夢を見ていた。
ずっと、夢を見ていた。
「アリオンくん?」
暖かな春の陽気の下。
『ご神木』の前に立っていると、校長先生は、そう話し掛けてきていた。
「何してるのかね? こんなところで」
「うん。あのね、えっと……『約束』してたの!」
「約束?」
振り返って答えると、校長先生は不思議そうに首を傾げていた。
「うん! ご神木って、ずーっと前からあるんでしょ。だから、これからもずーっとあるだろうから、約束してたんだ!
私、
絶対、
すっごいウマ娘になってみせます、
って!」
「それはいいねぇ」
それは遠い日の記憶。
無邪気に口にした約束。
色褪せた写真のような記録。
蜃気楼のような幻覚。
それは思い出。
過ぎ去った、思い出。
「……うん。先生! 私、絶対になるからね! 期待しててね!」
「うむ。期待しているよ。それじゃ、今からいっぱい、いっぱいお勉強しなきゃな!」
「……それとこれとはお話が別です!」
「別じゃあない! さ、教室戻るぞ!」
遥か昔の夢。
今やもう――
目の前にある、夢。
……聞こえる。
遠くから、声が聞こえる。
何度も耳にしてきた声。
何度もこの身に浴びてきた音。
「……」
道を歩いていくたびに、その音は近くなっていく。
音が近くなるにつれて、鼓動も早くなっていく。
歩きながら、私は、掌を見つめる。
武者震いを。
思い出を。
……想いを。
そこに確かめて。
強く――握った。
「――っ」
大丈夫。
怖がっていない。
怯えてもいない。
躊躇いもない。
もう。
もう。
あとは、行くだけ。
だから――
だから。足を速める。
だから、私は。
眼前に広がる。
光の中へと、
かけ出す――
『――!!』
……会場は。
中山競レース場は。
相も変わらず、とんでもない分厚さの歓声が響いていて。
ただでさえ昂っている心が。
更に、昂っていく。
目の前には、幾人もの、ウマ娘が立っていて。
その中には――
確かに見知った。
見慣れた。
見果てた姿も――ある。
「……」
来た。
遂に、来た。
遂に、遂に、ここまで来た。
ここまで、来たんだ……
私の、
私たちの、
夢の、舞台に……!!
「――、」
と、
いう思いのまま、叫びそうになって、踏み止まる。
いやいや、さすがにまだ早い、私。まだ出走どころか、ゲートインも済んでないのに。
まるで勝ったかのような感情出すのはまずいって。
「……ステーイ、ステーイ」
自分で自分を落ち着かせるため、呟く。そして改めて……
改めて、周囲を見回す。
見間違えるはずはない。頬を抓っても……ちゃんと痛い。うん。大丈夫。夢でもない。
とうとう来た。ここまで来たんだ。ここまで、来られたんだ……!!
中山競レース場――有マ記念大会に……!!
色々あった。
本当に、色々、あったけど。
もうここまで来たら……あとはやるだけ。あとは、走るだけ。
この大会で――
1着を、もぎ取るだけ――!
