「ん? どうしたの?」
テイオーの声が、鈴を鳴らすように響く。
「そわそわしちゃって」
「いや……なんか、まだ信じられなくてさ」
文字通りそわそわと落ち着きがなかったナイスネイチャは、その逃げ場とするように問いかけに答える。
「アタシなんかが、副会長なんて……」
高級感あふれる一室――
生徒会室は、自分には似つかわしくない気がしてならない。
装飾品は使用人の風格を追うと聞いたことがあるが、部屋も同じなのかもしれない、と彼女は思った。
この、綺羅びやかな部屋が。荘厳な一室が。
なんだか、精一杯に見栄を張っているように見えてしまう。
「何言ってるのさ。キミは自己評価低すぎなんだよー」
そんな彼女に、テイオーは――
二代目生徒会長という名誉を受け継いだ、トウカイテイオーは答えた。
「冷静で、大人びてて、達観してて……」
そういう冷静な視点こそが。
こういう組織には必要なのだ。
「……予感がするんだよ。ボクはたぶん、何か、大きく間違える。きっと」
「そんなこと……」
「そんなこと、あるんだよ。実際さ……不安で仕方がないんだ。ボクで本当にいいのか。ボクなんかに、本当に務まるのか……」
その言葉を聞いて、テイオーの姿に、自分自身の姿が重なったのを感じる。不安、心配――恐怖。壇上であれだけ誇らしげにしていた彼女が、今や、とてもちっぽけに見える。
「……だからさ、ネイチャ」
彼女は言う。
だから、もしも。
「もしも、ボクがこれから、何か、間違えるようなことがあったら……その時は」
その時は。
「思い切り、ボクを、……ぶん殴ってほしい」
「ぶ――ぶん殴る……!?」
「あはは。まぁ、ものの例えだけどね。ボクの目を……どんな手を使ってもいい。覚まさせてほしい」
軽快に笑うが、テイオーの目は、依然として翳っている。
本当に、そんな心苦しい未来を見つめているかのように、憂いを帯びていた。
「……キミならそれが出来る。いや、キミにしか出来ない。ボクは、そう信じてる」
「……大げさな。アタシは……」
「お願い」
なおも謙遜を続けるネイチャの目を、テイオーは真っ直ぐに見つめる。それに晒されては、さしものネイチャも、言葉に詰まるしかなかった。
同じように、それを前にしては。
冷徹に切り捨てることも、また――
「……、」
元より――
指名され、受け入れた時点で。それを拒むつもりはないということだった。
観念したネイチャは、一つ小さく息を吐く。
「……しょーがないね。そう言われたら」
そして、テイオーの元へと歩み寄ると。
拳を、彼女に差し出していた。
「お供しますよ、カイチョーさん」
「……うん」
それを見たテイオーもまた、拳を差し出し。
「よろしくね」
お互いのその表面を――
軽く、打ち付けていた。
しくじったかもしれない、とネイチャは、レース開始早々感じていた。
スタートは決して悪くなかった。ゲートに変に阻まれたわけでも、出遅れたわけでもなかった。ただ全体の走り出しが、それと同じ、それよりも綺麗なものだった。
結果として、相対的に自分は出遅れたような形となり、後方のバ群に囚われそうになる。本当ならもっと先団に入り込みたかったが、こうなっては後の祭りだ。変に固執すれば、体力を浪費してしまう。
仕方がない、と中団に狙いを定め――結果として、後団の先頭付近に陣取ることになった。
興奮しかけた頭を落ち着かせ、集団の分析に務める。速めのペースに大きく置いていかれることなく、トウカイテイオーは安定した走りを見せていた。
彼女もまた上々な滑り出しで、見事に先団に入っている。集団のペースに合わせながら、前へと出られる瞬間を見定めている様子だ。
その背中を、その王座を、どうすればぶんどることが出来るか――ただ、今がその時でないことは確かだ。
落ち着け、大丈夫。
彼女は自分にそう言い聞かせる。
まだ勝負は始まったばかり。焦るべき時じゃない。ペースを乱されないよう、置いてきぼりを喰らわないよう、努めて冷静に展開を分析する。
3コーナーを回り、4コーナーへ。
ただ、あまりにも分析に力を入れすぎていたせいか。
「っ……!!」
