16年度の卒業生(新版)   作:Ray May

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水平線のその先へ

 とても とてもあついなつのひに

 むしかごをみつめていると とれーなーさんが きいてきました

 

「……どう? 飛びそう?」

「ん……ぜんぜん……」

「そっか。まぁー、そういうこともあるよ」

 

 むしかごのなかには ちょうちょがいますが

 きに くっついてるだけで

 ぜんぜん とんで くれません

 ふたもあけて いつでもとべるはずなのに

 どうしてとばないのかと わたしは ふしぎでなりませんでした

 

「……どうして、とばないんだろ」

「さすがに蝶の気持ちはわからないからね……何とも言えないけど」

 

 わたしのこえに とれーなーさんは

 うーん と うなってから こたえました

 

「きっと、決めてるんだろうね」

「きめてる?」

「そう。自分の行き先を決めてるんだ」

 

 とれーなーさんは いいました

 

「自分がどこへ行くべきなのか。自分がどこへ行きたいのかを、うーんて、考えて、考えて、考えてるんだよ」

「……よくわかんない」

「そっか。まぁ、心配しなくても大丈夫だよ。きっといつか飛んでくれる」

 

 わたしが くびをかしげると

 とれーなーさんは わらいました

 

「行く先を見つけて、

 飛ぶための勇気をもって

 

 ……恐怖を振り払ったなら。

 

 きっと、ね。……」

 

 そんなことを

 わたしに いいました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、実際どうすんだよこっから」

 

 名もなきレースを見守っていたゴールドシップは、やがてそう言っていた。

 

「まさか、なれ合いの『かけっこ』だけで『あれ』が治るわけでもないだろ?」

「うむ。そうだろうね。精神疾患が、そんな簡単に治ることはないだろう」

「……なんでそんな余裕そうなんだよ? 策でもあんのか?」

「策というほどのものじゃないけれどね」

「――ルドルフさん」

 

 対応するルドルフに、掛けられる声が一つ。それは先ほど、何事かをルドルフに頼まれ、その場から姿を消していた秘書だった。

 彼女の手には――関係者であれば、誰もが一度は目にする、『機器』が握られている。

 

「これでいいですか」

「あぁ、すまないね。面倒を掛けた」

「全くです。はぁ……必要なら事前に言っておいてくだされば」

「なんだそりゃ。メガホン?」

 

 嘆息する秘書の持参したものの名を、半ば当てずっぽうでゴールドシップは言い当てていた――そう。

 メガホン。学園でも度々目にする、大音量を生成するための道具が、なぜかそこにあった。

 

「テイオーの話だと、『彼女』の本能を刺激したい、ということだった」

 

 ルドルフは、それを受け取り、状態を確認しつつ言う。

 

「だが今の状況、本能は刺激されても……『し切る』には不足だろう。『後押し』が必要だ」

「……話が見えねーんだけど」

「簡単さ」

 

 ほら、とルドルフはメガホンをゴールドシップに渡す。マックイーンに視線をやる彼女だったが、マックイーンもまた意図を汲み取り切れていないのか――あるいは汲み取り切っているのか、一歩を彼女から離れるばかりだった。

 

「……舞台を()()()()()()()

 

 仕方なくメガホンを受け取った彼女に、ルドルフは、『背中を押す』ように言う。

 

「きみなら出来るだろう?」

「……なるほどな」

 

 やれやれ、とゴールドシップは肩を竦める。『皇帝』。かつて誰もの羨望と憧れの的として活躍した『伝説』の頼みを前にしては、さしもの彼女も、従うしかなかった。

 それ以上に――

 確かに、自分が適任か、とも思っていた。

 

「……」

 

 だから、彼女は動く。

 ターフに近付き、ラチのすぐ傍。

 走る後輩たちが、自分たちの正面――ホームストレッチに差し掛かった頃合い。

 息を吸って――

 

