旧折檻部屋。
問題のある生徒を『教育』するために造られた、地下の一室だ。
無骨なコンクリート造りで、扉もエアロックに似た厳重なもの。上側に取り付けられた小窓からしか、外とコミュニケーションを取ることは出来ない。それとは別の扉の向こう側には、お手洗いも完備されている。
部屋というより独房という表現の方が近しく――人道的理由から、間もなく使用禁止となった。
今やその再利用方法にも苦慮し、かといって位置関係から解体する訳にもいかず、長らくどうするべきかと学園内でたびたび議題に上がっていたのだが。
まさか、それが『正式に』使われる日が来るなど。
学園関係者の、誰もが予期していなかった。
部屋の中は急ピッチで清掃と整理が行われ、最低限の調度品は用意されている。
ベッド、テレビ、机、そして座椅子。 学園側のせめてもの配慮か、それらは一般的なものと比べると高価そうに見えたが――
場所が場所なためか、その色合いは、どことなくくすんで見えてしまった。
ダイヤアールヴァクは、その隅で蹲っている。
目に見えない何かに怯えているように、膝を抱えて、震えてばかりいる。
周囲に大きな音はない。アールヴァクの息遣いが、定期的に、妙に大きく周囲に伝わる中――
「――!」
彼女が顔を上げたのは、遠くに足音を捉えたからだ。
扉の方へ目を向け、硬直する。
気のせいかと思われたが、その音は確かに響いており、徐々に部屋へと近づいてくる。
高く備え付けられた小窓。
そこから見える壁に、影が映り込んだのが見えた。
「……あ」
その人物は、小窓から顔を出すや否や、意外そうに声を漏らす。
ダイヤアールヴァクと、ばっちり目が合っていた。
「……、」
ただ、大きくは動揺せず、ただ安心させるために、出来るだけ柔らかく微笑む。
明るい鹿毛と、白いカチューシャ。
サイレンススズカだった。
「近所のファミレスに10時」
お昼が近付く街中。
隣を歩くトレーナーさんが、そう口にしていた。
「『仕事服』を着ているからすぐわかると思います――だと。変な奴じゃなきゃいいけどな」
「ですね……」
彼女の言葉に同意する。ただ、その中身は思っていたよりも空っぽだった。彼女は気にしていなさそうだったけれど。自分が、自分で思っている以上に上の空なことに、少しびっくりしてしまった。
アルちゃんが暴走した事件から少し――
弛まぬ情報収集の努力の末、私たちは、事態を打開するための手掛かりを見つけ出していた。
曰く、かつてアルちゃんの世話係をしていた――『誰か』。トレーナーさんが事前に把握した情報はそれだけ。
込み入った話になるからだろう、それ以上のことは特に詮索しなかったそうだ。
「これで……アルちゃんを『元に戻す』方法がわかればいいんですけど」
「わかったとしても、簡単な話じゃないだろうな」
願望を口にすると、トレーナーさんは、ココアシガレットを取り出していた。なんだか、久々に見たような気がする。
「精神障害っていうのは……まぁ、基本厄介なものなんだ。何かのきっかけでぱっと治っちまうこともあれば、何年も患者に付き添わないといけないこともある。……治療でかえって心を病んで、命を絶つなんてケースもある。あいつの身の上に何があって、治療のための有効な手段を掴めたとしても……
……結局はリスクと隣り合わせだ。ルビーフェアやスレイエメラルドの時とはわけが違う」
……そう思う。フェアちゃんの時も、スレイちゃんの時も、最終的には、『共に走る』ことでいい結果を得られていた。アルちゃんの場合は……まずそれすらも叶わない。
というか……解決の糸口が、そもそもその方向を向いていない。
「……そのことも、ちゃんと忘れないでおけよ。あたしたちが向き合ってるのは……そういう領域だ」
「……」
……わかってる。
わかってますとも、そんなことは。
難しい話になる。困難な道のりになる。でも、それがあの子を助けることになるのなら……
やってやる。
私は、なんだって――
『――道行く市民の皆様!!』
「!?」
と。
決意を新たにした時。その決心を冷やかすみたいに、大音量の声が聞こえてきていた。
思わず、弾かれたようにそちらを振り向く。街宣車みたいなワゴン車の傍、のぼりを手にした、数人の男女がそこに立っている。
