――こんな話を聞いたことがある。『選択肢が多ければ多いほど、選択ができなくなる、または不幸を感じやすくなる』と言うものだ。子どもの頃、占いに趣味を持つクラスメイトから面白半分で聞いた程度のものだが、この時ほど過去を呪ったことはない。
何も知らなかった分、そこまで深く考えることもなく、答えなど簡単に選び出すことができた筈だったのだから。
知らない方が幸せに過ごせる。と、子どものときに読み聞かせてもらった絵本に書いてあったような気がする。
だが、いかんせん幼少期の景色など、記憶の海の奥深くに沈んで消えてしまったため、発掘もままならない。証拠品の押収を求めたとしても今頃は、本棚の奥で経年劣化によって朽ち果てているか、灰となって植物の根やミミズの餌となっているかのどちらかであろう。
――
書庫の中にて、一人の淑女は父についての情報収集を一時中断し、親戚からの一本の電話に時間を割いていた。
そもそもの話だが、実質的な国際電話であるため、先進国独自の回線システムがなければ、今頃は家の財政は電話代で圧迫されていただろう。
「どうしたのよノラ。あなたから電話を掛けてくるなんて、珍しいじゃない」
「突然ごめんね、レイ姉」
まずは許可なしの突然の連絡の謝罪。その次に飛び出したのは、レイラにとっては不穏な知らせの予告であった。と言うのも、彼女の耳を通じて脳に送り込まれたその情報は、『あるモノ』のサポート、言い換えれば支援の願い出だったのだ。
「ちょっとね…、急用が入っちゃってさ」
「何かあったの? 私にできる事だったら、どんな事でもするわよ」
「そいつは頼もしいねぇ……。いやさ、何て言うかまあ、他意はないんだけど」
「だから何よ」
電話の向こうの声の主は、深呼吸の後に静かに告げた。否、静かと言うよりかは周りの環境音や効果音の一切が、声によってその命を一時的に絶たれたのである。今の彼女の声の前には、どんな音でさえ無音に等しかったのだ。
「共和国のAIの兵器を、ちょっとばかし貸してほしい」
「……どういうこと?」
何を言っているのか、分からなかった。レイラは一瞬、理解ができなかったのだ。言葉の意味は分かる。相手が自分に対して、どんな要求をしているのかも理解できる。だが、脳の情報処理がどこか追い付かなかった。
何を言った? 今、彼女は何と言ったのだ…?
「安心して? 公国って、お金はアホみたいに持ってるから」
「いや、そういうことじゃなくて…」
そういった旨の相談が来ることは、はっきりと言えば珍しい事ではなかった。日常茶飯事ではなかったにしろ、仮にも戦争真っ只中というこのご時世、他国からの共和国への商談の電話が来る事は度々あったのだ。
その取引は、重大な目的を背負った任務兼責務であると居合わせる誰もが知りながら、近所のマーケットへ菓子を買いに行くことと同程度の軽さで行われていたことは、また別の話であるが。
(なんで……)
でも、何故ノラの口から? 何故公国から?
