「何か悩み事か?」
不意を付いてくる彼の問いかけに、心の弱い部分が痛む。
痛むと同時に、何故か分からないが、目の前の大師匠には包み隠さずに気持ちを吐露してしまいたい気持ちにさせる何かが。自分に働きかける。
「僕、しっかりしなきゃいけないんです。」
急な師の不調と現役の引退。心の動揺。自身の不調と不甲斐なさ。
「分かっているんですが。上手くいかなくて。気持ちが焦って。」
焦る程に、失敗が続き。落ち込む程、自分自身が情けなく思えた。
その度に、このままじゃいけないと、鼓舞するのだが。
「結局、また上手くいかなくて。堂々巡りで。自分は、鬼に向いていないんじゃないかって。」
今。自分に足りないもの。魔化魍と対峙する強い意思が。鬼として闘おうとする固い信念が足りない。
大師匠は、静かに聞いていた。ただ目を瞑り、話が終わるまで。何も言わずに聞いていた。
やがて、場には雨の音だけが響く。優しく絶え間なく降りしきる雨だったが、今の自分にはそれを受け止める程の余裕が無かった。
ただ、耳に張り付く雨音が、静寂を測り焦燥感を募らすばかりとなる。
「どうしてトドロキが引退したからしっかりしなきゃならないんだ?」
「え?…だから。話した通り、鬼として…。お師さんの分も…。」
「なんでトドロキの分もしっかりしなきゃならないんだ?お前はこれまで普通にやってきたんだろ?」
それは、そうなのだが。
師匠の欠けた分を補わなければならないのではないか?
他の鬼たちだってそうしている。
自分も、穴を開けてはいけない。
「僕もお師さんの様に頑張らなきゃって…。」
「…。うん。そうか…。スズ。お前、どうして鬼になったんだ?」
「え?」
どうしてそんな事を聞くんだろう?
今、聞く必要があるのか?
「お前の悩みの根本は。多分そこだ。何故、鬼になったんだ?」
「それは、お師さんの様に。優しく、強い鬼になりたいから…。」
「…。」
目を閉じて、数回静かに頷き、そしてこれまでと違う鋭い眼光が僕を射抜いた。
その視線には怒気は感じられないが、強い気迫の様なものを感じる。
「トドロキには、伝えたつもりなんだけどな…。少し違って伝わったのかな…。」
独り言のように、空気に置くように。ぽつりと言う。
視線は相変わらず強い印象を与えているが、威圧のようなものは無くなった。
「鬼としての修行は、一種の生き方だ。自分がどう生きるか。どう在りたいか…。
トドロキの様になりたい。…それでも良いが、お前はお前だ。トドロキじゃあ無い。トドロキにはなれない。」
一つ一つを、強く。大師匠は、確信を持った口調で自分に言い聞かせる様にゆっくりと。そして、しっかりと言葉を紡いでいく。
「それじゃあ、僕は。間違っていたんですか?お師さんの様になりたいって、思っちゃいけないんですか?」
「…。まぁ、落ち着け。そういう事を言いたいんじゃない。」
「だって…!」
「トドロキの様に…。そう思う事は悪い事じゃない。
だが、厳しい事を言う様だが、お前が歩む道は誰かの真似をして歩む道じゃない。お前の道なのだから、お前が選んで決めるしかない。
このまま、トドロキだったら。とか、トドロキなら。と考えていたら上手くいかなくて当たり前だ。」
厳しい語調だったが、自然な動きで大師匠は僕の手を取って、力を込めて握られた。
触れた瞬間、飛び上がらんばかりの冷気を感じ反射的に肩を震わせた。
だが、不思議と握られてしまえば温かい。優しい手だった。
「スズ。君は聡明だから、言われずとも分かっているはずだ。
お前の師にも言ってきた言葉だが、〝鬼〟と言うのは一つの生き方だ。「常に自分に勝つ」生き方だと。
…トドロキは、弱音ばかりを言う弟子だった。だが、お前は知っているだろう?トドロキの姿を。
あいつも今、自分の中の〝鬼〟と戦っている。
だから、スズも。きっと大丈夫。日々の鍛錬が乗り越えさせてくれる。」
心に触れて、落とし込まれる様な。そんな言葉だった。
師が、尊敬してやまなかった人。その人の生きた言葉を、今僕は聞いている。
「僕でも、出来るんでしょうか?」
「大丈夫だよ。スズの方がよっぽどトドロキよりも心根が強そうだ。
あいつは、女性の気持ちを汲み取ったりなんて出来やしないから、苦労したんじゃないか?」
「えっと…。お師さん…。実は、僕を女だって分かっていない節がありまして…。」
「…あのバカ。」
「僕、三人兄妹の末っ子で兄達も鬼なんです。お師さんとも交流があるんですが、兄達はガサツな人達だから、お師さんに勘違いされてると言っても、性別なんて鬼に関係ないとか言って、言及もしてくれないで…。
言っても冗談の様に聞こえるらしくて…。」
「…。バカですまないな…。」
財津原は頭を抱えて深いため息を吐いた。
相当に、呆れてしまった様子で僕にもう二言も謝罪の言葉を口にする。
その度に、変えって悪い気がしてきた。
そんな折に、脇の遊歩道から見覚えのあるスポーツ刈りの男がこちらを目指して車椅子を自走してくる。
この構内は、寺から真っ直ぐに段上に登ってくる参拝用の道と、遠回りにはなるが、段差の無い遊歩道もある。こちらは、寺を囲むように植えられた、桜の並木の下を本殿からずっと寺の塀伝いに伸びて、この丘にまで続いてくる。桜の季節でもこの丘まで登る人がいないのだろう。草が茂っている。
「あれ?スズじゃないか。どうしてこんな所に?」
「あ、お師さん…。体は良いんですか?」
「今日は腕も随分とよく動くから、久しぶりにザンキさんの墓掃除に来たんだよ。この時季は草がボーボーになって、毛虫が落ちてその辺にワラワラしちゃうから、定期的に来ないと直ぐに荒れちゃうからさ。」
「そ、そうなんですね。…あ、お師さん!見て下さい、ここに大ししょ…。」
先程までそこに居た筈の財津原の姿は無かった。
揺れる桜の枝から一枚葉が風にさらわれて行く。
「ん?どうした?」
「…いえ。何も。」
『スズ。心配するな。大丈夫。この先も立派にやって行けるよ。自信を持て。』
優しいそよめきの中に、先代の言葉が強く優しく、胸を打つ。
「…はい。自分の意思でやっていきます。」
心に決意の炎が灯った。
まだ小さな青い炎に過ぎないが、揺るぎない歓喜の炎を燃やして、師の側へ駆け寄った。
顔を上げた時には、梅雨の雨はすっかり止み、空には黄金に輝く夕陽が優しく街を包んでいた。