールヴァクの両手首に、後ろ手に装着させた。

 

「――ふぅ」

 

 まともに動けなくなり、身悶えるダイヤアールヴァク。

 その姿を見下ろしながら、ゴールドシップは、ひと仕事終えた、とばかりに息を吐いていた。

 

「これで少しは……大人しくなるか?」

 

 アールヴァクは、それに答えず。

 ただ無言で、乱暴に、藻掻き続けていた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

『金手錠』。

 URAが各トレセン学園に支給している、特別製の拘束具だ。

 ウマ娘の超人的な膂力を抑え込むために、重機でも易々破壊出来ない、桁違いの強度を持っている。

 とはいえそれは、どちらかといえば、念のために用意されているだけのものであり、学園に通う生徒や、教師への安全を担保するためのものでもある。

 ウマ娘の気性を鑑みれば、URAも、それを実際に使用するようなことになるとは本気で思っていないし。

 事実、それを支給し始めてから、半世紀近くを数える現在に至るまで、実際に使用されることなど一度たりともなかった。

 

 ――まさか、このような形で。

 自分たちが、歴史の目撃者、かつ実行者になるとは。テイオーも、ゴールドシップも、思っていなかった。

 

「――理事長」

『テイオーか。電話してきたということは……』

 

 テイオーの携帯電話の先、秋川やよいは、その事実だけで、即座に状況を理解していた。

 それに彼女は、はい、と返す。

 

「対象は取り押さえました。今食堂にいます。理事長たちは……」

『私たちは少し離れたところにいる。なにぶん、情報が錯綜していてな……』

 

 耳を澄ませてみると、秋川の声の背後に、不特定多数の、ノイズじみた声が聞こえる。このような逼迫した状況下、情報が錯綜しても、そしてそれに惑わされても、おかしなことではなかった。

 

「……焦らなくとも大丈夫です。そう簡単には抜け出さないはずです」

『うむ……すまない。出来るだけ急いで向かう。無理はするなよ』

 

 やり取りを終え、電話を切るテイオー。その視線は、アールヴァクを抑え込んでいるゴールドシップの視線と交差する。それを伝って届けられた考えに、ゴールドシップは頷きをもって返す。

 アールヴァクは依然として藻掻いている。力尽くで手錠を外したがっているようだが、それが不可能であることをゴールドシップはよく知っている。

 

「……やめとけ。そいつはURAが、『こういう時』のために各トレセンに配備させてる特注品だ。並のウマ娘どころか、重機でも壊せねーよ」

 

 そういうことだった。飽くまで冷静に、諭すように、彼女に言う。

 

「もうすぐ理事長が来る。大人しく……」

「     」

「……あ?」

 

 そんな彼女に――

 アールヴァクは、何事かを言う。

 声量は小さく、何かを言ったことが辛うじてわかる程度のものだった。ゴールドシップはやや乱暴に反応するが、アールヴァクははっきりとは答えない。

うわ言のように、それを呟き続ける。

 

「    だ」

 

 ただ、その声量は。

 

「   だ   が  る   」

 

 徐々に、徐々に。

 

「   めだ   れが   ず  ……」

 

 大きくなっていき――

 

「……もう一度言ってやろうか?」

 

 痺れを切らしたゴールドシップは、再度呼びかけることにした。

 

「大人しく――」

「おれが、」

 

 刹那――

 彼女の声が明瞭に変わり、それを遮っていた。

 

「まもってやる」

 

 誓いのように、息切れしながらも――

 はっきりと、そう口にしていた。

 

 ――その時だった。

 

 

 ごきん、と。

 痛々しい音を、二人の耳は、聞き取った気がした。

 

 

「――!!」

 

 それに、疑問を呈する余裕などなかった。

 なぜなら、その直後。

 アールヴァクの細腕が、自由になったばかりか。

 手刀の形で、ゴールドシップの顔目がけて、飛来しようとしていたからだ。

 

