ウマ娘が、本来なら縁もゆかりもない他人に対し、不思議な親近感を覚えるのは、珍しいことではない。
理由については諸説あるが、ウマ娘が神秘の塊であるが故か、『別世界の繋がりの証拠である』という説は大きく支持されている。
トウカイテイオーというウマ娘がトレセン学園に入学した頃、シンボリルドルフとの容姿の相似はよく取り沙汰され――
そして大方の例に漏れず、彼女もまた、シンボリルドルフに対し、強い親近感を覚えていた。
「どーんっ!!」
「うおっ!?」
ある日の廊下で。
まだ新バ戦を終えたばかりのトウカイテイオーは、厳然と歩くシンボリルドルフに背後からタックルしていた。
「えへへーっ!! びっくりした? カイチョー!」
「テイオー……全く君は……」
私が受け止められなかったらどうしたんだ?
そのような常識的な問いかけに、彼女は、それはあり得ないよ! と恥ずかしげもなく即答する。
なぜなら。
「カイチョーはカイチョーだからね!」
「何言ってるんだか……」
だが、ルドルフはそれを邪険にはしない。
せがまれるまま……彼女をおんぶし。
行き交う生徒の注目を集めつつ、廊下を歩いていく。
「あっ、そうだカイチョー!」
もうどうとでもなれ、とばかりに、ルドルフは無邪気な彼女に応じる。
どうしたー? と。
「カイチョーって、無敗でクラシック三冠取ったんだよね?」
「ん……まぁ、そうだね」
どこか照れたように言う彼女に、テイオーは一頻りはしゃぐと、
「じゃあじゃあ、ボクも同じことするよ!」
「……同じことを?」
「うん! ボクも、無敗でクラシック三冠ぶんどってやる!」
「……それは簡単じゃないぞ、テイオー」
それまで、娘をあやす母のようだったルドルフは――
一転して、真剣な声色で言う。
「クラシック路線は、二冠でも偉業と言われるほどのものなんだぞ」
それを一度も負けずに、全て勝つ。
過酷、という言葉でも生温いほどの、いばらの道だ。
現に、彼女がそれを達成して以来。
長いこと達成者が現れていないことが、何よりも如実に物語っている。
「血の滲むようなトレーニングを積まなくてはならない。……それでも、目指したいのか?」
「うん! ダイジョーブだよ!」
覚悟を試すかのようなその問いかけに。
テイオーは、躊躇いも、淀みもなく答えていた。
「なんてったってボクは、無敵のテイオー様だからね!」
きっと、カイチョーみたいになってみせるよ!
太陽のような笑顔を浮かべながら、高らかに宣言していたのだ。
何もかも順調のはずだった。
立ちはだかる壁も、立ちふさがる障害も、危なげなく乗り越えて来たはずだった。
一冠目。皐月賞。
2着に1バ身を付ける、余裕のある勝利だった。
二冠目。日本ダービー。
今度は3バ身もの差を付けた。
自分に対する声援に対し、二本指を立てて応じた――これで二つ目だ、って。
世間はボクの三冠達成ムード一色だった。
かの『皇帝』に続く偉業だと。
歴史に刻まれる名バとなると。
いや、今の時点ですでに刻まれてるだろ――などと。
ボクに、夢を期待してやまなかった。
「――骨折ですね」
……本当は、医者に罹る気は無かった。
気のせいだと思っていたから。
それでも、ボクの歩様に違和感を覚えたトレーナーに、無理矢理に連れていかれた病院で。
そう診断された。
全治六か月。
それまでは、くれぐれも安静にするように。
レースなんて、以ての外。
無論、三冠目の菊花賞は断念せざるを得なかった。
天国から。
地獄に突き落とされた気分になった。
日本ダービーの前でなくてよかったと考えよう――トレーナーさんはそう言ってくれたけれど、気分は落ち込んだまま。
別にカイチョーは、本気で
本心で、期待していたわけでもないだろう。
それなのにボクは、彼女の期待を、希望を裏切ってしまったような感覚になってしまって。
……そこから、全てが狂い始めたのだ。
偉業を称えられ、能力を認められ、ボクは会長の座を受け継ぐ。
中等部二年で受け継ぐのは、異例の事態だった。
卒業の直前まで、カイチョーと、副会長に指名したネイチャは、ボクを補助してくれたけれど。
胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちは、いつまでも治らないままだった。
それでも、時間は過ぎていく。
それでも、レースは待ってはくれない。
浮ついた気持ちのままでも、故障が無いよう、しっかりと準備をし。
年度明けの、春の天皇賞にて復帰した。
直前まで、何の問題もなく走れていたし。
地の果てまでも行けそう――そんなことまで思っていたのに。
……結局、惨敗、とまではいかずとも。
キャリア初となる、手痛い敗戦となってしまった。
1着を千切ったマックイーンにも――その時、聞かれてしまった。
何があったのかと。
今のあなたは、何かがおかしいと。
図星を突かれ、動揺したボクは……彼女と激しい口論をしてしまい、それ以来、ろくに話せてもいない。
胸に空いた穴は、徐々に、それでも確実に大きくなって……
自分とそれとの境界も、やがてはわからなくなっていた。
目に見えない虚空に、意志も何もかも飲み下されたみたいに。
ボクの中には、遂に何も残らなくなってしまったのだ。
「……」
――空っぽだった。
それを埋めるために、夢中で走り続けていた。
我武者羅に走り続けていた。
闇雲に駆け続けてきた。
仄かな光さえ見当たらない暗闇の中を、一心に探し続けていた。
自分の目指すべきものを。
自分の追うべき背中を。
……そんなものは。
もう、
そこにはなかったというのに。
……わからなかった。
何のために走ればいいのか、もう、わからなかった。
あぁ。
羨ましい。
羨ましいなぁ。
あんな風に走れて、本当に、羨ましい。
片や、ボクの代わりに使命を請け負い、年甲斐もなく後輩に臨む副会長。
片や、勝てない勝負とわかっていながらも、泥臭いまでに食らいつく編入生。
きらきらしていた。
きらきらしていた――二人は。
そうだ。時代というのは、いつだって、輝きを背負うに値するものが作っていくもの。
それを示せない者に、資格なんてない。
――トウカイテイオーは。
もう、終わってしまったのだ。
「……、」
……あぁ、そうだ。
どうして、今にしがみつくんだ。
『彼女』の意志を受け継げる者は他にもいる。新しい時代を築ける者は、目の前にいる。
くだらない地位や権利のために、みっともなく足掻く意味がどこにあるんだ。
いいじゃないか。手放しても。
いいじゃないか。諦めても。
託そう。あの子たちに。
譲ろう。この子たちに。
……自分の想いを。
未来を。
意志を――
果たして、もらおう……
終わろう。
ボクという時代を。
もう、閉じてしまおう――
「……、……」
だから、脚を動かす。
だから、意を決する。
踵の辺りに力を入れて。
猛然と駆ける二人に。
背を向け――
「――テイオーッ!!」
……ようとした。
その時だった。
誰かの声が、聞こえたのは。
「がんばれっ、テイオー!!」
それは、この競レース場を満たすには、あまりにも小さく。
あまりにもか弱い、女の子の、声だった。
「走って!! お願い!! 走ってよ!! 負けないでっ!! テイオー!!」
「……」
「……あぁ、あぁそうだ!!」
それに呼応するように。
別の声が、上がる。
「がんばれテイオー!! あんなやつらに負けんな!! 無敗の二冠バの意地、見せてやれ!!」
「そうだよ!! まだ勝負は終わってないよ!! がんばって!!」
「テイオー!!」
「テイオー!!」
『テイオー!!!!』
「……」
……ボクは。
それを受け止めながらも、困惑する。
それを聞きながらも、当惑してしまう。
……なんで?
なんで、みんな、そんなことを言うの?
見ればわかるじゃないか。ボクは終わった。
トウカイテイオーは、終わったんだ。負けたんだ。『諦めたんだ』。
これだけ無様な姿を見せつけたんだ。
ボクなんかに期待しなくていい。
ボクなんか見なくていい。
他に応援するべき背中は、今、他にあるじゃないか。
それなのに、どうして。
それなのに、なんで。
どうして。
どうして――
どうして、
終わらせてくれないんだ?