その、のぼりの内容を見て……
「……」
――私は、息を飲んでいた。
『皆様! このままでいいのでしょうか! この『興業』は、危険性を孕んだ非人道的なものであり、到底許容していいものではありません!!』
メガホンを通した大声は、恥ずかしげもなく響き渡る。
『皆様、目を覚ましてください!! 我々は今こそ、古き良き人道の心を取り戻すべき時です!!』
通行人が、いかにも迷惑そうに眉を顰めるのにも、構わずに――
その人は――言っていた。
『競レース反対!!』
『日本競レース、反対!!』
「……なんですかあれ」
「あー……もしかして、見るの初めてか?」
私の言葉は、無意識に黒く歪んでいた。トレーナーさんは無表情だけれど。そこには、諦めに近い呆れが感じられた。
「胡散臭い人権団体の……その『過激派』だよ。昔からあぁして、街頭演説を繰り返してたんだけどな。最近また活動が活発になってきた」
「……全然知りませんでした」
「競レースの熱の高まりに圧されて、鳴りを潜めてたからな。けど再燃したんだろう……」
『例の騒動』は。
不明な筋を通して、方々に知れ渡ったからな。
「まぁでも、あぁして騒ぎ立てることしか出来ない哀れな連中だ。気にするこたない」
「ですかね……」
トレーナーさんは気にしていなさそうだったけれど、私はどうしても……気にしてしまった。歩きながらも、視線は彼らの方に向けてしまって……
「……あ」
そのうちの一人と、目が合っていた。
それは数瞬だったと思うけれど、私には、とても長い時間のように感じられた。
慌てて視線を逸らし……いつの間にか、数歩先を先行していたトレーナーさんを追いかける。
程なくして、その待ち合わせ場所に辿り着いた。
トレーナーさんが、『予約』している旨を伝える。通してもらい、私たちは店内を見回しながら歩いた。
『仕事服』。
『見ればわかる』。
本当にわかるのかと、半信半疑だったけれど……
「……!」
――なるほど確かに。
遠目からでも、『その服装』は良く目立っていた。
何より――その人は。
『彼女』は。
私たちの姿を認めるなり、その場に立ち上がっていた。
「……あんたが」
その席に着くなり、トレーナーさんが言う。
「ダイヤアールヴァクの――『世話係』だな」
……にも関わらず、彼女は何も言わない。
何も言わず、申し訳なさそうに、俯くだけだった。
薄縁の丸眼鏡に、三つ編みと、そばかす。黒色のロングスカートと、白いエプロンが映える。
……メイドさん、だった。
「……そう。やっぱり、何も覚えていないのね」
サイレンススズカは、折檻部屋の扉に背を預けた状態で体育座りをし、『彼女』の話に耳を傾けていた。
彼女の視線の先は壁だ。無論、ダイヤアールヴァクの様子は見て取れなかったが――相変わらず部屋の隅で、怯えながら受け答えしているのは、想像に難くなかった。
「…… ごめんなさい」
消え入りそうな声で、アールヴァクは言う。
「わたしが …… 『あるすくん』を …… おさえられなかったから ……」
懇願するように、あるいは、懺悔するように、言う。
「あるすくんが …… あばれちゃったから …… みんな きずつけちゃった ……」
「……大丈夫よ。大事に至った子はいないから」
アールヴァクが暴走した事実は消せない。
それで生徒を傷つけたことも、校舎に損害を齎したことも。
ただ、それらはいずれも、深刻な被害というほどではなかった。
その上――それが、制御できるものでなかったのなら。無暗に責めるものもここにはいない。……事実。
被害者の生徒たちも、訴訟するまでは考えていないようであった。
「そんなに怯えなくていいわ。誰もあなたを、責めてないもの」
「……」
それでも、アールヴァクは納得出来ないらしかった。
スズカの声に、布擦りのような音で応じる。
それは、彼女が、更に強く膝を抱えたことにより生じた音だった。
「……、」
スズカの言葉に嘘はない。
少なくとも、自分は、彼女を恐れてはいない。
怖い想いはしたものの、それだけで拒絶するほど、狭量なつもりもない。
もっと構わずに、関わってくれればいいのに――そうはいかない現実に、もどかしく、そして、寂しい気持ちになる。