やや膨らみ気味に、コーナーを回ってしまった。結果として、ホームストレッチに差し掛かった時には、下から2番目にまで順位が落ちてしまった。
一時の油断で、すぐに足元を掬われてしまう。やっぱしくじったか――などと思う、彼女の前。
トウカイテイオーは、未だに先団に食らいついていた。
「……、……」
――あぁ、やっぱすごいわ。
ネイチャは、そう感じる。
彼女は、自分と住む次元が違う。ずっと、事あるごとに感じてきていた。
初めて会った時も。
廊下で偶然、行き合った時も。
……生徒会役員として、指名された時も。
格の違い、住む世界の違いを、感じずにはいられなかった。
だからこそネイチャは激昂したのだ。あの時――テイオーが、自分はダメだ、などと自暴自棄に陥った時。
きっと、自分の力がなくとも立ち直れる。そう信じていたのに。
結局自分の手を借りなくちゃ。
立ち直れなかったんだから。
そうだ、立ち直ってくれなくては困るのだ。
生徒を引っ張る、サイキョーのトウカイテイオーでなくては困るのだ。
覇気を失い、迫力をも忘れた彼女を、抜き去ったところで、価値など無い。
王座は、王座たるからこそ、簒奪するに足るのだ。
そして今日の彼女は――その王座に相応しい、素晴らしい走りを見せていた。
「――!」
ホームストレッチの半ばを過ぎたあたり――
それまで先団に入っていたはずのテイオーが、少し速度を落としていた。
中団に紛れ込み――
遠くにあったはずの姿が、間近に迫る。
「――どーしたの、帝王サマ!?」
そんな彼女に、ネイチャは声を張り上げた。
「ご休憩ですか!?」
「ははっ――そんなとこ!!」
答えに、内心少し安心するネイチャ。彼女の脳裏をよぎっていたのは、例の『模擬レース』の時のテイオーだった。
あの時彼女は、後方で力尽きて棄権、という結果に終わってしまったが――
今回は、そんな心配は杞憂らしい。
「でも休んでばっかじゃ――」
ならば――と。
ネイチャは、息を入れた。
「抜いちまいますよっ!」
レースは1コーナー――
彼女は大胆な作戦を取った。
やや膨らみ気味に走り、一気に先んじてしまおうという話だ。
上手くいけば、今より遥かに有利な状況を作れる。
「――っ、」
が。
かの『帝王』が、そんな悠長な作戦を許すはずもない。
「奇遇だね、」
それに合わせたように――速度を上げる。
「ボクも、同じこと考えてたっ!」
「っ……!!」
とはいうものの、テイオーは既に内側に陣取っている。
そうなれば、体力の浪費なくコーナーを曲がれるのは、テイオーの方だ。
舌打ちは、激しい風切り音と、蹄鉄の音で掻き消される。
やっぱそう簡単にはいかないか、と思いながらも、自身の作戦は曲げない。
行く。
行くしかない、と彼女は走る。
させない。
させない、とテイオーもそこに競り合っていく。
1コーナーを抜け――
2コーナー。
更には、向こう正面に至るまで――
二人は、激しい競り合いを見せた。
「――、」
「……、」
――はは。
ネイチャは、内心で笑う。
いや、もしかしたら、表情でも笑っていたかもしれない、と感じる。
楽しいな。
楽しいな、と、単純に思う。
雲の上の存在、次元の違うウマ娘。
ずっとそう感じていた彼女と、こうして競り合っている事実が、ネイチャにはたまらなく楽しく、尊かった。
自分の努力、自分の時間、それら全てが、それだけで価値あるものだったと、肯定された気分になった。
ただ、それは飽くまで、気分になっただけ。
まだ、事実として認識するには程遠い。
結果として、確かに手に取るまでは、実感までには至らない。
もっと前へ。
更に先へ。
絶対に、勝利を――そう考えて、何とか前へ出ようとするが。
「……っ」
開いていく。
徐々に、テイオーとの距離が開いていく。
その間を埋めるように、他のウマ娘も介入し、程なく再び、抜き去るのが難しい状況となってしまった。
レースはもうすぐ3コーナー。
そこを抜ければ4コーナー、そしてあっという間に最終直線だ。
もたもたしている暇はない。
躊躇している余裕もない。
ここで前へと出られないのなら――もう残った選択肢は。
3、4コーナー。
そこしか、ない――!