「――おーおー、随分浮ついてんじゃねーか」
そんな私に声を掛けてくるのは、ボーイッシュな声。
ラフでアウトローな感じの服装の、赤髪。
「慌てるなよ、まだ始まってすらいねーんだから」
「……ご忠告どうも」
心配してるのかしてないのかよくわからない言葉に返すと、彼女もまた楽しそうに笑う。フェアちゃんは――いい感じに、リラックスしてそうだった。
「しかしホント、実際に立つととんでもねーな」
彼女は観客席を見回して、言う。
「『あの時』のレースなんか目じゃねーよ」
「……そりゃね。あのテイオーさんが、まさかもう一度走るなんて、みんな思ってなかったんだから」
しかし、今回の注目株は、それだけじゃない。
新進気鋭のウマ娘、場数を踏んだ古参も入り乱れる、結構な混沌だ。
「……荒れるよ。今回のレースは」
「荒れる、じゃなくて」
するとそれに、フェアちゃんは返した。
「
「……」
私がそれに、自覚できる程度には悪い笑みを返した時。
「……レースの直前まで悪巧みですか?」
割り込んでくるのは、凛とした声。
「呑気なものですね」
「のんきー」
それと、可愛らしい声。
「やだなもう。そんな小細工、今更するわけないでしょ」
白が基調の、スーツのような服装に。
亜麻色の、だぼだぼのコートみたいな服。
スレイちゃんにアルちゃんも、そこに姿を現していた。
「ここまで来たら、もう走るだけだもの。変な小細工はむしろ邪魔じゃない?」
「どうでしょうね。あなたはよくよく、悪知恵が働きますから」
「ありおんちゃん、わるいこー」
「人聞き悪いなーもー」
そこで三人、沈黙。そうか? とばかりに目を合わせている。いや……まぁ。
うん。確かに、みんなを引き入れる時は、あの手この手を使ったけどさ……
「買い被っちゃ困るよ。『悪役』なんて名ばかりなんだから」
「ま、そういうことにしといてやるよ」
「それが作戦かもしれませんからね」
「ゆだんたいてき!」
そうして四人。出走前とは思えないほど、藹々と話した時。私はひとつ、あることに気が付いた。
「……あれ。アルちゃん」
それは、アルちゃんの耳。そこに、見覚えがあるけれど……見覚えのないモノが着いていたのだ。
「『それ』って……」
「……あ。うん。これは……」
「ちょっとちょっと~」
彼女が答えかけた時。もう一つ、別の声が飛んできていた。
「オトモダチだからって、いちゃいちゃされちゃ困るよ~?」
目を向けると、そこには。四人のウマ娘。
「セイちゃんたちも混ぜてくれないと~」
スカイさんに。
「ま、調子良さそうで何よりよ」
ドーベルさん。
「ですわね~。本調子でなくては、やりがいがありませんから~」
ブライトさんに。
「でもでも、ターボも今日はぜっこーちょーだぞ! 負けないからな!」
ターボさん。
どれも、私のよく知った――
お世話になった、『同級生』たち。
けれど、そこに『あの姿』はない。
もし出走していれば、この上ない脅威となっていたであろう橙色――
――異次元、とまで称された。
逃亡者の姿は……
「……」
――あぁ、そっか。
アルちゃんの着けている、それは。
『緑色の、耳カバー』は。
もしかして……『そういうこと』、なんだろうか。
「こらこら~、そんなブルーになりなさるな~」
思い至った私の表情が、あまりに暗かったからだろうか。
スカイさんは、私の脇腹を肘で小突いてくる。
「何せ世紀の一戦! なんだからね~。気合い入れていかないと~」
「……いやいや。別に落ち込んでなんかいないよ」
「うぅん。でも気持ちはわかるわよ。……スズカさんにも、ここにいてほしかったよね」
「仕方がありませんわ。それこそ、どうにもなりませんから……」
なんだかんだで、話したことで、その場全員の気持ちがちょっと下向く。それを知ってか知らずか。
「――おし!! 今日はみんな、全力でがんばるぞ!」
ターボさんが、元気よく叫んでいた。
「スズカのぶんまで、がんばって走ろう!」
