『トウカイテイオーがクラシック二冠を達成出来たのは、周りが弱かったからだ』
そんな話が、学園内ですらもにわかに囁かれている。
聞くところによると、それを発端とするちょっとした騒ぎも起きて、生徒数人が謹慎になったとかなんとか。
時期は五月も暮れ――
先の春天にて、テイオーさんが手痛い敗戦を喫してから、もうすぐ一ヶ月。
一人のウマ娘の進退で、ここまでの動乱が起きてしまうのだもの。その影響力の大きさは測り知って余りある。
そして――背負うその重荷の程も。
結局、ネイチャさんの予感は。
当たってしまったというわけだ。
「――はぁ」
ため息が放たれ、食堂の喧騒に飲み込まれていく。
現状を嘆くようなそれの持ち主は、私ではない。
「イキモノって勝手だよねぇ。一方的に期待しといて、果たせなかったら裏切られたーなんてイキるんだから。こっちはそんな期待願い下げだっての」
ティースプーンの動きに従い、コップの中の氷がからからと音を立てる。
ひとしきり混ぜ終えた『彼女』は、どこか乱暴にその中身を口の中に流し込んでいた。
「キミもそう思うでしょ?」
「……えぇ、まぁ」
それに諸手を挙げて賛成するのも角が立ちそうだったので、苦笑いによる中途半端な同意をする。
その意図を知ってか知らずか、『彼女』は――ネイチャさんは。自虐的に口元を緩めていた。
時刻はお昼。
食堂の隅っこにて、たまには静かにお昼にしようと思ったところだったんだけれど、その意図を知ってか知らずか、ネイチャさんからロックオンされ。
そのまま相席することとなった、という運び。
ただ知り合い方が知り合い方だっただけに、二人、話題にすることと言えば……一つしかないわけで。
「テイオーさんとは、その、お話したんですか? 『それ』について」
「まぁー、ね。
言い淀むネイチャさん。その先は言うに及ばずか。いや、推して知るべし、だろうか。
「いやはや。先輩のメンツが立たないな、これじゃ」
「……どうするんでしょうね、これから。ずっとこのままってわけにもいかないでしょうし」
「さぁてね。ジャパンカップ目指して調整してるみたいだよ、一応は。ぶっちゃけ、今のまま行って結果が出せるかどうかは……わかんないけど」
ジャパンカップ。言わずと知れた、国際交流重賞。他の重賞とはワケが違う、特別なレース――
もちろん、過去が全てじゃない。結果が出せないだなんて、思ってるわけじゃないけれど。
「そっちはどうなの?」
漂い始めた辛気臭い空気を振り払うみたいに、ネイチャさんは言った。
「新バ戦まで一ヶ月切ってるけど」
「……トレーニング自体は順調ですよ。タイムも良くなってきてますしね」
「その割にキミの姿……学園内で見かけない気がするんだけど。タイミングが悪いだけかな」
「まぁー……そのー……トレーナーから、妙な縛りを受けてるっていうか」
小首を傾げるネイチャさん。まぁ、隠すことでもない。素直に言ってしまうことにする。
「……はぁ? 設備を使うなぁ?」
「あははは……」
で、この反応である。そうだよね。普通、そうなるよね。
「何それ。じゃあトレーニングは外でやってるってこと?」
「はい……」
「お金は?」
「トレーナーさん持ちで……」
「グラウンドも?」
「はい……」
「……意味あんの? それ」
言うまでもなく――
トレセン学園には、ウマ娘が適切なトレーニングを積めるよう、最新鋭の設備が揃えられている。
事前申請制ではあるので、使えない場合に外部施設を使うことはあるにはあるけれど……
こうして、敢えて外部の設備だけを使う意味はほとんどない。
確実性を重視する――と言えば、聞こえは良さそうだけれど。