「…… すずかは」
そんな気持ちを汲み取ってか――
アールヴァクは、言った。
「こわく ないの?」
「うん?」
「わたし すずかを おそってた ……」
その事実は意外だった。てっきり彼女は、全ての記憶がないとばかり思っていたからだ。
「にげるすずかを わたし ずっと おいかけてた もしかしたら きずつけたかもしれないのに こわく ないの …… ?」
「そこはちゃんと覚えてるのね」
「…… おれんじのかみが めのまえで ゆれてたのは おぼえてる ……」
それが、小窓から見えた髪の色と合致したのだろう、とスズカは納得した。『あの子』と同じことを聞くのだな、とも。
だから、返す言葉は同じだった。
「……まぁ、怖かったわよ」
「…… じゃあ」
「でも……」
しかし、とスズカは言った。
「それと同じくらい……楽しかったかな」
「え ……?」
「あぁして『逃げ』に徹するのも……悪くないかも、なんて思ったりしてね」
アールヴァクがどう思っているか、はこの際関係が無かった。
その思いにも、嘘はなかった――何者かから逃走する走り、誰よりも先頭を突っ切る気持ち良さは――
何者にも代えがたい快感だ、とすら、彼女は考えていた。
「……イレギュラーな逃走劇であれだったんだもの。正式な場所だったら、どうなっていたか……考えるだけでぞくぞくするわ」
「…… よく わかんない」
「そう。まぁ……『ちゃんと』走ってみればわかるわ」
どちらにせよ、状況を変えるような言葉ではない。
潮時か、と感じたスズカは、その場に立ち上がる。
小窓から中を覗き込むと――想像通り、アールヴァクは、部屋の隅に縮こまっていた。
それに、スズカは出来るだけ柔らかく微笑む。
「……ね。こっちに来て」
「―― え」
「怖くないから」
それはスズカの思いつきだった。それが、精神医学的に、歓迎されるべきことであるかもわからない。ただ――曲がりなりにも、共に走った者同士。同じ時間を、共有した者同士。
――正式に走ることが、叶わないのなら。
せめて、触れたい。触れてあげたい。そう思ったのだ。
「ね」
「……」
アールヴァクは、しばしスズカの顔を見つめ、逡巡した素振りを見せていたものの、結局はそこから動かなかった。
先ほどまでと同じように、両耳を塞ぎ、そこで蹲る。
やはり思うようにはいかないか――と、自虐的な笑みを浮かべたスズカは、そのまま部屋の扉に背を向け、立ち去ろうとした。
「――」
が。
立ち止まったのは、背後から、物音がしたためである。
何かを動かすような、騒々しい物音。
振り返ると。
小窓から、アールヴァクが、顔を覗かせていた。
「……、」
きっと、机か何かを踏み台にしているのだろう。危ないな、と思いつつ、スズカは再び近付く。
小窓を隔て、目と鼻の先の距離で見つめる彼女の瞳は……
淀みながらも、透き通って見えた。
「……」
スズカは、小窓に手を差し入れる。
びくり、と反応したアールヴァクは、一瞬は後ずさろうとする。
ただ、彼女の手指が、明確に害す気が無いと気が付いたのだろう。
自身もまた――小さな手を挙げていた。
恐る恐る。
スズカの手に、自身の手を近づける。
先端に触れかけたところで、一度は止まる。
やっぱり止めておこうか、とばかりに躊躇を見せるも。
なおも根気強く動かないスズカの手を見てか。
慎重に、手を重ねていた。
触れる。
スズカの手に、少女の、小さな手の感触が伝わる。
「……ほら」
スズカはそのまま、アールヴァクの手を捉えると、指を絡めて、きゅっと握った。
「怖くない」
「……」
「――スズカさーん」
揺れるアールヴァクの瞳を見つめる中で、別のウマ娘の声が聞こえてくる。
それは、スズカがもしものために、と付き添ってもらった同級生だった。事前にお願いしたのは――『10分以上戻らなかったら、様子を見に来て』。
どうやら、もうそれだけ経ってしまったようである。
「大丈夫そうー?」
「えぇ、大丈夫。……ごめんね。時間みたい」
「――ぁ」
慌てて手を離すスズカに、アールヴァクは咄嗟に声を漏らしていた。そしてそれを、スズカもしかと捉えていた。くすり、と彼女は悪戯っぽく笑う。
「一緒に走ったからわかるわ。あなたが本当は、思い切り走りたいって思ってるってこと」