「……だね」
――そうだね。
起こってしまったことを思っても、しょうがない。今ここにいる私たちなのだから――これから起こることに、向き合わなくちゃ。
「負けないからね、みんな!」
「は、言うまでもねーよ」
「望むところです」
「ん。負けない!」
「わかっていますよ~」
「トーゼンよ」
「お手柔らかに、お願いしますわ~」
各々、今回のレースへの意気込みを新たにする中。
『――!!』
会場を包み込んでいた歓声が大きくなる。
弾かれたように、バ道へと目を向けると。
そこから、二つの人影が現れる――
「……はは。お出ましだ」
スカイさんが、軽口みたいに言う中。
私は、一番にそこに歩み寄る。
考えてみれば。
私の、学園での始まりは、『そこ』にもあったように思う。
それは人によれば、呪いというのもかもしれない。
あるいは、鎖なんて言うのかもしれない。
それでも、それが私の夢の一部を支えてくれていたことは確かだった。
胸が高鳴る。
夢にまで見た光景。
とうとう目の前にして――叫ぶのを通り越して、飛び上がってしまいそうだった。
ナイスネイチャ。
トウカイテイオー。
二人が――本バ場に、入場していた。
「……」
ネイチャさんは、何も言わない。気を使ってくれているのか、単に声を掛けることが無いのか。ただ、お陰様で、視線は、テイオーさんの方へと集中させられた。
「……」
彼女もまた、何も言わない。
向けた視線に、返すことで応えるだけ。
その視線を通して、色んな思い出が伝わったように思う。
決闘レースに始まり。
食堂での会話。
模擬レースに。
演説――
お世話になった。
本当に、頼りにした。
でも今は。
とうとう、これからは。
共に、一番を奪い合う、ライバル同士――
「……テイオーさん」
私は。
彼女に、言った。
「……来ましたよ、約束通り」
ここまで。
とうとう。
ようやく。
ここまで――
「うん」
彼女は。
私に、言った。
「待ってたよ」
そして。
歩き出す。
「やり合おう、今日は」
存分に。
気が済むまで――
「……」
脇を通り抜けたテイオーさんを見送り。
一歩前に出るのは、ネイチャさん。
「……色々あったね。今日までさ」
彼女は、観客席を見回す。
見回すけれど、そこに見ているのは、集った観客だけではなさそうに見える。
「ぶつかり合ったし、いがみ合ったし。手を取り合ったし、支え合った」
でも、今日は。
もう、ここまで来たからには。関係ない。
「……躊躇も遠慮も必要ない」
もう。
お互いに。
心行くまで――
「――、」
彼女は。
私を、威圧的に見下ろしながら。
言った。
「一番かけてやり合おうぜ。……クソ
「……」
私は。
それに、怖気付かない。
一歩も引かず。
その目を見つめて。
「……上等ですよ」
返した。
「クソ
「……」
彼女は笑みを深めて。
テイオーさんと同じように、脇を通り抜ける。
私はしばしその背中を見送って……
同じように。
歩き出そうとした。
……その時。
一陣の風が吹き抜ける。
「――……」
それに導かれるみたいに。
背後へと、目を向けた。
そこには――これまで、何度も目にした。
でも、ある時を境に、めっきり関わらなくなってしまった、姿がある。
「……お久しぶりですね」
彼女は、歩み寄ってくる。
まるで、何ら変わらないことのように。
柔らかく、愛らしく、笑いながら。
「こうしてまた会えたこと……嬉しく思います」
私は。
それに、答えられない。
答えられないまま――見つめるしかなかった。
彼女を。
――『黒桜の舞姫』。
サクラチヨノオー……
……結局、今、この瞬間に至るまで、彼女とは関わり合いにならなかった。
お互い、壁で隔てられたみたいに、話すこともなかった。
だというのに、彼女は何ともなしに、こうして話しかけてきている。
まるで何事もなかったかのように。
まるで、何事もなく、関わっていたかのように――