『――さぁ! 始まりましたぁ! 東京ゲリラステークスの幕開けですッ!!』

 

 拡声器が必要か? と疑問を呈さんばかりの大声で、宣言していた。

 

『彼女ら』は聞く。確かにその耳で受け取る。

 先輩の連ねる、唐突ながら、はっきりとした言葉を。

 

『舞台は東京競レース場、次のゴール板から数えて一周、2,000m! この栄えある舞台、その栄光を勝ち取るのは誰なのでしょうかッ!!』

 

 ただ、言葉を受け取っても、即座の理解にまでは至らない。

 最初に抱いたのは困惑――その証拠に、全体の足並みがやや乱れた。

 

『――見事、一着を勝ち取った強者には!』

 

 そして、それを補強するように。

 彼女は言った。

 

『カフェ███のスイーツビュッフェ一日無料券が進呈されるぞ!!』

『――!!』

 

 それを耳にして。

 参加者の間に、衝撃が走る。

 

『協賛はうちのトレーナーだ!!』

「……? 話をつけたのですか?」

『え? まぁ大丈夫だろ。たぶん』

 

 マックイーンの疑問に、ゴールドシップはテキトーに答える……ちなみにこの時、西崎は学園にて、テイオーとネイチャと共に『後片付け』に勤しんでいたが、

 

「――ぶわっくしゅ!!」

「わっ……ちょ、どうしたの? 風邪?」

「あいや……誰かが俺の噂でもしてんのかな……」

 

 ……まさかこんなことになっていようとは、知るはずもない。

 

『さー頑張れみんな! スイーツのために頑張れーっ!!』

「……本当にこんなので『整う』のですか?」

 

 ともあれ――呼びかけるゴールドシップの背を、秘書は不信感満載の目で見つめる。

 

「かり立てるにしても、もう少しやりようがあるのでは……」

「何、心配いらないよ。スイーツの魔力を()()見ない方がいい……あっ、今のちょっと上手くなかったか?」

「しっかりしてください……」

「ははは。まぁ大丈夫だよ」

 

 無邪気なまでに笑いながら、ルドルフはターフを見つめた。

 

「彼女らは……純粋だ。誠実に応えてくれるさ」

 

 ほら、と。

 示した先。先頭を走っていたアールヴァク、の背後についていたツインターボが、

 

「始まるぞ」

 

 ゴール板を通り過ぎた。

 刹那。

 

「っ――!!」

 

 一気に加速する。

 それに呼応するように、一人、また一人と、加速し始めた。

 ダイヤアールヴァクを捕まえる、という目標はどこへやら。

 次から次へと、誰もが彼女を追い越していく。

 全ては――もはや、アールヴァクを捕まえるためではなく。

 年頃の少年少女を、特に魅了してやまない――スイーツという『賞品』のために!

 

「……」

 

 誰もが、鋭い眼光を宿し。ターフの上を一心にかけ抜けていく。

 それは、アールヴァクが何度も見てきた景色であり。

 何度も憧れてきた光景でもあった。

 画面を通してでしか、見ることの許されなかった。

 幾度も、そこに立つことを夢見た、光景――

 

「――アルさん!」

 

 そのさなかで、聞き覚えのある声が掛けられる。

 

「行きますよ!」

「……!」

 

 緑がかった黒髪が。

 

「ぼやっとしてんな!」

 

 短めの赤髪が。

 

「――アルちゃん!」

 

 そして。

 

「……ぁ」

「ゴール板まで! 競争だよっ!」

 

 ……栗毛のポニーテールが。

 自分を、追い越していく。

 そうして、あっという間に抜かれ尽くし。

 彼女の位置は、既に集団の最後方。

 背後には、スイーツに興味がない、あるいはこの空気についていけない数人が、走るばかりである。

 それを見て。

 その事実を認識して。

 目の前を走る彼女らに、影響されて――

 

「――っ」

 

 彼女もまた。

 自分も、また、と。

 わたしも、また――と。

 脚に、力を入れようとした。

 

 

 

「――!?」

 

 

 

 瞬間。

 脳裏に。

 映像が。

 過ぎった。

 

 

 

 ――!? お、お館様!? これは……!!

