Cross-two Night   作:滝村亜華音

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『It’s a Moratorium』

 ――西暦2208年11月14日、ハーディングフェーレ公国首都、オードゥルーヌ。公国を統治する貴族の一家、セビリャーナ家。

 

 そこで、一人の少女が産声を上げた。周りから見ればただのけたたましい喚き声にしかならないが、その少女の家族からすれば、既に何度も耳を劈いて、引き千切れたと勘違いする程に何とも感じ取れないモノに他ならなかった。

 

「…初めまして。私の、妹……」

 

 少女より一足早く産まれた別の少女が、妹に笑いかけた。ここからだけでもよく分かるように、彼女は少女の姉に当たる人物なのである。

 

「これでルイーセも、もうお姉ちゃんね」

 

「……うん…! よろしくね、ノラ」

 

「ノラ?」

 

 母親が不思議そうに尋ねる。予告も無しの聞き慣れない固有名詞の登場にもしやとは思ったが、やはりそうだった。

 

「うん…。この子の…、名前」

 

 少女、ルイーセ・セビリャーナは妹の名を呼びながら、微笑を浮かべていた。そうだ。普段は物静かな彼女だが、物静か過ぎて相手が無響室に閉じ込められたかと錯覚する程の佇まいであったことは、巷では有名な話だ。そんなルイーセでも家族が増えることとなると、それ相応の喜びは感じるのだ。

 

――

 

 ――ルイーセには友人が居なかった。成績は常に上位に食い込み、口論もせず陰口も叩かない。更にはクールと言う名の鋼鉄の鎧を身に纏い、自身のテリトリーへの誰の踏み込みも許そうとしないその振る舞いに、その身をたじろがせた同級生は多いと聞く。

 

 表情筋の硬い彼女でも、数少ない頬の緩む事例は存在していた。

 

 一つ目は、好物のチーズケーキを食している時だ。あの甘美でどこか罪深ささえ感じる濃厚かつしつこ過ぎない味わいは、氷のように固まり切ったルイーセの顔にクシャっとした笑顔を浮かべさせるのには十分だった。

 

「ん…、チーズケーキ……おいしい」

 

 二つ目は、ノラと時間を共にしている時だった。何より可愛らしく、何より大切な妹と過ごす時間が、彼女にとってのまたとない思い出となっていたのだ。

 

「おねーちゃん、この本読んで―」

 

「ん? あ、本当にノラは…、SFが好きだね」

 

 パタパタという小さな足音を立てながら、ノラが本を持って来た。何気ない、就寝前のルーティーンの一部である。彼女が持って来るのは決まってSFの物語であった。

 

「だってロボットとか機械とかって、おもしろいんだもん!」

 

「うん、そうだったね」

 

 それがどうと言う訳ではないが、機械的なものに関心を持つのは、当時の貴族の間では異例であった。

 

――

 

 ――当時の公国では『貴族は美しく、華奢に、そして高貴に』と言ったイメージが強く、当の貴族達の間でも、それが貴族のあるべき姿として浸透していた。それ自体はまだ許容範囲であろうか。

 

 だが、ここからが問題であった。

 

 と言うのも、やがて貴族の中から、工場ロボットや兵器などを『デカブツ』『ガラクタ』などと揶揄する者が現れた。差別意識が元からあった訳でも無かろうが、当時の公国での文化がその風潮を呼び寄せてしまったのだ。人間の特性の一つである『事なかれ主義』も災いし、いつしか常識として定着してしまった。

 

 その風潮が広まるにつれ、今度はまた質の悪い人間が現れる。今度は、軍隊に所属する者達を『野蛮人』『先住民族』などとバカにし始めた。自国を守ってもらっている軍隊に対して、感謝の意も示さない。国の君主としての誇りは無いのだろうか。

 

 ――こんな具合で、公国にも公国ならではの『文化』が存在していた。

 

――

 

 しかしながら、妹は相変わらずの無邪気な笑顔をそこに浮かべていた。

 

「私も、ロボットとかになってみたいなー。手から武器出したりさ」

 

「んー。今は…、無理、かも」

 

 妹は笑い、姉も笑った。

 

 ――それがルイーセにとっての幸せであった。

 