そして、語り掛けるように、言った。
「簡単な話じゃないと思う……でもきっと、一緒に走ることは、とっても楽しいと思うわ」
改めて、部屋に背を向けながら。
「……待ってるからね」
言葉を結んで。
彼女は、その場を後にした。
アールヴァクは、その後も。しばらくの間、小窓から、外の様子を窺い続けていた。
からん、とグラスの中の氷が音を立てる。
「……そうですか。そんなことが……」
メイドさんは――私たちの一連の話を聞いて、どこか安心したような声色でそう言っていた。
「では……アルさんは、ご無事ということですね?」
「あぁ。収容されてる部屋が部屋だけどな。滅多なことにはしてないはずだ」
「そうですか。良かった……」
……彼女も彼女で、アルちゃんを心配してくれていたのだろう。その気遣いには同意できたけれど……何だろう。
その言葉には……もやっとしてしまった。
「……申し訳ありません、」
彼女は、本当に申し訳なさそうに言う。
「私が……私たちが、もっとしっかりと面倒を見てあげられれば……」
「……今日会いたいって言ったのは、正にそこが理由でな」
トレーナーさんは、そんな彼女に、容赦なく続けた。
「今、アールヴァクは落ち着いてるけど、またいつ似たことを起こすかわからん。一刻も早く手を打たないといけない……そのために、あんたが知っていることを全部話してほしい」
「全部……ですか」
「生憎と、どんな些細な情報でも欲しい状況でね」
全部トレーナーさんに任せっきりだけれど、その通りだ。あの子のために、学園のために、今はつべこべ言っていられない。
知っていること。わかっていること。全部……話してほしいのだ。
「もちろん、どうしても話せないなら無理強いはしない。ダイヤアールヴァクがその分苦しむだろうけどな。あんたの信念には代えられないだろう」
「……」
「……あの子の未来のために、協力してくれないか?」
交渉の上手いトレーナーさん、私の付け入る隙も、心配する必要もなさそうだった。対するメイドさんは、すぐには口を開かない。俯いて、何かを逡巡しているみたいだった。
周囲の物音が遠のき、私たちのいる席のみが、世界から切り離されたかのような錯覚に陥る。
「……わかりました」
果たして。
彼女は、答えていた。
「お話します」
「……!」
自然、目を見開き、膝の上に握っていた手に力がこもる。トレーナーさんは、それに助かるよ、と答えていた。
「しかし、何からお話しすればいいでしょう。アルさんを助けるためには……」
「……とりあえず、あの子とあんたの関係性からかな」
トレーナーさんは続ける。
「世話係、って話だったろ。どういう経緯で、あの子と知り合ったんだ?」
「……私の家は、代々名家に仕えるお給仕の家系で……当時お仕えしていた家も、元は有り触れた一家でしかありませんでした」
するとメイドさんも、ぽつぽつと話し始めた。
「ウマ娘との関係もそこまで深いものではなく……実際、話が上がったのは、ほんの数度だったと記憶しています。しかしある日に……突然、一家がざわつき始めたのです。『忌み子』が来るとか、『死神』を引き取ったとかなんとかで……」
……トレーナーさんの例の推測は、それこそそこまで深いものじゃなかった。アルちゃんは、一家から理不尽な扱いを受けた結果、何かのきっかけで別人格が形成されて、『暴走』してしまい、家を盥回しにされたんだろう、という。
それは遠からず近からず、と言ったところみたいだった。ただ――その内実は、思ってた以上に陰湿なものだった。
「私は当時……というか今もですが……下っ端も下っ端でしたので、あまり詳しいお話は聞かされませんでした。ただ……今度来る『女の子』の世話役をしてくれ、と、メイド長のお姉さまに言いつけられたのです。それが……」
「……ダイヤアールヴァクだった」
トレーナーさんの言葉に、メイドさんは頷いた。
「お姉さまからは色々と言いつけられました。その子がウマ娘で……『普通』ではないということ。『接触』は最低限にして、会話もなるべく避けるようにと。お陰様で、お世話には終始しどろもどろになってしまいました。無用に不安にさせてしまって、アルさんには申し訳なく思っています」