「――ふぅっ、」
狙いを定める。
気持ちを集中させる。
深呼吸をし、頭を落ち着かせた。
……そうだ。
まだ、レースは終わっていない。
最後まで、勝負はわからない。
焦らず、冷静に、仕掛け時を見極めろ。
そうすれば、きっと。
『帝王』の喉元に、
届く――!
そう信じて、ネイチャは一旦力を抜く。
勝負の時に備えて、力を温存することにする。
そして――そんな風に。
冷徹なまでに冷静に、勝利を狙う彼女の――後方。
その少女もまた。
鋭い眼光を以て。
虎視眈々と。
その時を狙っていた。
「……、……」
――マチカネタンホイザ。
中央の――『眠れる才女』。
「――それでは、自己紹介からお願いします」
「あー、はい」
そのチームの一室で、三人分の視線を一心に受けたナイスネイチャは、照れ隠しのように後頭部を掻きながら、口を開いていた。
「ナイスネイチャですー。 まぁそのー、なんというか。一応アドバイザーってかたちではありますけど、そのー、まぁ、あんまりこの場には相応しくないかもなー……みたいな気持ちもあったりなかったりで。そのーまぁ、えっとー……」
片手間に、お願いしますね。
へらへらと笑いながら言ったネイチャに、ツインターボ、イクノディクタスに混じり、拍手をするマチカネタンホイザ。
他の二人の印象は、見てくれからは見て取れなかったが――
――なんだこいつ。
それが、マチカネタンホイザの最初の印象だった。
ストイック。
周囲からの、マチカネタンホイザへの大概の評価は、それだった。
ふわふわ、おっとりしているように見えるが、実際は片時も自身の研鑽を怠らない。
自前のトレーニング用のメモ帳を同級生に覗かれた時には、軽く戦慄されたほどだった。
ただ、マチカネタンホイザ本人は、それそのものをストイックだとは思っていないし、鼻にかけるようなこともしていない。
特別なこととも思っていない。思うはずもない。
勝負に直向きに向き合うものとして、それらは当然、果たすべき務めだと考えているからだ。
かといって、誰かを貶めることもしていない。
人には人の向き合い方がある――ずっとそう思ってやってきた。
そんな彼女でありながら。
初めて苛立ちを覚えた相手――それが、他ならぬナイスネイチャだった。
彼女は――言うなれば変わっていた。
自分がこれまでに会った、どのウマ娘とも違っていた。
実力そのものは、自分とはさして変わらないものの。
何かこう、人を惹きつけて止まない魅力がある。
にも関わらず――彼女はそれを頑なに認めない。
自分はそれに相応しくない――などと雑に自虐し、評価を遠ざける。
その言動が。
マチカネタンホイザには、たまらなく腹立たしく感じられたのだ。
何言ってんだこいつは?