 ――ちょ、ちょっとお父様!? どういうこと!? その人、し、死んで……!!

 ――救急車!! 早く救急車を!!

 ――待て!! 呼ぶな!! 呼んで大事になったら、大変なことに――!!

 

 

 

 わたしの頭の中は恐怖でいっぱいでした。理解出来ない感情でいっぱいでした。何も考えたくありませんでした何も感じたくありませんでした。塞ぎこみ、黙り込み、蹲るしかないわたしに、彼はどこからか声を掛けて――

 

 

 

 きみょうなかんしょくがしてわたしはじぶんのてをみつめましたそのては

 

 

 

 あかく

 

 

 

 あか  く

 

 

 

「     」

 

 

 

「……ぁ」

 

 

 

 ダメだ、と。

 彼女は、あしから 力を抜いていた。

 走りたいのに。

 はしりたいのに

 あしにはちからがはいらず

 

 まえへと すすむことすらも

 すこしずつ むずかしくなっていきます

 

 

「……」

 

 

 こわい

 

 みんなとはしりたい みんなと きょうそうしたい

 

 こわい

 

 でも また こわしてしまう ほんきになれば

 かれが また でてきてしまう

 

 こわい こわい

 

 こわしたくない

 

 こわい こわい こわい

 

 こわしたくない――

 

 こわい こわい こわい こわい

 

 

 

 ――こわい

 

 

 

 はしりたいのに

 こわいよ

 

 はしれないよ

 こわくて

 

 まえに

 

 

 

 すすめない

 

 

 

 だめだ

 だめなんだ やっぱり

 わたしは みんなとちがう みんなみたいになれない はしれない いっしょになれない

 いっしょのところにいけない

 いっしょにはしれない

 

 ぜんぶゆめ ぜんぶまぼろし しょせんわたしには なにもゆるされてなかったってこと

 じゆうなんて げんそうだ

 

 わたしに そんなのは

 そんなことは できない

 

「  ろ  が」

 

 だめ でてこないで

 

「 れ  も  る 」

 

 でてこないで おねがいだから

 

「おれ が  」

 

 

 やめて

 

「おれが まもって ―― 」

 

 やめて――!!

 

「おれがまもって「――恐れないで」

 

 ――そのとき

 こえが きこえました

 

 はじかれたように ふりむくと

 そこには さんざんおいかけて おいかけられた

 あの おれんじいろ――

 

「言ったでしょう。あなたを縛っているのは、そのちっぽけな恐怖心」

 

 かのじょはいいます

 

「怖くなんかない、恐ろしくなんかない。そんなの、あなたの自由に比べたら、気にする必要なんかない」

 

 かのじょはいいます

 

「大丈夫。あなたが暴走しても、何度でも付き合ってあげる。何度でも抑えてあげる。何度でも――何度でも!」

 

 かのじょは

 かのじょは

 いいました

 

「だから、もう、我慢しないで。諦めないで。棄てないで――恐れないで。棄てずに、我慢せずに、諦めずに、恐れずに。走って、走って……そして」

 

 その するどいめで

 いいました

 

「今度は私を――

 捕まえてみせなさい!」

 

 そして

 まえへと はしっていきました

 

 そのせなかは みるみる とおざかっていきます

 わたしは それをみながら

 じぶんが なにをのぞんでいるのか あらためて じかくすることになりました

 いきが はやく なる

 むねが しめつけ られる

 

 いきたい

 いきたい

 いきたい ―― ……

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 むしかごのなかのちょうちょは

 とぶけはいがありませんでした

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 ――いかせてください

 

 そう ねがいはじめる

 

 ――はしらせてください

 

 そう おもいはじめる

 

「――ぁ」

 