……目を泳がせる。
悲痛なまでの、叫びにも似た声援を上げる観客席――
その最前列。
「……!」
そこに。
ボクは。
あの姿を。
見ていた。
――追い続けた、『皇帝』の姿が。
確かに、そこにあった。
「……カイチョー」
もちろん、その声は聞こえていない。
この距離じゃ、表情もろくに見えない。
それでもなぜか、不思議と、彼女が、安心したように目を伏せたのがわかった。
優しげに。
言葉を紡いだのが、わかった。
「――、――……」
――それで、
――いいんだ。
と。
母のように、慈愛に溢れる声が、聞こえたような、気がした。
ボクは走っていた。
一寸先も視界不良の闇の中を走っていた。
そこには、道しるべも、終着点もない。疲労し切った身体はもう行けないと泣き叫んでいて、ボクはそれに従って立ち止まっている。
真っ暗な荒野で、ボクは一人きりだった。目の前に、誰かの姿は無かった。夢の残像は気配すらもすっかり消え去っていて、他に感じられるものは何もない。その世界の中では、空と地面の境界すらも曖昧だ。
そこに座り込もうとする。使い古されたエンジンみたいに、悲鳴すらももはや上げなくなった心を捨ててしまおうとする。けれどそれを引き留めるみたいに、ふっと何かの映像が脳裏をよぎっていた。
それは記憶だった。ボクが初めて、公式レースを走った時の感覚だった。
集った観客たちを、興奮と驚愕に晒した鮮烈なデビュー戦。ボクは無邪気に、楽しげに、彼らに手を振っていた。
場内が、はち切れんばかりのテイオーコールで満たされる。自分を包み込む声援の海の中で、ボクは誰かに期待される感覚に心酔していた。
そうだ、ボクはここにいる。トウカイテイオーの伝説が、これから幕を開ける。
しっかり見ていてね、みんな。片時も見逃さないでよ、誰も彼も。
レースに絶対はない、が覆されたように。
ボクが。ボク自身が。
これから、『絶対』になってやる。
「――……」
過去の情動が閃き、それが音もなく弾けて光の粒となって漂う。蛍のように思い思いに飛び交うそれらの名を、ボクは良く知っていた。
ボクは偉大な光に導かれて、前だけを見て走り続けていた。小さな同類は、より大きな同類に取り込まれて同化するように、始まりの背中を押した純朴な感覚は、今や取るに足らないものにまで成り下がってしまっていた。
それでも、呑み込まれた感覚は、消し去られたわけではなく、いつだってボクを包み込んでくれていたのだ。
ここにいる、君はここにいる。
生きている、確かにここで生きている。
『皇帝』は偉大だ。その偉業は素晴らしいものだ。でも、それでも、
――だから、期待しているのは、偉業の達成じゃないんだ。
だから、待ち望んでいるのは、その後を追い切ることじゃないんだ。
期待しているのは。
望んでいるのは。
ボクの作る未来なのだ。
ボクが走る姿なんだ。
トウカイテイオーの、
見せる夢なのだ。
「……ぁ」
――あぁ。
どうして、忘れていたのだろう。
どうして、気付かなかったのだろう。
どうして、
今まで、
思い出せなかったのだろう。
暗澹たる荒野の上空が、群青に色めく。錐で穴を空けたみたいな無数の星々が、暖かな眼差しをボクに向ける。他に何もない無尽の世界に、小さな新芽が顔を出し、やがては広がっていく。
いや、もしかしたら、最初からそうだったのかもしれない。
空が白んで、星々の光が消える、名残惜しさに手を伸ばすけれど、同時に、足元に伸びる影が、自分のもの一つだけではないことに気が付いた。
導かれるように背後を振り返ると。
そこには、数えきれない想いの欠片が、直向きに煌めいていた。
……なんだ。
難しいことじゃ、なかったんだ。
簡単な話だったんだ。
前を向きすぎて。先頭を走りすぎて。振り返ることも忘れてしまっていたのだ。
……ボクを支えてくれる人は、いつだって傍にいてくれた。
ボクは。
一人じゃ、なかったんだ。
「――っ」
出所の分からない光が優しく暗闇を追い払い、ボクの進むべき道を明瞭に照らす。相変わらずその先は見えなかったけれど、不思議と恐怖は感じなかった。
長いこと忘れていた、未だ見ぬ世界への期待と希望が、果たさなければならない新たな理想と願望が、空っぽだった胸の内を満たしていく。
――そうだ。
失われたものが、自分の中に戻っていく。
――そうだ。
あれだけ諦めたのに。あれだけ捨てたはずなのに。
今。
走りたくて、走りたくて、たまらない――
――なら、行こう。
行けるよ。
――大丈夫。
きっと平気さ。
――地の果てまで、天の果てまで。
影も理想も、借り物の夢も、もう要らない。
――迷うこともない。
ボクはもう。
大丈夫だ。
――テイオー、
――いってらっしゃい。
「――おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!」
そして。
ボクは、叫んでいた。
「――!?」
直線を、半ばあたりまで走ったところだろうか。
背後から突如として聞こえた声に、思わず立ち止まっていた。
それはネイチャさんも同じで、二人、同時にそちらへと振り返る。
声の主は――テイオーさんで。
彼女は、顔を真上に向けて、競レース場中に響き渡るほどの絶叫を響かせていた。
その華奢な体に不相応なほどの。
強く、大きな、咆哮。
「…………」
辺りが静まり返る。
時間が止まったかのような、錯覚。
永遠に続くかと思われた、その時間は――
「――!」
視線の先のテイオーさんが。
勢いよく、身体をかがめたことで、断ち切られていた。
遠く見えるその瞳に。
さっきまでの空虚さは。
もう、『どこにもない』――
「……」
ぞくり、と。
身体に、悪寒が走る。
私が、それを受け入れるのを待たずして――
彼女は。
こちらに、走り出していた!
「――っ」
やばい。
やばい、やばい、やばい……!!
