目が覚めるとお昼過ぎ。それでもまだ気分は萎れたままだ。
書き置きにあった通りサキさんに連絡したり寮母さんに来てもらったり、なんだか病人みたい。
「レース後のウマ娘ってこんなダルさに苦しんでるんですか……?」
「ここまで絞り尽くせる方は中々おりません。アナグラワンワンさんはご立派です」
食事の介助……とまでは流石にいかないけど。ただ昼食を摂るところを監視されている。今の私だと『めんどくさい』と食事を抜きかねないそうだ。当たっている。
「ずっとこのままじゃないんですよね」
「もちろん。個人差が大きいですが、千田トレーナーからは『つらいのは今日まで』と伺っています」
「よかった。なんだか自分が自分じゃないみたいです」
「っ〜〜!」
寮母さんは自分の太もも辺りを抓って無言。たぶん私の弱っている姿が何らかのツボに刺さったのだろう。それを隠そうとする分別はあるけど、隠すには巨大すぎる感情を抱えてるのがアグネスデジタルさんだ。
『いつもの寮母さんなのに、なんかイラッときますね』
《グラに余裕が無いせいだろう。彼女の無節操ぶりには怒っても良い気がするが》
『怒るよりは面倒さが勝る……厄介な状態です、夜はさっさと寝ちゃいましょうか』
《それがいい。もちろん夢の訓練も無しだ》
お昼にそんな話をした通り、午後はサキさんと少し話した以外はだらだらと無為に過ごして、夜はご飯も早めに食べて床に就いた。
そしたらまぁ、目が覚めるよね!
朝というより深夜に近い午前3時。ちっとも眠くない。どうやらアナさんも眠っているようで無反応。起こさないようにしよっと。
気分的なダルさは随分マシになっている。むしろ身体がなまりそうで嫌な感じ。
2段ベッドで眠るロスたちを起こさないようにそっと部屋を出て、抜き足差し足で階下に降りる。悪いことしてるみたいな気分だ。
だけど確信があった。間違いなく、今夜このタイミングの共同浴室には適温のお湯が張られている。だってあそこを管理してるのは寮母さんだもの。私が夜中に目を覚ますことくらいお見通しでしょ。
まぁ湯船が空ならシャワーで済ますつもりだったけど、そんなの杞憂に決まっていた。
じれったく感じながら汗や埃を洗い流し、ありがたい気遣いにドボンと身を投じる。
「っくぅぁああ〜〜……最高……!」
30人以上で入れるお風呂を独り占め。全く泳げない私でもお風呂は普通に気持ち良い。一応半身浴に留めてるけど。
身体中を血が巡っていく。心を重くしていた石のような停滞感は単なる感覚に過ぎないと、身体は間違いなく生きて動いているだろうと告げながら。
そうして気分が上向いてくると、懸念していた悔しさも顔を出した。
「あー……天皇賞、出たかったな。テセさんが居るはずなのに」
6日後の──もう5日後か──天皇賞は出走を回避しようとサキさんに告げられた。ライブさえできなかったんだから納得はしてる。『頑張ってソウルを回復させたらいけるのでは?』みたいな執着も……少なくとも今は薄い。
走りたかったな。今だって走れるものなら走りたい。
だから。そう、だから。
「来年、獲る」
天皇賞はシニアでも走れる。来年の秋天には必ず出よう。他にも凱旋門賞へのリベンジとか。KGⅥを獲ってムンちゃんに張り合うとか。
シニア2年目がどうなるのか、どうしたいのか、今は分からない。とりあえずはこう考えておく。
「シニア2年目が無くても後悔しないように。負けても次があるなんて考えないように。1年目で狩れるだけ狩ろう。そういうスケジュールを立てよう」
その為に選ぶもの。
その為に諦めるもの。
切り捨てたくないもの──通したい義理や返したい恩。
そういうことをじっくり考えて。
まだかなり早い時間にウマホでメールを送ったりサキさんと相談したりして……。
半日ほど後には、私は羽田空港を発つ飛行機に乗っていた。
太平洋と日付変更線を飛び越えてやってきましたニューヨーク。飛行機でもぐっすり寝たので気分はかなり良くなった。
ジョン・F・ケネディ国際空港からタクシーですぐのところにあるアケダクトレース場、その傍にある練習用トラックが目的地だ。
「おうワンワン、良く来たな! ……誘ったのはこっちだけど、フットワーク軽いなお前。昨日の今日っつーか、そっちからしたら今日の今日だろ」
「先にお願いをしたのはこちらです。お礼の
アメリカのレースといえばダート。そしてダートといえばこの人、ドンナさんだ。
8月頭にレパードステークス、9月頭に不来方賞、10月頭にジャパンダートクラシックと3連勝中。今はアメリカダートに慣れるための遠征に来ている。
だけど……あまり上手くいっていないらしい。それで『バ場に合わせるの得意なんだろ、秋天に出ないならちょっとアメリカのダート踏んでみないか』と言ってきたわけ。
私の次走は早くても11月前半のエリザベス女王杯。まだ2週間ちょっとあるけど、渡米するなら早い内だと飛んできました。
「ただ、何度も言いましたけどお役に立てるかは」
「構わねーよ。ロンシャン芝のレポートを読んでこっちが勝手に期待してるだけだしな」
ロンシャン芝のレポート? あー、サキさんがまとめてURAに出しとくとか言ってたような……?