「……どうしました?」
押し黙っていることを不審に思われたんだろう。
小首を傾げる……チヨちゃん。
私は、なんでもない、と首を横に振った。
彼女は、そうですか、と特に追及もしない。
「想像以上の盛り上がりですね」
ネイチャさんがそうしたみたいに、観客席を見回すチヨちゃん。
一頻り確認して、その視線が私の顔に戻ってくる。
「……悔いのない勝負にしましょうね」
「……うん。もちろん」
返事をすると、彼女は歩き出す。
私の傍にまで、その姿が近付いて――
「――、」
その口が。
小さく息を吸ったのが分かった。
「――覚悟してくださいね」
私にしか聞こえないくらいの声量で。
彼女は言った。
「あなたにだけは……絶対、勝つ」
「……」
目を向けても、既に彼女は通り過ぎた後だった。
その背中が、私の元から遠ざかっていく。
それをしばし見つめてから――
「……、」
私も、独り言ちるように答えていた。
「……望むとこだよ」
さて、少し時は遡り――
『さぁ年末の中山で争われる夢のグランプリ、有マ記念! あなたの夢、私の夢は叶うのか!』
アリオンたちの故郷では、教頭の家に、親戚知り合い友人諸々一同が、集まっていた。
「斎藤さん!! ほら早く早く!!」
「あぁーもう、わかってるって!!」
お世辞にも広いとは言えない居間に集まった彼らの目は、目の前。
この日のために導入した大型テレビ、そこに映る、中山競技場に向けられている。
各々、ハチマキやらメガホンやらタオルやら何やら、応援するための物品を持ち寄り。
その時を、緊張した面持ちで待ち続ける。
一方同じく、中山競レース場から、遠く。
ヒスイグループ本社ビル、社長室付近では。
「――あ! みんな! また社長が抜け出そうとしてる!!」
秘書の女性が、大声で呼びかけていた。
『おおおおおぉぉぉ――!!』
するとどこに隠れていたか、大勢のスーツ姿の社員が現れ――
廊下の途中、ぎくり、と身体を震わせた壮年の男性――スレイの父を、やや乱暴に取り押さえていた。
「社長室に連行しなさい!! パスワードをもう一度替えますよ!!」
「嫌だぁー!! 行きたい行きたい行きたいぃー!! 実の娘の晴れ舞台に立ち会えない親なんて、親失格だぁー!!」
「わからないことを言わない!! この日のために、社長室に
「うわぁー!! ちくしょー!! 小林君めぇー!! こんなタイミングで面倒な商談持ってきおってー!! 末代まで恨んでやるー!!」
だだっ子のように叫ぶ社長が連行されていくのを見ながら、秘書は腕時計を確認する。時計の針は、出走までもう間もなくであることを示していた。
そして――現地、観客席。
「フェア姉ーっ!!」
ターフの様子を見守るガゲキホーセンは、大きく手を振りながら呼びかける。
彼女自身、その声が届くと思って呼びかけたわけではない。
だがフェアの目が彼女らの方に向けられ、更には手を振り返したことで、届いたという事実を認識する。
それだけで飛び上がりそうになるセンの傍ら、感慨深そうな目をしているのは、ダイトウカンショーだ。
「……すげぇよな。本当にこんなところまで来ちまった」
「いやいや、あの時ショーも、あんたなら出来るって言ってたじゃん。信じてなかったの?」
「信じてたよ。信じてたさ。でも……やっぱり無理なんだろうなって思ってたんだよ。少しくらいは……」
彼女の目は、憧憬に揺れている。かつては陰ひなたで、かつては闇の世界で。煌々と光る灯りのように走っていた、『紅い閃光』。
それが今、この、光に晒された大舞台に立っている。その現実に、感動して止まなかった。
「……本当にすげーよ、あの人は」
「でもでも、私たちもがんばってる! みんな凄い!」
「そうだね。リョホーの言う通りだ」
彼女だけが凄いのではない。変わったのは、成長したのは、自分たちも同じ。