誰かが使っている可能性があるのは、外部でも変わらないはずだし。
況して利用料を別途で払わないといけないことを考えると……
「……意味ないと思います。正直」
「意図は聞いたの?」
「なんか変にはぐらかされて聞けてないんですよね……」
真意は聞けていない。それも並べ立てる言葉と言えば、世界の滅亡がどうの世紀末の争いがどうのという意味不明なモノばかり。聞いているこっちがバカバカしくなってくるレベルのそれ。
何かを隠していることは明らかだけれど――
問い詰めて話してくれそうもない、というのもまた明らかだ。
「……デビューからのローテーションは?」
「ちょろっとホープフルステークス目指す、とは言ってました」
「G1かぁ……ますますきな臭いな」
周囲のざわめきが、少し大きくなったような気がする。私たちにほど近い周囲だけが、世界から切り離された感覚がする。
「……あんまり、他人様の方針にとやかく言いたくないけどさ」
それでも、気にせずにはいられない。
「信用出来るの? そのトレーナーさん……」
トレーナーとウマ娘との信頼関係は重要だ。
お互いの不和が戦績の低下に繋がった、なんて話はいくらでもある。
私にとって、トレーナーさんは恩人だ。
彼女が手を差し伸べてくれなかったら、私はこの学園に編入出来ていなかった。
疑いこそすれど、信用しないことはあってはならないと思うけれど。
それでも目は、自然とその動向を追ってしまう。
「……」
彼女は常にこちらを見守っているわけではない。
手が空いた時、その姿は、施設の従業員――もといオーナーの元にあった。
オーナーさんが難しい顔をする中で――
トレーナーさんは、何事かを話している。
「あぁ、実は今度、テニス交流会しねーかって話をしててさぁ」
それを手放しで受け入れる私ではないけれど、追及しても躱されることも良く知っていた。
結局、行き場のないもやもやを抱えながら、トレーニングに励むしかなかった。
そして、そんなもやもやを抱えたまま――
六月下旬を迎えた。
東京競レース場、地下バ道。
集ったウマ娘の数は、私を含めて九人。
ここでいいスタートを切れるかどうかは、自分たちの今後に大きく関わってくることになる。
誰もが、身体も表情も見るからにガチガチなのは、至極当然のことだ。
斯く言う私も、緊張していないと言うと嘘になる。
少し気を抜けば、緊迫した空気に呑み込まれてしまいそう。
水面から顔を出すみたいに、適度に深呼吸を繰り返しながら、我を保つ。
……この新バ戦。
どう走るべきなのか。事前に話し合いはした。
『――そう緊張しすぎることはねー。どの出走者も、お前と似たり寄ったりだし』
それも方々に失礼じゃないか、と思ったけれど、黙っておく。
『力を入れ過ぎると、いいことはねー。大事なのは力を抜くことだ。抜きすぎるのもよくねーけど』
彼女は、軽薄に笑う。
『思うがままにやればいいさ。無様だったとこで、誰も責めねーんだからよ』
新人の特権でもあるんだからな、と。
『じゃ、最後にもっかい確認しとくぞ。まず――……』
一頻り言って。
やがて、『それ』を話したのだ。
「……あのー」
「!」
トレーナーさんの言葉を思い出していると、唐突に声を掛けられる。
弾かれたように視線を向けると、そこには一人のウマ娘。
ピンクがかった鹿毛のショートヘアと、桜と思しき花飾りが目を引く。
「その……き、緊張しますね! い、いよいよ公式レースだって思うと……!」
「え、あ。そ、そー……ですねー……」
な、なんだなんだ。どうした急に。
話しかけてきたからには、同じ学園の生徒なんだろうけど。私、あなたと面識はないぞ……?