私が直接書いたわけじゃないけど、その内容はあくまで物理的な特性が中心のはずだ。『日本の芝と同じように走るとどうなるか』とか『それは何故で、どうすれば避けられるか』みたいな話。
そこまでならそう難しくはない。『私ならどう走るのが最適か』を組み立てろって言われたら数日かかりっきりになるけど、前提の分析は教科書的な知識だけでもどうにかなる。
それに──、
「そういう話でよければ説明します。今すぐでいいですか?」
「今すぐ? ちょっとは走ったりしねーの?」
──日本とアメリカのダート、ものすっごく違うじゃないか。こうして何歩か歩いて立ってるだけでも完全に別物。
私、ここを走るのは難しいな……だから
えーと……そう、まず大きなカゴにバレーボールが沢山入ってるところを想像して欲しい。どれも空気がみっちり入ってて、潰れたり
するとボール同士の間には隙間ができる。
「そりゃそうだな、
「はい。で、その隙間は衝撃を散らすクッションになります」
このバレーボールたちを上からどーんと潰そうとすると──ボールもカゴも壊れないものとして──ボールは隙間の方へ逃げようとする。ものによってはカゴから飛び出すだろう。そうやって力を分散させて、だから反作用も少ない。
「これが日本のダートです」
「ん? ああ、バレーボールは砂の粒か」
「はい。実際には直径2mm未満ですし粒の大きさに幅もありますが、とにかくサイコロみたいな形はしてませんから、隙間はたっくさんあるんです。……ここアメリカのダートに比べれば」
今私たちが踏みしめてるのは、違う。ダートっていう同じカテゴリに入れていいものか迷う位に。
日本の芝並みに速いタイムが出やすいと聞いてはいたけれど、体験すればなるほど納得だ。こんなに
「アメリカのは『粒が細かい』っていうよな」
「正確には『細かい粒が混じってる』です。さっきのバレーボールのカゴにピンポン玉をざらざらーと足して、かき混ぜながら踏み固めたと思ってください」
「…………隙間が、埋まる?」
「はい。そのせいで粒同士ががっちり噛み合って、圧力を逃がす先が無いわけです」
ピンポン玉っていうのは『バレーボールよりずっと小さい粒』ぐらいのニュアンスで、大きさの比率も正確じゃないけど、伝えたいことは伝わったようだ。粒子と粒子の隙間が広いか狭いかの違い。
日本のダートは砂だ。
ここでいう『
私がよく知るダートコースには泥も粘土も含まれていない。砂100%である。
アメリカのダートはレース場によって違う。砂の割合は5〜8割程度。
アケダクトの正確な構成比は分からないけど……恐らく粘土よりは泥が、泥よりは砂が多いはず。だって細かい粒子は水はけが悪い。ここニューヨークの年間降水量は東京よりかなり多いので、砂メインじゃないと水溜まりだらけになってしまう。
ガルフストリームパークのレース場は極端で、砂と粘土がほぼ半々らしい。これは限られた雨季以外あんまり雨の降らないフロリダだからできることだろう。
そこよりマシとはいえ、砂オンリーな日本ダートと比べたらこのアケダクトだって粒子間の隙間はぐっと少ない。その結果こうした違いが出ている。
「だからこんなに硬いんです」
(厳密には組成の違い*もあるはずだけど、粒子サイズの違いほどには走りに影響しないと思う)
と、きちんと理屈をご説明申し上げたにも関わらず。
「そんなに言うほど硬いか?」
なんて首を傾げるドンナさん。
……そうですね、私みたいに『日本のと全然違う』と感じるウマ娘は多くないのだろう。少なくとも海外遠征を行うようなレベルの競走ウマ娘には皆無かも知れない。
この程度の違いはものともしない身体能力を備えているからだ──私以外は。
「これだからウマ娘って生き物は……」
「お前に言われたかねえぞオイ。
でもそうか、イメージは分かった。力を込め過ぎると日本のダートみたいにばっさばっさ巻き上げちまって、あれは力を無駄にしてんだよな? だから加速しづらい。ある程度セーブした方がグッと支えてくれる硬い路面になるわけだ」
「大まかにはその通りです。脚への負担とかはトレーナーさんと相談してください」
「そうだな、そうする」
ドンナさんの言う通り、パワーがあればあるほどクッション性の違いは影響を減じていく。泥や粘土の粒に接着剤とか塗られてるわけじゃないから。バレーボールとピンポン玉とを踏み固めたものだって充分な力さえ加われば弾けて散る。
実際、今も練習で走ってるアメリカのウマ娘たちは日本の砂浜を走るみたいに盛大な土飛沫(?)をあげて駆け回っている──どうもデビューしたてのジュニア級っぽい会話をしながら。
『非力さを突きつけられますねぇ……』
