16年度の卒業生(新版)   作:Ray May

9 / 51
絶対は、ボクだ(後編)

 ウマ娘が、本来なら縁もゆかりもない他人に対し、不思議な親近感を覚えるのは、珍しいことではない。

 理由については諸説あるが、ウマ娘が神秘の塊であるが故か、『別世界の繋がりの証拠である』という説は大きく支持されている。

 トウカイテイオーというウマ娘がトレセン学園に入学した頃、シンボリルドルフとの容姿の相似はよく取り沙汰され――

 そして大方の例に漏れず、彼女もまた、シンボリルドルフに対し、強い親近感を覚えていた。

 

「どーんっ!!」

「うおっ!?」

 

 ある日の廊下で。

 まだ新バ戦を終えたばかりのトウカイテイオーは、厳然と歩くシンボリルドルフに背後からタックルしていた。

 

「えへへーっ!! びっくりした? カイチョー!」

「テイオー……全く君は……」

 

 私が受け止められなかったらどうしたんだ?

 そのような常識的な問いかけに、彼女は、それはあり得ないよ! と恥ずかしげもなく即答する。

 なぜなら。

 

「カイチョーはカイチョーだからね!」

「何言ってるんだか……」

 

 だが、ルドルフはそれを邪険にはしない。

 せがまれるまま……彼女をおんぶし。

 行き交う生徒の注目を集めつつ、廊下を歩いていく。

 

「あっ、そうだカイチョー!」

 

 もうどうとでもなれ、とばかりに、ルドルフは無邪気な彼女に応じる。

 どうしたー? と。

 

「カイチョーって、無敗でクラシック三冠取ったんだよね?」

「ん……まぁ、そうだね」

 

 どこか照れたように言う彼女に、テイオーは一頻りはしゃぐと、

 

「じゃあじゃあ、ボクも同じことするよ!」

「……同じことを?」

「うん! ボクも、無敗でクラシック三冠ぶんどってやる!」

「……それは簡単じゃないぞ、テイオー」

 

 それまで、娘をあやす母のようだったルドルフは――

 一転して、真剣な声色で言う。

 

「クラシック路線は、二冠でも偉業と言われるほどのものなんだぞ」

 

 それを一度も負けずに、全て勝つ。

 過酷、という言葉でも生温いほどの、いばらの道だ。

 現に、彼女がそれを達成して以来。

 長いこと達成者が現れていないことが、何よりも如実に物語っている。

 

「血の滲むようなトレーニングを積まなくてはならない。……それでも、目指したいのか?」

「うん! ダイジョーブだよ!」

 

 覚悟を試すかのようなその問いかけに。

 テイオーは、躊躇いも、淀みもなく答えていた。

 

「なんてったってボクは、無敵のテイオー様だからね!」

 

 きっと、カイチョーみたいになってみせるよ!

 

 太陽のような笑顔を浮かべながら、高らかに宣言していたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何もかも順調のはずだった。

 立ちはだかる壁も、立ちふさがる障害も、危なげなく乗り越えて来たはずだった。

 

 一冠目。皐月賞。

 2着に1バ身を付ける、余裕のある勝利だった。

 

 二冠目。日本ダービー。

 今度は3バ身もの差を付けた。

 自分に対する声援に対し、二本指を立てて応じた――これで二つ目だ、って。

 

 世間はボクの三冠達成ムード一色だった。

 かの『皇帝』に続く偉業だと。

 歴史に刻まれる名バとなると。

 いや、今の時点ですでに刻まれてるだろ――などと。

 ボクに、夢を期待してやまなかった。

 

 

 

「――骨折ですね」

 

 

 

 ……本当は、医者に罹る気は無かった。

 気のせいだと思っていたから。

 それでも、ボクの歩様に違和感を覚えたトレーナーに、無理矢理に連れていかれた病院で。

 そう診断された。

 

 全治六か月。

 それまでは、くれぐれも安静にするように。

 レースなんて、以ての外。

 無論、三冠目の菊花賞は断念せざるを得なかった。

 

 

 天国から。

 地獄に突き落とされた気分になった。

 

 

 日本ダービーの前でなくてよかったと考えよう――トレーナーさんはそう言ってくれたけれど、気分は落ち込んだまま。

 別にカイチョーは、本気で()()思っていたわけじゃないだろう。

 本心で、期待していたわけでもないだろう。

 それなのにボクは、彼女の期待を、希望を裏切ってしまったような感覚になってしまって。

 ……そこから、全てが狂い始めたのだ。

 

 

 

 偉業を称えられ、能力を認められ、ボクは会長の座を受け継ぐ。

 中等部二年で受け継ぐのは、異例の事態だった。

 卒業の直前まで、カイチョーと、副会長に指名したネイチャは、ボクを補助してくれたけれど。

 胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちは、いつまでも治らないままだった。

 

 それでも、時間は過ぎていく。

 それでも、レースは待ってはくれない。

 

 浮ついた気持ちのままでも、故障が無いよう、しっかりと準備をし。

 年度明けの、春の天皇賞にて復帰した。

 直前まで、何の問題もなく走れていたし。

 地の果てまでも行けそう――そんなことまで思っていたのに。

 

 ……結局、惨敗、とまではいかずとも。

 キャリア初となる、手痛い敗戦となってしまった。

 1着を千切ったマックイーンにも――その時、聞かれてしまった。

 