「わ、私、サクラチヨノオーって言います! その、が、頑張りましょうねっ」*1
「……」
語頭はしどろもどろだし、語尾は跳ね跳ねだし。差し出された手も、かたかたと震えている。
どうして急に話し掛けたのか、と思ったけれど……なるほど。
こうして『仲間』を作ることで、少しでも緊張を和らげようってことか。
そこには、健気で直向きな努力が垣間見える。私を選んだのは……偶然か、話しかけやすいと思ってもらえたからか。
「……、」
なんだかそれがおかしかったのと、切り捨てるのはあまりに無情だと思ったのとで、私は、その手を取っていた。
「……サファイアアリオンです。頑張ろうね」
「……! は、はい!」
『――出走者の皆様に連絡します。出走時間となりました。本バ場への入場を開始してください……』
彼女の返事の直後、放送が地下バ道に響き渡る。それに応じて、外からほんのり聞こえていた声援が、更に大きくなったような気がした。
……いよいよ、レース開始だ。
「……なんてお呼びすればいいですか?」
歩き出すと同時、サクラチヨノオーさんが言う。
「私のことは、チヨノオーでも、チヨでも、お好きに呼んでください!」
「……じゃあチヨちゃんで」
「……! じ、じゃあじゃあ、リオンさんって呼んでいいですか!?」
「あはは……うん。それでいいよ」
器用にも、歩きながら低く飛び跳ねる彼女――チヨちゃん。……なんだろ。
この子と話してると、自分がひどく醜い存在のように思えてくるな。
純粋で純朴で、こう……きらきらしている、というか。
こういう子が将来、とんでもないスターになったりするんだろうなぁ。
「……」
ともあれ、地下バ道はそう長くはない。
静々と電灯の照らす、トンネルに似た道の果て。
突き抜けるような青空と、眩しい光、そして熱気が――ちょっと乱暴に、私たちを歓迎する。
「――……」
――満員御礼。
夏めいてきた東京競レース場は……詰めかけた観客で、いっぱいになっている。
それだけ、競レースが人気だということでもあり。
それだけ、新人に注目している、ということでもある。
さっきまで、程よいもので済んでいた緊張も……
さすがに、高まってきた。
「ふわぁ……す、すごい人ですね……!」
両手を合わせ、周囲を見回すチヨちゃん。逆に今度は、彼女の方が緊張から解放されているように見えなくもない。
「まさかこんなに人がいるなんて、思ってませんでした……!」
「新バ戦でこれだもんね……はは。重賞なんてなったらどうなっちゃうんだろ」
もちろん、その盛況ぶりを知らない私たちじゃない。ウマ娘なら、誰もが一度は目にしたことがあるだろう。あの熱狂を。あの歓声を。
でもそれは、観客としての目線の話だ。選手として、そのようなものを目の当たりにした時――
……果たして、正気を保っていられるんだろうか?
「チヨちゃんは……8番ね」
「あ、お隣ですね! 今気が付きました!」
確かに。私の番号は7番。お隣同士だ。奇妙な偶然だけれど――だからって、お互い手を抜くはずもない。
「……いいレースにしようね」
「はい! 頑張りましょう!」
言葉を交わし、ゲートへと向かう。一歩芝を踏むごとに、色々な思いが湧き上がってくる。
少し前までは、考えられなかった体験。瞬間。
本当ならこの時間――今頃、学校で退屈な授業を聞いていただろう。
校庭を眺めながら。幻想を描きながら。妄想に浸りながら――先生の声で引き戻され、怒られる。
そんなやり取りを、何回繰り返したろう。
テレビの向こうの世界。夢の果てにある光景。
縁遠いと思っていた。もう、届かないと思っていた。
もう、叶わないのだと。
すっかり、諦め切っていた。
……まさか、そんな自分が。
本当にそこに身を置くだなんて。
こうして。
確かに。
走れる日が――来る、だなんて。
「……、」
