暗闇が支配する箱庭における純潔なる自身を守るためにその少女は、コンピューターゲームによって分泌される脳内麻薬を、精神安定剤代わりに処方する。例えそれが無意義に人生の限られた時間を喰らい尽くすだけだと分かっていても、彼女にとってはそれが食事や睡眠と同等な程に、生命活動の維持に重要な生理的な行動であった。
扉の向こうからは『怠惰』だの『自堕落』だの、果てには『育て方を間違えた』だのと罵詈雑言が雨あられと降りかかるが、手元にあるゲームのプレイ画面と装着しているイヤホンが鉄壁の盾となって、この身を捧げんばかりに彼女を守る。うるさい。陰口なら本人の居ないところで叩け。
他人の言葉を無視しながらコンピューターゲームに没頭した。自分の好きな音楽や臨む音しか聞こえてこないというのは実に気分が良い。少女は、イヤホンなる外界を遮断することに特化した電子器具を発明した人物に、心の底から感謝の意を述べたくなった。
「貴族とあろう者がゲームだと? 国を背負う人間が情けない」
またお前か。お前なんかに自分の何が分かる?
「ルイーセの次は私達を困らせるの? もう打つ手なしかしらね」
お前達のせいで自分はこうなったのだ。その場しのぎの謝罪さえ授かっていない。
――猫、50%の確立で致死量の毒ガスを発生させる機械、この二つを一つの箱に入れた場合はどうなるか、というのは量子力学に基づいた有名な学説である。主に、多数の思考実験やSF作品の下敷きとして引用される。
「…る…い」
観測者によって結論が分かれると言う僅かながらに珍妙な学説であるが、大まかな話の流れ程度なら多くの人が知っているだろう。その少女だって知っていた。
「……さい」
しかし現状、部屋のドアと言う名の箱の蓋を開けない限り、彼女が生きているのか死んでいるのか、観測者にとっては何も分からない状態なのである。そもそも、この景観を観測してくれる者が果たしてこの世にどの程度居るのかという話であったが、電卓など出す必要も無いことは想像に難くないだろう。片手の指で足りてしまう。むしろ、それさえ使う必要が無い。少女が誰より知っていたし、何より理解していた。
「うるさい」
民間人からの批判、両親からの罵倒、有ること無いこと脚色した書き込み…、うんざりする程目にしてきた。一歩でも外に出れば、恰好のエサだ。待て、オモチャと言った方がやはり正確であったか。
そう言った毒ガスを撒かれながら、部屋と言う箱の中で、コンピューターゲームや音楽という鎮静剤で延命措置を試みるのである。またいつ蓋、を開けてくるか分からない観測者に怯えながら、50%の生死を賭けた微妙なバランスゲームに勤しむ。
「もう分かったからさ…、邪魔、しないでよ……」
――彼女は観測者ではなく、猫なのだ。
――
「……」
ハッキングによって手に入れた情報を、公国の軍部へと送信する。キーボードが小気味いい音を立てながらコンピューターにデータを送り込む。いつもと変わらない、多くの人が想像するような平日のデスクワークと同じ景観と言っても相違ないだろう。最も、仕事の内容は全く持って異質なモノであったが。
小一時間程度、その作業を続けてから席を立つ。ノラは一日の殆どの時間を作業机とベッドの区間を行き来しているだけであったが、今日は少し違う。と言うのも、その日はいつにも珍しく、彼女が部屋のドアのノブに手を掛けたのである。
数センチ程の隙間を作り、外界の様子を伺う。
「……」
見たところ、部屋の近辺には誰も居ないようだった。心の底からホッとするような、今まで肩に乗っていた重荷が一斉に下りる感覚。はーっと息を吐く。誰とも顔を合わせたくない心持ちは、今尚変わっていないようだった。それが反抗心や意地の類ではなく、本心からのモノであったことにはそれなりに驚いた。
「さて、じゃあ今日も身を清めるとしますか。二人によると、私は汚らわしいらしいので…」
なるべく音を立てずに、かつなるべく誰とも会わないように邸内を移動する。両親は勿論のこと、使用人と顔を合わせることも、個人的には御法度だ。
シャワーを浴びて一頻り身を清める。何も知らず呑気にノラ自身の身体を撫で付ける水滴が、いやに恨めしく思った。