何言ってんだコイツは。
謙遜ならまだしも、称賛に、自虐や自嘲で返すなんて、相手への冒涜だろう。
褒めてくれた相手への。
競ってくれた相手への。
称賛には勝利を。
勝利には感謝を。
以て応える。それが双方への最大の敬意じゃないか――
故に、気に入らなかった。
故に、腹立たしかった。
表向きでは気丈に振舞いながらも。内心では強い情熱を抱いていた。
自分は違う。
自分はその先へ行く。
こんな奴なんかに負けない、と。
ずっと、そう心に決めて戦ってきた――
――『あの時』までは。
有マ記念――
彼女にとっての、菊花賞に続く、二番目の大舞台。
結果は3着に終わったものの――それを見届けたマチカネタンホイザは、直感的に感じていた。
――あぁ、きっとこの人は。
『持っている』ウマ娘なのだ、と。
競レースは
方々でよく言われることだ。
自分は持っていない方なのかもな、と考えながらも、それだけに努力を重ねてきた彼女だったが。
あの歓声を聞いた時。あの持ち上がりを目撃した時。
――きっと、ナイスネイチャは大物になる。
それを、直感で感じた。
自虐しながらも。自嘲しながらも。
打ちのめされても。成績に恵まれなくとも。
結局諦めず、挫けず、折れず、直向きに戦い続ける。
その姿から――自分との距離を感じた。
私は。
この人にはなれない。
この人には。
追い付けない。
きっと、いくら努力しても。いくら頑張っても。
追い越すことなんて、出来ない――
「……なんかブルーじゃない?」
「へ」
ある日の食堂で。
そんな心中を見抜いたように、ネイチャは言っていた。
「嫌なことでもあった? ネイチャさんで良かったら、相談乗るよ?」
「い……いやぁ、あはは。実は最近、お金が足りなくてですねぇ……」
マチカネタンホイザは、咄嗟にこそ体のいい言い訳を口にするも、刹那、耐え切れなくなってしまう。
「……ごめん。ちょっと行くね」
「え?」
二、三言葉を交わすと、逃げ出すように――いや、正しく、その場から逃げ出していた。
すれ違う同級生たちにばれないように、顔を俯かせながら。
「……っ」
彼女は、涙を流す。
「――うっ……うぅ~っ……」
悔しい。
悔しい。
こんなに頑張ってるのに。こんなにも努力しているのに。
結局全部は、カミサマの決めた、『血統』なんでいう
わかってた。
本当はわかってたんだ。自分なんかじゃ務まらないってことくらい。
血の滲むような努力は、その自信の無さの裏返しでもあったのだ。
――悔しい。
メモ帳が、山のように積み重なっていく。
――悔しい。
映像を観過ぎて、ものもらいを発症した。
――悔しい、悔しい、悔しい――!
勝つ。
絶対に勝つ。
負けない。
負けてなるものか。
なおも燃え上がる情熱は、ありとあらゆるを燃やし尽くさんばかりだった。
その背中に。
きっと、絶対に、追い付く、と――
「――、」
3コーナー。
彼女は息を入れ直す。
今すぐにでも食らいつきたくなる衝動を。
冷静に、冷徹に、飼い慣らす――
――競レースは刹那のスポーツ。
もたもたしていれば、すぐに勝負は決する。
ごく短時間の中で、最善を選び続けなければならない、狂気的な時間は――
間もなく終盤戦へ。
「――ッ!」
トウカイテイオーが、速度を上げ始める。
順位を捲ることの出来る、ほぼ最後のチャンス。
中団の先頭付近で息を潜めていた彼女が、先団との距離を詰める。
それを目撃したナイスネイチャの頭に、閃きが迸った。
――どうする。
スローモーションの世界の中で、声なき自分の問いかけが走る。
――行くのか、ここで。
確かに競争は最終盤、仕掛けなければ意味がない。
――でも、位置取りはあまりよくない。外目を回ることになる。
――下手すれば、下位まで真っ逆さまに――
迷いと、惑いと、躊躇いと――
無数の感情が、思考が、刹那の間に行き交い鬩ぎ合う。
どうする。
どうするんだ、自分。
追い詰めるように、試すように。口々に叫ぶその言葉に対して――
ネイチャは、行動で応えた。
「――ッ!!」
行く。
行くしかない。
ここで速度を上げたということは、これがテイオーの
そこを追い抜ければ――!!
「――!」
そしてそれを、テイオーも感じる。
追い縋る彼女に――悪戯っぽい笑み。
「ははっ――」
挑発するように、彼女は言った。
「ホンットにボクが大好きなんだから、キミは!」
「そのとーり!!」
――あぁそうだよ。
彼女は思う。
――その通りだよ。
彼女は、考える。
アタシはアンタが大好きだ。
大好きだから、支えたくなった。
大好きだから、怒鳴り散らかした。
大好きだから、尊敬してるから――
勝ちたいって。
思ったんだ。
アタシをこんなにしたのはアンタなんだ。責任取ってくれなきゃ困る。
そうでなくちゃ、
納得しなきゃ、受け入れなくちゃ。
次の段階にまで、至れない――!