 

 何があったのかと。

 今のあなたは、何かがおかしいと。

 

 

 図星を突かれ、動揺したボクは……彼女と激しい口論をしてしまい、それ以来、ろくに話せてもいない。

 

 胸に空いた穴は、徐々に、それでも確実に大きくなって……

 自分とそれとの境界も、やがてはわからなくなっていた。

 

 目に見えない虚空に、意志も何もかも飲み下されたみたいに。

 ボクの中には、遂に何も残らなくなってしまったのだ。

 

「……」

 

 

 

 ――空っぽだった。

 

 それを埋めるために、夢中で走り続けていた。

 

 我武者羅に走り続けていた。

 闇雲に駆け続けてきた。

 仄かな光さえ見当たらない暗闇の中を、一心に探し続けていた。

 

 自分の目指すべきものを。

 自分の追うべき背中を。

 ……そんなものは。

 

 もう、

 そこにはなかったというのに。

 

 ……わからなかった。

 何のために走ればいいのか、もう、わからなかった。

 

 あぁ。

 羨ましい。

 羨ましいなぁ。

 あんな風に走れて、本当に、羨ましい。

 

 片や、ボクの代わりに使命を請け負い、年甲斐もなく後輩に臨む副会長。

 片や、勝てない勝負とわかっていながらも、泥臭いまでに食らいつく編入生。

 

 きらきらしていた。

 きらきらしていた――二人は。

 

 そうだ。時代というのは、いつだって、輝きを背負うに値するものが作っていくもの。

 それを示せない者に、資格なんてない。

 

 

 

 ――トウカイテイオーは。

 もう、終わってしまったのだ。

 

 

 

「……、」

 

 ……あぁ、そうだ。

 どうして、今にしがみつくんだ。

 

『彼女』の意志を受け継げる者は他にもいる。新しい時代を築ける者は、目の前にいる。

 くだらない地位や権利のために、みっともなく足掻く意味がどこにあるんだ。

 

 いいじゃないか。手放しても。

 いいじゃないか。諦めても。

 託そう。あの子たちに。

 譲ろう。この子たちに。

 

 ……自分の想いを。

 未来を。

 意志を――

 果たして、もらおう……

 

 終わろう。

 ボクという時代を。

 もう、閉じてしまおう――

 

「……、……」

 

 だから、脚を動かす。

 だから、意を決する。

 踵の辺りに力を入れて。

 猛然と駆ける二人に。

 背を向け――

 

 

 

 

「――テイオーッ!!」

 

 

 

 

 

 ……ようとした。

 

 その時だった。

 

 誰かの声が、聞こえたのは。

 

「がんばれっ、テイオー!!」

 

 それは、この競レース場を満たすには、あまりにも小さく。

 あまりにもか弱い、女の子の、声だった。

 

「走って!! お願い!! 走ってよ!! 負けないでっ!! テイオー!!」

「……」

「……あぁ、あぁそうだ!!」

 

 それに呼応するように。

 別の声が、上がる。

 

「がんばれテイオー!! あんなやつらに負けんな!! 無敗の二冠バの意地、見せてやれ!!」

「そうだよ!! まだ勝負は終わってないよ!! がんばって!!」

「テイオー!!」

「テイオー!!」

 

 

 

『テイオー!!!!』

 

 

 

「……」

 

 ……ボクは。

 それを受け止めながらも、困惑する。

 それを聞きながらも、当惑してしまう。

 

 ……なんで?

 なんで、みんな、そんなことを言うの?

 

 見ればわかるじゃないか。ボクは終わった。

 トウカイテイオーは、終わったんだ。負けたんだ。『諦めたんだ』。

 

 これだけ無様な姿を見せつけたんだ。

 

 ボクなんかに期待しなくていい。

 ボクなんか見なくていい。

 他に応援するべき背中は、今、他にあるじゃないか。

 

 それなのに、どうして。

 それなのに、なんで。

 

 どうして。

 どうして――

 

 どうして、

 終わらせてくれないんだ?

 

 ……目を泳がせる。

 悲痛なまでの、叫びにも似た声援を上げる観客席――

 その最前列。

 

「……!」

 

 そこに。

 ボクは。

 あの姿を。

 見ていた。

 

 

 

 ――追い続けた、『皇帝』の姿が。

 確かに、そこにあった。

 

 

 

「……カイチョー」

 

 もちろん、その声は聞こえていない。

 この距離じゃ、表情もろくに見えない。

 それでもなぜか、不思議と、彼女が、安心したように目を伏せたのがわかった。

 優しげに。

 言葉を紡いだのが、わかった。

 

「――、――……」

 

 

 ――それで、

 ――いいんだ。

 

 

 と。

 

 母のように、慈愛に溢れる声が、聞こえたような、気がした。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 ボクは走っていた。

 

 一寸先も視界不良の闇の中を走っていた。

 

 そこには、道しるべも、終着点もない。疲労し切った身体はもう行けないと泣き叫んでいて、ボクはそれに従って立ち止まっている。

 真っ暗な荒野で、ボクは一人きりだった。目の前に、誰かの姿は無かった。夢の残像は気配すらもすっかり消え去っていて、他に感じられるものは何もない。その世界の中では、空と地面の境界すらも曖昧だ。