これまでの日々。これまでの時間。そしてこれまでの……鍛錬の日々。
それらを、ひとつひとつ思い出して。
ひとつひとつ、噛み締めて。
一歩一歩、感謝して。
目の前のことに――臨む。
……
……まぁ。
トレーナーさんとの出会いは、考えてみれば、最悪だったけどね……
「……おし」
ゲートインが完了し。
静寂が訪れる。
嵐を目前に控えた。
永遠の刹那――
「――」
それを切り裂くように。
重厚な音が響く。
ゲートが開いた事実に弾かれて。
私たちは――一斉に、走り出していた。
勃興期の競レースにおいて――
戦術、と呼ばれるものはなかったという。
考えてみれば当然だ。元々競レースは、言ってしまえば『駆けっこ』の延長。
単純に速いものが勝つのだから、そこに駆け引きの介在する余地はほとんどない。
誰もが先頭に立ち、維持することだけを考え――それはそれはシンプルで、変わり映えのしないものだったそう。
けれど、いくら走ることに特化したウマ娘と言えど、スタミナが無尽蔵なわけじゃない。
むしろ、疾走を基本とするが故に、数分持てばいい方。
最初から最後まで、ただ走ることだけを考えて走れば――当然のことながら、終盤には垂れてきてしまう。
――そこに目を付けた走り方が。
過去のどこかの時点で、現れた。
曰く、脚を『温存』し。
最終盤にて一気に抜き去る。
後に――『追込』と名付けられる
その戦術の登場は、当時の競レース界に衝撃を与え――
誰もがそれへの対策、あるいは転換を余儀なくされた。
時間が経ち、動揺という名の動乱に人々が慣れ始めると。
その戦い方にも、アレンジが加わり始め――
『基本』の走り方に『追込』の戦術を取り入れたものや。
逆に『追込』の走り方に、『基本』の走り方を取り入れたものが編み出された。
それらはやがて、『先行』、『差し』、と個別に名が与えられ――
今日まで伝わる、競レースの『基本四戦術』として体系化された――
『――それを踏まえた上で、オメーの話をするけど』
ココアシガレットを指で弄びながら、トレーナーさんは言っていた。
『オメーの
『……? シュウヘンシ?』
なじみのない単語に小首を傾げると、彼女は肩を竦めた。
『簡単に言えば、視野全体の状況を満遍なく把握する能力のことだ。トレーニング中、あたしが変なことしてても、ちゃんと即応してツッコミ入れてただろ? 周りが見えてなきゃ、ああいうことは出来ない』
『まずトレーニング中に変なことしないでほしいんですけどね?』
まぁ確かに、走り込み中『ピースして♡』って書かれた団扇を振りながら自転車で併走したり、筋トレ中の視界の端で、某軍隊式エクササイズ*2に興じたりとかしてたけど。あれってそういう意味があったんだ……
『……じゃあ、それが生かせる戦術をとるってことですか』
『その通り。そのものずばり――』
ぴん、と彼女は人差し指を立てていた。
『――『差し』だ』
「……」
レース開始直後――
すぐさま、そんな会話を記憶の引き出しから取り出していた。
『差し』戦術の基本の動きは、しっかりと頭に叩き込んである。
……まず序盤は。
中団に位置すること。
『後団に呑み込まれないよう、ペースを意識して走りな。かといって、先団に合わせ過ぎても良くない。ハイペースだとそれだけスタミナの消費も激しくなる。いざという時に捲れるだけの体力がなかった、ってんじゃ目も当てられない』
幸いにも、バ群全体のペースは緩めだ。
順位は4位。ちょうど真ん中あたり。立ち上がりとしては理想的だろうか。
『ただ当然、ペースを合わせて走っていても埒が明かない。いいか? 『差し』戦術ってのは、基本的に何かが起きるのを待つ側じゃない。何かを起こす側だ。全方位を意識しろ――前を走るウマ娘は垂れてきていないか? 抜くチャンスはあるか? ないか?
左右はどうだ。ブロックされていないか? されているとして、どうにか出来る状況か?