頭がおかしい、とみんな言うだろう。
イカれてる、ってみんな笑うだろう。
おかしくたっていい。イカれてたっていい。
この姿は。その背中は。
アタシが乗り越えなくちゃいけない、
「――あ、」
行く。
だから、行く。
「あ、あ、あ、あ、あ――」
全力を賭して。全霊を賭けて――
「ああぁぁぁぁぁぁッ!!」
追い縋る、追い縋る――
夢にまで見たその白い衣装を、そうして、とうとう追い越し――
「――ごめんね、ネイチャ」
――かけた。
その時だった。
「キミの努力は知ってる。その情熱も知ってる。ボクを追い越すために。ボクに勝つために。ずっと頑張り続けてきたことも知ってる」
テイオーは言う。
彼女は語る。
追い付きかけた彼女に、無情なまでに言葉を投げかけて。
「――でも、足りない」
その瞳が。
鋭く、彼女を突き刺した。
「まだ――足りない」
瞬間。
トウカイテイオーは、更に、加速していた。
油断したわけじゃない。
慢心した覚えもない。
それでも、目の前で起きた出来事を、ネイチャはすぐには理解出来なかった。
――は……?
それが『全力』だと思っていた。とうとう追い抜けると考えていた。
だがそんな彼女を裏切って、テイオーは更なる加速を見せていた。
まだまだ彼女は――
『底』を見せてはいなかった。
――は……!?
ぞくり、と悪寒が走り抜ける。
みるみる開いていく距離を感じながら、ネイチャはその事実をようやく認識した。
嘘だろ、と。
冗談でしょ、と――
――まだ、
――まだ、上がんのかよ――!?
糞、と毒づいた彼女は、しかしともかくも、このまま減速するわけにもいかない。
加速するその背中に追いつこうと、自身もあらん限りの力で応じようとする。
が――距離は縮まらない。
それどころか、ますます開いていくばかりだ。
「……、……!!」
――ちくしょう。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう――!!
レースは3コーナーを終え、4コーナーへ。
必死に足を動かすも、間に別の選手に割り込まれ、後続にまで追い付かれ始める始末だ。
レースはラストスパート、誰もが全速を出す。
――届かないのか。
追いつけないのか。
結局、最後まで、彼女には突き放されたままなのか。
もうこの距離を、埋めることなんて出来ないのか。
でもどうすればいい?
あと、何をすればいい。
頑張ってきた。努力してきた。やれることを何もかもやってきたはずだ。
コンディションは万全、バ場の状態も良好。勝負にはうってつけの条件だった! あと、あと何を、あと、何を、どうすればいいっていうんだ!
なんで。
なんで。
なんで、追い付けないんだ――!!
「――くそ」
嫌だ。
「くそ、くそ、クソッ――!!」
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
追い付けないなんて嫌だ。最後まで負けたままなんて嫌だ。負けたくない、もう負けたくない!!
これで終わりだなんて、
そんなの、絶対に、嫌だ――!!
「クッソォォォォォッ!!」
とにかく加速する。
とにかく全力を出す。
一歩でも前へ。半歩でも先へ。その一心で、最終直線。彼女もまた、死に物狂いのスパートをかけた――
「――ここだ」
――その。
刹那だった。
最終盤、後続も中団も入り乱れる混沌の最中、その内側――
特徴的な帽子が走る。
――マチカネタンホイザが。
内ラチから、猛烈に追い上げてきていた。
――!?
それを、ナイスネイチャはしかと目撃していた。
それまで後続で息を潜めていたマチカネタンホイザが、力を解き放ったかのように加速する。
大外と内側――数人のウマ娘を挟み、視線が交錯する。
あのほんわかとした柔らかな目はどこへやら。
喰わんばかりの鋭い目が、彼女を突き刺していた。
――コイツ……!!
先とはまた別の焦燥が、ネイチャの感情に割り込む。
その視線を受けたことで、彼女の中に予感が浮かび上がり、そしてそれは即座に確信へと変わった。
コイツ――
――アタシしか、
――見てないッ……!!