来る。
テイオーが。
来る。
『帝王』が。
来る――!!
「――ッ!!」
そして――それに追い立てられるように。
私もまた、走り出した。
トウカイテイオーは、間もなくしてナイスネイチャのすぐ傍を走り抜ける。
彼女はその背中を見つめると、呆れたように笑みを浮かべていた。
一度は静まり返った場内は――
先ほどまでのものよりも、一層大きな歓声に包まれている。
「……ったく」
後頭部を掻いた彼女は言う。
「っとに、世話が焼けるんだから」
ともあれ、自分もここに残るわけにはいかない。
決闘参加者ではないが――
みるみる遠ざかっていく二人を、彼女もまた、追走し始める。
――落ち着け。
必死に自分に言い聞かせる。
――落ち着け、落ち着け、落ち着け……!!
何も焦ることはない、と自分を落ち着かせる。
トウカイテイオーは復活した。
何があったかはわからないけれど、確かに今、全盛期の彼女に戻った。
もうさっきまでの、生きている死体みたいな彼女はいない。絶対に勝つ、絶対に追い抜く、という、殺気に似た覇気がバシバシ伝わってくる。
少しでも速度を緩めようものなら。
きっと、一気に喰われてしまう――!!
「――、」
でも、大丈夫。
焦る必要はない。
一応、私が先行しているんだ。彼女を前に出させなければいい。
3コーナーと4コーナーを。
言われた通りの走法で、内ラチに舵を取りつつ。
走り切ってしまえば……!!
「……」
レースの様子を見ていたサファイアアリオンの担当は、深く息を吐いていた。
彼女とて、彼女を手塩に掛けて育てた側の人間だ。
勝つことを望んでいるし、そうなれるように出来ることはしてきたつもりだ。
それでも、目の前にした如何ともしがたい現実を、受け入れるかどうかは別問題だった。
――甘いな、と。
彼女は思っていた。
確かにサファイアアリオンは、内ラチを潰すようにコース取りをしている。
その隙間は、先ほどのテイオーとほぼ同様の、人ひとり分くらいのもの。
普通ならば、接触を恐れ、誰も通り抜けようとは思えない幅だ。
速度は余り落ちていない。
普通ならば、このまま彼女が逃げ切れる可能性が濃厚となってくるだろう――そう。
そう。
『普通』ならば。
「……あと少し、だったんだがなぁ」
レースの結末を、早くも見極めた彼女のぼやきは。
辺りを満たす声の海に呑み込まれて消えた。
3コーナーを曲がり切ろうとする。
息は上がり始めていて、脚の感覚も無くなり始めている。
やばい、行けると思ってたけど、結構きついかも……
でも、気合いで走り続ける。
根性で、前へと進む。
とにかく彼女を前に出さないよう。
内側へ、内側へ、コースを取り続けて――
その作戦は。
功を奏していたはずだった。
目測、人ひとり分くらい……
普通なら、通り抜けられないような、狭小な道――
4コーナーへ、油断するな、と息を入れ直す私の傍を――
一陣の風が、通り抜けていた。
「――!?」
何――と思うのも、つかの間。
あの白い勝負服が。
威厳を感じる豪奢なマントが。
今や、私の目の前ではためいている。
「――は……!?」
思わず、声を上げてしまっていた。
テイオーさんが。
一瞬にして、私の前に、出てきていたのだ。
彼女は、その技を初期から会得していた。
彼女が『天才』と呼ばれる所以の一つだ。
ウマ娘にしては小柄な体躯。
卓越した戦術眼。
そして磨き抜かれた能力。
その全てが合わさり、生み出される、華麗なまでに無駄のないコース取り。
独特なステップを伴うその走りを、人々はこう呼んでいる。
『帝王ステップ』、と。
ねじ込まれた。
差し込まれた。
本来なら接触するであろう隙間ですらも、彼女の前では付け入る隙でしかない。
そんな事態を予期出来ていなかったサファイアアリオンは、まんまと先頭を奪われてしまっていた。
レース展開は最初に戻り――
彼女が、テイオーを追う形となる。
――勝負は決したようなものだった。
テイオーは、曲がりなりにも全力を出していなかったこともあり、その速度は緩まることを知らない。
対してサファイアアリオンは、もはやいっぱいいっぱい。彼女の背中に着いていくので精いっぱいだ。
彼女に追いつき――あまつさえ。
追い越す、などというのは、あまりにも困難であるように思える。
「……」
彼女にとっての、わかりやすい絶望。
勝つための希望を摘み取られたことで、失意に落ちても仕方のない状況。
テイオーの背中を見つめながら、走り続ける彼女は――そのどうしようもない苦境に。
「……っ」
悔しがるでもなく。
諦めるでもなく。
投げ出すでもなく――
――
テイオーさんを天才と呼ぶ理由にはいくつかある。
ある人はその能力を以て。
ある人はその振る舞いを以て。
またある人は、その容姿を以て。
……容姿を以て天才、っていうのはよくわかんないけど。
とにかく彼女は、そう呼んで相違ないほどの、才知溢れた少女だ。
私も、テレビ越しに何度か観たから、その理由たるところには、なんとなしに思い至るところがある。
なんとなし――そう、ぼんやりと。
そこまで真剣に、考えたことはなかった。
……今私は。
それを、目前に見せつけられていた。
「……」
軽やかで無駄のない動き。
大胆ながら、流麗な脚捌き。
真似してみよう、なんてノリで簡単に模倣出来るもんじゃないだろう――
生まれ持った体格と、天性の感覚がないと成り立たない、人並み外れた絶技。
噂には聞いたことがあった。
……これが。
これが、『帝王ステップ』――!!