脱衣所にて服を着、鏡の前で髪を梳かす。洗面所と脱衣所を兼用しているのだ。一枚のガラスを隔てて、もう一人の自分が恨めしそうな目を向ける。昨夜は睡眠をよくとった筈だが、ガラスの向こうの人間の目は、隈によって気味が悪いまでに黒ずんでいた。
「さて…、準備もできたし、行きますか」
自室にて正装に着替えると、ノラはコンピューターから引き抜いたメモリーカードと持ち運び可能な小型コンピューターを携え、部屋を後にした。一時的にだが主を失ったその部屋は、文字通りもぬけの殻であり、植物状態であるかのように生気を失った無音の空間と化していた。
――
外。ノラにとっては一段と久し振りな光景だ。ここまで眩しかったか? ここまで広かったか? 自身の記憶と一切の辻褄が合わない。外界は、こんなにも途方の無い世界だっただろうか。ああ、今日も日差しが元から無いに等しい体力を奪っていく。
「ううーっ、寒っ」
タバコなど吸ったことも無いのに、口から煙が飛び出す。その煙も、街の邪魔な喧騒と雑多な色の海の中に沈んでいった。
その姿が消えて行く様に一種の感銘を受ける。ここまであっけなく姿を消せるのであれば、今すぐその煙と成り替わりたいくらいだ。問題は無い。どうせ自分が存在を消したところで、それを悲しみ悔やんでくれる者など、一人も居ない。
否、一人だけ思い当たる。しかし、そいつも今はどうしているか分からない。元気に暮らしていて欲しい。欲を言うなら、夜の眠る前の一瞬くらいは、自分のことを思い出して欲しい。『あんなアホが居たなあ』くらいで良いから…。
――屋敷の門の前には、一台の車と一人の使用人がノラを待っていた。分かってはいたが、いざ使用人の姿を目に映すと、少々目眩がした。
口の中で溜息を吐く。今から向かう先は、自分のことを誰より嫌い、自分のことを誰より恨んで憎んできた人物が居る場所だ。
「なんでまあ、面倒臭いことばかり纏わり付いてくるのかね。お陰様で、今でも厄介者扱いされてたまったモンじゃないよ」
処刑場へ通される囚人のような気分で門を出る。
当のノラも公国の貴族の娘を間接的に殺した訳であるから、いつ処刑場に送られても文句は言えない。しかしながら、彼女も同家の娘であったため、貴族生まれの人間のみが取得できる特権を駆使した結果、貴族としての尊厳と引き換えに死刑を免れたのである。
――門のすぐ傍の道路に佇む車。車のドアの傍に立つ使用人。無表情で車に乗ろうとする。何も無い、ただの日常だ。
――
「人の噂も七十五日」とはよく言ったものだ。炎がある程度燃え盛れば、その後は灰燼――ただの燃えカス――だ。事実、ノラについての話題もあれから数年程度で表舞台には姿を現さなくなった。否。正確には、姿を現してはいけなくなった。ノラは幼少期の頃に「姿の見えない水中生物」なるモノを聞いたことがあったが、その比ではないことはだ。
と言うのも、主にメディアを始めとした情報発信システムの類が、スイッチでも切れたかのように話題に触れることを放棄したのである。特にこれと言った説明も無く、だ。仮に説明をしようと試みたとしても、見えざる力によって、戸籍ごと存在を消されかねない。説明はしないが、言う事は聞かねばならなくなったのだ。
「暗黙の了解」と言う名の巨大な圧力によって、誰もが口をつぐみ、沈黙を守ることを余儀なくされた。
一度目にしてしまえば、意外とあっけないものだ。結局は、何かしらの話題に群がって面白がることができれば、それでいいのだ。それでも一定数、ノラに対して反感を持つ人間は居る。その主な勢力の殆どの人間が貧困層の生まれであることは、言及の必要は無いだろうか……。
――
外界に蔓延る心無い言葉に惑わされぬよう、外出時は無色の仮面を身に付ける。それと同様、自身の情を黒とは言い切れぬ黒で塗り潰し、何にも動じぬように文字通りの「無」を突き通す。それはさながら、死刑執行人を務めるには持ってこいの冷淡さと冷静さであった。
使用人が開けた車のドアに、ノラの姿が吸い込まれていく。その瞬間の彼女の顔を知る者は、誰も居ない。
――