後方にも目を配れ。距離が近すぎていないか? 追い上げてきている出走者がいるか? いるなら、敢えて前に通してバ群をかき乱す、なんて選択肢もある……
わかるか? 『差し』の取る行動一つで、レース全体の行く末が決まると言ってもいい――いいか。
『良い子』になるな。
『悪い子』になれ。
勝つために、使えるものは全て使え。
冷徹で、
冷酷な、
戦術家になれ――……』
「……」
……とは言うものの。
現状じゃ、何をどう扱えばいいかもわかり辛い。
今んとこ順当な試合運びって感じで、付け入る隙も無さそうだし……
雌伏の時を過ごすしかないのかな。
けれど、このレースは2,000m。
もうすぐ最初の直線も中ごろを越える。
そうなれば3コーナー、4コーナーを抜け、あっという間に最終直線だ。
……もたもたしていれば、すぐに終わってしまう。
動くなら早い方がいいのか、それとももう少し様子を見るべきなのか。
『――まぁ、方針はわかりましたけど』
再度、私は問いかけた。
『その、肝心の『仕掛け時』っていうのはあるんですか?』
参考くらいは欲しい、そういう意味での問いかけだった。
トレーナーさんはそれに、あぁ、と口を開きかけたけれど。
『……』
視線を逸らし。
一瞬だけ間を空けて。
『――教えなーい♪』
『は、はぁ!?』
……とかって。
腹立つ声で言っていたっけ。
『何教えないって!! 担当が初めてのレースに臨もうとしてんだよ!? セオリーも教えない担当がどこの世界にいんの!?』
『まぁまぁそう怒んなって~あとそんな激しく揺さぶるな『中』が出る』
肩をひっつかんでがくがく揺さぶると、彼女の顔はみるみるうちに青くなっていった。言われるまま止めると、彼女は口元を抑え、しばし間を置いてから言う。
『……なに。
彼女の口端は、生粋の悪のように、ぐにぃ、と歪んでいた。
『いっぺん、
「……」
……とにかく。
とにかく、目の前に、集中しよう。
レースはもう中盤なのだ。
そろそろ何かしら、変化があるはず――……
……レースは、チヨちゃんが全体を引っ張っているみたいな構図だった。
正直、その走りは目を見張った。
安定して先団を駆け、ほとんど速度も落ちていない。
新人とするには、あまりに磨き上げられた能力――
ただ、周囲もそれに合わせられるか、というとそうじゃない。
着いていける子もいれば、置いてかれる子もいる。
そうなれば、出走者間の差は開き。
そうなれば、バ群の統率は失われる。
3コーナー直前――
そうして、全体の動きが。
見るからに、乱れ始める――
「――……」
それを見ていた。
それを感じていた。
特に周囲を塞がれているわけでもないし、抜くための隙間もある。
更には、更なる動きの生じやすいコーナー――
……ま。
まさか――
「――、」
こ――
ここか――!?
「――っ!!」
迷っている暇はない。
足に力を籠め、一気に前に出る。
コーナーを走る時の理想的な動きは――
遠心力に負けないよう、適切に速度を落としつつ――
出来るだけ、内ラチへ!
行こうとしている道は、正直かなり際どい。
ラチと出走者の間、一人分とちょっとあるかないかくらいだ。
でも、通れないほどの隙間じゃ――ない!
「っ!」
行け。
通れ。
身体を――
差し込め――!!
「っ!?」
「きゃっ!?」
通過の瞬間――
その出走者の子と、少し触れ合ったような感覚がした。
前方に躍り出つつ、視線を振る。
幸い、大きな事故には繋がっていないらしかった。
ひやりと嫌な予感を振り払うように――
前へと進む――まだ、先頭じゃない!
ただ、先を走る更なる二人は、明らかに垂れてきていた。
フォームに乱れが出来ているし、コース取りも覚束ない。
「っ……!!」
息を入れ、加速し――
さっきよりは余裕のある内ラチを再度攻め、なんとか抜き去る。
4コーナー終盤――
残すは――あと一人!
「!」
チヨちゃんの目が、一瞬こちらに向けられる。
私が迫っていることに、どうやら気が付いたらしい。
そろそろラストスパート。
その走りに、一層の力強さが生まれた。
――すご。まさか、ここでまだ上がるのか!