 はしりたい

 いきたい

 おいつきたい

 つかまえたい――

 

 わたしも わたしも

 みんなと おなじばしょに いきたい――

 

「ぁ、ぁ、ぁ、ぁ――」

 

 だから

 おねがいします

 だから

 おねがいします

 

「ぁぁぁぁぁああ――」

 

 わたしを

 わたしを

 

 そこへ

 いかせて ください

 

「――あああぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」

 

 わたしを――

 

 

 

 じゆうに

 してください

 

 

 

「――ッ!!」

 

 あしをふみこむ

 ちからづよく かけだそうとする

 

 でも――

 そのしゅんかん

 

 あたりが

 まっしろになりました

 すべてが すろーもーしょんにみえて

 おとも なにもかも なくなります

 

 わたしは

 そのせかいのなかで ふと うしろに けはいをかんじて

 おもわず ふりかえっていました

 そこにいたのは

 そこに たっていたのは ――

 

 

 

 わたし

 でした

 

 

 

「――よーやくだな」

 

 わたしは いいました

 

「おれはずっとふあんだったんだよ。かってにれーすとぼうりょくをむすびつけて、ずーっとびくびくおびえてばっかいるから」

 

 わたしは いいました

 

「だからでばらなきゃいけなかった。だからまもらなきゃいけなかった。こんなこといつまでつづければいいのかふあんだったけど」

 

 わたしは

 いって

 そして

 

 わらいました

 

「よかった」

 

 もう

 だいじょうぶだね と

 

「さ、れーすのじかんだ」

 

 わたしは わたしのせなかを そっとおしました

 

「いまからならまにあう。ぜんりょくで、やってきな」

 

 そっと おして

 とても とても やさしいこえで いいました

 

「――いってらっしゃい」

「……」

 

 わたしは

 それをきいて

 こみあげてくる あついものを おさえながら

 

「……、」

 

 かえしました

 

「うん」

 

 

 

 ―― いってきます

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 とても

 とてもあつい なつのひに

 

「――あ」

 

 それは やがて

 

はねを おおきく うごかしました

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 

 

 そして

 

 

 

 ちょうは

 

 

 

 はばたきました

 

 

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

「――!?」

 

 レースを見守っていた五人。

 シンボリルドルフ、ゴールドシップ、メジロマックイーン、秘書、そしてメイドの五人は。

 その変化に、目を見開いていた。

 

 ダイヤアールヴァク。

 ゴール板を通り過ぎ、他のウマ娘に追い抜かれながら、何かを思い悩むように、しばらく走っていた彼女が――

 突然に、急激に加速し出したのだ。

 

 どん、という擬音すらも聞こえそうなほど、荒々しい踏み出し。

 まさか暴走――と、誰もの脳裏に考えが過ぎるが、すぐに気を取り直す。

 なぜなら、その挙動に――

『嫌な感じ』を、感じなかったからだ。

 そして、それ以上に。

 

「なんだよ、あの加速……!!」

 

 その加速が。

 あまりにも、常識外れだったからだ。

 

 すぐさま速度に乗ったアールヴァクは、自分を追い抜いたウマ娘たちを、更に追い抜き返していく。

 時に彼女らの間を縫い、時に大外から切り込んで――

 あっという間に、先団にまで追いついてしまう。

 

「……!!」

 

 その光景を、参加者の一人であるウマ娘は、しかと目撃していた。

 彼女もまた、目を見開いていた――後方から、いきなりぶち抜かれたからというのもそうだが。

 ひた走る彼女の姿は、その顔が――

 

 いかにも楽しそうに。

 綻んでいたからだ。

 

「……!」

 

 レースの先頭を走っていたのは、サイレンススズカ。

 アールヴァクは、その背後にまで簡単に追いつく。

 それを感じ取ったスズカは、視線をそちらへと向けていた。

 そこに見えた光景は、いつか自分が緩く望んだもの。

 

