後日。
とある山間7合目付近。午後3時頃。
「そ、そろそろ着くんだよね?」
「うん…。たぶんな。」
「たぶんっ!? 僕はもう、歩きたくない!」
5合目まで山岳クラブの部長の四駆に揺られてきたのだが、そこからは道が狭くなると言うので、徒歩で登ってきている最中だ。
渓谷を繋ぐ為の橋があり、そこを渡った先に山荘はあるらしい。…そのはずだけれど。
その渓谷を繋ぐ桟橋たるものを、一向に渡る気配が無い。
里の街からは遠く離れ、四方を渓谷に閉ざされた正に陸の孤島。
そんな所になぜ、わざわざ山荘なんて建てるのか…。
一般庶民の考えからは到底理解に及ばない。
僕は心中で悪態に次ぐ悪態、愚痴の一切合切を吐きながら不自由な体を一心に前へ突き動かしていた。
文字通り、先が見えない僕には、地獄のような道中である。
一方、心弥の助けの綱であるナビ役の輝も、非常に難しい顔つきをしながら地図を穴が開くほど見ていた。
弾む息使いと流れる汗を嫌がっては、ちまちまと首に掛かったフェイスタオルで拭っては前へ前へと一心に身体を突き動かす。
心弥と対称的に、体力の方では余裕があるにも関わらず、遊ぶ視線、流れる冷たい汗が心の動揺を手に取るように良く伝わってくる様だった。
だが、隣を歩く盲目の青年には、その表情と行動で彼の心境を察する事が出来るはずもない。
一向に桟橋を渡る事なく、わけ行っても、わけ行っても、木ばかり、草ばかり…。
心弥の手に握られたコンパスは狂っているのか指している方角が定まらない。
数十分前にまずいかなと疑心を持っていた輝の心境は、今や疑心なんかではなく、明らかに確信を突いている。
心弥が居る手前、不安を煽ってはいけないと、一人孤独な戦いに勤しんでいたのだった。
僕は、少し前から抱いていた事を口に出して良いものか悩みあぐねながらも、先を行く輝の後ろから歩を進めている。
輝に聞かざる負えない状態である事は分かるのだが、それで事が解決する問題でも無いので、口を挟むまいか困り抜いていた。
だが、輝の息使いがリズムを崩し始めているのを感じ、重い足を止めた。
僕の腕を組んで歩いている輝も、僕の動きに合わせて足を止める。
「…あまり聞きたくないんだけどさ…。」
「何?休憩でもとるか?」
「僕達、遭難してない…?」
隣で輝が息を呑む。こういう事は長年一緒に居るから、空気を読まなくても分かる。
観念したように溜息をついて、輝が白状し出した。
「軽く迷子になってるだけさ。」
「それは遭難してるって事だよね?」
やや、時間があってからようやく口を開いた輝が続けた言葉は予想の範囲内のものだった。
「…。その通りです。異論はありません。」
正に、八方塞り。
帰るに帰れない、進むに進めない。目的の場所には着かない…。
「...ねぇ。僕達、生きて帰れる?」
「大丈夫。これ位の逆境、何時でもどうにかなってきたじゃん。」
...来た道さえ解らない以上、帰る道なぞ解る訳が無い。山道を藁をもすがる思いで進むしか道は無かった。
暫く黙々と歩いていると、霧が辺りに立ちこみ始め、見る見るうちに数メートル先は真っ白に染まってしまう程の濃霧となって更に二人に悪い状況になってきた。
白く閉ざされた視界に、輝には何かが動いたように見えた。錯覚かとも思ったが、他に目標もなく、動いた物の方へ歩いて行く。
何かに足を捕られ、倒れそうになるのを、咄嗟に輝は心弥の手を離し、受け身を取って、すっ転ばずに済んだ。
いきなり手を離され、僕は思いがけず、願ってもいない盛大な地面の歓迎を顔面に受け…。
「心弥...。大丈夫だった?」
「...。これが大丈夫に見えますか?ねぇ?」
突如手を離され、顔面を強打し、非常に気が立っている所に、全く見当違いな質問に苛立ちが増す。
そして、怒っているに決まっているだろう事が輝には見えるだろうに、僕の神経を逆撫でる一言。
「怒ってる?」
僕は口を尖らせ、罵詈雑言の雨あられ、この世の汚い言葉を総動員させて罵り、ブスッと膨れる。
何度も詫びながら、僕の手を取り立たせてくれ、服の汚れを手で叩いたり、顔の汚れを拭ってくれた。
まあ、怒りの半分は治めてやろう。
「コンパス何処かやっちゃった...。」
「あ、本当だ。...この辺に落ちてるだろ。」
足で石や木の葉を払って辺りを探していると、カツンと音を立てて、何か人工物が土を転がった。落としたコンパスと見て間違いなさそうだ。
音の方を追い掛け手で探る、丸いコンパスの表面が指先に当たって、それを握りしめた。
コンパスの先にも、何かの感触があり、もう一方の手で恐る恐る探ると、ジーンズらしい手触りの布、それを伝っていくと、冷たい感触。
「て、テルーーー!」
「心弥、どうした!?」
輝には、白骨した足が見えた。
心弥の方へ近付き、その白骨した死体を見る。
トレーナーであっただろう布を纏った上半身。首と頭蓋は無い。
何処に転がってしまったのかと辺りを見渡していたら、なるほど。
合点がいく場に頭蓋があった。傍らに立つ木の、幾重にも別れた枝の一本にロープが巻かれ、その先に括り付けられた頭蓋を発見した。
その真下に頭蓋のない死体。転がってしまったのは体の方だったのだ。
「富士の樹海位でしか見れないと思ってたけど、結構身近なもんだな...。」
「何の話?」
心弥に、この何者かの哀しい死体の悲しいエピソードを説明する言葉を、輝は有していない。
「いや、世知辛い世の中だと思ってさ。
こんなに寂しい所で死ぬなんて。オレは自分の知っている人にこうさせたくない。」
輝が言葉を言い終えるか終えないかで、風が目の前を通った様な、空気の動きを感じた。人が動いた時に生じる空気の動き。
この空気の動きを感じる事で、僕はある程度、人の位置や物の位置を想像し、位置把握をしている。
今、風が動いたのは、輝がこちらに体を向けたのだろう。輝の声が顔のすぐ近くから飛んでくる。
「あぜ道がある。ちゃんとしたやつ。この道を進んでみよう!」
輝の声が、自信を帯びている。その声に頼るしかない自分には、それは心強い変化だった。