「……、」
だからって――
負けるかよ。
私ももう、限界が近いけれど。
それでも、最後の力を振り絞る。
遠かった背中が、近づく。
ゴール板まで、もう少し猶予がある。
これなら――
追い縋れる。
追い付ける。
――っつか。
追い、
抜ける――!!
「――あぁぁぁぁッ!!」
「!」
ゴール板の、もはや数十メートル手前。
私たちの速さなら、一瞬で駆け抜けられてしまう距離。
その時、チヨちゃんの姿は、確かに――
わずかに、私の後方へと流れていた。
「――ッ!!」
ゴール板を通り抜ける。
風を切る音だけが聞こえていた耳に、音が復帰する。
飛び込んでくるのは、会場を満たす歓声。
はち切れんばかりの熱狂――
「――っはぁ、ひぃ、ひぃ……」
襲歩から、緩やかに常足に代わる。
膝に手を突いて息を整える。
最後のスパートが、文字通り限界を超えたのか、放っておいたら、臓器が口から出てきてしまいそうだった。
うぇ……
き、気持ち悪い……
「リオンさん……」
声と共に、影が近付く。
目を向けると、そこにはチヨちゃんが。
彼女の顔もまた、疲弊し切っていて。
同時に、信じられないものを見た、と言わんばかりに歪んでもいる。
「す、すごい追い上げ、でしたね……」
「あ、あはは……そっちこそ。すごいスパートだったよ……」
「うぅ……本当はもう少し後にスパートかける予定だったのに」
私がかき乱した、ってことか。……なるほど。
トレーナーさんのひと言――差しの行動ひとつでレースの行方が決まる、ってやつ。誇張じゃないかと思ってたけど、本当にその通りだったな。
私のあの、咄嗟の発想で……
先頭の計画をも、狂わせることが出来るだなんて。
「……、」
……はは。やば。
これ……なんか、ちょっと、楽しいかも……
ただ、色々復習すべき点は多かった。軽めに接触しちゃったりもしたし。
ただ、結果は結果だ。一時はどうなるかと思ったけど……
こうして、初めての勝利をもぎ取れたのだ。
信じられないけれど。
公式レースに出て――勝つことが、出来たのだ。
「……ははは」
今はひとまず。
その喜びに――
「……おかしいですね」
「え?」
――なんて。
浮かれかけた私を、チヨちゃんの怪訝そうな声が引き止める。
「なんか……長引いてません? 着順公表……」
「……」
……普通。
着順の確定と、レース場への公表はすぐに行われる。
何なら、レースの終了とほぼ同時にターフビジョンに映し出されるくらいだ。
だというのに、未だに掲示板は光っていない。
観客席からも、何やら不穏なざわめきが上がり始めている。
……
……そう。普通ならすぐに行われるのだ。普通なら。
でも、その公表が、長引くこともある。
それがどんな時かって?
決まっている――
公表のために。
レース内容を吟味している時――
『――え、お待たせしました』
レース場に、放送が流れる。
『先のレースですが、厳正なる審査の結果――』
その色は、どこか透明で、しかし残酷な色を伴っていた。
『――7番、サファイアアリオンによる、軽度の接触違反*3が認定されたため――
同選手を、
降着処分といたします』
「――……」
『え、よってただいまのレース、1着は――』
無情なその知らせで。
『8番、サクラチヨノオー――!』
どよめきめいた、奇妙な歓声が――
レース場を、満たしていた。
「おう、お疲れ」
……控室に戻ると。
トレーナーさんは、余裕そうな微笑みをもって迎えてくれていた。
「どうだった、初めての公式レースは」
「……」
「ん?」
「……」
気持ちが胸の奥から湧き上がってくる。
言うなればそれは、理不尽な怒り。
正面に。
目の前に。
さらに言うなら、トレーナーさんに。
ぶつけてしまいそうになる――それを。
「……っ」
必死に。
決死に。
堪えながら――
「……で、す」
言葉という形で。
吐き出す――
「――むちゃくちゃっ、悔しいですッ!!」
ちくしょう。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうッ!!
