そっと肺に宵闇の空気を含む。それは、梅雨時の翡翠色した湿った空気の味がした。
東京郊外のボロアパートの近郊には、雑居ビルが無数に蔓延っていて、窓から外を見れば隣に立つビルの無個性な灰色しか見えない。
閉め切ってしまえば、安賃貸故に湿気で茹だる事になる。
その為、無機質な壁など見たくはなくても、家主は窓を開け放っておかなければならなかった。開けていた方がいくらかマシだから。
師から独立を果たした須賀美 鈴(すがみ すず)は、一人暮らしの静寂の中で一つ溜息を漏らした。息はじっとりした湿気に混じって分散する。
明日に備えてゆっくりと休息をとった割に身体と心の均衡はとれず、鬱陶した気分は和らぐことが無かった。
ここ最近、自分は鬼としての活動に没頭出来ずにいる。
それは、師が深く関わっている事は自分でも嫌という程に充分理解はしていた。
師匠である、トドロキが急にパッタリと身体が動かなくなってしまったというのが事の始まりで、師は今や車椅子での生活を余儀なくされている。周りにもその影響は大きく、日菜香さんは動揺で塞ぎ込んでしまっている様だったし、師と歳がそれなりに近いバンキさんは曇った表情で自分を激励してくれた。
困った事に、師匠の不調に一番影響を受けているのが、自分であるという事だ。本来ならば、弟子として自分が今一番頑張らねばならないことを分かっていながら、動揺と混乱で慄いてしまっている。
玉子色した天井をぼんやりと見つめながら、物思いに沈んでいるといつの間にか意識も手放し、眠りについていた。
一夜明け、夜中からまた降り出した六月の雨は、暑さを周りにまとわせ部屋を覆う様だ。簡単に朝食を済ませてしまってから、報告書をまとめに "たちばな"へ向かうことにする。
バイクを走らせながら思う事は、免許皆伝をしたばかりの自分であった。
「スズ、お前は筋が良いんだからそこは強引に決めるところじゃないよ。オレなんかはそうしてたかもしれないけど、スズは間を置いて確実にしてからじゃないと。
この先、危ないよ。」
「自分としては…、いえ。
そうですね。確かに、少々強引に攻めていた部分があります。」
「スズは、スズなんだから。オレのやり方じゃ無くって、自分流にやらないと。本当に、危ないからね。」
「はい。」
師は、頷きかけながらキャンプ道具を片付けてさっさと退散して行ってしまった。
自分は普段通り一度湯を浴びてから場を改め、 たちばなに向けてバイクを走らせた。
回想と共に、バイクを走らせていたら、たちばな を行き過ぎてしまいそうになっていて、慌てて脇に停車させた。
たちばなの暖簾を潜るが先か、中から慌てた様子の壮年が出てくるのが先か…。
ほぼ同時のタイミングで、 狭い店の先に大人が二人で道を隔て合ってしまう。
「ご、ごめんなさいッ!」
「ごめんね!…あれ? スー君じゃないの!」
「日高さん…!」
僕を、『スー君』という妙な愛称で呼ぶのはただ一人だけ。そして、このやり取りももう何度目になる事だろう。
「あっ! いつも言ってるじゃァない、『日高さん』は止めてよー。
俺のことはねェ、『ヒビキさん』で良いから!っね!」
「そうでしたね。 …ヒビキ、さん。」
「うんうん。やっぱり、俺はそっちの方がなーんかしっくりくるのよね!」
日高さん…もといヒビキさんは、"元"鬼で、今は吉野の研修部で鬼の歴史や、戦闘訓練をされているベテランの猛士(たけし)のメンバーだ。関東支部の副支部長も兼任しているので吉野とたちばなを往復している生活を送っている。
鬼として活躍していた時は『そりゃぁ、もう凄いよ。俺は。鍛えてますから!』と本人が言っていた。
師匠も、『ヒビキさんは、無茶苦茶強くって、凄いんだよ。物凄い鍛えてたから。』と熱っぽく語っていた。
「で、どうしたの?そんなに慌てて…。何かあったの?