しまった。
しくじった。
テイオーに固執するばかり、有効なコースを警戒し切れていなかった。
こちらが全力を出したのを――こちらも見切られた。
その姿が。普段の様子からは想像もつかない姿が。
ネイチャの喉元にまで迫る――
「――ごめんねネイチャ」
マチカネタンホイザは言う。
「真剣勝負に、水を差したくはないけどッ――」
もはや、あとは走るだけだ、とばかりに。ゴール板を見定めて。
「――私だって、」
私だって。
「負けに来た、わけじゃないッ――!!」
「ッ……!!」
――行かせるものか。
させるものか。ネイチャは文字通りの全力疾走。
マチカネタンホイザもまた、全速力。
結果として二人は、間に割り込んだウマ娘をも追い抜き、先へと躍り出る。
だがそこは先頭ではない。
彼女らと2、3バ身は離れた先で――トウカイテイオーは、2位のウマ娘と競り合っている。
「――、――……!!」
もう、ゴール板はすぐそこ。
ネイチャの中には、冷静な予感が去来していた。
届かない。
ここからじゃもう、追い付けない。
わかってる、分かり切ってる。それを乱暴に肯定しながらも、まだ身体は諦めを知らない。
走れ、走るんだ。
戦え、戦うんだ。
あの背中に、あの姿に。
アタシは、きっと、絶対に――!!
「ッ、」
行け。
「ッ――」
行け。
「ッ――!!」
行け――!!
――と。
夢中で、霧中に、走り続けた――……
ナイスネイチャは、白い空間にいた。
あれ、と彼女は意識を取り戻す。
そこは病室――ではない。自分は立っているし、周囲に調度品の類もない。
そうでない部分との境界も明らかでない、全面が、気が狂いそうなほどに、真っ白な空間――
――……
どうしたのだろうか。
自分は、さっきまで、レースを走っていて――と、いやに落ち着いて考えた先。
目の前に。
見覚えのある姿があった。
――……テイオー?
声なき声が言葉を紡ぐ。
背中を向けていた彼女が、それに反応して振り返る。
相対した彼女は、にこりと笑うと。
ネイチャ、と彼女の名を呼んだ。
――ありがとね。
そして、言うのだ。
――キミのお陰で、ボクはここまで来られた。
――キミがいたから、ボクは、今までやってこれた。
――あの時……ボクがくじけそうになったあの時。怒鳴ってくれてありがとうね。
――やっぱり、キミを副会長にして正解だった。他の子じゃ、あぁはいかなかったろうしね……
――な、
何言ってんの、とネイチャは言う。
まるで全てが終わったように。まるで全てが決したように。
彼女は言うけれど。
まだ終わってない。まだ決してない。
アタシはまだ、何一つ、納得もしてないのに――
――いいよ。
そんな彼女の言葉を遮り。
テイオーは、言う。
――もう、いいんだよ。
どこか、寂しげに。
どこか、慈しむように。
――もう、ボクの背中を、追わなくて、いいんだ。
……言うのである。
――……今ならわかるな。カイチョーの気持ち。追われる側って、こんな気分だったんだね。
――ごめんね。ネイチャ。傍に置いたばっかりに、ボクという鎖で、がんじがらめにしちゃって。
――でも、もう、これで、終わり。全部、全部、おしまい。キミは自由になって、ようやく、別の場所へ行ける。
――大丈夫。ここまで着いてこられたキミなら、きっと、どこへだって行けるよ。
――だから。
――……だから。
だから。
――またね、ネイチャ。
――ボクは、一足先に行くよ。
――この世界の、もう一歩、先へ。……
言い切って。
テイオーは、背を向ける。
ネイチャの返事も待たずに、走り出したその背中に――
――……
ネイチャは。
手を、伸ばしていた。
『――!!』
砲声のような歓声が会場を満たし、人々が歓喜に打ち震える。
ある者は抱き合い。ある者は笑い合い。ある者は、飛び跳ね、そして拍手をした。
『トウカイテイオー、奇跡の復活!!』