「――ッ!!」

 

 ゴールドシップは辛うじて反応し、手刀を寸でのところで回避する。

 その先端が頬をかすめ、薄い切り傷と共に、微量の鮮血を舞い散らせた。

 取り押さえていたのが、同じウマ娘である彼女であったことは幸いだったろう。

 ただ、その一連の動きのために、アールヴァクは拘束から脱してしまう。

 その事実を理解したゴールドシップは即座に立ち上がり、臨戦態勢を取った。

 

「っ……!」

 

 テイオーもまたそれに反応し、一歩を踏み出し掛けるが――

 それよりも早く、アールヴァクが動いていた。

 

「下がれッ!!」

 

 ゴールドシップが絶叫すると同時に――

 再び、攻撃と防御の応酬が始まる。

 見たところそれは、先ほどよりかは、速度の遅いものだったが――

 

 ――重いなッ……!

 

 攻撃を受け止めるゴールドシップは、歯を食いしばりながら、そのひとつひとつを受け止め、時に受け流す――

 

 終わりだと思っていた。

 さすがに大人しくしてくれるだろう。テイオーはそう考えていた。

 あとは理事長たちの到着を待つだけ――そうとばかり思っていた。

 ……迂闊だった。

 手錠そのものは強固で、信頼のおけるものだった。だがあろうことか、それを壊すのではなく――

 まさか――『無理矢理に手を引き抜く』など、思いもしなかった。

 その証拠に、アールヴァクの片手は、痛々しい赤色に染まっている。

 だが彼女は、それを意に介さない様子で、ゴールドシップと戦闘を繰り返している。

 

「っ……!!」

 

 さすがにそのような状況を見て、突っ立っているわけにもいかない。テイオーはどうにか援護が出来ないかと考えを巡らすも、下手にその激しいやり取りに割って入ることは、かえって彼女の不利を招くことになる。

 それに思い至ると、介入しようにも介入出来ない、もどかしい時間を過ごすことになった。

 どうする、という思考は――

 どうすればいい、という問いかけに変わる。

 ただ、それに応える人物も、相応の答えもすぐには思いつかず――結果、先ほどと同じく、見守るしかなくなる。

 

 今回ばかりは、ゴールドシップも、テイオーに声を掛けてもいられない。

 お互いに、直面する困難に、どうするべきか、どうすればいいのか、繰り返す中で――

 

「!」

 

 アールヴァクの強烈な蹴りが――

 ゴールドシップの脇腹を捉えていた。

 テイオーは目を見開き、一歩を踏み出すも――

 かけ出すまでには至らなかった。なぜなら。

 

 その攻撃は、クリーンヒットには至っていない。

 寸でのところで、ゴールドシップが、受け止めていたからだ。

 

 アールヴァクは、その足を引き戻そうとする。

 だが、今や両腕でがっちりと固定された脚は、そう簡単には戻せない。

 そして――俯かせた顔から、ぎろりと鋭い眼光を放ったゴールドシップは、その両腕に改めて力を籠め――

 

「――いい加減に、」

 

 そのまま、その場で回転すると、

 

「――しろッ!!」

 

 怒号と共に。

 アールヴァクを、遥か前方に向けて、投げ飛ばしていた。

 

 飛ぶ。

 華奢な少女の身体が、緩い放物線を描いて、広大な食堂を飛ぶ。

 それは、まだ無事だった調度品を、轟音を立てながら巻き込み――

 やがては壁に激突し、停止した。

 先ほどと似たように――瓦礫の山と化した調度品の山に、少女が埋もれる。

 

「……」

「……」

 

 テイオーは、ゴールドシップの傍に歩み寄る。

 お互い視線は合わさず、歓びもしない。

 二人の本能は、『まだ困難は続くかもしれない』、とけたたましく警告していた。

 固唾を飲みながら、彼女らは、少女の動向を見守る。

 