ただ。
「ただ……私の目には、あの子は、そこまでの脅威には映りませんでした。どこからどう見ても、有り触れた『普通の』女の子で……タイミングがあった時に、それとなく話しかけてみたんです。えぇと……調子はどうですか、みたいに……」
彼女もまた、最初はしどろもどろだった。
「きっと警戒なさっていたのでしょう。不審者のようにも見えていたのかもしれません。それでも私は、あのような……『牢獄』みたいな部屋で、一人で過ごしているあの子が哀れで、何とかしてあげたくて……根気よく、話しかけ続けてみました。そうしたら……少しずつあの子も、心を開いてくれて、
過去のことを、
話してくれたんです」
「――……」
ごくり、と固唾を飲む。過去のこと。アルちゃんの身の上。
かつて――何があったのか。
「……それは、思い出すのも、辛くなるようなことばかりでした」
そうして――メイドさんは、話してくれた。
アルちゃんが、気が付けば、ある一家の一員になっていたこと。
厳しいトレーニングを受けていたこと。
トレーナーだけが味方で、彼の提案で、その家から逃げ出したこと。
……そして、やがては戻って。
あの事件を、引き起こしたこと……
聞いているだけでも、息が詰まる思いだった。耳を塞ぎたくなってしまうほどに、壮絶な体験談だった。
「……アルさんとしては、藁にも縋る気持ちだったのかもしれません。今の状況を、状態を。どうにか出来ないのかと。でも私は……それに……口を噤むしか出来なくて……」
結局、何も出来ないまま。
彼女は、再び『引っ越し』てしまった。
「……その行き先が、かのトレセン学園だと知った時には、少し安心しましたが……」
これが、私の、あの子に関して知っている全てです。
メイドさんは、そう言って、話を締め括っていた。
「……」
……私とトレーナーさんは、黙りこくるしか出来ない。
特に私は……最初に抱いたもやもやが、胸の中でぐるぐると肥大化していくのを感じて、口を開くのを、躊躇わずにはいられなかった。
ひとたび開いてしまえば。
それが、激情となって吐き出されるような気がしてしまって。
「……そのあんたの観点からして」
トレーナーさんは、冷静に言葉を紡ぐ。
「アールヴァクを『元に戻す』には、どうするのがいいと思う?」
「……アルさんは、『恐怖』に支配されているように見えます」
問いかけに、メイドさんは遠慮がちに答える。
「何らかの方法で……その恐怖を、取り除いてあげることが出来れば……」
「言うは簡単だな」
「……申し訳ありません。私が、もっとお役に立てれば……」
その。
あまりに、消極的な態度に――
「――そうやって」
――私は。
もう。
「そうやって、言い訳ばっか言って、何もしなかったんですか」
――我慢が。
出来なかった。
「……え」
「さっきから、申し訳ないとか、役に立てればとか、そんなのばっかじゃないですか。哀れに思うなら、何とかしようって思うなら、もっと他に出来ることがあったんじゃないんですか?」
「おい、バカウマ」
トレーナーさんが何かを言った気がするけれど、もはや、それもはっきりとは聞き取れなかった。胸の内を巡っていたもやもやが、明確な形を伴って流れ出てくる。
「どうして、助けてあげようって思わなかったんですか。どうして、もっと力になってあげようって思わなかったんですか。あなたは、あなたは結局、触りのいいことばっか言ってるだけの、偽善者じゃないですか」
「……」
「――っ、なんで、」
メイドさんは、俯いて。
何一つ反論しないものだから。
それに、更に、怒りは、かり立てられてしまって――
「――なんでッ!! 助けてくれなかったんですかッ!!」
――絶叫になっていた。
立ち上がりながら放った言葉が、店内に響き渡る。
周囲のざわめきが静まり返り。
注目が、こちらに集まったのを感じた。
「……」
頭の中を満たしていた怒りが、急速に冷めていくのを感じる。
冷静になった頭が、冷徹なまでに現実を教えてくれた。
わかっている。
この人を責めたって、何にもならないことなんて、わかっている。
きっとこの人にだって葛藤があって、立場もあって、私が思うほど、事態は単純じゃないってことも。