 そこに座り込もうとする。使い古されたエンジンみたいに、悲鳴すらももはや上げなくなった心を捨ててしまおうとする。けれどそれを引き留めるみたいに、ふっと何かの映像が脳裏をよぎっていた。

 それは記憶だった。ボクが初めて、公式レースを走った時の感覚だった。

 集った観客たちを、興奮と驚愕に晒した鮮烈なデビュー戦。ボクは無邪気に、楽しげに、彼らに手を振っていた。

 場内が、はち切れんばかりのテイオーコールで満たされる。自分を包み込む声援の海の中で、ボクは誰かに期待される感覚に心酔していた。

 そうだ、ボクはここにいる。トウカイテイオーの伝説が、これから幕を開ける。

 しっかり見ていてね、みんな。片時も見逃さないでよ、誰も彼も。

 レースに絶対はない、が覆されたように。

 

 

 

 ボクが。ボク自身が。

 これから、『絶対』になってやる。

 

 

 

「――……」

 

 

 

 過去の情動が閃き、それが音もなく弾けて光の粒となって漂う。蛍のように思い思いに飛び交うそれらの名を、ボクは良く知っていた。

 ボクは偉大な光に導かれて、前だけを見て走り続けていた。小さな同類は、より大きな同類に取り込まれて同化するように、始まりの背中を押した純朴な感覚は、今や取るに足らないものにまで成り下がってしまっていた。

 それでも、呑み込まれた感覚は、消し去られたわけではなく、いつだってボクを包み込んでくれていたのだ。

 ここにいる、君はここにいる。

 生きている、確かにここで生きている。

『皇帝』は偉大だ。その偉業は素晴らしいものだ。でも、それでも、

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()

 

 

 

 ――だから、期待しているのは、偉業の達成じゃないんだ。

 だから、待ち望んでいるのは、その後を追い切ることじゃないんだ。

 

 期待しているのは。

 望んでいるのは。

 

 ボクの作る未来なのだ。

 ボクが走る姿なんだ。

 

 

 

 トウカイテイオーの、

 見せる夢なのだ。

 

 

 

「……ぁ」

 

 ――あぁ。

 どうして、忘れていたのだろう。

 どうして、気付かなかったのだろう。

 

 どうして、

 今まで、

 思い出せなかったのだろう。

 

 

 

 暗澹たる荒野の上空が、群青に色めく。錐で穴を空けたみたいな無数の星々が、暖かな眼差しをボクに向ける。他に何もない無尽の世界に、小さな新芽が顔を出し、やがては広がっていく。

 いや、もしかしたら、最初からそうだったのかもしれない。

 空が白んで、星々の光が消える、名残惜しさに手を伸ばすけれど、同時に、足元に伸びる影が、自分のもの一つだけではないことに気が付いた。

 導かれるように背後を振り返ると。

 そこには、数えきれない想いの欠片が、直向きに煌めいていた。

 

 

 

 ……なんだ。

 難しいことじゃ、なかったんだ。

 

 簡単な話だったんだ。

 

 前を向きすぎて。先頭を走りすぎて。振り返ることも忘れてしまっていたのだ。

 

 ……ボクを支えてくれる人は、いつだって傍にいてくれた。

 

 

 

 ボクは。

 一人じゃ、なかったんだ。

 

 

 

「――っ」

 

 

 

 出所の分からない光が優しく暗闇を追い払い、ボクの進むべき道を明瞭に照らす。相変わらずその先は見えなかったけれど、不思議と恐怖は感じなかった。

 長いこと忘れていた、未だ見ぬ世界への期待と希望が、果たさなければならない新たな理想と願望が、空っぽだった胸の内を満たしていく。

 

 

 

 

 

 ――そうだ。

 

 

 

 

 

 失われたものが、自分の中に戻っていく。

 

 

 

 ――そうだ。

 

 

 

 あれだけ諦めたのに。あれだけ捨てたはずなのに。

 今。

 走りたくて、走りたくて、たまらない――

 

 ――なら、行こう。

 

 行けるよ。

 

 ――大丈夫。

 

 きっと平気さ。

 

 ――地の果てまで、天の果てまで。

 

 影も理想も、借り物の夢も、もう要らない。

 

 ――迷うこともない。

 

 ボクはもう。

 

 大丈夫だ。

 

 

 

 ――テイオー、

 

 

 

 

 

 ――いってらっしゃい。

 

 

 

 

 

「――おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!」

 

 そして。

 

 ボクは、叫んでいた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

「――!?」

 

 直線を、半ばあたりまで走ったところだろうか。

 背後から突如として聞こえた声に、思わず立ち止まっていた。

 それはネイチャさんも同じで、二人、同時にそちらへと振り返る。

 

 声の主は――テイオーさんで。

 彼女は、顔を真上に向けて、競レース場中に響き渡るほどの絶叫を響かせていた。

 

 その華奢な体に不相応なほどの。

 強く、大きな、咆哮。

 

「…………」

 

 辺りが静まり返る。

 時間が止まったかのような、錯覚。

 永遠に続くかと思われた、その時間は――

 

「――!」

 

 視線の先のテイオーさんが。

 勢いよく、身体をかがめたことで、断ち切られていた。

 遠く見えるその瞳に。

 

 さっきまでの空虚さは。

 もう、『どこにもない』――

 

「……」

 

 ぞくり、と。

 身体に、悪寒が走る。

 私が、それを受け入れるのを待たずして――

 

 彼女は。

 こちらに、走り出していた!