それが何より不可解でならなかった。何故か、ダスタリア地区での一幕を思い出す。まさか、まさかだが……。
「ねえ、もしかして…」
咄嗟に出た懸念の声は、相手の声によってほぼ強制的に中断させられた。
「おっと、ここから先は言えないよ? 国家機密ってやつなので…」
珍しく、厳かな声だった。
幾分かは伺えた。彼女は本気だ。ここまで戦線は広がったのか。命を無造作に、無尽蔵に、無秩序に、そして無責任に奪い取っていく血と暴虐の嵐は、それ程にまで巨大化したというのか。
「私も何か…」
「だから詮索はするなって言ったでしょ? まあ隠しても意味無いだろうけど。大丈夫、痛いことする訳じゃないから」
兵器を使うと示唆している時点で、痛いことをするというのは簡単に勘付かれるだろうが。
彼女の元へサポートをしに行くことも考えたが、学校で学んだ地理と歴史の授業の内容が記憶から呼び起こされたことで、それは困難な技であると思い知らされる。
共和国の本国は島国だ。公国への経路は海しかない。決して辿り着けない訳ではないのだが、容易に辿り着ける長さや環境下にもある航路でもないのだ。
公国へ辿り着くには、それなりの期日を必要とする。兵器を送り込む際に、輸送船に乗り込む事は簡単だろう。だが、敵国の船や航空機に見つかりでもしたら? 共和国の軍事の中枢を担う人物をそのような危険に晒すことは、きっと国が許さない。
くどいようだが、レイラが握っているのは軍事についてのことだ。内政にはほんの少し口出しができるというだけで、そこの全権を握っている訳ではないのだ。
つまり、他の方法では何もノラへ差し伸べられる手が無い。
「もう私も子どもじゃないんだよ。分かってる? 歴史は百年二百年で簡単に変わるんだよ。確かにレイ姉よりかは年下だけどさ」
ついさっきの調子とは打って変わって、途端に優しい声になった。
「それでも…」
レイラは、心のグラスに濁った汚染水を注がれているような気分になった。何も口に出せない。電話先の主は、彼女は、ノラは、もう戦う気でいるのか。
色々と思うことや言いたいことはあるが、無理矢理相手に迫る程にレイラは積極的ではない。どちらかと言えば、色恋沙汰にも奥手な方だ。
何であれ、彼女の中にノラのために出来る事は存在しない。手も足も出ないようなどうにもならない感情に支配されそうだが、それでも冷静さを失ってはならない。
「再三言うけど、大丈夫。何も心配しないでいいから」
「――っ…」
これはあくまでノラが決めたことだ。彼女がそうしたいと言うのであれば、自分は黙って彼女の意志を受け入れる。本来、今の自分にはその程度しか役割は無いのだ。
ああ、痛い。痛い。頭が痛い。何故、何故だ。何故今になって、頭が痛むのだ……?
「――分かったわ……。兵器は支援する。でも、くれぐれも無理だけはしないで」
ノラの決断にどうこう言える立場でもない現状、レイラにできることは、ただ彼女を信じることだけだ。
どこか、とても悔しい気分になった。予め誰かに仕組まれたプログラムの通りに動かされているような、意識がはっきりとしている中でマリオネットの糸を繋がれているかのような、そんな手も足も出ない状況に追い込まれているように思えた。
中央政府の役員達に大口を叩いておきながら、実際は何もできない。そんな非力な自分を恨むことしかできなかった。
「分かってるって。…レイ姉も、ありがとうね」
――小さく吐き出されたノラの感謝の意が、レイラの耳に届く事はなかった。それもその筈。その言葉をノラは、自分のために言ったに過ぎないのだから。
「それで、どの兵器をどれくらい送ればいいの?」
「ああ、それなんだけど――」
――
「そう言やレイ姉って、殆ど電話とか出てくれたりしなかったよね」
「それは、仕事が色々と立て込んだりしてて…」
「仕事と私、どっちが大事なのよ!」
「……冗談に聞こえないのが、何より苦しいわね」
「あ……、それは、ごめん」
ノラは、話の途中に関係の無いような雑談を挟みながら、用件を伝える。ジョークを炸裂させて場を和ませようとでもしているのか。
「じゃ、そういうことだから。お願いねー」
「ええ、分かったわ」
レイラの返答が届き切らぬ内に、携帯電話から不通音が鳴り響いた。傍から見ればただの通話が終了したという日常の一幕に過ぎないが、当の本人達にとってはどう受け取れるだろう?
レイラにとっては、自分とノラを繋いでいた何かが、音も無く切れたように思えた。無論、電話線上の通話という点では確かに切れたのだが、そういう話ではない。
何かが、もっと深くにある何かが、細くて弱い何かが……。
(ねえ、こんなにあっさりなの?)