全部。
全部。
ちゃんと。
わかってる……
「おい」
トレーナーさんの、色のない言葉が投げかけられる。
私は、それを受けて、席に座り直していた。
ざわめきが、少しずつ戻り始める中。
メイドさんは、それでも、顔を俯かせ続けて……
「……ごめんなさい」
言うのである。
「あなたの言うことも、尤もです。ですが……」
なおも――
「もう、私には、何も、出来ないのです」
そんなことを。
言うのである。
「もう、何かをするには……何もかも、手遅れなのです」
「そんなの、まだ決まって――」
それに、鎮まりかけた怒りが再燃する。
噛み付くように、私は彼女に言うけれど。
「――」
止まっていた。
メイドさんの目は。
悲しげに――淀んでいた。
「……もう
「――……」
「……」
言葉を失った。
もちろん、彼女が直接手を掛けた……というわけじゃないだろう。
ただ、富と名声のために、タブーにまで手を出した一家だ。
その末路が、凄惨なものであったとしても――おかしくは、ない。
「えぇ、調べましたとも。アルさんのことを、もっと深く知るために。トレーニングをつけた一家のこと、出来る限り……」
彼女は言う。
でもムダだったと。
全て――徒労に終わったと。
「誰とも連絡が付きませんでした。どこからも、手掛かりを得られませんでした。一家の敷地でさえ……既に、更地となっていました。残されたのは、アルさんだけ。ただ、身勝手で、理不尽な欲望に振り回された、あの子だけ」
私は一介のメイドで。
強い権力を持っているわけじゃない。
物語の主人公になんてなれない。
そんな自分に。
「……一体何が、出来たっていうんですか」
話を聞いてあげること以上に。
彼女の傍にいてあげる、以外に。
「何を、してあげられたと、いうんですか……」
「……」
「……」
……グラスには、もはや氷はない。
それはそのまま、時間の経過を表していた。
トレーナーさんが、隣で息を吐く音。
「……よくわかったよ」
彼女は、伝票を手に取ると、席から立ち上がった。
「話はここまでにしよう。忙しいところ、対応してもらって悪かったな」
「……いえ。こちらこそ……お力になれず、申し訳ありません」
「バカウマ」
促されて、私も席を立つ。メイドさんは、立ち上がらない。相変わらず俯いて――何かを、思い悩んでいるみたいだ。
「……」
それを見たトレーナーさんは……
「『そして、世に不思議な出来事は尽きないというのがこの語り部の謙虚な意見である』」
「……?」
何事かを口にし始めた。
「『そして今も、そして今も。そして、書物は語る』
『我々が過去を捨て去ろうとも、過去は我々を追ってくる』」*1
……何かの戒めか、それとも警告か。
言い終えて、メイドさんが反応するよりも早く、彼女は歩き出す。
私は、その後を慌てて追いかけた。
会計を済ませて――
店の外に出る。
「……結局、事実の裏付けが取れただけか」
開口一番に怒られる、かと思ったけれど。
それは違っていた。彼女は、残念そうに息を吐いていた。
「まぁ精神的な問題だ。解決策が簡単に見つかるとは思ってなかったけどな」
「……」
「……大丈夫か?」
……頷くけれど、表面的なものでしかない。全然――全然、大丈夫なんかじゃ、なかった。
「こういう話を聞くたび、人間ってのは哀れだなって思うよ」
トレーナーさんは言う。
「それに理不尽に振り回された……ダイヤアールヴァクは、単なる被害者だ。あの子には、何の非もない」
「でも……そんなの、何の解決にもなりませんよ。あの子を助けるためにここまで頑張ってきたのに、これじゃあ……これじゃあもう……」
手詰まりだ。
いよいよもって、専門機関に任せるくらいしかなくなる。
けれど、こんな前例あるんだろうか。一歩間違えれば、取り返しのつかないことが起きかねない。
最悪だけれど。
最善の手で。
解決しよう、って考えるのが、『普通』なんじゃないか。
「……どうすれば、いいんですか」
「……」
さしものトレーナーさんも、黙るしかないみたいだった。見えたはずの光明が、捉えたはずの蜘蛛の糸が、手のうちからずり落ちていく感覚がする。
今までは、暴力的でも、我武者羅に突き進んでいれば何とかなったところがあった――でも今回は次元が違う。