「……っ」
……
すげぇ。
「――はははっ」
すげぇ。
すげぇ、すげぇ、すげぇ――!!
「あっ――っははははははっ!!」
感じたのは、絶望じゃない。
かといって、分かりやすい希望でもない。
ただただ、胸の中を満たしていたのは、楽しさだった。
無邪気で純粋な、歓びに似た楽しさ。
そうでなくては。
そうでなくては――!!
「ッ!!」
だから、私も行く。
置いていこうとする背中に、追い縋る。
既に限界を迎えかけている身体に鞭打ち、走り続ける――
私だって。
私だって――!!
重い重い鎧でも着こんでいた気分だった。
今までどれだけの時間を無駄にして来たんだろう。
思えば、再起のタイミングはいくらでもあった。
前を向こうとすれば、いつでも向くことが出来た。
選ぼうとしなかった。
そうしようと思えなかった。
ボクが怖がってしまったから。
その先を恐れてしまっていたから。
マックイーンにも悪いことをしちゃった。
あの子も、ボクに手を差し伸べてくれようとしていたのに。
ボクがビビりなばかりに、心無い言葉を吐きつけてしまった。
……これが終わったら、謝らないとな。
「……」
しかし。
すっごい気迫だ。
ジュニア級だとは、到底思えない。
ボクが追い越して、意気消沈しちゃうかと思ってたのに。
それどころか、煽られて、更に力強く走っているようにすら感じる。
一体、どこにそんな体力が残っているんだか……
……過去を振り返ることは、悪いことじゃない。
けれど、それに囚われて、自由を奪われてるんじゃ目も当てられない。
怖くても、恐ろしくても。前を向いて、歩かなくちゃいけないんだ。
それが出来ないなら、立ち止まって、耳を傾ければいい。
手掛かりは、きっかけは。
すぐそこに落ちている。――そういうことでしょう、カイチョー?
……ボクは行くよ。
行くことにするよ。
あなたの影を置いて、夢を糧にして、
未来へと、進むことにするよ。
ボクの思い描く場所へと。
ボクの望む行先へと。
「――……」
でも。
でも、それでも……
「――っ」
――最終直線を駆け抜ける。
彼女との差は縮まらない。
すぐ背後に、その存在を感じながらも。
抜かせずに。
ボクは。
ゴール板の前を駆け抜けた。
『――!!』
ひときわ大きな歓声が、堰を切ったように溢れ出す。
それは一様に喜びに染まっていて。
そのひとつひとつが、ボクがここにいていいということを、教えてくれているように感じられた。
……
「……」
――そう。
過去にしがみついてばかりいるのは、いいことじゃない。
恐ろしくても、怖くても。
前に、進まなくちゃ。
「……、」
でも。
でも、それでも……
あと、ほんの少しだけ。
あなたの残り香に、浸っていてもいいだろうか。
それで、気が済んだなら、また、前を向くから。
今度こそきっと、大事にしてみせるから。
……
「……テイオー」
「……」
「……よーやく、帰ってきたね」
さっきの、あの鬼気迫る表情はどこへやら。
追い付いたネイチャは、ボクに、柔らかな微笑みと共に言ってくれる。
「……うん」
ボクは、それに。
込み上げるものを抑えながら、頷いた。
「待たせたね」
「――っかぁーっ!!」
テイオーさんと、ついでにネイチャさんの到着からちょっとして。
私も、ゴールしていた。
「っ、はぁっ、はぁっ。ひぃ、ひぃ……」
思わずその場に倒れ込み、呼吸を整えるけれど。
終わってみたら、結果は惨憺たるもの……
結局、3バ身ほども差を付けられてしまった。
「はぁ~……」
あぁ~……
くそ。
「勝てなかったかぁ……」
「――トーゼンでしょっ!」
独り言のつもりで零した言葉に、溌溂とした声が返ってきていた。
「ワガハイを誰だと思っておるのだ! このテイオー様に勝とうだなんて、ヒャクマンネンはやーい!」
「あはは……ですね……」
相手はシニア級。
しかも、天才と呼び声高いウマ娘。
私、一時は舞い上がっちゃったけど。
……冷静に考えて。
勝てるわけがないんだよなぁ……やっぱ。
「ん!」
「……」
テイオーさんは、倒れ込んだままの私に手を差し出してくる。
その意図が汲み取れないほど、私もぼんくらじゃない。
「……、」
上半身を起こしつつ、その手を取り。
引き上げられるまま、その場に立ち上がった――
「――っ!?」
……が。
そのまま引き寄せられ、テイオーさんに抱き留められる。
私と彼女、身体は一回りくらい違うはずなのに。
不釣り合いなその体勢に、困惑する。
「え、ちょ、テイオーさ――」
「……
そんな私の耳元で。
彼女は、囁いていた。
「有マで待ってる」
「――……」
ほんのわずかな時間――