勝ってたのに。勝ってた、はずなのに。最後の最後で、ルールという壁に阻まれた。
油断していた。失念していた。あまりにも、軽視し過ぎていた。ターフ上の法の番人を――
いや、ヒヤッとしたんだ。まさかと思ったんだ。それでも、事故には繋がっていなかったから、大丈夫だと、思っていたんだ――
……やるんじゃなかった。
やっぱり、駄目だったんだ、あんな無理な進出は……!!
まさか。
あれで、不正を取られてしまうだなんて……!!
「あぁ――もぉっ!! ホンットに、悔しいッ!!」
「おいおい落ち着けって。なんだよ。サクラチヨノオーにバカにされでもしたか?」
「されてません! ってかむしろチヨちゃんは讃えてくれました!!」
そう、チヨちゃんは讃えてくれた。彼女も同じように、悔しそうに顔を歪めていた。
負けたと思わないでください。
私も、勝ったと思いません、と。
次は、『ちゃんと』勝ちます――と。
けれどそれもまた、悔しかった。彼女にそんなことを言わせた自分が、恥ずかしかった。
心よりの同情のようにも思えてしまって――
悔しくて悔しくて、堪らなかった。
「――でもま、これでわかったろ」
そんな私をよそに、彼女は言う。
「レースは選手の状態、状況だけでなく、ルールにも気を配らなくちゃいけない。その場の最適解を叩き出したとしても、それが『許される』ものとは限らない。真剣勝負に正道も外道もないが――最後に控える
「……わかってたんですか。こうなるってこと」
「まさか。けど可能性としては考慮してた。それにオメーも……こういう小難しいことは、理屈より肌で感じた方が覚えられるだろ」
……まぁ、確かに。
体験として知った方が、身に付きやすいとは思うけど。
「言ったろ」
いっぺん、
「……今日の『感覚』を忘れるな」
周囲の動向に気を配る感覚。
最適な道を見つけ出す感覚。
ルールの壁に阻まれる感覚。
……心の底から。
自分の未熟を、呪う感覚。
「――さ、それじゃあライブ後にまた集合な」
トレーナーさんは、立ち上がって言う。
「盛大に祝勝会するぞー!」
「……私勝ってないんですけど」
「盛大に祝『敗』会するぞー!」
「言い直さなくていいですから!」
どうせ飲みたいだけだろう――と、塵芥のように残った悔しさをぶちまけるようにツッコむ。
彼女は相変わらず、けらけらと笑うだけだった。
――そんな彼女のレース映像を。
秋川やよいは、繰り返し眺めていた。
「……」
その内容に、不満があるわけではない。
数多くのレースを観てきた彼女としては、どちらかと言えば良いと感じられるものだ。
中盤の接触違反はいただけないが――
重大事故に繋がらなかった分、その選択を出来た勇気は評価したい、と。
にも関わらず。
その表情は、深刻そうに曇っている。
「……、」
理事長室のドアがノックされる。
入れ、と彼女が応じると、入室してくるのは、一人の女性。
「理事長、」
駿川たづなは、後ろ手で扉を閉めつつ、彼女に言った。
「やはり、仰っていたとおりでした」
サファイアアリオンは、
学内のトレーニング設備を、一切利用していません。
「……そうか」
「ですが……何か問題なのでしょうか? 見たところ、レースに支障が出ているようでは……」
「
何かを感じた。
不穏な何かを、彼女は感じずにはいられなかった。
「……たづな」
だから言う。
彼女は、言う。
「すまないが……もう少し、頼まれてくれないか?」
サクラチヨノオー
作品のリメイクに当たり、他に最適なライバルキャラはいないだろうかと色々考えたのですが、どの方もしっくりこなかったので続投してもらうことにしました。
注釈で触れていますが、史実のサクラチヨノオーは東京ではなく函館でデビューしており、
別にこのようなレースを繰り広げたわけでもなく、
しかも活躍年代がトウカイテイオーよりも前という史実完全無視設定となっています。
怒られたら消えます