 その警告をなぞるように。

 瓦礫の山は、打ちあがった。

 

 弾けた瓦礫の中から、少女は再び立ち上がる。

 見るからにボロボロ、身体中傷だらけ、動くことすら困難そうな見てくれにも関わらず――

 

 彼女は、倒れなかった。

 倒れず、直立し――

 

 長い前髪の間から。

 暗い穴のような双眸が覗く。

 

 ぞくり、と背筋をなぞられるような感覚。

 冷汗が頬を伝うのを感じながら。

 二人は、なおも続く脅威に対し、息を入れ直した――

 

『――』

 

 その時だった。

『何か』を起動したことを示す――甲高く、短い音が響いたのは。

 

『――皆、伏せよッ!!』

「――ッ!!」

 

 続けざま響いた声が、何者によるものなのか、などは確認するまでもなかった。

 二人は素早く反応し、その場に伏せる。

 突然の行動に、アールヴァクは、疑問に立ち尽くすしかない。

 その時間は一瞬だったが――

 それで充分だった。

 

 ばしゅん、という、特徴的な音。

 それが何なのか、を理解するよりも早く――

 それは、アールヴァクの元に到達していた。

 

 駿川たづなが、特注の拳銃から撃ち放った『鎮静弾』は。

 彼女の腹部に、着弾していた。

 

「――……」

 

 同時、アールヴァクを襲う強烈な睡魔。

 さしもの彼女にも、それに抗うことは出来なかった。

 果たして彼女は――間もなく目を閉じ。

 卒倒する。

 

 それまでの暴れっぷりが嘘であったかのように。

 可愛らしいまでの寝息を、立て始めた。

 

『……』

 

 静寂が、辺りを満たす。

 この前代未聞の事態に、なんとか収拾がついたことを悟ったテイオーは、足を向けた。

 幕を引いてくれた、『二人』の元へと。

 

「……お見事です、お二人とも」

「いや……すまない」

 

 間一髪だった。

 理事長たちがこうして間に合ってくれたことで、収拾がついたのだ。

 テイオーはそういう意味で声掛けしていた――しかし、当の秋川の口から紡がれるのは、申し訳なさそうな言葉。

 悔恨に満ち満ちた声だ。

 

「もう少し早く着けていれば、ここまでにはならなかったろうに」

「……」

 

 その感情は、凄惨な状況の食堂に依った。騒動の終結した場を見て、テイオーは苦い顔をする。

 ただ、それらはまだ、取り返しのつくところだ。今回幸いだったのは――耐え難い代償を、支払わずに済んだことだろう。

 

「……生徒の命が第一です。ここで抑え込めて……良かったです」

「……、そうだな」

 

 秋川は納得し切れていないようだったが、それ以上の問答は意味がないと判断したのだろう。

 その視線を、たづなの方へと向ける。

 

「たづな。全体へ連絡だ。緊急事態宣言は解除。生徒たちは直ちに下校させよ。職員は、何人かをこちらに回してくれ。ダイヤアールヴァクを『旧折檻部屋』に収容する。残りは第一会議室へ集めよ。それとURAにもこの事態の連絡を。……今後の対応を話し合うぞ」

「はい。直ちに」

「……」

 

 てきぱきと指示を出す理事長を横目に、ゴールドシップもまた、変わり果てた食堂を見渡す。

 

「ゴルシ……」

 

 テイオーは、そんな彼女の名を呼びながら、どこか遠慮がちに隣へと並んだ。

 

「怪我は……?」

「ん? あー、問題ねーよ。かすり傷だ。……それより」

 

 ゴールドシップは、頬をほんのりと染めていた紅を手の甲で拭うと、ため息を吐く。

 そう、それよりも、だった。

 

「こりゃ色々と……大ごとだぞ」

「……」

 

 それに、テイオーは答えない。いや、答えられなかった。答えられずに、彼女と同じように、凄惨な現場を、見つめるしかなかった。

 

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