何も出来ない。どうにか出来る、糸口すら見えない。
もう、我武者羅に走るだけじゃ。
どうにも、ならない……
「……」
「……」
……会話が無くなる。
私たちは、ただ歩くしか出来なくなる。
重苦しい沈黙の中、トレーナーさんが携帯電話を取り出して、操作をし始めた。
空は夕暮れに近い。
こんなにも綺麗な空を見つめていると、それにすらも苛立ってきてしまう。
嘲笑われているような気がしてしまって。見下されているような感覚がして。
頭上に上げた視線を、前へと戻した。
「――っ?」
その時。
携帯電話が鳴動する。
それ自体は不思議なことじゃない。ありふれた日常の動作なわけだけれど……
「……??」
……私の頭に。
即座にハテナマークが浮かぶ。
だって、その連絡は。LANEへの送り主は――
今、隣を歩いているはずの。
トレーナーさんだったからだ。
「……」
……なんだろ。
なんでわざわざLANEで連絡するんだろうか。この空気を軽くするための冗談なのかな。
それとも、単に送り先を間違えただけか。
ともあれ、トークルームを開くと、そこには淡白なメッセージ。
『出来るだけノーリアクションで読め』
もしかして大喜利でもするのか。
そんな風に冗談めかしながら、文を読んだ。……
『つけられてる』
「…………」
……背後に意識を向けてみる。
もちろん私には、背後を見抜く第三の目なんてないけど。
それでもわかるくらいに、背中に気配を感じた――視線を。
何者かが。
私たちを尾行している、感覚を。
嘘。
嘘、嘘、嘘。
尾行? そんなことある? ひ弱そうな二人組とか見られたわけ? ストーカーとか? それとも他の何か――
急速にめぐる思考の中で、ファミレスに向かうまでの出来事が思い出された。
胡散臭い人権団体の、過激な演説。
……もしかして。
あの時の……?
「……」
トレーナーさんが、路地裏へと足を進めた。
私も、慌ててそれに着いて行く。
足音は、明らかに私たちだけじゃなく。
少なくとも、4、5人分くらいはあるように感じる。
『この後、『合図』を送る』
トレーナーさんは、『言う』。
『そしたら、お前は学園に向かって走れ 連中はあたしが引き付ける』
「……!」
……思わず息を飲んだ。
振り向きそうになるのを抑えながら。
LANEに、そんなのダメだ、と打ち始めて、
『安心しろ』
それを見抜いたみたいに――
彼女は続けた。
『あたしは不死身だ』
「……」
有無を言わせぬ『物言い』。
どのみち、こんな事態を打開するための、いい案はない。
それ以上の反論は意味をなさなかった――私は。
大人しく、携帯電話を仕舞って。
出来るだけいつものように、前を歩き続ける。
「……」
「……」
トレーナーさんは、携帯電話を仕舞ったけれど。
その手は、パーカーのポケットに突っ込んだままだ。
「……」
「……」
目の前に十字路が迫る。
規則的な足音に、背後の足音も、不気味なほど着いてくる。
「……」
「……」
こんな時間がいつまで続くのか。
張りつめた空気に、根気よく耐え続けて。
「……」
「……」
やがて。
十字路に差し掛かった――
その時だった。
『♪♪♪♪♪♪♪』
――アラーム音が鳴り響く。
それがどこからのものなのか、など問いかける必要はない。
私は――弾かれたように。
学園に向かって、走り始めた。
いい子だ、と担当は、サファイアアリオンが走り出したのを見て思っていた。
あの分からず屋のことだ、言うことを聞かない可能性もある、と考えていたものの、結果は自分の想定通り。
学園での日々で、少しは丸くなったのかもしれないな――と、場違いにも感じていた。
アリオンとは反対の方向へと逃げ始めた彼女を、別の複数の足音が追ってくる。
鬼気迫る勢いだったものの、それもまた、彼女にとっては想定内だった。
普通の人間が、ウマ娘の走りに追いつくことなど出来ない。
追うとしたら、同じ普通の人間だ。
況してや多勢に無勢――追手の取った行動は、実に合理的だった。
しかしその目的は何なのか。
なぜこのような蛮行に及ぶのか。
単なる娯楽か、嫌がらせか。口に出すのも憚れるような目的のためか。
何にしても、彼女もまた、簡単に捕まるつもりはない。