中央には入れなかったけど、それぞれの地方で、それぞれなりに頑張っている。久々に顔を合わせて、見てくれという意味でも、その成長ぶりに驚いた。
凄いのは――みんな、同じだ。
「……きみもそう思うでしょ、エンゲツ」
センの声は、難しそうに黙っているエンゲツへと向けられる。それを受けても、彼女の顔のもやもやは晴れず、何事かを心配しているがごとくだ。
彼女も彼女で、フェアの行く末を案じているのか。そう思ったセンは、
「……大丈夫だよ、きっとフェア姉なら、やってくれるさ!」
根拠が無くとも、そう言うが。
「いや……そうじゃなくてさ」
エンゲツの不安、というよりも不満は、そこではなく。
「あ? だったらなんだってんだよ」
ショーの追及に――
「――っ」
耐えられない、とばかりに、彼女は頭を抱えた。
「あぁぁぁっ! もぉ!! やっぱりむずむずするーっ!!」
彼女の不満は――
フェアの行く末でも、センの心配でも、リョホーの能天気さでもない。
「なんであんたそんなに変わっちゃったのよ! 見た目も、喋り方も! 違和感あり過ぎなのよ!!」
――ショーの変わりよう、だった。
それもそのはず。ダイトウカンショーは、数年前――まだフェアの元で世話になっていたころは、ツインテールにマスク、片言の喋り方と、特徴がマシマシだった。
が、今目の前にしている彼女は――そんな姿はどこへやら。
髪は流しており。マスクも外している。口端に付いた、刃物によるものと思しき痛々しい傷跡も気にせず。
話し方は、ごくごく普通の少女のそれ。
「……なんだよもう。あたしが変わったのがそんなに変かよ……」
おまけに――一人称まで変わっている始末だった。
彼女は、エンゲツの不満に、少し残念そうだった。しゅんとしてしまった彼女に、批判の目を向けるのはセンとリョホー。
「……その言い方は無いよエンゲツ」
「うん。さすがにちょっとひどい……」
「え、えぇ……いや、べ、別に、他意があったわけじゃなくてさ……」
一転して自身の言動を反省したエンゲツは、気まずそうに視線を泳がせる。本気で言っていたところはあったものの――
それが嫌というわけではない。ただ違和感なだけ。それだけだった。
「その、なんていうか……張り合いがなくなるっていうか……」
自分が置き去りにしている気がして。
自分だけが、子供のままなような気がして。
少し――
寂しいような気がして。
「成長するってのはそういうことだろ」
そんな彼女を諭すように、ショーは言う。
「悲しむことでも、寂しがることでもねー。ありのままを受け入れりゃいいだろ」
「そう……なんだけどさ」
簡単にそう出来たら、どれだけいいことか。
そこまで考えて、やはり自分は子供のままだ、ということを自覚してしまい、なおのこと自己嫌悪に陥るエンゲツ。
ただ――ショーもショーで、それを非難したいわけではなく。
「……でもまぁ、お前はそのままでいてくれていいんだぜ」
優しい声色で、言った。
「お前のそういうとこ、好きだから」
「っ……」
その言葉に。
エンゲツは、顔を真っ赤にし――
「――ああぁぁぁッ!! やっぱダメッ!! お願い!! お願いだから元のショーに戻ってぇー!!」
「無茶苦茶言うなよ……」
「あはは……ま、元気ならそれでいっか」
「仲良きことは何とやらだね~!」
そんな風に騒ぐ四人の、遥か後方。
観客席の最後方に、『彼女』の姿はあった。
「……」
トウチュウエイ。
かつてルビーフェアと壮絶に競り合った彼女もまた、広大なターフを見下ろしている。
フェアはそれに気づいた様子はないが、トウもまたそれで構わないと思う。
お前が、どんな結果を見せるのか。
夢を追い続けた果てに――何を見つけるのか。
それを。
「……見せてもらうぞ」
誰にともなく、そう呟き。
レースの開始を、一人静かに、待ち続ける。
そしてその、反対側。
「……」
アールヴァクの世話役だったメイドは、開いたロケットペンダントに収められた、小さな写真に落としていた視線を、ペンダントを閉じつつ、前方へと戻す。