 何よりありふれた普通の生活のように見えるだろう。ルイーセにとっては何一つ普遍的ではなかった。と言うのも、彼女の身に圧し掛かるソレは、並大抵の重圧ではなかった。

 

 両親からの期待、朝早くから夜遅くまでの勉強、国を治める一族の血を引く者としての体裁――身近にある様々なモノが、ルイーセの自由を許さぬ足枷として存在を確固たるものにしていた。むしろそちらの方が、彼女にとっては普遍的な景色であった。

 

 貴族の第一子として、次期当主としての威厳も欠いてはならぬ。ひいては、セビリャーナの名を背負うことになるのだ。一時の気の休めさえ、許されない。

 

 ――そんなルイーセにとって、苦労を忘れさせてくれるノラの存在は何より大きかった。年下の人間に癒されるようなものでは、きっと貴族としてのイメージは大きく崩れてしまうだろう。でもその時に、疲弊し切っていた彼女の心は、確かにノラによって潤されたのだった。

 

――

 

「ふふ、可愛い…」

 

 絵本を読んでやると妹はたちまち瞼を下ろし、そう時間の掛からないうちに寝息を立てる。それでいて、髪を優しくゆっくりと撫でてやると、心成しか笑っているように見えるのである。

 

 ――愛らしいではないか。細かい詳細など要らない。合理的な説明など必要ない。愛しい家族だ。大切な妹だ。

 

「――」

 

 眠るノラが欠伸を一つ。

 

「…! 疲れてた、のかな……」

 

 抱きしめるルイーセが笑顔を一つ。

 

 そうして、彼女も妹と共に眠りにつく。

 

 ――こんな日がずっと続けばいい。子どものように夢に浮かれた考えだが、ルイーセは確かにそう思っていた。何せ、今の自分の心を癒してくれるのは他でもない、ノラ一人であったのだから。

 

――

 

 公国の貴族は体裁を気にする。何か弱みでも見せれば、きっと国を治める器とは見做されなくなる。相談など、とてもではないが、できなかった。どこからどこまでがそう言った器に該当する人物の範囲なのかは定かでないが、『簡単に人に頼る』などと見做されれば、きっと次期当主の地位さえ剥奪されかねない。

 

 『だから』と言っても語弊は無いだろうか。ノラが何より、ルイーセの心と近い距離に居る存在となっていた。別に妹を愛でる姉が居たとしても、何も不思議ではないだろう。皆の目がある中で、妹を可愛がっていても何も変に見られないというのも、彼女にとってはある意味で好都合であった。

 

――

 

「約束だよ? 私が先に宿題終わったら、プリンはどっちも私のね」

 

「分かった。でも…、妹だからと言って、負けない」

 

 妹の無邪気な顔とそれに対する大きな期待を抱きながら、ルイーセは学習塾からの帰り道で談笑に浸っていた。因みにこの時、ルイーセは高校生、ノラは小学生である。

 

 ――その日は月が黒雲に身を隠しており、むしろその黒雲から無数の水滴が垂れ、いつもより暗い世界となっていたことは、二人も十分に理解していた筈である。事実、二人は各々の傘を持参していたのだから。

 

――

 

 しかしながら、そんな時間が長く続くのであれば、それこそが人類にとっての当たり前となっていた筈である。ましてや『幸せ』と言う言葉や、概念ですら存在し得なかったであろうことは、想像に難くない。

 

 変に回りくどい言い方をしたが要は平たく、幸せが長く続くならばそれに越したことは無い、ということだ。そして、それは彼女たちにとっても、何一つ例外ではなかった。それは裏を返せば、幸せが長くは続かない事例も当たり前のように存在することと同意義であるというのは、誰もが理解しているだろう。

 

――

 

「あはは、今日は私にとって簡単な範囲だったからね。頑張っちゃうよー!」

 

 妹は意気込む。冒険を志した勇者のように。

 

「そう。でも…、私も、負けない。今回も私が…、勝つ」

 

 姉は笑う。世界征服を叶えた魔王のように。

 

 両親や世間から見た時の体裁のために固めていた表情ではあったが、それも妹の前では、たちまち崩れて綻んでいく。それがどこか、自身を縛り付けていた見えない鎖から解き放ってくれいるようで、妹が自身にとっての天使のようにも見えた。