彼女は、身体を離すと。
あどけなく笑った。
そして。
颯爽とマントを翻すと、その場から、立ち去っていた。
「……」
『――というわけで!』
その後ろ姿を、呆然と見送る中で。
ネイチャさんが、マイク越しに宣言する。
『決闘レースはこれにて終了! 勝者は、トレセン学園生徒会長、トウカイテイオー! ……まぁ本人はもう帰っちゃったけど!』
「……奔放な人だなぁ」
場内におかしな笑い声が響き――
ともあれ、とネイチャさんが今後の会場案内を続ける。
苦笑いで、私が呟いた時。
「――アリオンさーんっ!」
聞き覚えのある声が、どこからか飛んできていた。
弾かれて、それに振り向こうとして――
「――っ!?」
刹那に。
バサッと、何かを頭に掛けられていた。
もふもふと心地よい感触のそれは……*1
……タオル?
「おっつかれさまですっ!」
「……え」
わしゃわしゃと掻き撫でられる感覚に目を細めながら、半ば遮られた視界を動かしてみると。
見えたのは――桃色がかった鹿毛。
「チヨちゃん……?」
「はいっ、そうです! チヨですよ!」
「え……あれ、でも……あれ?」
「ふふーん、名演だったでしょう、お互いに!」
「……??」
……何が何だかわからない。今の状況と、過去の状況とが噛み合わない。だって彼女は、私にあれだけ憎悪じみた声で……
「――シンジテマシタノニー」
困惑する私に、チヨちゃんは言うのだ。
「ミソコナイマシター」
「……」
「えへへっ」
「あー、えーっとさ。そのー」
……彼女としてはネタばらしをしたつもりなんだろうが。未だに戸惑いから抜け出せない私に、会場への一連の説明を終えたネイチャさんが声を掛けてきた。
「騙してたのは、お互い様だったっていうか」
「へ……?」
「あのですね、実は一ヶ月前、学園にこんな噂が流れたんです」
どこか気まずそうなネイチャさんに代わり、話し出したのはチヨちゃんだった。
「……アリオンさんが、自分を犠牲に、テイオーさんと自分の担当さんを救おうとしてるって」
「……え」
――ちょ。
え。
そ、それって……
「そんなことをしたら、アリオンさんは確実に世間から迫害されます」
もちろん、そうならない可能性もあるけれど。
「もしそうなってもいいように、私たちだけは味方でいてあげましょう、って」
一人で戦おうとしているあの子に。
一人じゃないんだと、教えてあげよう、って――
「……要はみんな、嫌ってる振りだけしてた、ってことだね」
絶句する私に。
ネイチャさんは、どこか気まずそうに説明した。
「だからまぁー、そのー……」
で。
拝むように両手を合わせると。
「――ごめん! ここまで黙ってて!」
「私もごめんなさい! 色々酷いことやっちゃって……!」
「……ははは」
頭を下げる二人に。
私は、思わず脱力する。
……なるほどなぁ。
あれだけの啖呵を切ったのに、いじめのひとつもなくて妙だなと思ってたんだ。
そういうこと、だったんだ……
私は、覚悟を決めてきた。
死ぬ準備を整えて、勝負に臨んだ。
どう転ぼうが、どうなろうが、いいと思って、戦ってきた……
でも。
なんだ。
私は。
一人で戦ってたんじゃ、なかったんだ……
「……でもま、それも杞憂で終わりそうだけどね」」
「え?」
ネイチャさんに訊き返すと、彼女は聞いてごらん、と返事をする。
言われるまま、未だ場内に残るざわめきに耳を傾けてみた。
それはほとんどが、今しがた行われたレースへの感想で……
「――やぁ、すげーレースだったなぁそれにしても」
人々は。
言っていたのだ。
「テイオーの復活も嬉しいけど、あのアリオンって子も相当凄かったな。あれで一年だろ?」
「よくあそこまで食らいつけたよねぇ……」
「あの子ってもう走らないのかな? 残念だなー」
「でも学園存続するんだし、もう関係なくね?」
「……」
……罵られていると思っていた。
嘲られていると思っていた。
もちろん、それも聞こえてきはしたけれど。
聞こえてきた感想は、それだけじゃなかった。
暖かで、純粋な感想も。
そこに、入り混じっていた。
「……、」
……全くみんな。
調子がいいな。
……そんなこと言われたら。
終わりたくなくなっちゃうじゃないか……
「――ははーん、なるほどなぁ」
さなかで。
聞こえてきた声に、私は身体を震わせていた。
いや――たぶん、その場に居合わせた誰もが、飛び上がっていた。
「そーゆーことだったのかぁ……」
「……と、トレーナーさん……」
……やばい。
レースは無事に終わったけれど、最後の最後で気を抜きすぎてしまった。
彼女に。
このレースの真意が、伝わってしまった……!!