 ――本気の『彼女』と。

 共に走りたい、という願望、そのものだった。

 

「――来たのね」

 

 スズカは言う。

 それに、アールヴァクは、楽しそうに笑った。

 

「うん、」

「もう、平気そう?」

「うん!!」

 

 心底に嬉しそうに――

 答えた。

 

「もう――大丈夫!!」

「そう、」

 

 一転してはっきりとした、その言葉に。

 スズカもまた、嬉しそうに笑い。

 

「それじゃ、」

 

 言った。

 

本気(ガチ)で、行くわよ!!」

 

 それだけ、宣言して――

 彼女を追いつかせまいと、更に加速した。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 大逃げ、という戦術がある。

 基本四戦術に続く、『第五の戦術』と呼ばれるものだ。

 といっても、その内容は至極単純。ただただ、強烈な『逃げ』をかまして、誰も追いつけないまま勝負を決める、というもの。

 底抜けのスタミナと速度が必要になるため、よほど物好きのウマ娘でなければ取らない戦術、あるいは、一部の例外にのみ許された、規格外の走り方、だが――

 

 今、先頭の『二人』が繰り広げる競り合いは、正しくそれだった。

 

「……こりゃたまげたな」

 

 ゴールドシップは、苦笑いしながら後頭部を掻く。

 

「今まで……あんなとんでもねー逃げをかました奴がいたか?」

「いえ……あそこまでの速力、かの『紅い幻影(スーパーカー)』くらいでは?」

「ここに来て、スズカもポテンシャルが開放されたのかもしれないね。……なるほど」

 

 誰もが興味深そうにそれを見守る。

 後方との距離、目測でも5バ身。

 しかもそれは現在進行形で更新中だ。差はまだ開く、まだ開く――

 

「……他を寄せ付けない、次元の違う『逃げ』」

 

 それを目にしながら、ルドルフは言った。

 

「さしずめ――『異次元の逃亡者』、と言ったところか……」

 

 そんな彼女らの驚愕を傍目に――

 アールヴァクは走る、走る。

 周囲の景色が、高速で流れていく。

 風切り音だけが、聴覚を支配する。

 

 踏みしめる足裏から伝わる感覚のひとつひとつが、身体を走り抜けていく。それまで長らく、自分という名の存在は、世界の枠組みからズレているような気がしてならなかった。それがぴたりとはまり込み、今、あるべき場所へと戻って来たかのようだ。

 

 自分を縛り付けていた鎖は砕け散り、過去という名の暗闇が背後へと置き去りにされていく。複数の蝶が彼女に追いつき、追い抜き、空へと舞い上がると、光の粒となって消えた。もはや躊躇も、不安も――恐怖も、ない。青々と茂る緑が、広々と広がる空が、その全てが抱擁するように超然と見守っている。

 

 ――自分はここにいていいのだ。彼女はその確信を、理屈ではなく、肌で感じた。

 

「――はは」

 

 込み上げてくる感情に身を任せると、自然と口元が綻んだ。それは彼女が、長いこと忘れていた感情だった。

 

「ははははっ――」

 

 古ぼけた写真が色を取り戻すように、止まっていた歯車が動き出すように、自分の中の眠っていた感覚が、迸るように目覚めていく。

 

「あははははははっ――!!」

 

 ――楽しい。彼女の中にあったのは、ただそれだけだった。

 

 そうして二人は、行く、行く。

 周囲の状況など顧みず、走り続ける。

 他のウマ娘を、数えるのもバカらしくなるくらいの距離、突き放していることになど、目もくれない。

 本能に従うまま、感情に誘われるまま、ただただ、一心に前へと進む――

 

「――どう、アルちゃん!!」

 

 その中で、スズカの声が鮮烈に聞こえてきた。

 

「楽しい!?」

「――っ」

 

 それに、アールヴァクは答えない――否、答えられない、とした方が正しいか。ただスズカには、共に走る同胞には、言葉などという媒体は、既に不要だった。

 

「そう、」

 

 だから、彼女は言う。

 

「でも、先頭はもっと楽しいわ」

 

 自身が見る景色を、目に焼き付けながら――言う。

 

「遮るもののない世界、自分一人だけみたいな感覚、誰も自分に追いつけない爽快感、絶対感――」

 

 そのどれも、そこだけでしか味わえないもの。

 

「――やっぱり楽しいわね」

 

 走るのは。

 本当に、楽しいわね――!!