 

「――っ」

 

 やばい。

 

 やばい、やばい、やばい……!!

 

 来る。

 テイオーが。

 

 来る。

『帝王』が。

 

 来る――!!

 

「――ッ!!」

 

 そして――それに追い立てられるように。

 私もまた、走り出した。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 トウカイテイオーは、間もなくしてナイスネイチャのすぐ傍を走り抜ける。

 

 彼女はその背中を見つめると、呆れたように笑みを浮かべていた。

 一度は静まり返った場内は――

 先ほどまでのものよりも、一層大きな歓声に包まれている。

 

「……ったく」

 

 後頭部を掻いた彼女は言う。

 

「っとに、世話が焼けるんだから」

 

 ともあれ、自分もここに残るわけにはいかない。

 決闘参加者ではないが――

 みるみる遠ざかっていく二人を、彼女もまた、追走し始める。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 ――落ち着け。

 

 必死に自分に言い聞かせる。

 

 ――落ち着け、落ち着け、落ち着け……!!

 

 何も焦ることはない、と自分を落ち着かせる。

 

 トウカイテイオーは復活した。

 

 何があったかはわからないけれど、確かに今、全盛期の彼女に戻った。

 

 もうさっきまでの、生きている死体みたいな彼女はいない。絶対に勝つ、絶対に追い抜く、という、殺気に似た覇気がバシバシ伝わってくる。

 

 少しでも速度を緩めようものなら。

 きっと、一気に喰われてしまう――!!

 

「――、」

 

 でも、大丈夫。

 焦る必要はない。

 一応、私が先行しているんだ。彼女を前に出させなければいい。

 

 3コーナーと4コーナーを。

 言われた通りの走法で、内ラチに舵を取りつつ。

 走り切ってしまえば……!!

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

「……」

 

 レースの様子を見ていたサファイアアリオンの担当は、深く息を吐いていた。

 

 彼女とて、彼女を手塩に掛けて育てた側の人間だ。

 勝つことを望んでいるし、そうなれるように出来ることはしてきたつもりだ。

 それでも、目の前にした如何ともしがたい現実を、受け入れるかどうかは別問題だった。

 

 ――甘いな、と。

 彼女は思っていた。

 

 確かにサファイアアリオンは、内ラチを潰すようにコース取りをしている。

 その隙間は、先ほどのテイオーとほぼ同様の、人ひとり分くらいのもの。

 普通ならば、接触を恐れ、誰も通り抜けようとは思えない幅だ。

 

 速度は余り落ちていない。

 普通ならば、このまま彼女が逃げ切れる可能性が濃厚となってくるだろう――そう。

 

 そう。

『普通』ならば。

 

「……あと少し、だったんだがなぁ」

 

 レースの結末を、早くも見極めた彼女のぼやきは。

 辺りを満たす声の海に呑み込まれて消えた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 3コーナーを曲がり切ろうとする。

 息は上がり始めていて、脚の感覚も無くなり始めている。

 やばい、行けると思ってたけど、結構きついかも……

 でも、気合いで走り続ける。

 根性で、前へと進む。

 とにかく彼女を前に出さないよう。

 内側へ、内側へ、コースを取り続けて――

 

 その作戦は。

 功を奏していたはずだった。

 

 目測、人ひとり分くらい……

 普通なら、通り抜けられないような、狭小な道――

 

 4コーナーへ、油断するな、と息を入れ直す私の傍を――

 一陣の風が、通り抜けていた。

 

「――!?」

 

 何――と思うのも、つかの間。

 あの白い勝負服が。

 威厳を感じる豪奢なマントが。

 今や、私の目の前ではためいている。

 

「――は……!?」

 

 思わず、声を上げてしまっていた。

 テイオーさんが。

 一瞬にして、私の前に、出てきていたのだ。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 彼女は、その技を初期から会得していた。

 彼女が『天才』と呼ばれる所以の一つだ。

 ウマ娘にしては小柄な体躯。

 卓越した戦術眼。

 そして磨き抜かれた能力。

 その全てが合わさり、生み出される、華麗なまでに無駄のないコース取り。

 独特なステップを伴うその走りを、人々はこう呼んでいる。

 

『帝王ステップ』、と。

 

 ねじ込まれた。

 差し込まれた。

 本来なら接触するであろう隙間ですらも、彼女の前では付け入る隙でしかない。

 

 そんな事態を予期出来ていなかったサファイアアリオンは、まんまと先頭を奪われてしまっていた。

 レース展開は最初に戻り――

 彼女が、テイオーを追う形となる。

 

 ――勝負は決したようなものだった。

 テイオーは、曲がりなりにも全力を出していなかったこともあり、その速度は緩まることを知らない。

 対してサファイアアリオンは、もはやいっぱいいっぱい。彼女の背中に着いていくので精いっぱいだ。

 彼女に追いつき――あまつさえ。

 追い越す、などというのは、あまりにも困難であるように思える。

 

「……」

 

 彼女にとっての、わかりやすい絶望。

 勝つための希望を摘み取られたことで、失意に落ちても仕方のない状況。

 テイオーの背中を見つめながら、走り続ける彼女は――そのどうしようもない苦境に。

 

「……っ」

 

 悔しがるでもなく。

 諦めるでもなく。

 投げ出すでもなく――

 