祝福の海の中で、テイオーは立ち止まる。
息を整えながら、震える手を見て、握り締める。
『一年ぶりのレースを!! 制しましたッ!! トウカイテイオー……!!』
「……」
レースの結果を。意地の行き着いた先を。身体で、肌で、理解し、受け止め――
「――ッ!!」
握り締めた拳を、高く掲げる。
それに呼応したように、会場を満たす歓声は、もう一回り大きくなった。
手を下したテイオーは、観客席を見渡し――
一息を吐く。
人々が、喜んでいる。
誰もが、自分の名を呼んでいる。
圧勝、とまではいかなかったが、それでも、十全の結果だと彼女は感じた。
それらを一心に受け止めた――
……これが。
自分の夢の、終着点だと。
「……」
振り返る。
そこには、膝に手を突き、息を整えている姿がある。
見慣れた、自分の相棒。何よりも信頼出来る、仲間。
「……ネイチャ」
その姿に、テイオーは声を掛ける。
「……、」
多くは語らない。
ゴールの直前。何かが通じ合った気がした。
誰も知らない世界の中で。
彼女らは短く語らい、感情を告げた。
全て語った。
全部託した。
もう、それ以上は不要だ――彼女は、そう考えた。
「……本当に」
だから、改めて紡ぐ言葉も、短かった。
「本当に……ありがとうね」
キミがいたから、ここまで来られたのだ。
全部、全部、キミのお陰だ。
だから。
だから――と。
飽くまでテイオーは、彼女のことを思って、そう言ったが。
「……」
当のネイチャはというと。
膝に手を突いたまま、顔を上げる。
しかしその瞳は。
未だ。
熱が燃え滾っており。
「……?」
それに、まず疑問を抱いたテイオーは、小首を傾げる。
「ネイチャ……?」
名を呼んだ彼女に。
ネイチャは、いかにも悔しげに、歯軋りをした。
「――けんな」
そして、言い。
それをテイオーが訊き返す――よりも、早く。
「――ふざけんなッ!!」
ネイチャは。
テイオーの胸ぐらに、掴みかかっていた。
ざわ、と、周囲の歓声が、どよめきに変わる。
何、どうしたの。
喧嘩? ――予想だにしない事態に、人々が不穏にざわめく。
それを間近で観ていたマチカネタンホイザも、思わず目を丸くしていた。
ネイチャ――? と、声を掛けそうになる。
「勝手だッ……アンタは勝手だッ!!」
だが、叶わなかった。
ネイチャが、周囲のどよめきにも関わらず、怒鳴り始めたために。
「終わったとか追わなくていいとか、アタシの感情を勝手に決めつけんなッ!!」
彼女は続ける。
「アタシだって、アンタがいたからここまで来られた。アンタのお陰で、こんなところまで走ってこられた! こんなアタシでも、夢ってもんに執着出来るようになったんだよッ!! アンタのお陰で、アンタがいてくれた、お陰でッ!! なのにアンタが、その、アンタがッ……!!」
噛み締めるように。
食い殺さんばかりに――
言った。
「――アタシの夢をッ!!
勝手に終わらせんなッ!!」
まだ自分は。
何も出来ていないと。
何一つ。
成せていない、と――
「……辞めるなんて言うなよ」
彼女は言う。
「ここで終わり、だなんて言うなよ」
まだ走れるのなら。
まだ、やれると、言うのなら――
「――勝手に終わらせといて、逃げるだなんて、言うなよ……!!」
「……」
――テイオーは、周囲に視線をやる。
今やざわめきすらも収まり、奇妙な静寂が辺りを包んでいる。
誰もが、自分たちを見守っている。奇異の目で、あるいは不安げな目で。
選手も、観客も――
あの。
『編入生』も。
「……、」
もちろん。
そんな『自分勝手』な願いを、受け入れる筋合いはなかった。
彼女が納得していなかろうが、満足していなかろうが、そんなことは、自分の進退には、関係が無かった。
応えなくていい――そう思ったし。そうするべきだとも思った。
――でも。
――自分であれば?