ターフ上。芦毛が楽しげに踊っていることを認めると、母のように柔らかな笑みを浮かべた。
それと同時――顔を振ったのは、明らかにこちらへと近づいてくる、無機質な音が聞こえたからだ。
「……あ」
人影は、計四つ。まず一番に目に入った顔に、彼女は会釈する。それは刈り上げた髪型の特徴的な男性――チームスピカのチーフトレーナー、西崎。
「いよいよだな」
「えぇ……今日のこの日を、どれだけ待ち望んだことか」
「ははは、街中を走り回ってたのが懐かしいな」
チームメイト、今やOGとなった、ゴールドシップ。
「えぇ。もう、彼女を貶める人もいませんわね」
同じく、メジロマックイーン。
そして――もう一人。
「……スズカさん」
西崎の手元――
彼の押す、車椅子。
そこに座った、一人の少女。
「……」
それまで、顔を俯かせていたサイレンススズカは。
メイドと目を合わせると、精一杯の笑顔を浮かべる。
だがそれが、胸の悲しみを、辛さを、悔しさを、必死に押し殺した結果だということを、見るからに痛感してしまい――
胸の絞めつけられた感覚がし、気の利いた言葉の一つもかけられなくなる。
どんな言葉を紡いだところで。
それらは、何の意味もなさないような気がしてならなくて。
「……っ」
縋るように。
彼女は、ターフの方へと目を向けた。
願うように。ぎゅっと、胸の辺りに、手を握って。
「……見届けましょう」
決意したように、スズカに言う。
「あの子の、雄姿を」
にも関わらず、スズカは――
依然として、暗さを拭い切れていない表情で、浅く、頷くだけだった。
――ファンファーレが響く中、選手たちが、ゲートへと向かっていく。
それを、集った観客たちが見守る。
「テイオーの、前人未到の二連覇か、他の子の下克上か。……どうなるか、予想もつかないね」
「その変化に揉まれなければいいけれど……」
シンボリルドルフと、チームリギルのトレーナー、東条ハナが。
「ぐやじぃ~~っ!! マチタンも走りたかったぁ~!!」
「体調不良では仕方がありませんよ。その分、精一杯応援しましょう」*1
「……、」
マチカネタンホイザと、イクノディクタスと、南坂が。
「……」
「……」
どこかそわそわしているライスシャワーと。
サファイアアリオンの、トレーナーが。
――そして。
「……」
アリオンの、父親が。
「……!」
今すぐにでもかけ出してしまいそうになるのを、必死に抑えながら歩いていたアリオンは、その姿を認めていた。
彼は、腕を組み、いかにも満足そうな表情で、彼女を見つめている。
不安も。心配も。憂いも無く。あとは、思い切りやってきなさい――無言で、そう語っているように見える。
「……、」
その彼に。
アリオンは、サムズアップすることで、応えていた。
それをしかと目にした父も――また、老健な口端を、柔らかく綻ばせる。
ウマ娘たちが、ゲートに収まっていく。
さしたる混乱もなく、状況は進んでいく。
自身もゲートに入り、サファイアアリオンは、ひとつ、深呼吸をした。
目を閉じると――過去の出来事が、走馬灯のように蘇る。
苦難。
苦悩。
懊悩。
困難。
思わず、周囲を見回していた。
ゲートに入ったライバルたちは、皆、既に前方を見据えている。
自分のように、きょろきょろしている者などいない。
だからアリオンもまた、自虐的に笑いながら、前へと目を向けた。
――静寂が訪れる。
それは、
感じ慣れたはずのその感覚も、今はひときわ、特別なもののように思える――
「……位置について」
始まる。
「よーい……」
始まる。
「……、」
始まる――
その緊張と、胸の高鳴りが。
最高潮に達した、時だった。
「――どん」
重厚な音。
静寂が破られた音。
それを合図に、少女たちは、一斉に走り出す。
未来のために。
目標のために。
夢のために。
――勝利のために。
その戦いの――火蓋を切っていた。