 ――

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 テイオーさんを天才と呼ぶ理由にはいくつかある。

 ある人はその能力を以て。

 ある人はその振る舞いを以て。

 またある人は、その容姿を以て。

 ……容姿を以て天才、っていうのはよくわかんないけど。

 

 とにかく彼女は、そう呼んで相違ないほどの、才知溢れた少女だ。

 私も、テレビ越しに何度か観たから、その理由たるところには、なんとなしに思い至るところがある。

 なんとなし――そう、ぼんやりと。

 そこまで真剣に、考えたことはなかった。

 

 ……今私は。

 それを、目前に見せつけられていた。

 

「……」

 

 軽やかで無駄のない動き。

 大胆ながら、流麗な脚捌き。

 真似してみよう、なんてノリで簡単に模倣出来るもんじゃないだろう――

 

 生まれ持った体格と、天性の感覚がないと成り立たない、人並み外れた絶技。

 噂には聞いたことがあった。

 

 ……これが。

 これが、『帝王ステップ』――!!

 

「……っ」

 

 ……

 すげぇ。

 

「――はははっ」

 

 すげぇ。

 

 すげぇ、すげぇ、すげぇ――!!

 

「あっ――っははははははっ!!」

 

 感じたのは、絶望じゃない。

 かといって、分かりやすい希望でもない。

 ただただ、胸の中を満たしていたのは、楽しさだった。

 無邪気で純粋な、歓びに似た楽しさ。

 

 そうでなくては。

 そうでなくては――!!

 

「ッ!!」

 

 だから、私も行く。

 置いていこうとする背中に、追い縋る。

 既に限界を迎えかけている身体に鞭打ち、走り続ける――

 

 私だって。

 私だって――!!

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 重い重い鎧でも着こんでいた気分だった。

 今までどれだけの時間を無駄にして来たんだろう。

 

 思えば、再起のタイミングはいくらでもあった。

 前を向こうとすれば、いつでも向くことが出来た。

 

 選ぼうとしなかった。

 そうしようと思えなかった。

 ボクが怖がってしまったから。

 その先を恐れてしまっていたから。

 

 マックイーンにも悪いことをしちゃった。

 あの子も、ボクに手を差し伸べてくれようとしていたのに。

 ボクがビビりなばかりに、心無い言葉を吐きつけてしまった。

 ……これが終わったら、謝らないとな。

 

「……」

 

 しかし。

 すっごい気迫だ。

 ジュニア級だとは、到底思えない。

 ボクが追い越して、意気消沈しちゃうかと思ってたのに。

 それどころか、煽られて、更に力強く走っているようにすら感じる。

 一体、どこにそんな体力が残っているんだか……

 

 ……過去を振り返ることは、悪いことじゃない。

 けれど、それに囚われて、自由を奪われてるんじゃ目も当てられない。

 怖くても、恐ろしくても。前を向いて、歩かなくちゃいけないんだ。

 それが出来ないなら、立ち止まって、耳を傾ければいい。

 

 手掛かりは、きっかけは。

 すぐそこに落ちている。――そういうことでしょう、カイチョー?

 

 ……ボクは行くよ。

 行くことにするよ。

 あなたの影を置いて、夢を糧にして、

 未来へと、進むことにするよ。

 

 

 

 ボクの思い描く場所へと。

 ボクの望む行先へと。

 

 

 

「――……」

 

 でも。

 

 でも、それでも……

 

「――っ」

 

 ――最終直線を駆け抜ける。

 

 彼女との差は縮まらない。

 

 すぐ背後に、その存在を感じながらも。

 抜かせずに。

 

 

 

 ボクは。

 ゴール板の前を駆け抜けた。

 

 

 

『――!!』

 

 ひときわ大きな歓声が、堰を切ったように溢れ出す。

 それは一様に喜びに染まっていて。

 そのひとつひとつが、ボクがここにいていいということを、教えてくれているように感じられた。

 

 ……

 

「……」

 

 ――そう。

 過去にしがみついてばかりいるのは、いいことじゃない。

 恐ろしくても、怖くても。

 前に、進まなくちゃ。

 

「……、」

 

 でも。

 でも、それでも……

 

 

 

 あと、ほんの少しだけ。

 あなたの残り香に、浸っていてもいいだろうか。

 

 

 

 それで、気が済んだなら、また、前を向くから。

 今度こそきっと、大事にしてみせるから。

 ……過去(あなた)も。

 

「……テイオー」

「……」

 

 

 

 現在(みんな)も……

 

 

 

「……よーやく、帰ってきたね」

 

 さっきの、あの鬼気迫る表情はどこへやら。

 追い付いたネイチャは、ボクに、柔らかな微笑みと共に言ってくれる。

 

「……うん」

 

 ボクは、それに。

 込み上げるものを抑えながら、頷いた。

 

「待たせたね」

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

「――っかぁーっ!!」

 

 テイオーさんと、ついでにネイチャさんの到着からちょっとして。

 私も、ゴールしていた。

 

「っ、はぁっ、はぁっ。ひぃ、ひぃ……」

 

 思わずその場に倒れ込み、呼吸を整えるけれど。

 終わってみたら、結果は惨憺たるもの……

 

 結局、3バ身ほども差を付けられてしまった。

 

「はぁ~……」

 

 あぁ~……

 くそ。

 