…もしかして、トドロキがまたドジってるか?」
「っえ、…いや。お師さんの事でって事には違いないんですけど、お師さんがドジってる訳じゃないって言うか…。」
「…身体の事か?」
「…。はい。」
言い当てられ、肯定の意味で頷きながら答える。ヒビキさんに隠し立てする事でもないし、こうして たちばな に顔を出していたという事は、支部長から何かしら聞いているかもしれない。
「あ、伊織さん奥にいました?」
「…ん?イオリ…ってイブキの事か。…イブキは居ないけど、おやっさんが古い資料とか医学書とかぶちまけてたから、今は下に行かない方が良いよ。」
「そ、そうなんですか。…分かりました。」
そう答えてから、店の中へ入る。
ヒビキさんは、ヒラヒラと手を振り裏にある駐車場へ向かった。
店内に入ると、直ぐに日菜佳さんが僕の姿を認めて、座敷席へ通してくれた。店内はまだお茶にするには早いからか、がらんとしていて 空調がひんやりと肌を撫でる気がする。
「すいませぇん。義兄上(あにうえ)は、姉上の検診へ行っていて、そろそろ帰ってくると思いますけど…? どうしました? スズくん?」
「先日のカシャの報告が、バケガニの嵐ですっかり遅くなってしまってたので…。」
「あぁー。 あのバケガニ軍団は猛烈でしたねぇ。さらにアミキリの出現で、アレの時とすっかり状況が同じでしたから…。」
「…下は、立花さん…。」
「父上の剣幕ったら、それはそれは…"鬼"の様で…。」
「誰が、"鬼"の様だって?」
「ちっ、父上っ!? …もぉ、ビックリさせないで下さいよぉぉぉ…。」
「スズと話していたからね。終わってからにしようと、思っていたんですよ。 スズは、報告に?」
「あ、はい。」
思ったよりも、物凄い剣幕では無いように思えたので、少しだけ安心した。ただ、何時もよりもいくらか調子が落ちているのは、言葉の節に現れている。
「スズ…。この後、時間はあるかい…?」
立花さんのこの言葉は、ここに来て何時か聞かなきゃならないと分かってた事なのに、受け入れ難く、出来れば聞きたくなかった事を聞かざる負えない瞬間がきたと僕に警笛を鳴らしていた。
取り敢えず、バケガニ集団とそれに準じたアミキリの報告に、カシャの出現、討伐に関しての報告をPCにまとめ終わった。
僕の作業が終わるのを待ち構えていたように、茶菓子と一緒にお茶を出す立花さん。
「報告書のまとめ、お疲れ様でした。
今回のは、…アレとは関係ないでしょう。と、言うのが吉野の見解の様ですけれど、念には念を入れよ。と指示を出されましたので…。今年は…何かと忙しくなるから、体調には気をつけて下さいね。」
「はい。…それで、お話って…。」
立花さんは、 目を伏せて 一度深く呼吸して頷きながら続ける。
「トドロキ…なんだけれど。10年前にアレが起きた時に負った傷がね。身体が効かなくなった原因じゃないかと思うんですよ。」
立花さんは、意外にも一息に結論を言い切ってしまった。普段は、結論までに含みをもたせる事が多く、やんわりと物を言うのに。
今回ばかりは、やんわりと言って欲しかった。
「アレって、オロチ…の事ですよね? お師さん、あまりその頃の事を話さないので…。オロチがどんな事だったかは何となく分かるんですけれど…。」
「えぇ…。トドロキにとっては、辛い時期だっただろうと思うし…、 実際。辛かったろうしね…。
そうか…。トドロキは話してないんですね。」
「辛い時期…。」
「…。今のスズの様だったからね…、私は見ているだけしか出来ないのが、何とも歯痒いが…。
何か縁の様なものが働いているのか…。あの時も、そう。
何とかオロチを食い止めようって皆で頑張っている最中でした。
魔化魍によって、トドロキが負傷して…。
医者には、再起不能と言われていたんです。」
そんな話は、 聞いたことも無かった。
オロチによって、大量の魔化魍が出現した。という事実しか、 師匠は語ってくれなかった。