――その執務室には、作業用の机が鎮座していることは言うまでもない。そこの机に貼り付き日夜作業に明け暮れるのが、レイラの恒例の現実逃避の手段となっていた。特に凝った手段は取らなくても良い。何故なら、作業に意識を向けてさえいれば、その間は何も考えなくて済むからだ。
執務中、アウルの声が聞こえた。
「レイラ様、東方植民地から通達です」
「内容は?」
報告書の山を横にコンピューターの壁と対峙しながら、レイラは答える。
「東方に位置するとある島国が、戦力を増大させつつあるようで…。東方植民地が攻撃を受ける恐れがありそうだと…」
「こっちから仕掛ける必要は無いわ。警戒だけは怠らないようにと伝えて」
「はっ」
答え終わったのとほぼ同時に、今度はマナが口を開いた。
「輸送部隊からの連絡です。『ハーディングフェーレ公国へのAI戦車170輌、AI艦艇140隻、AI航空機120機の輸送が完了した』とのことです」
ハーディングフェーレ公国。その単語が耳に入る時、ノラは一体どうしているのだろうかと夢想する。彼女は今、どんな心持ちでいるのだろうか? 今回の支援で公国の軍事力は約2倍にまで跳ね上がったらしい。
「分かったわ。即刻帰港するように伝えて」
「了解しました!」
ノラはこれらの武器を用いて、戦場に足を踏み入れようとしている。これまで、公国はれっきとした一つの国として繁栄してきた。決して強国や大国とまではいかないまでも、その国はその国なりの歴史を歩んでいるように見えた。
しかし今は、帝国の匙加減でそこが火の海になるかもしれないのだ。帝国は…、何が目的なのだ?
「……」
レイラの口内に、静かに歯ぎしりの音が響いた。
――これまでの戦争の中で、帝国は東と南東にそれぞれ位置する二つの国を手中に収めた。
否、手中に収めたと言うのも、その大義名分に目がくらんだ同国兵によって勝手に上書きされた歴史だ。実際は完全なる支配にまでは至っておらず、双方に向け、現在進行形で戦線が蜘蛛の糸のように張り巡らされている。
現在は共和国の属国や植民地での戦線、共和国本国との海を挟んだ睨み合いを、20年近くにまで繰り広げている。まるでピザやケーキのホールの取り合いだ。
「ダスタリア地区への攻撃が、近頃の緩慢さを露呈する結果になったし…。同盟国との提携と、植民地への支配を強化しておかなくちゃならないかもね」
――今現在、共和国は微々ながら覇権国の地位が怪しまれている。眠れる獅子が眠った獅子になりかねない状態なのである。と言うのも、同国にとっての脅威は他でもない、開戦時から少しずつ勢力を拡大する帝国の存在だ。
帝国との戦いは皆がイメージするようなものではなく、むしろ冷戦と言うに等しかった。戦闘は度々行われていたが、大抵は戦場に散りばめられた両戦線の睨み合いであった。傍から見れば一種の停滞状態である。
思考を巡らせながら、レイラはマナに話を掛けた。
「急だけど、マナちゃん…」
「はい」
「前に言ってた王国への支配強化の話だけど、後で少し聞かせて欲しいの」
マナは一瞬面食らったが、すぐに調子を取り戻して返した。
「了解しました。近ければ今日の午後に…」
――彼女は静かに応答した後に会釈をし、自身の仕事に戻った。レイラも仕事に戻る。誰も知ることの無い、秘密の契約はそこで終わった。
何週間か前に、マナの口から戯れに聞いた「プレテュード王国への支配強化」を旨とした提案について、レイラは微々たる引っ掛かりを感じていた。
と言うのも、マナが「自分から意見を提示した」という事象が何処か新鮮に映ったからだ。上の指令に従うことの多かった――会話の輪で言うならば聞き役に回ることの多かった――彼女が、その時は上に対し意見した。青天の霹靂とまではいかないまでも、レイラに対してはそれなりの衝撃を与えた。
――そこでレイラは一つの推測を立てた。彼女は……マナ・クレルヴォは…、使い方次第で敵にも見方にもなる、と。捉え方次第では日和見主義者とも見做されかねないが、それは今後の戦況次第であろう。注意深く観察しなければなるまい。
――
午後、昼食を軽く摂ったレイラはマナを執務室に呼び出した。