「勝てなかったかぁ……」

「――トーゼンでしょっ!」

 

 独り言のつもりで零した言葉に、溌溂とした声が返ってきていた。

 

「ワガハイを誰だと思っておるのだ! このテイオー様に勝とうだなんて、ヒャクマンネンはやーい!」

「あはは……ですね……」

 

 相手はシニア級。

 しかも、天才と呼び声高いウマ娘。

 私、一時は舞い上がっちゃったけど。

 

 ……冷静に考えて。

 勝てるわけがないんだよなぁ……やっぱ。

 

「ん!」

「……」

 

 テイオーさんは、倒れ込んだままの私に手を差し出してくる。

 その意図が汲み取れないほど、私もぼんくらじゃない。

 

「……、」

 

 上半身を起こしつつ、その手を取り。

 引き上げられるまま、その場に立ち上がった――

 

「――っ!?」

 

 ……が。

 そのまま引き寄せられ、テイオーさんに抱き留められる。

 私と彼女、身体は一回りくらい違うはずなのに。

 不釣り合いなその体勢に、困惑する。

 

「え、ちょ、テイオーさ――」

「……()()()()()、悪役さん」

 

 そんな私の耳元で。

 彼女は、囁いていた。

 

「有マで待ってる」

「――……」

 

 ほんのわずかな時間――

 彼女は、身体を離すと。

 あどけなく笑った。

 

 そして。

 颯爽とマントを翻すと、その場から、立ち去っていた。

 

「……」

『――というわけで!』

 

 その後ろ姿を、呆然と見送る中で。

 ネイチャさんが、マイク越しに宣言する。

 

『決闘レースはこれにて終了! 勝者は、トレセン学園生徒会長、トウカイテイオー! ……まぁ本人はもう帰っちゃったけど!』

「……奔放な人だなぁ」

 

 場内におかしな笑い声が響き――

 ともあれ、とネイチャさんが今後の会場案内を続ける。

 苦笑いで、私が呟いた時。

 

「――アリオンさーんっ!」

 

 聞き覚えのある声が、どこからか飛んできていた。

 弾かれて、それに振り向こうとして――

 

「――っ!?」

 

 刹那に。

 バサッと、何かを頭に掛けられていた。

 もふもふと心地よい感触のそれは……*1

 ……タオル?

 

「おっつかれさまですっ!」

「……え」

 

 わしゃわしゃと掻き撫でられる感覚に目を細めながら、半ば遮られた視界を動かしてみると。

 見えたのは――桃色がかった鹿毛。

 

「チヨちゃん……?」

「はいっ、そうです! チヨですよ!」

「え……あれ、でも……あれ?」

「ふふーん、名演だったでしょう、お互いに!」

「……??」

 

 ……何が何だかわからない。今の状況と、過去の状況とが噛み合わない。だって彼女は、私にあれだけ憎悪じみた声で……

 

「――シンジテマシタノニー」

 

 困惑する私に、チヨちゃんは言うのだ。

 

「ミソコナイマシター」

「……」

「えへへっ」

「あー、えーっとさ。そのー」

 

 ……彼女としてはネタばらしをしたつもりなんだろうが。未だに戸惑いから抜け出せない私に、会場への一連の説明を終えたネイチャさんが声を掛けてきた。

 

「騙してたのは、お互い様だったっていうか」

「へ……?」

「あのですね、実は一ヶ月前、学園にこんな噂が流れたんです」

 

 どこか気まずそうなネイチャさんに代わり、話し出したのはチヨちゃんだった。

 

「……アリオンさんが、自分を犠牲に、テイオーさんと自分の担当さんを救おうとしてるって」

「……え」

 

 ――ちょ。

 え。

 そ、それって……

 

「そんなことをしたら、アリオンさんは確実に世間から迫害されます」

 

 もちろん、そうならない可能性もあるけれど。

 

「もしそうなってもいいように、私たちだけは味方でいてあげましょう、って」

 

 一人で戦おうとしているあの子に。

 一人じゃないんだと、教えてあげよう、って――

 

「……要はみんな、嫌ってる振りだけしてた、ってことだね」

 

 絶句する私に。

 ネイチャさんは、どこか気まずそうに説明した。

 

「だからまぁー、そのー……」

 

 で。

 拝むように両手を合わせると。

 

「――ごめん! ここまで黙ってて!」

「私もごめんなさい! 色々酷いことやっちゃって……!」

「……ははは」

 

 頭を下げる二人に。

 私は、思わず脱力する。

 

 ……なるほどなぁ。

 あれだけの啖呵を切ったのに、いじめのひとつもなくて妙だなと思ってたんだ。

 そういうこと、だったんだ……

 

 私は、覚悟を決めてきた。

 死ぬ準備を整えて、勝負に臨んだ。

 どう転ぼうが、どうなろうが、いいと思って、戦ってきた……

 でも。

 なんだ。

 

 

 

 私は。

 一人で戦ってたんじゃ、なかったんだ……

 

 

 

「……でもま、それも杞憂で終わりそうだけどね」」

「え?」

 

 ネイチャさんに訊き返すと、彼女は聞いてごらん、と返事をする。

 言われるまま、未だ場内に残るざわめきに耳を傾けてみた。

 それはほとんどが、今しがた行われたレースへの感想で……

 

「――やぁ、すげーレースだったなぁそれにしても」

 