 

 これだけを切り取れば、俗に言う『シスターコンプレックス』を患う姉としてより世間からの批判を喰らいかねないが、他に良い形容の仕方がルイーセには思い付かなかった。

 

――

 

 ――当事者にしか分からないのであれば、それを無理矢理掘り返して晒してやる必要など皆無だ。

 

 テレビのスイッチが切れたことで、それについて不幸と思ったことはあるだろうか。電灯が光を失ったことで、それについて悲しみを感じたことはあるだろうか。携帯電話の電源が切れたことで、それに深い絶望を覚えたことはあるだろうか。

 

 人によってはあるだろう。携帯電話の電源が切れた場合は特に。

 

 そんな突発的な事の終わりを迎えたとしても、大抵の人間は日常茶飯事として片付けるような、なんてことない出来事だ。

 

 では、当事者である二人はどうであろうか。

 

――

 

「フフン。今回は、おねーちゃんの悔しがる顔が目に浮かぶよー」

 

「ノラ…。どこで、そういう言葉…、覚えてくるの?」

 

 交差点。二人の帰り道の道中には、それがあった。

 

 そこに立つ信号機が示していた光が見えていたのか否か、彼女達の視点にならなければ分からないが、ここでは不問という形にしておく。いずれ嫌でも分かるのだ。

 

「あ、赤に変わっちゃう。急げ!」

 

 ノラが走り出す。

 

「あ、危ないよ…」

 

 いつもより暗い空。人の声など簡単に掻き消す雨音。それが見える訳でもなく、それが聞こえる訳でもなかった。小学生であるがゆえの無邪気さも功を奏し、あのような状況へとことが転じたのだ。

 

 だが微かに聞こえるその唸り声は、少なくともルイーセの耳には届いていたようである。

 

「……っ⁉ ノラ、戻って!」

 

 巨大な鉄の獣から妹を守ろうと動き出したが、些か遅かった。

 と言うのも、この日の雨は俗に言う大雨の類で、慎重に足の踏み入れを行わなければ容易に滑倒してしまいそうな状態だったのだ。そんな地面であれば、トラックと言った大型車両でさえ簡単にスリップしてしまうことも、容易に推測が出来た。

 

「――」

 

 一瞬の出来事であった。妹の背中を押しのけ転倒する。その後、視界が一切の光を通さぬ一面の黒へと塗り替えられた。同時、半身を無慈悲に抉られる。筆舌し難い激痛と共に、身体の破壊が訪れたのだ。

 

 ――肉が、潰れる。骨が、砕ける。血が、噴き出す。痛みが、ゆっくりと身体を蝕んでいく。

 

 車輪とアスファルトで構成されたコンクリートミキサーで、彼女の身体は見るも無残な状態へ早変わりした。気付いた時には、最早、延命治療ですら施せる状態にはなかったことは明白であろう。つまり、死んだ。彼女の命が犠牲となったお陰で、トマトソースでコーティングされた挽肉が完成したのである。

 

「――」

 

 ――ノラが状況を把握するより早く、ことは起こっていた。彼女が覚えていたのは、不意に背中を強く押された感覚のみ。強すぎたために、ノラは前の方向に転倒する。

 

「……え?」

 

 振り返れば、たった今まで共に談笑に浸っていた姉の姿は無い。あるのは、美しく淑やかで慎ましい体裁を失った、姉とは何から何まで正反対の、ただの肉塊であった。

 

「…お姉ちゃん…?」

 

 呼んだところで声が返ってくる訳もない。ノラがことの大きさを理解したのは、数か月が過ぎてからであった。理解するのが遅い。数か月もかかったため、中学になってからようやく自身の立場を知ったのだ。

 

――

 

 ――公国の未来を背負う、と大きな期待を寄せられていた逸材が旅立ったため、無論、公国内には衝撃が走った。衝撃の度合いは並大抵のものではない。その度合いは、とある宗教団体の過激派によって引き起こされた、とある国での同時多発テロ事件に匹敵するものと思われた。

 