――どこか失意ともとれる心の枷を抱えながら、書斎を出た。公国への支援のために政府などへ掛け合わなければならないからだ。
親戚ということもあり、それなりに交流のあったセビリャーナ家は、レイラにとっても一種の愛着のような感情を沸かせるのに十分な要素となっていた。その分も相まって、心の片隅に巣食っている喪失感はおよそ並大抵のものではない。
自分が大切にしていた物や大切に思っていた人が、やむを得ない状況とは言え、唐突に自分の前から姿を消したら? または、奪われたら? 少なくとも常人では、今まで通りの平坦な感情を描くことは難しいだろう。大抵の場合は、その感情のグラフは、先の人生において存分に低空飛行を続けることだろう。
奇しくも、共和国の軍事の中枢を担うレイラにも常人としての感性が残っていたことは、今この瞬間を持って証明されたのである。
――
レベッカは陸軍司令部の棟内の廊下を歩いていた。『北方地方侵攻作戦』に参加する他の5つの師団、そしてそれぞれに属する師団長達との小さな会議のためである。
否、会議と言うのも名ばかりで、実際のところは一つの作戦の度に何度と続けてきた図上演習に過ぎない事象だ。最も、図上演習と言うのも色眼鏡を何重にも重ね掛けした上での呼称だ。その実、世界地図を盤面としたただのチェスだと言うのは、レベッカを含めた6人の師団長達が誰より理解していることだった。
「やっと来たか」
「すまない、部下達の訓練が少々長引いたものでな」
会議室では、中央テーブルを囲い込むようにして既に5人の師団長がレベッカの来訪を待っていた。
「まさか…部下を殺して、その遺体処理で遅れたなんて言わないよな? 殺人ロボット」
一人の師団長が、レベッカを茶化すような口振りで質問をぶつける。その10秒にも満たない時間で一人の人間が眉を顰めたことは、そこに居合わせた者達全員が察知していた。それも、なかなかの期間を経ての挑発である。緩み切っていた背筋と場の雰囲気が瞬く間に凍り付く。彼は、虎の尾を踏んでしまったのである。
「黙れ。その呼称を使うな、オルランド少将」
第六七師団師団長、ガレイン・オルランドは肩をすくめた。やれやれ怖い、と受け流すように微笑を浮かべながら背もたれに身を預ける。それはカレンやノラのような、どこか物事や人生そのものをナメ切ったような、有体に言えばこれでもかと調子に乗った様子が伺えた。
「あ、あまりケンカはしない方が…、ね? 作戦前ですから」
一人は明らかに、何かしらの魂胆が見え隠れしそうな振る舞いが見て取れた。ただの優しさでやっているのなら別だが、それ程好き好んで争いの仲裁役を引き受ける人間など少ないだろう。そもそもの話、戦争中というご時世にケンカの仲裁役など、今更誰も必要としていない。
「お前もお前でやることをやってんだろ。本当に隅に置けないな、タランテラ少将」
ガレインが言い返す。二人を両手で制していた第二一四師団師団長、クライズ・タランテラは苦笑する。
「な、何ですか。急に」
「俺は知っている。表舞台じゃ仲裁役を演じ『自分は無害です』とアピールしておきながら、裏で『一番実力ある俺~』と調子に乗っていることをな」
「な、何ですかそれ⁉」
白々しい驚愕を示すクライズ。その隣で、腹黒い笑みを見せるガレイン。どうやらこれも彼等にとっては日常茶飯事であったようで、レベッカと他の4人が椅子の背もたれに寄り掛かりながら呆れの表情を見せる。それは、幼い兄弟のケンカを眺めながら溜息を吐く両親のようであったという。
「二人共、小競り合いなら余所でやって。ここは会議室よ。ボクシングのインタビューの会場じゃないわ」
「その下手なジョークも、できればやめてもらいたいんだがな」
「うっ! レベッカ先輩…、なにもみんなの前で言わなくても…」
第一九四師団師団長、リコ・シェヘラザードは青ざめながら慌てた。彼女は軍学校時代のレベッカの後輩であり、言葉遊びにはあまり慣れてないのが特徴だ。
――その他の二人の師団長にも作戦の内容は伝わっているため、会議は早く進んだ。それぞれの師団の出撃時間、食料や弾薬の量の調整、補給部隊との連絡手段と、万が一それが絶たれた際の対処の仕方などと言ったありがちな内容ではあったが、これまでのまとめと言う意味では一役買っていた。