 人々は。

 言っていたのだ。

 

 

「テイオーの復活も嬉しいけど、あのアリオンって子も相当凄かったな。あれで一年だろ?」

「よくあそこまで食らいつけたよねぇ……」

「あの子ってもう走らないのかな? 残念だなー」

「でも学園存続するんだし、もう関係なくね?」

 

 

「……」

 

 ……罵られていると思っていた。

 嘲られていると思っていた。

 もちろん、それも聞こえてきはしたけれど。

 聞こえてきた感想は、それだけじゃなかった。

 

 暖かで、純粋な感想も。

 そこに、入り混じっていた。

 

「……、」

 

 ……全くみんな。

 調子がいいな。

 

 

 

 ……そんなこと言われたら。

 終わりたくなくなっちゃうじゃないか……

 

 

 

「――ははーん、なるほどなぁ」

 

 さなかで。

 聞こえてきた声に、私は身体を震わせていた。

 いや――たぶん、その場に居合わせた誰もが、飛び上がっていた。

 

「そーゆーことだったのかぁ……」

「……と、トレーナーさん……」

 

 ……やばい。

 レースは無事に終わったけれど、最後の最後で気を抜きすぎてしまった。

 

 

 彼女に。

 このレースの真意が、伝わってしまった……!!

 

 

「い――いや! あの、その、こ、これはですね!!」

「あー、いーんだよ別に」

 

 慌てて取り繕おうとする私に。

 トレーナーさんは、肩を竦めて言う。

 

「薄々気づいてた」

「へ……」

「っつーか、隠すのが下手! そんなんで悟られねーと思ったら大間違いだヴォケども!」

「うぅ……」

 

 えっと、それは。

 それは、もう。

 仰る通りで……

 

「……美しい自己犠牲だな」

 

 トレーナーさんは。

 呆れたように、後頭部を掻いていた。

 

「あたしなんかのために……人生を棒に振りやがって」

「……、いいんですよ、別に」

 

 そんな彼女に。

 私は、気を取り直して返す。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

 ……そうでしょう?

 

「……」

 

 トレーナーさんは、私の言葉に目を丸くする。

 私が口にした言葉に対してか。

 私が表明した思いに対してか。

 地味にレアなその表情に――私は問う。

 

「……それで、どうですかトレーナーさん」

 

 過去の因縁を。

 晴らした気分は。

 

「……」

 

 彼女は、空を見上げる。

 歓声は、未だに競レース場を包んでいる。

 自分に向けられているとは限らない、その声の海に、彼女は何を思うのだろうか。

 

「……あぁ、」

 

 果たして。

 彼女は答えていた。

 

「……悪くねぇ」

「……、」

 

 やがて視線を戻し、清々しそうな顔をした彼女に、私も、そっか、とだけ返す。

 

 ……憎悪も怨恨も。

 後悔も空虚も。

 掃いて捨てても、いくらでも湧いてくる。

 

 そんな、自分を捕えて止まない感情を、こうして清算して。

 折り合いをつけて。

 

 

 

 私たちは。

 生きていくしか。

 

 ないんだろう。

 ……きっと。

 

 

 

「……あー」

 

 懐からいつものココアシガレットを取り出した彼女は、ネイチャさんたちに目を向けて言う。

 

「あんたらにも迷惑かけたな。迷惑料ならあとで請求してくれ」

「え。あ、いや。全然……」

「発つ鳥が後を濁しちゃいけない」

 

 ネイチャさんが両手を振るのを見届けながら。

 彼女は、地下バ道への道を歩き出す。

 行くぞ、と。

 私に声を掛けて。

 

「これから、理事長に顔出さなきゃいけない――」

 

 私もまた、その背に着いていこうとした時だった。

 

「――否! その必要はないぞ!!」

 

 あの、何度も聞いた、あの豪快な声が。

 そこに響いていたのは。

 

「……理事長さん」

 

 ……秋川理事長と、たづなさんが。

 そこにいた。

 お二人とも、相も変わらずにっこにこ。

 いかにも楽し気というか、一仕事終えた、みたいな感じだ。

 

「……」

 

 対するトレーナーさんは、無表情。

 親の仇を見るような目でもするんじゃないか、と思ったけれど。そんなこともなく。

 

「……秋川やよい」

 

 驚くほど真面目で、真っ直ぐな声で、言う。

 

「これまでの非礼を詫びる。色々言ってすまなかった」

「うむ!」

「この事態に便乗して、似たようなことやった連中も、追跡して黙らせる。……間もなく、世間は元に戻るだろう」

 

 さらっと怖いことを言うトレーナーさん。まさか、と思うけれど、元・名家ともなれば、それくらいは簡単なのか。

 

「……トレーナー室も、明日には引き払う。諸々の手続きもそれまでに――」

「――うむ!? なぜその必要が!?」

 

 いずれにせよ――

 続けた彼女に。

 理事長さんは、頓狂な声を上げていた。

 

「……はい?」

「まさか君たち、このまま学園を立ち去ろうというのか? 暴論! そんなことを、私が許すとでも!?」

「……いや、あの、理事長?」

 

 ……次、呆気にとられるのは私たちだ。

 何を言っているのかよくわからないけれど、許す許さない以前に、そういうお話でこのレースを組んだわけで……

 

「元からこのレース、そういう約束でやったんじゃ……」

「うん? そうか?」

 