 

「――、」

 

 それにあてられたアールヴァクは、無邪気にも、同じ願いを抱いた。

 スズカの言う、先頭の景色というものを、目にしたくなった。

 ただ、それを目にするためには、目の前の彼女を抜かなくてはならない。

 

「っ――!」

 

 行く。

 自分も経験したいがために、更に加速する。

 ひととき、忙しなく揺れる鹿毛は、手の届く範囲にまで近づいたが。

 

「――でも、ごめんね」

 

 刹那。

 スズカは、悪戯っぽく笑っていた。

 

「先頭の景色は――」

 

 ――渡さない。

 そう言って――加速したアールヴァクを、更に上回って加速していた。

 

「……!!」

 

 それでみるみる双方の距離は開き――

 その上でなお、離れていく、離れていく。

 アールヴァクも必死に追い縋ろうとするものの、距離は開いていくばかり。

 3バ身、4バ身、5バ身――容赦なく遠ざかっていく、その背中を見て。

 彼女は――

 

「――……」

 

 凄い。

 そして。

 ――悔しい。

 そう、思った。

 

『――終了ーっ!!』

 

 ゴールドシップによる、高らかな宣言が響く。

 

『一着はサイレンススズカー! その圧倒的な速度で、見事勝利してみせましたぁ!! おめでとーっ!!』

 

「……、……」

 

 ゴール板を通り過ぎたスズカは、徐々に速度を緩め、立ち止まる。

 あれだけの速度で走り続けたにも関わらず、疲労は不思議と薄い。

 このままもう一周いけるんじゃないか――とすら思ってしまうほどだ。

 

 自分の手を見つめ、握り締める。

 長いトンネルを抜けたような感覚だった。

 きっと、これなら――彼女が無言で確信を持つ中。

 

「……」

 

 騒がしい足音は背後。

 振り返ると、そこには芦毛。

 ついさっきまで競り合っていた、『彼女』の姿は――

 

「……」

 

 ゴール板を通り過ぎても。

 

「……?」

 

 ほとんど減速せず。

 

「……!?」

 

 一直線に、スズカに向かい――

 

 振り返った彼女の胸に。

 勢いよく、飛び込んでいた。

 

「……」

 

 想定外の衝撃に、スズカの身体は押し倒される。

 

「――つか、」

 

 その力を抑えることは出来ず。

 

「まえ、」

 

 視界はすぐに空を映した。

 

「――たっ!」

「――っ」

 

 背中に走る衝撃に、顔を歪める。

 上半身を起こすと、目の前には小柄な身体。

 その表情は、嬉しそうに綻んでいる。

 

「えへへーっ、つかまえたっ!!」

 

 困惑するスズカの気持ちなどいざ知らず。アールヴァクは無邪気に言っていた。

 

「これでわたしのかちっ! つかまえてみなさいっていったもんね!」

「いや……確かに言ったけど……」

「わーいっ! かちかちかちーっ!」

「……もう」

 

 スズカの胸にぐりぐりと顔を埋めるアールヴァクの頭を、彼女はそっと撫でる。そこから伝わる体温から、確かに一人の少女の存在を実感する。

 おそらくこれで。

『事』は収まったのだ、ということを確信する。

 

「だ、大丈夫……?」

 

 恐る恐る近寄ってくるのは、栗毛のポニーテール。

 サファイアアリオンの呼びかけに、スズカは、苦笑いを浮かべた。

 