「大丈夫なのか? 『北方地方侵攻作戦』の舞台は公国だろう?」
「舐めてはかかれないことは事実だ。部下達にも、少々苦戦を強いるかもな」
「共和国ならきっと、部下達の心配なんて一切しなくていいんでしょ? 楽なモンよね」
「心配なんて、戦闘後のメンテナンスくらいでしょうしね」
それぞれ言い分が大いにあることは否めないが、今は胸の内にしまっておいて貰おう。煮え切らぬ感情の爆発が、戦闘の活力源として機能してくれるなら万々歳だ。
「レベッカ先輩も無理はしないでくださいね…」
「無論だ」
「まあ流石に、『殺人ロボット』は大丈夫だろう」
リコが心配そうに呼び掛け、ガレインが面白そうにおちょくる。レベッカは口の中で溜息を吐き、一呼吸置いてから口を開いた。
「舐めるな。たとえ『殺人ロボット』にはなれど、『機械人形』にはなる気はないのでな」
刹那の沈黙。その後に、居合わせている全員の背を冷たい汗が流れた。この時ばかりは、ガレインも顔を顰めた。
――
電話を閉じながら、ノラはふーっと息を吐いた。
「慣れないことはするもんじゃないねぇ。ま、無茶をするって意味合いじゃあ、そういうことじゃないかもだけど」
人より後ろに立つ貴族という身に生まれた訳ではあるが、その貴族らしい振る舞いなど、幼少期に両親にマナーだなんだと聞かされて以来、一度も実践していない。ましてや、暗い部屋に引き籠もってコンピューターをいじっているその様は、市民の一般的な生活と比べてもより不健康に、かつより貧相に人の目に映ることは、彼女とて自明のことであった。
ペットボトルの中の炭酸飲料が底を尽き、その抜け殻をゴミ箱に投げ入れる。嫌いな人間でも崖下に落としてやるつもりで思いっ切り左腕を振るった。
「ビンゴ、三十点ってトコかな」
同時、ノラのコンピューターと部屋の対角線上に存在する外界との唯一の接点が、何者かの力でこじ開けられた。
「頼んでおいたものは見つかったか?」
この世で何よりも聴き、何よりも煩わしく、何よりも自身を攻撃する声だった。そう言った声にも、彼女はシャッターを閉めて生きていた。それなりの言い分をノラにぶつけているのだろうが、普段はイヤホンで栓をしているため、彼女にとっては『うるさい奴がなんか言ってる』程度にしか思っていない。
見たところ、それはノラの父親のようであった。
「ん…」
床に置いてある書類の束を指差す。そこには、電話での会談にて、レイラから聞き出した情報が所狭しと並んでいた。
分が悪そうな顔をしながら、彼は書類を拾い上げた。どこか汚いものでも触るかのように指を立たせていたことは、ノラにとっては何より見慣れた動作であり、自身が以前から家族にどのような目で見られていたのかを証明するのには、十分過ぎる根拠であった。
「書類はもっと大事に扱え」
たまに見掛けるガラの悪い保育士が性格の悪い園児をあやす時のように、『面倒臭い』という感情をそのまま舌に乗せたような、グダグダとしただらしない声だった。
それから、ノラの父親はブツブツと何かを呟きながら部屋を出て行った。大方、また娘についての悪態でもついているのだろう。
『自分の子供は無下に扱う癖に、戦争の書類は大事に扱うんだな』……。ノラはそう思ったが、声には出さなかった。何かしらの主張を示したところで、自分勝手だの恩知らずだのと一方的に罵られるだけであろう。
言い返す必要は無い。相手にした時点で、もう終わりだ。
――
夜中、ノラはパソコンでお気に入りのサイトを巡回しながら、小さな四角柱形の菓子を頬張る。味など覚えていない。少なくとも、異様に口の中の水分を奪われたのは覚えている。さて、自身の置かれた状況に少々の苛立ちを覚えていた。
「レイ姉はさ、この戦争についてどう思ってるんだろうね」
独り言を呟く。孤独を紛らわせるためか行き場の無い感情のガス抜きのためか、目的は彼女自身にしか知らないところだが、ともかくそんな気分になったというだけである。
「私は、嫌いだよ。ある意味で私とレイ姉を引き裂いたこの戦争がさ……」
また一つ、菓子を齧りながらキーボードを叩いた。
「そして、それを始めたっていう帝国も…ね」
ノラの瞳には、この世の深淵でも捻り出したのかと見紛うくらいの暗闇が、物静かに映っていた。