 しかし理事長さんは、不思議そうに小首を傾げると。

 

「確かに君は、負けたら自分のことは好きにしろ、とは言ったが……」

 

 ……言うのだ。

 

「――ここから立ち去る、だなんてひと言も言ってないぞ?」

「……」

 

 え。

 えぇ……

 いや、でもそれ……

 屁理屈では……

 

「だから、好きにさせてもらう! ただそれだけの話だ!」

「いや、あの。そうかもしれませんけど……」

「――それに、なぁ」

 

 口籠る私に、理事長さんは扇子を広げる。

 いつかのように、口元を隠すと。その眼光が、妖しげな光を灯す。

 

「世間はいつでもスターを求めている。だがそんな存在は、そうポンポンと生まれない……人材は慢性的に不足しているのだ。()()()ウマ娘とトレーナーは、多ければ多いほどいい」

「……」

「――そうであろう、皆の者!!」

 

 理事長さんは。

 会場中に良く通る声で、問いかける。

 

「この者がこれから、どんな夢を届けてくれるのか。皆も、見てみたいであろう!?」

『――』

 

 レース場に集まった観客たちも。

 また、一瞬だけ。戸惑ったような反応を見せたけど。

 

『――、』

 

 少し。

 

『――、、』

 

 また少しと。

 拍手が上がり。

 

『――!!』

 

 やがてそれは。

 分厚く、熱の籠もった、応援へと変わっていた。

 

 私もトレーナーさんも。

 思わず、会場中を見回してしまう。

 

「――しかしまぁ、強制ではない」

 

 理事長さんは言う。

 

「君たちが残りたくないというのであれば、引き止めん。潔く見送るとしよう」

 

 どうだ?

 

()()()() ()()()()

「……」

 

 私は。

 ネイチャさんたちを見る。

 ネイチャさんは、困ったように笑っていて。

 チヨちゃんは、期待しているように、目を輝かせている。

 

 ……私は。

 

 自分に資格はないって思っていて。

 

 遠い理想も、大きな夢も、

全部、諦め切っていた。

 

『――くん?』

 

 それは遠い日の記憶。

 

『うん。あのね、『約束』――』

 

 色褪せた写真のような記録。

 

『私、

 絶対、

 ――……』

 

 それは思い出。

 過ぎ去った思い出。

 

 遥か昔の夢。

 届かなかった、夢……

 

「……、はい」

 

 目頭が熱くなるのを感じながら。

 それが溢れ出すのを、抑えながら。

 私は、理事長さんに向き直り、勢いよく、頭を下げる。

 

「――走らせて、もらいますっ!!」

 

 その言葉が、観客席にも届いたのだろう。

 一層大きな盛り上がりに、レース場は包まれる。

 

「――アリオンさんっ」

 

 顔を上げた私に、チヨちゃんが駆け寄る。

 

「改めて、お願いしますねっ! 次は絶対負けませんよ、悪役さんっ!」

「……、チヨちゃんにだけ、いい思いはさせないよ」

「まぁーこれで、一件落着だね」

 

 締めるように言ったネイチャさんに。

 私は、溜め込んでいた想いが溢れるのを止めないまま、頷いていた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 秋川やよいは、年頃の少女らしくはしゃぐ三人を、慈母のような目で見守る。

 観客に同意を取り付けたとはいえ、世間の懐疑的な目は、完全にはなくならないだろう。

 あまりにも特殊なその生きざまが、彼女の行く先を塞いでしまうかも。

 

 ただ、きっと大丈夫だろう、と思う。

 そんな後ろ暗いものなど、足かせにもならないだろう、と。

 これだけ明るく、楽しそうに笑う彼女らなのだ。

 

 きっと、乗り越えられる――と。

 根拠はないが、確信に近い自信を、抱く。

 

「……秋川やよい」

 

 再び名を呼ばれ、振り向くと、そこには『彼女』の姿がある。

 その目は、憑き物が取れたかのように、晴れ晴れと透き通っている。

 暗い感情に淀んでいた瞳は――もうそこにはない。

 

「……あんたの言う通りだった」

 

 本当は、あたしもわかっていた。

 自虐的に、やや目線を落として、彼女は言う。

 

「あんたのせいじゃないってこと。全部、あたしらのせいなんだってこと。あたしらが……引き金を引いた結果だったんだ、ってこと。みんな、みんな、わかってた。でも……受け入れられなかった。全部が、あんたのせいだってことにして、感情のはけ口にするしかなかった。そうじゃないと……心が、狂い壊れそうだったんだ」

 

 だからって、それは許されることではない。

 提案を受け入れるのも、虫のいい話である。

 

 それでも、秋川は受け入れた。

 それでも、秋川は赦した。

『彼女』はそれを受け入れられたまま、赦されたまま、過去のものにすることは出来なかった。

 

 それに。

 報いなければならない、と感じていた。

 

「……、」

 

 だから。

 秋川と、真っ直ぐに目を合わせ。

 深々と、頭を下げていた。

 

 

 

 ――どうか。

 よろしくお願いします――

 

 

 

 と。

 

「……うむ」

 

 秋川は、それに満足そうに頷くと。

 扇子を翻し、掲げる。

 

「もちろんだ!」

 

 その表面には――

 派手な筆文字による、『歓迎!』という言葉が躍っていた。

 

*1
提供: アドマイヤベガ

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。