「い――いや! あの、その、こ、これはですね!!」
「あー、いーんだよ別に」
慌てて取り繕おうとする私に。
トレーナーさんは、肩を竦めて言う。
「薄々気づいてた」
「へ……」
「っつーか、隠すのが下手! そんなんで悟られねーと思ったら大間違いだヴォケども!」
「うぅ……」
えっと、それは。
それは、もう。
仰る通りで……
「……美しい自己犠牲だな」
トレーナーさんは。
呆れたように、後頭部を掻いていた。
「あたしなんかのために……人生を棒に振りやがって」
「……、いいんですよ、別に」
そんな彼女に。
私は、気を取り直して返す。
「
……そうでしょう?
「……」
トレーナーさんは、私の言葉に目を丸くする。
私が口にした言葉に対してか。
私が表明した思いに対してか。
地味にレアなその表情に――私は問う。
「……それで、どうですかトレーナーさん」
過去の因縁を。
晴らした気分は。
「……」
彼女は、空を見上げる。
歓声は、未だに競レース場を包んでいる。
自分に向けられているとは限らない、その声の海に、彼女は何を思うのだろうか。
「……あぁ、」
果たして。
彼女は答えていた。
「……悪くねぇ」
「……、」
やがて視線を戻し、清々しそうな顔をした彼女に、私も、そっか、とだけ返す。
……憎悪も怨恨も。
後悔も空虚も。
掃いて捨てても、いくらでも湧いてくる。
そんな、自分を捕えて止まない感情を、こうして清算して。
折り合いをつけて。
私たちは。
生きていくしか。
ないんだろう。
……きっと。
「……あー」
懐からいつものココアシガレットを取り出した彼女は、ネイチャさんたちに目を向けて言う。
「あんたらにも迷惑かけたな。迷惑料ならあとで請求してくれ」
「え。あ、いや。全然……」
「発つ鳥が後を濁しちゃいけない」
ネイチャさんが両手を振るのを見届けながら。
彼女は、地下バ道への道を歩き出す。
行くぞ、と。
私に声を掛けて。
「これから、理事長に顔出さなきゃいけない――」
私もまた、その背に着いていこうとした時だった。
「――否! その必要はないぞ!!」
あの、何度も聞いた、あの豪快な声が。
そこに響いていたのは。
「……理事長さん」
……秋川理事長と、たづなさんが。
そこにいた。
お二人とも、相も変わらずにっこにこ。
いかにも楽し気というか、一仕事終えた、みたいな感じだ。
「……」
対するトレーナーさんは、無表情。
親の仇を見るような目でもするんじゃないか、と思ったけれど。そんなこともなく。
「……秋川やよい」
驚くほど真面目で、真っ直ぐな声で、言う。
「これまでの非礼を詫びる。色々言ってすまなかった」
「うむ!」
「この事態に便乗して、似たようなことやった連中も、追跡して黙らせる。……間もなく、世間は元に戻るだろう」
さらっと怖いことを言うトレーナーさん。まさか、と思うけれど、元・名家ともなれば、それくらいは簡単なのか。
「……トレーナー室も、明日には引き払う。諸々の手続きもそれまでに――」
「――うむ!? なぜその必要が!?」
いずれにせよ――
続けた彼女に。
理事長さんは、頓狂な声を上げていた。
「……はい?」
「まさか君たち、このまま学園を立ち去ろうというのか? 暴論! そんなことを、私が許すとでも!?」
「……いや、あの、理事長?」
……次、呆気にとられるのは私たちだ。
何を言っているのかよくわからないけれど、許す許さない以前に、そういうお話でこのレースを組んだわけで……
「元からこのレース、そういう約束でやったんじゃ……」
「うん? そうか?」
しかし理事長さんは、不思議そうに小首を傾げると。
「確かに君は、負けたら自分のことは好きにしろ、とは言ったが……」
……言うのだ。
「――ここから立ち去る、だなんてひと言も言ってないぞ?」
「……」
え。
えぇ……
いや、でもそれ……
屁理屈では……
「だから、好きにさせてもらう! ただそれだけの話だ!」
「いや、あの。そうかもしれませんけど……」
「――それに、なぁ」
口籠る私に、理事長さんは扇子を広げる。