走れ、走れ、とにかく走れ。
頭が命令するままに、一心不乱に路地をかけ抜けていく。
前へと向けた視線の先、幾つ目かの十字路に――
「――!」
人影が通り過ぎた。
もちろんそれも、普通は気にすべきことでもない。
ただ、その時ばかりは、何かの予感がした。
言葉にし難い、嫌な予感。
それを満足に処理する前に――
彼女は。
その十字路を通り抜けた。
「――ッ!?」
その時。
足が、何かに引っかかるような感覚。
バランスを崩した身体は、そう簡単には立て直せず。
彼女は、あえなく転倒してしまった。
「っ……」
身体に走る、鈍さと鋭さの入り混じる痛み。
何が起きたのか、瞬時にはわからなかったものの、もう一瞬で理解していた。
足に感じたあの感覚――
紐のようなものに。
足を引っ掛けてしまったのだ。
それがどうして起きたのか、など。
問うまでもない――
「……、」
まだ路地は抜けていない。
倒れ伏している場合ではない、と、焦燥にかられ、立ち上がろうとする彼女だったが。
その――驚愕に逡巡したのがいけなかった。
「――!」
足音は留まり。
複数の人影が視界に入る。
転倒した担当の元に辿り着いた彼ら――男たちは。
彼女を包囲すると、何かを振り上げていた。
その手には。
長い、棒状のものが握られている。
「ッ!!」
担当は目を見開きながら、頭を両手で覆う。
身体中に、容赦ない衝撃と痛みが走り始めたのは、それと同時だった。
「――んじゃ、お先っすー」
「おぉ、お疲れー」
その日の仕事を終えたルビーフェアは、フランクな挨拶をして家路に着こうとする。
彼女の先輩にあたる従業員も、気さくに彼女を送るが、すぐに何かを思い出したような顔をすると、彼女を呼び止めていた。
「ほれ、これ」
「……え?」
立ち止まったフェアに、その男性は封筒を差し出す。彼女はそれを受け取るものの、頭には疑問符が浮かんでいた。なぜなら。
「……あの。給料日まだじゃないっすか?」
「あー、いいんだよ。
小首を傾げるフェアに、男性は男前に笑った。
「中央に入るんだろ? それ使って、精の着くもんでも食いな! 礼は、レースで支払ってくれりゃいいからよ」
「……」
「『レイ』だけに、つってな。がはは!!」
フェアは目を見開く。男性の無償の善意を受け取って、熱いものがこみあげてくるのを感じた。ただ、それを無様にぶちまけるわけにもいかない。俯き、深呼吸することでそれを抑えると、勢いよく頭を下げていた。
「――ありがとうございますっ!」
「おう! んじゃ、また明日な」
「はいっ!」
感謝を述べたフェアは、その勢いのままに家路に着く。近しい者みんなが、自分に期待してくれている――それを実感して、更にやる気が湧き上がるのを感じた。
明日も頑張るぞ! ――無邪気なまでに考えながら、家路を歩き――
「……」
ふと。
路地の方へと目をやった。
そこに特に理由はない。ただなんとなしに、視線を向けただけだったが――
「……?」
そこに。
彼女は見ていた。
人影。何者かが、数人がかりで何かをしているところを。
さらに言えば。
何者かを。
明らかに、『リンチ』にしているところを――
「――おい、おい、おい……」
――さっきまでの浮かれた気持ちを投げ捨てて。
義侠心にかられたフェアは、路地の中へ走り出す。
「何してんだそこぉぉぉぉぉッ!!」
絶叫しながら接近したことで、その人影も、即座に行動を中断していた。
その場に獲物を――金属バットを投げ捨て、一目散に逃走する。
ゴキブリみてぇな連中だな――そう心で毒づきながら、フェアは、リンチにあっていた人物の元へかけ寄った。
「おい! 大丈夫か、あんた……」
抱き起しながら、声を掛け――
驚愕する。その姿には、見覚えがあったからだ。
こいつは――
――アリオンのトレーナーじゃないか、と。
ただそこに、以前の雰囲気はない。ところどころから流血している彼女はぐったりとしており、その目も、硬く閉じられている。
「――っ」
――一刻の猶予もなかった。
フェアは携帯電話を取り出し、緊急の連絡先へと電話を掛ける。
「――もしもし!!」
『119』――夕暮れに沈む街の中で。
物騒なサイレンの音が、間もなく響き始めた。