「えぇ。なんとかね」

「そっか……もう。ダメだよアルちゃん。いきなり抱き着いたりしたら」

「だってうれしかったから……」

「だってじゃないよ、一歩間違ったら大けがになってたんだから」

「……ごめんなさい」

 

 思ってたより素直だな、とスズカはそのやり取りを微笑ましく思う。と同時に、ひとつ疑問に感じた。

 

「……大丈夫そうなの?」

「え?」

「うぅん。普通に話してるから」

 

 あれだけのことがあり、これだけの走りを見せたのだ。『事情』を知っている者からすれば、多少なり警戒しそうなところである。

 にも関わらず、アリオンはごく普通に話しかけてきていた。躊躇いや戸惑いはないのか――そういう意図での問いかけだった。

 

「うん……まぁ、感覚的な話だけどね」

 

 そんなスズカに、アリオンは答えた。

 

「あの……『嫌な感じ』が、無くなってるような気がしたから」

「……」

 

 それを受けて、スズカは改めてアールヴァクを見る。

 

「?」

 

 小首を傾げる彼女の瞳には、スズカの姿がはっきりと映っている。

 何も知らない、産まれたての赤ん坊のような、透き通った瞳。

 確かにそこに――あの凶暴な雰囲気は漂っていなかった。

 

 そこにあったはずの深淵は。

 すっかり、鳴りを潜めていた。

 

「……そう、ね」

「……事は済んだ、ということでいいかな?」

 

 と、そこで声を掛けてきたのは、シンボリルドルフだ。

 ラチの外から見守っていた五人は、彼女を先頭に、ターフに足を踏み入れている。

 秘書が嘆くような顔をしていたが、アリオンはそれを見て見ぬ振りをしながら、

 

「――はい。ひとまずは」

「よし」

 

 答えに、ルドルフは手を叩き、一同を見回した。

 

「さ! みんな! 今日は遅くまでご苦労だった! 撤収しよう、関係者様もおかんむりだ」

「ひと言余計です」

「え、それじゃあ……!」

 

 彼女の呼びかけに、一人のウマ娘が反応すると。ルドルフは頷いていた。

 

「あぁ、一件落着だ」

『……!』

 

 各々が、その宣言に湧き立つ。歓び、笑い、労わり合い始める中。

 

「……アルさん」

 

 メイドは――アールヴァクの前にしゃがみ込んでいた。

 

「……めいどさん」

 

 旧友と再会したかのように、アールヴァクは彼女のことを呼ぶ。その様子を見て、メイドもまた、もはや警戒が不要だと実感したのだろう。安堵したように、口元を緩めていた。

 

「ようやく、お帰りになられましたね」

 

 そして、言った。

 

「――おかえりなさい」

「……」

 

 それに、アールヴァクは目を見開く。

 遠い昔。まだ自分が幸せだったころ。聞いたきりだった、懐かしいその言葉を、再び聞いて。

 

「――、」

 

 しゃがみこんだ彼女に――

 ゆっくりと、抱き着いていた。

 

「――ただいま」

 

 それに、メイドもまた応じる。その温もりに、アールヴァクはようやく安心感を得ることが出来たのか。

 

「……、」

 

 程なく力を抜くと。

 

「……、……」

 

 可愛らしい寝息を、立て始めていた。

 

「……え、寝ちゃった?」

「自由過ぎない? さすがに……」

「あははは……」

 

 呆れるアリオンとスズカに、メイドは困ったように笑う。まぁ――仕方がない、と思った。

 こうなってしまうのは、ある意味当然の帰結だと。なぜなら。

 

「……色々、ありましたからね」

 

 そう。

 色々、あったのだから。

 

 ぞろぞろと関係者たちが動き出す。夜はすっかり深まった。目標が達成された以上――もう、外に留まる理由はない。

 

「――さ、それでは、帰りましょう」

 

 器用にアールヴァクを負ぶさったメイドは、立ち上がりながら、スズカとアリオンに言った。

 