いつかのように、口元を隠すと。その眼光が、妖しげな光を灯す。
「世間はいつでもスターを求めている。だがそんな存在は、そうポンポンと生まれない……人材は慢性的に不足しているのだ。
「……」
「――そうであろう、皆の者!!」
理事長さんは。
会場中に良く通る声で、問いかける。
「この者がこれから、どんな夢を届けてくれるのか。皆も、見てみたいであろう!?」
『――』
レース場に集まった観客たちも。
また、一瞬だけ。戸惑ったような反応を見せたけど。
『――、』
少し。
『――、、』
また少しと。
拍手が上がり。
『――!!』
やがてそれは。
分厚く、熱の籠もった、応援へと変わっていた。
私もトレーナーさんも。
思わず、会場中を見回してしまう。
「――しかしまぁ、強制ではない」
理事長さんは言う。
「君たちが残りたくないというのであれば、引き止めん。潔く見送るとしよう」
どうだ?
「
「……」
私は。
ネイチャさんたちを見る。
ネイチャさんは、困ったように笑っていて。
チヨちゃんは、期待しているように、目を輝かせている。
……私は。
自分に資格はないって思っていて。
遠い理想も、大きな夢も、
全部、諦め切っていた。
『――くん?』
それは遠い日の記憶。
『うん。あのね、『約束』――』
色褪せた写真のような記録。
『私、
絶対、
――……』
それは思い出。
過ぎ去った思い出。
遥か昔の夢。
届かなかった、夢……
「……、はい」
目頭が熱くなるのを感じながら。
それが溢れ出すのを、抑えながら。
私は、理事長さんに向き直り、勢いよく、頭を下げる。
「――走らせて、もらいますっ!!」
その言葉が、観客席にも届いたのだろう。
一層大きな盛り上がりに、レース場は包まれる。
「――アリオンさんっ」
顔を上げた私に、チヨちゃんが駆け寄る。
「改めて、お願いしますねっ! 次は絶対負けませんよ、悪役さんっ!」
「……、チヨちゃんにだけ、いい思いはさせないよ」
「まぁーこれで、一件落着だね」
締めるように言ったネイチャさんに。
私は、溜め込んでいた想いが溢れるのを止めないまま、頷いていた。
秋川やよいは、年頃の少女らしくはしゃぐ三人を、慈母のような目で見守る。
観客に同意を取り付けたとはいえ、世間の懐疑的な目は、完全にはなくならないだろう。
あまりにも特殊なその生きざまが、彼女の行く先を塞いでしまうかも。
ただ、きっと大丈夫だろう、と思う。
そんな後ろ暗いものなど、足かせにもならないだろう、と。
これだけ明るく、楽しそうに笑う彼女らなのだ。
きっと、乗り越えられる――と。
根拠はないが、確信に近い自信を、抱く。
「……秋川やよい」
再び名を呼ばれ、振り向くと、そこには『彼女』の姿がある。
その目は、憑き物が取れたかのように、晴れ晴れと透き通っている。
暗い感情に淀んでいた瞳は――もうそこにはない。
「……あんたの言う通りだった」
本当は、あたしもわかっていた。
自虐的に、やや目線を落として、彼女は言う。
「あんたのせいじゃないってこと。全部、あたしらのせいなんだってこと。あたしらが……引き金を引いた結果だったんだ、ってこと。みんな、みんな、わかってた。でも……受け入れられなかった。全部が、あんたのせいだってことにして、感情のはけ口にするしかなかった。そうじゃないと……心が、狂い壊れそうだったんだ」
だからって、それは許されることではない。
提案を受け入れるのも、虫のいい話である。
それでも、秋川は受け入れた。
それでも、秋川は赦した。
『彼女』はそれを受け入れられたまま、赦されたまま、過去のものにすることは出来なかった。
それに。
報いなければならない、と感じていた。
「……、」
だから。
秋川と、真っ直ぐに目を合わせ。
深々と、頭を下げていた。
――どうか。
よろしくお願いします――
と。
「……うむ」
秋川は、それに満足そうに頷くと。
扇子を翻し、掲げる。
「もちろんだ!」
その表面には――
派手な筆文字による、『歓迎!』という言葉が躍っていた。