本心に問いかければ。
そして――そして、あの偉大な『先輩』であれば。
果たしてどうするか――そう考えた時。
「……、……」
湧き上がってきた答えは。
ひとつだった。
「テイオー……」
「……離してよ」
「テイオー、」
「離してってば」
「テイオー!!」
「離せ」
「……っ」
ネイチャは、乱暴にテイオーの胸ぐらから手を離す。服を軽く叩き、乱れを整えたテイオーは、未だ激しく肩を上下させているネイチャを見て――
くすり、と。
笑っていた。
「……ワガママだなぁ、キミは」
そして、呆れたように言う。
「『おばちゃん』はもう、さっさと隠居しようって思ってたのに」
今日のレース。
否。
これまでのレース。今までの出来事。それら全てに、思いを馳せながら――
「……そんなこと言われたら」
答えた。
「――また、
走りたくなっちゃうじゃん」
「――!!」
目を見開いたネイチャは、テイオーに再び詰め寄ろうとする。
「じゃあ……!!」
「でも、わかってるよね?」
そんな彼女を。
制するように、テイオーは両腕を広げる。
「来年ともなれば、色んな子たちが出てくる。『ターフの道化師』。『女王の後継者』。『スローペースの申し子』――そして、『あの子たち』」
きっと楽しくなるよ。
「そう、きっと、とっても、とっても楽しいことになる。今までにない――アツいレースになる。
ボクを着け狙う奴なんて、キミだけじゃ収まらない。ははっ、もしかしたら、みんなに狙われちゃうかもねー……」
ただ――そう言うも。
彼女の目は、怯えていなかった。
妖艶なまでに。
その瞳を。
光らせて――
「――かかってきな」
言った。
「みんなまとめて、
相手してあげる!」
そしてそれは――
事実上の、『続行宣言』に、他ならなかった。
『――!!』
会場が、再びの歓喜に包まれる。
それに余裕そうに手を振ってから、彼女は、ネイチャに視線を向け直した。
その顔は。
嬉しそうにも、泣き出しそうにも見える。
「……っても、ホントにこれが最後だからね」
釘を刺すように、テイオーは言った。
「せいぜい悔いが無いように、努力することだよ」
「……望むとこだよ」
それに、ネイチャも応じる。
「その玉座――今度こそ、奪いとってやる!」
「……」
未だ闘志冷めやらぬその言葉に――
テイオーは、どこか安心したように、再び笑い。
「期待してる」
そう言うと、背を向けて。ようやく、ウィニングサークルの方へと歩き始めた。
それを見届けるネイチャに――
「――っ!?」
背中から、衝撃。
叩かれた、という事実を認識した彼女は、勢いよく振り返る。
そこには……あの、見飽きるほどに見慣れた帽子。
「マチタン……」
「もぉ~!! 見直したぜよっ、ネイチャセンパイッ!!」
「だからって叩かなくても……」
「むむ~? 胸ぐら掴んだ人に言われたくないですねぇ~?」
いやまぁ、確かにそうだけど、とネイチャは先の行動を反省する。気が立っていたとはいえ――
さすがに軽率に過ぎたか、と、思わず頬を掻く。
「――よしっ、マチタンも、もっかい頑張るよっ!!」
そんな彼女に、マチカネタンホイザは大きくガッツポーズをする。
「マチタンこそ、今度こそ! ネイチャを追い越してやるんだから!!」
「……、」
それに目を丸くして――ネイチャは。
また、にやりと笑いながら。
「ジョートーだよ」
そう、返事をしたのだった。
今回で引退する、と目されていたテイオーさんは、まさかの現役続行を宣言――
誰もが予想し得なかった展開に、世間はしばしその話題で持ち切りとなった。
一時は波乱が巻き起こると思われた有マ記念は。
そうして、何から何まで想定外なまま……
盛況のうちに、幕を閉じた。……
そして、
時は過ぎ。
季節は、
巡る――……
「……ん」
控室で最終確認をしていると、控えめなノックの音が聞こえてきた。
「はい」
「入るぞ」
答えると、もう見飽きるほどに見知ったトレーナーさんが、中へと入ってくる。彼女は私の姿を一瞥すると、満足そうに頷いていた。
「おめかしは済んだか?」
「ちょうど」
「調子は?」
「……」
それに私は、掌に拳を打ち付けて、答える。
「――絶好調!」
「結構」
それを聞いたトレーナーさんは、満足そうに――
「それじゃ、始めるぞ」
私に、言った。
「お前の目指した夢――
――最後の、