 ことの運びだが、ノラが批判や罵詈雑言の絶好の的となったと言うのは、簡単に推測ができるだろう。当然だ。神童を死に至らしめる原因を作ったのだ。

 因みに当のトラックの運転手は、その後どうなったか分かっていない。噂によれば、地下牢で拷問を受けているだとか裁判を通す間もなく処刑されただとか囁かれているが、ここでは左程重要ではない。

 

――

 

「……」

 

 批判の声ばかりが数を増す。それに反比例して、ノラの精神は日に日に疲弊していった。無理も無い。既に精神が成熟し切った大人ならばいざ知らず、中学生と言う多感な時期に、よりにもよって嫌悪や否定の海に投げ込まれたのだ。

 

「あ、神童殺しが来たよ」

 

「自分の姉でしょ? 殺しておいて何とも思わない訳?」

 

「貴族の跡取りが人殺しかぁー。セビリャーナ家も終わりだな」

 

「ちょっと、やめてやれって」

 

 陰口。誰の目から見ても分かる代物だ。

 誰であっても、何かしらの事件などが起これば、その事実に対して妄想と言う名の脚色を加える。そしてそれを絶対不変の真実だとして疑わず、平気で他人へその虚偽に満ちた情報を植え付ける。これを人は、ウワサと呼ぶ。

 

 それ自体は何も問題はない。人間の持つ性質上、それが生まれることは仕方のないことだ。それが文化として浸透しているのも、今となっては取り返しはつかない。

 

「ごめん、お姉ちゃん。私、貴女が思う程良い妹じゃないみたい……」

 

 とうの昔に存在を消した姉に助けを求める。ポツリと飛び出た微かな声が、心中我が物顔で居座る孤独感と虚無感を増強させた。何がここまでことを運んだのかは言わずとも分かるだろう。

 

 度重なる批判。数を増す罵倒。ノラ自身も自分が諸悪の根源だと理解しているが、それでも精神的なダメージは止むことは無かった。

 

 結局は、誰でもいいし何処でもいい。何かしらの形で『敵』を作ることに成功したならば、後はトントン拍子でことは進む。要は単なる暇潰しだ。

 

「ごめん、お姉ちゃん。私の…、せいで……」

 

 夢の中で姉への謝罪の意を遺憾なく吐露した。だがそれをしたところで、誰かから許しを貰える訳でもなく、彼女自身の咎を否定してくれる訳でもない。

 

 ――葬式にも出席していたが、一向に悲しみの感情は芽生えなかった。

 

 ここだけ切り取れば、ただの人間性を喪失させたパーソナリティ障害を患った異常者と言うレッテルを張られかねないが、少し説明を入れよう。正確には、泣いている余裕が無かった。

 

 姉を失ったことによる悲しみは確かにある。ノラ自身、許しがあるならば顔をクシャクシャにしてマンドレイクかと見紛うくらいに泣き喚きたかった。しかし、自身の心中に巣食う『自分が姉を殺してしまった』という、強烈な自責の念が断固としてそれを許してはくれない。

 

(私が…。私の…、せい……)

 

 周りからの陰口も、彼女の恐怖感と罪悪感を煽るのには十分だった。

 

――

 

 ――それでも何とか頑張った。嫌いな勉強も、苦手な運動も、慣れない人付き合いも率先して行動した。色々と、やれることをやった。

 できるだけ、自分を姉に似せようと努力した。何とかして、姉の代わりになれるように策を尽くした。『ノラ・セビリャーナ』から『ルイーセ・セビリャーナ』になること。それが、自分に出来る唯一の贖罪だと思ったからだ。

 

 しかし、そんなノラの考えた末の計らいも、誰に理解されることも無かった。当然だ。姉を死に至らしめた人間の意見など、誰が聞き入れるのだろうか。

 

――

 

「ううー、漏れるとこだった…」

 

 ――ある深夜、尿意を催した故に目を覚ました時のことだった。トイレで用を済ませ、自室に戻ろうとしていた道中、それなりに不快な会話が聞こえた。

 

「何でよ…。何で良い人ばっかり死ぬのよ」

 

「仕方ない。今更泣いたって、過去は戻らないんだぞ」

 

「分かってるわよ! でも…あの子は…、ルイーセは…」

 

 嫌でも耳に入って来る。母親は感情のあまり立ち上がり、喚いている。

 