「朝言ってたことだけど…」
「ええ…、分かっています」
マナはこなれた動きで机の前のソファに腰を下ろした。レイラもまた、そこに引き寄せられるようにテーブルを挟んだ向かいのソファに座った。
マナはいつになく真剣な面持ちだった。レイラは少々たじろいだ。
「それで…、王国への支配強化っていうのは、どういった内容なの?」
テーブルの上に広げられた地図を指差しながら、マナは説明する。
「『支配強化』と言いましたが、少し語弊がありました。正確には、王国防衛線の構築が目的です」
「防衛線?」
レイラは純粋に疑問に思った。防衛などと言う支配とは全く持って対照的な言葉が飛び出してきたからだ。何故正直に防衛線とは言わず、支配強化などと言う曲解した言葉を引き出したのかにも疑問を覚えていたが、それについては、今は考えないことにした。
「ええ。共和国から幾らか軍を派遣し、防衛線として、帝国と王国との国境に拠点を設置するのです」
ペンを取り、地図上の同国境の線をなぞる。
「公国の要人から、帝国が公国への侵攻を計画しているという旨の情報が入り、同時並行で王国の侵攻も考えられると言われていたのです」
(公国の要人……。まさか…⁉)
レイラの背を、冷たい汗がなぞった。
「王国の軍事力は、同盟国の中でも弱い。帝国が公国に気を取られている隙に…。というのも不可能ではありませんが、下手に攻め入って返り討ちに遭うより、来る交戦に備えて防御を固めた方が得策だと考えましたので…」
地図には交戦を表していると思われる一つの図が描き加えられていた。
マナの目の色が変わり、視線を地図の図面からレイラの目に移す。
「これ以上帝国の好きにさせてはなりません…! 『待った』を掛けるためにも、どこかの段階で手を打たなければならないのです」
きっと、彼女は本気だ。許しさえ下りれば、先述の作戦を躊躇なく決行しようとするだろう。明確な目的があることについては譲れないのだろうか。
誰しも譲れないモノはあれど、声明の源となる程にまで確固たるモノとして存在している例はやや珍しい。殆どの人間は簡単に揺らいでしまうだろうから。そしてそれは、いつかのレイラも同じだった。
「…言いたいことはよく分かったわ」
年が近いこともあり、それなりに可愛がっていたマナだ。だがどこか、今では彼女が違う世界に居るように思えてならなかった。
「急に話は進められないけど、出来る範囲で、軍の上層部や中央政府の方にも掛け合ってみる」
「よろしくお願いします」
出来る限りでマナの意思を汲み取る。それが何より無意義な工程であろうことは、レイラとて自明のことであった。
――
同日、夜――。
――《帝国軍、陸軍司令部、第一五九師団司令棟》
司令室の中、レベッカは今まで集めてきた共和国や公国についての情報を整理する。傍らに置かれた司令官席の上では、ガレインが背もたれに身体を預けていた。
「根を詰め過ぎだ。そんなんじゃ、明日からの作戦にも響く」
「お前には言われたくないな。東部だけでなく新たに北部に向けても戦線を展開する以上、敗北だけは避けなくてはなるまい」
「それもそうだな」
ガレインが応答する。その声には何処か生気が宿っているようには感じられず、相当の疲労が彼の身体に蓄積されているものと思われる。しかし作戦決行の前日のこと、同僚を茶化すところから、彼には相当の余裕があると見て取れた。
「交渉も色々持ち掛けてはいるが、奴らにとっては、共和国や連邦の力に屈するしかないようだ。事なかれ主義め」
「おお、怖い」
レベッカは唸り、ガレインは茶化したようなたじろぎを見せる。
――資料の中には世界地図の一部が印刷されていた。大陸の中心には、帝国と思われる一つの国が一つ。帝国から見て北西には、海に四方を囲まれた島国が一つ。帝国から見て多数の小国を挟んだ東には、大陸そのものを領土とする広大な国が一つ。
「しかし、連邦が介入してないだけまだ良い方だろ? まだそれだけでも、神にも近い幸運というやつだ」
言い切るのと同時、レベッカが動きを止める。それはさながら時間停止の時計が作動したかのようだった。