立花さんが、そこで一呼吸置いた。
自分が一度言葉を飲み込む事を待っていてくれている。
師匠は、その後どうやって復帰したのだろう。
自分の眼が、疑問を立花さんに投げかけていた。
「今のスズの様にとても落ち込んでいたからね…。先代が、辛抱強く介抱していたんだよ。それで、トドロキは頑張れたんだ。」
そこで、立花さんは昔を懐かしむように遠くを見つめ、思いを噛み締めるように口を真一文字に結び、視線を一度僕に投げてから、まるで自分を納得させる様子で小さく何度も頷いてから続ける。
「スズの事が、私は心配でね。
免許皆伝して間もなくで、トドロキがいきなり倒れたりしたから…。ショックを受けていないかとね。」
「…。お師さんは…。」
心配されている申し訳なさと、不甲斐なさ。師がこれまで随分と無理を押していた事実とで、自分の心がざわつき、これまで抑え込んでいた負の感情が急に大きく外へ押し出されるようにして言葉を織り成していく。
「お師さんは、今も一生懸命に復帰しようって…。頑張ってるのに…。自分は、その姿が見ていて不安で、痛々しくて…。
だから、自分がしっかりしようって、頑張ろうって…。」
「…やっぱり、師弟は似るのかな…。スズも頑張り屋さんだから、一杯一杯になってはいないか、気がかりだったんですよ。」
流れてくる感情を押し込めるように、歯を食いしばった自分には、会話を続ける余裕はなかった。
しばらく、重い静寂が二人の間を漂う。
感情の失禁は収まっていたが、どう切り返せばいいか自分には分からなくて、決まりが悪くつま先に視線を投じていた。
「スズ、一つ頼まれてくれるかな?墓磨き…なんだけれど…。元々トドロキが定期的に行っていて、動けなくなってからは、私が代わりに行っていたんだけれど…。
私も歳でね…。腰に響いちゃって…。」
「えっ…? は、墓磨き?」
「そう。 猛士(たけし)をサポートしてくれている住職の寺の敷地内の墓地でね。住職も随分いい年で、私やトドロキ達が交代で境内を掃除したり雑用を手伝っていたんですよ。」
「そうだったんですか…。」
「まぁ、結局マメに続けてくれたのは、トドロキ位で 私とトドロキが何となく続けているって感じになっちゃいましてね。気分転換に、どうだい?行ってみないかい?」
今は、少しでも気持ちを落ち着かせられれば。という思いと、師の手伝いになれば。との思いで、立花さんの提案は心に直接響いた。
「そうしたら、僕。やりたいです。 やらせてください。」
「じゃあ、 ちょっと待ってくださいよ…。今、住所と地図を出しますから…。」
立花さんは、言い終わるやいなや PCのキーボードを叩き、迷いなく住所を入力すると、こちらに目をやり隣へ来る様に促される。
椅子を寄せて、腰を落ち着けた僕は、隣から表示されているディスプレイを見た。
立花さんが、画面を指差しながら細かく道順や目印を説明してくれたので場所への不安は払拭された。
「住職には、私から話をしておきますから。 よろしくお願いしますね。」
そこで、話を切ると 上が騒々しくなっている事に気付く。戻ってみると店内はいつの間にか賑わっていた。日菜佳さんが一人、てんやわんやのてんてこ舞いに、店内を駆け巡っている。
「ち、父上! 今日老人会の皆様がここで勉強会だって聞いてました!?」
青ざめながら、お盆に茶菓子を載せて走り回る様子から、思いがけないグループ客に混乱している様子だった。 それを聞いた、立花さんの様子もみるみる落ち着かなくなり、慌ただしく団体客の輪の中に飛び込み思い切り頭を下げる事数回…。
そして、特急列車のごとく物凄い速さで、奥の間から、貸切の立て看板を背負って来た。
僕もすぐ様看板を支え表に設置をする。店をそのままの勢いで手伝う事になり、帰宅は17時を過ぎた頃だった。
店を出る頃には、いつの間にか雨が降り出し、梅雨の湿気を更に強めている。
アパートの部屋の中は、キノコでも生えてきそうな勢いでじっとりとした空気が蔓延っていた。