「落ち着け」

 

 嫌でも目に映り込む。父親はどうにか相手を黙らせようと、呟いている。

 

 ――ノラにだって、それが起こらない事だとは思っていなかった。何せ、今回の騒動の主犯は図らずとも自分である。罪状に例えるならば『過失傷害致死罪』と言ったところだろうか。だが、当時のノラは未成年であったので牢に囚われることは無かったが、代わりに過去に囚われることとなった。

 

 だからこそ、ノラは自分が誰より知っている姉の偶像を何処までも追い続けてきたのだ。

 

 実に苦労の絶えない日々だった。

 元来、演技が苦手なノラは、姉の振る舞いに自身の身体を慣らすのには骨を折った。『貴族は美しく、華奢に、そして高貴に』と言うイメージに適うよう、幼き日の記憶から絶え間なく姉を分析した。何故かその度に、息が詰まった。

 それでも尚、ルイーセ・セビリャーナを装い、ルイーセ・セビリャーナを着飾った。

 

 ――そこまでの努力も苦労も、一瞬にして簡単に無駄になるのだと、ノラはこの時になってようやく知った。

 

――

 

 ――それは蚊の羽音より小さく、無響室より静かな声だった。だがそれは確かに、ノラの元へと届いていた。そしてその時の顔は、地獄の鬼ですら泣いて逃げ出す程の恐ろしい形相であったことも、ノラにとっては印象的だった。

 

「あいつが……、ノラが死ねば良かったのに…」

 

「――」

 

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。

 言葉の意味は理解できる。正しい文法に則って単語の組み合わせを作ることで、文章を構成できることも知っている。だが、その文章を口にした母親の意図が汲み取れなかった。何と言った? 今、母親は何と言ったのだ?

 

 頭の中が真っ白になる、とはこのことを言うのだろうか。理解できるのに理解できない。

 

 ――親は自分を恨んでいた。親が向けていた愛情は、全て姉に対してのものだったのだ。自身の姿は視界に映らず、顔さえ覚えてもらえなかった。覚えられていたのは、犯罪者名簿に連ねられたその文字のみ。

 

 情報を制する者が戦いを制するとはよく言うが、いくら物好きなノラであっても、そんな情報までは知りたくはなかった。

 

「……」

 

 喉から声が出ない。膝に力が入らない。耳鳴りがする。視界が歪む。

 

「……う…、うう…」

 

 気付けば、手で顔を覆っていた。滑稽だ。滑稽過ぎる。

 自分で大切な人を殺して、実際はそれができる程の能力も才能も持ち合わせていない。模倣をするどころか、真似をすることすら叶わない。種をバラ蒔くだけバラ蒔いて、自分で処理をする力量さえ無いのだ。アホらしい。呆れてバカにもできない。

 

「もう…、もう嫌だ…」

 

 ――見るな、この顔を。聞くな、この声を。今の自分は何より醜い存在だ。

 

 何もかも捨ててしまいたかった。誰にも自分の存在を察知して貰いたくなかった。「死んでしまいたい」とさえ思った。

 

 幼稚であると思えるかもしれない。しかし、この時のノラにとってはそれだけの心情を抱かせるのには十分な事象であったのだ。

 

――

 

 最早何も言うまい。何をしても報われぬと言うのなら、何もしないのが一番だ。何をしても無駄になると言うのなら、何もかも終わらせてしまうのが一番だ。

 

 自室に籠ってしまえば良い。最早理想を追い求める道などとうに無いのだ。自室であれば、誰にも姿を見られなくて良い。誰にも声を聞かれなくて良い。そして何より、誰からの罵詈雑言を受けなくても良いのだ。

 

「もう良いや……。どうでも良い…」

 

 自室こそがノラにとっての世界の全てだ。文字通りの箱入り娘であるが、今に始まったことでもない。

この部屋だけで充分だ。この部屋以上のものは何も求めない。だから、お前達もこのテリトリーに踏み込んで来るな。

 

 これが、当時のノラの最大限の抵抗であった。このまま、誰に知られる事無く朽ちて行くが良かろう。

 

 ――しかし今になっても尚、心臓が鼓動を続けているのは何故か……。

 

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