「…神など、居ない」
レベッカは静かに、かつ確かに圧し掛かる負の念の重さを恨めしく思うような様子で呟いた。それは確かに、運命の神に対する憎悪の声明のようで、執拗に敵意の的としていることが見て取れた。
「もし居るなら、世界はこんなにも悲惨な状態にはなっていない」
「そうか……。いや、何でもない。失言だったな」
「……」
無言のレベッカを前に、彼は静かに言葉を残した。それは蚊の羽音よりも矮小で、モスキート音よりも微弱な声であった。
「作戦にまで影響は出すなよ」
その言葉を最後に、彼の身体はドアへと吸い込まれていった。レベッカは、それに振り向くことも無かった。
――
――カレンは今でも夢に見る。単なる悪夢と形容されればそれまでだが、彼女にとっては、ある意味で生死を賭けた熾烈な戦いなのだ。
『…ん…ね…』
それは背水の陣を余儀なくされた、まさに土壇場と形容するに相応しい状況である。現実世界ではただただ身体が毛布に包まっているだけという無防備かつ平穏極まりない状態であった。しかしながら彼女の視点で展開される夢想世界は対照的に、打っても討っても撃っても一向に減ることの無い敵が、彼女を捕獲しようと虎視眈々と目を光らせているのだった。
『ごめ…ね』
無数の敵に囲まれるなど、カレンにとっては十数年前に家族で見たゾンビ映画くらいしか記憶に残っていない。まさか、あまつさえそれが自身の身に起ころうなどとは…。
『こんな、お姉ちゃんで……』
――夢占いの一環として高い所から落ちて行く夢を見るのは過度なストレスに晒されているから、と言うのを聞いたことがある。だが今回の場合は、そういう類のモノでは無い。正確に言えば、間違ってはいないが間違っている。
その光景は、今のカレンの無意識に描かれた妄想の情景であった。
――底の見えぬ暗闇の中、得体の知れぬ怪物から逃げ惑う。無理も無い。敵を前にしてじっとしているような輩が居ようか。いや、居ない。
軍人であれば一度戦おうと試みるのかもしれない。だが今回の場合、彼女にとっては今までの人生の中で培ってきた如何なる知識や手段を用いようとも、かすり傷一つ付けられないことは無意識的に理解していた。
『――』
逃げ切れる訳もなく、短時間でその不可視の怪物に追い付かれる。
『――』
どこに居るかも分からぬ仲間へと助けを求める。しかし一縷の期待も虚しく、声が限りない暗闇に向けて反響するだけで、それに現実は全く持って応えてくれなかった。
『――』
振り向いてはいけない。反射的にそう思った。決死の思い暗闇を走り抜けるも、背後のソイツは容易にカレンの元へと追い付いた。
『――』
肩を叩く。何者かが、カレンの肩を叩く。
『――っ⁉』
瞬間、自身の心臓が止まったような気がした。
――
「うわああああああああーー!」
「大丈夫かっ⁉ カレン!」
夢想世界と同じくらいの暗闇を映し出す宵闇の下、レットが咄嗟の安否を確認する横、カレンは自身を苦しめる地獄と形容すべき醜悪な世界から命からがら脱出した。
顔や髪は汗でグショグショになり、口と肺が文字通りの過呼吸を作り出し、その目は果たして現実の世界を映し出しているのかどうかさえ疑わしい程に焦点が合っていなかった。
「はあ…、はあ…、はあ…」
息を切らしながら必死で意識の平衡を保つ。傍でレットが背中をさすってくれていたが、落ち着くまでにそれなりの時間を要した。
「うう……。カレンさんも、まだまだ半人前だねぇー」
いつものように振る舞うが、レットは未だ怪訝な顔を浮かべていた。無理も無い。同僚が悪夢に魘されているのかと思いきや、いきなり絶叫しながら飛び起きるのだ。ありがちな場面だが現実に起これば起こるで、当人が心配にはなる。
「どうする? 明日の作戦、棄権するか? 無理はしねえ方が…」
「大丈夫だって。私のバッテリーは、世にも珍しい永久機関なんだよ。そう簡単に壊れたりはしませんよ」
軽い調子で返事をする。その時の声が妙に引き攣っていたことは、彼女自身の記憶にも鮮明に刻み込まれていた。
どこか運命の神に嘲笑でもされているかのようで、カレンは行き場の無い恨めしさを覚えた。