《グラだってできないわけじゃないだろ?》
『一時的になら。アナさんや私のソウルを燃やしっぱなしにしないと勝負にならない気がします』
アメリカのダートでドンナさんに勝つのは難しそうだな、という実感があって。兵士脳な私は『勝ち目の少ない戦場をあえて選ぶ意味は薄いよね』と考える。
だから私は欲している。日本のダートで彼女と戦いたいと。元々はその決戦をいつどこにするか決めようと思って連絡したのだ。ドンナさんもそのことは覚えていた。
「そう言えば、お礼の先払いとか言ってたか? そっちからの頼み事ってなんだよ」
「次にどのレースで戦うかの相談です。ドンナさん、私は──」
早朝にお風呂で考えた。
シニア2年目が無くても後悔したくない。獲りたいレースは沢山あって、今の私はそこに結果を求めている。走りたいではなく獲りたいのだ。愉しむことは愉しむけど。
だから、これまでよりもみっちり準備してきっちり勝とうと思う。そのために。
「──私はこの先、芝に専念しようと思っています。その前にもう一度。ドンナさんとは戦っておきたい」
「へぇ……最後にやったのは東京ダービーだもんな。いいじゃん、好きだぜそういうの。アメリカでやるか?」
これは私のワガママだから、可能な限りドンナさんの予定に合わせるつもりだ。
彼女がアメリカで戦おうとしてることは承知している──確かドンナさん憧れのタイキシャトルさんがアメリカ出身なんだとか? でも日本のレースを全部やめるわけじゃないだろう。候補はあるはず。
「いえ、できれば日本で」
ところがこの発言、変な方向に誤解された。目と口を丸くして、「おぉー」なんて頷かれたのだ。
「へ?」
「いやスマン、笑う気は無いんだ。お前にもレース界への恩返しとかそういう気持ちがあるんだなと思うと感心しちまってよ」
恩返し。恩返しのつもりでは、ある。そこは間違っていない。でも何かが大きくズレている。
「ドンナさんには、恩返ししたいと思ってますけど」
「へ? 私?」
「メイクデビューの後すぐ、再戦のお誘いをくれました。あれは私にとって特別なことだったんです」
「……別に変わったことしてなくね?」
「ああいうの初めてだったんですよ。落ち着いて振り返ったら有り難くなっちゃって」
色んなレースで勝ったり負けたりを経験してからトレセンに来るみんなと違って、かつての私は正真正銘の全戦全敗。だから勝った側のあり方を知らずにいた。
例えばあの時に声をかけてきたのがドンナさんではなくベレーみたいなタイプで、『アンタみたいな落ちこぼれに負けるなんて納得いかない』とか言ってきていたら? 私は自己防衛のために『弱い方が悪いんだ』的な開き直りを強めただろう。今でもそこそこ傲慢なのに、もっとひどい驕慢に至っていたかも。
勝敗は単なる結果であって善いも悪いも無い。ただ私は『もう1回!』と食い下がるドンナさんを好ましく思った。嬉しかった。あの言葉も今の私を形作った大切な要素だ。
「だからドンナさんには、有耶無耶な形で勝ち逃げしたくないんです。決着をつけましょう」
「……それが恩返しになるって考え方もまぁまぁやべーけど。じゃあお前、『日本のダートレースを盛り上げよう』みたいな気持ちは全然無いってことか」
あー、恩返しってそういう。
うーん、全く考えもしなかった廃れて良いだなんて思いませんが。自分の集客力も自覚してるつもりですが。
「無くは……ないですけど。レースを決める上での優先順位は高くないですね」
「じゃあ日本でやりたいっていうのは?」
「アメリカのダートだと私が不利だからです。勝つためですよ」
感動して損した、と笑われた。
いやあの、勝手に誤解して感動されましても。
予定を擦り合わせた結果。
候補のひとつだったフェブラリーステークスなら私のスケジュール的にはありがたい。前後に余裕を持てる。
でもフェブラリーSの3週前にはフロリダでペガサスワールドカップがある。ドバイワールドカップと並び称されるダートレースの頂点だ。これに挑むドンナさんの邪魔はできない。
そんな風にああでもないこうでもないとやっていくと、決戦は案外近い日取りに落ち着いた。
「本当にこの日でいいんだな?」
「余裕とはいきませんが、はい。前走を言い訳にはしませんよ、私が勝ちますから」
「言ってくれるじゃねーか」
ドンナさんとの決戦は12月の頭。
中京1800m、チャンピオンズカップ。前週に行われるジャパンカップからの連闘である。
……となると、エリザベス女王杯(ジャパンCの前々週)とマイルチャンピオンシップ(ジャパンCの前週)は来年に回そうかな。
ジャパンカップにはトリィさんが来るはずだし。