「それぞれの、家に」

 

 それを聞いて、顔を見合わせた二人も――

 また。重責から開放されたように、頷き合うと。

 その場に立ち上がり。帰路を歩み始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――クソォッ!!」

 

 男は、携帯電話を、あらん限りの力で壁に投げつけていた。

 派手な衝突音があたりに響く。男の住まいは共同住宅、本来なら苦情が届いてもおかしくないが、生憎と彼の両隣の部屋は空き室だった。

 

「あ、あああ、あの、あの女ァッ! 嘗めたこと言いやがってぇッ!!」

 

 故に――男がいくら騒ごうとも、それを宥める者はいない。

 薄暗く、雑然とした部屋の中で、男は叫ぶように怒鳴り、やがて小ぢんまりとしたデスクの前に座ると、煌々と明かりを発するパソコンのキーボードを叩き始めた。

 

「い、いいい、今に、今に見てろっ!!」

 

 ぶつぶつと呟きながら、男はあるサイトを開く。

 それは、世に有名なソーシャルネットワークサービスだ。表示されるのは、自身のアカウント。

 

「そ、そうだ、僕には、僕には、数万からのフォロワーがいるんだっ!」

 

 投稿用のウィンドウに、荒々しい文言を素早く入力した彼は、マウスを操作し。

 

「そいつらを使えば、お、お前なんか、すぐにっ……!!」

 

 それを世界に向けて、発信しようとした。

 

 

 

 ぴんぽーん

 

 

 

「――誰だッ!!」

 

 刹那――鳴ったインターホンの音に、彼は噛み付くように反応する。だが、それに応える声はない。

 ただ不気味なまでの静寂が、玄関へと続く廊下を満たすように広がるばかりである。

 

「……」

 

 ――マジで誰だ?

 怪訝そうに男は立ち上がり、廊下を歩いていく。

 くだらない勧誘とかだったら、怒鳴り返してやる――そんな物騒な思いを胸に、ドアの鍵を開け、ノブに手を掛け。

 

「……今忙しいんすけど、何の用……」

 

 そう、いかにも不機嫌そうに言いながら、ドアを開けた。

 ――が。

 

「……」

 

 その言葉は、最後まで紡がれない。

 思わず、途中で区切ってしまうこととなった――なぜなら。

 そこに、ロングコートに身を包んだ、長身の男が、威圧的に佇んでいたからだ。

 傍らにはもう一人、スーツ姿の男。

 双方ともその目は、冷徹なまでに冷え切っており、出てきた彼を見下ろしている。

 

「……な」

 

 その雰囲気に気圧されながらも。男は、辛うじて言った。

 

「な、なんすか」

「████さんですね?」

 

 その名前は、自身の名前だった。聞き間違えようもなかった。そうですけど――男はしどろもどろながら、それに答える。

 

「……」

 

 すると、ロングコートの男は。

 おもむろに、コートの懐を弄る。

 取り出した手には、手帳のようなものが握られており。

 男に見せつけるように、その『蓋』が開いた。

 

 そこには。

 ロングコートの男の顔写真と、名前の記された『カード』が収められている。

 

「――私、」

 

 そして――男は、言った。

 

「警視庁公安部・公安第二課主任――█████と申します」

「……」

 

 混乱からか、現実逃避からか。男の耳には、その男の告げた名が、はっきりとは聞き取れなかった。

 だが彼の目は、その手帳に書かれた彼の名前を、確かに認識していた。特に――

 

 

 

 ――冬天

 という苗字を。

 

 

 

「……あなたには現在、多数の嫌疑が掛けられています」

 

 呆然とする男に、ロングコートの男は続けた。

 

「署まで、同行願います」

 

 結びとして告げられた言葉に、男は口端を歪める。

 それは悪巧みの証ではなく、観念の表出であり。

 

 ――糞、と。

 胸のうちで、毒づいていた。

 

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