今回のアナグラワンワンは最後方からの追込み。
トリウムフォーゲンにとって有り難くはない選択である。凱旋門賞で採られ、そして脅かされた戦法だから。
どんな要因であれ勝ちは勝ち。その点は誰に憚るつもりもないが、独力での勝利とは言えないことも彼女は自覚している──自らへの赫怒と共に。
10月頭の凱旋門から11月末の今日まで、中6週で出来る限り鍛え直してきた。勝者として待ち受けるつもりなどない、挑戦者の姿勢で。
『あの時の私は弱かった。足りなかった。全然ダメよ、あんなんじゃ』
その成果は出ている。
スタート直後から驚かされたニュクスヘーメラーは下がっていき体力を無駄にした。
並びかけてくるドゥームデューキスもそれが精一杯な様子。彼女は『逃げて差す』ようなタイプではないはずだし、仮に末脚をも自分から盗み取れたとしてタイムラグは生じる。ゴール前でのコンマ1秒は極めて大きい。
第3コーナーの入口、残り1000mを過ぎるタイミングで後ろを確認すれば……アナグラワンワンは直前のハロン棒より向こうにいる。丸々1ハロン、200mは離れているということだ。
『凱旋門の残り1000m地点よりも遠い、そんな所から届かせるもんですか!』
以前よりもリードを大きく取れていて、しかもこの東京レース場の最終直線はロンシャンよりずっと短い。急な第4コーナーを抜けなければ最後の加速はできないはずだし、その先に登り坂もある。
その代わり、アナグラワンワンの脚を引っ張ってくれるフランス勢もここにはいないが。その分は自力で稼げば済むことだ。
コーナーを曲がっていけば視界にメモリアルスタンドが入ってくる。既に大歓声で沸いているのだろう、耳を正面に向ければうるさいほど。
その中に、耳慣れぬ発音ながら『トリウムフォーゲン』や『アナグラワンワン』らしきフレーズも聴き取れる。
『レフィお姉様……!』
いや、いや、幻聴だ。あの優しく愛らしく可憐な
しかし残り700mで、今度は聴き間違いではなく確かに耳に入った──後方から。
「行きますよレフィさん!」
「ッハ! そんなことで私が揺らぐとでも!?」
ウマソウルの名前ではない、親から与えられた名前。それが知られていることに大した驚きは無い。業腹だが妹はよく懐いているようだし、他にも調べる方法はあるだろう。
それに性格の悪いトレーナーが考えた『レース中のトリィを動揺させるキーワード100選』の方がずっとエグかった。アレはフランスを脱走して日本に向かおうとした件の罰に違いない。
「来れるもんなら来てみなさい、カズニー!」
「?? …………あぁカズネです、カ・ズ・ネ。トーヴェさんが間違った発音を教えるとは思えないので、レフィさんの覚え間違いですね」
「うっさいわね名前なんて
「まぁ、うーん、まぁそうですけど」
言っている間にもどんどん詰まっていくリード。その焦りと言い間違いの照れ隠し、加えて普段から感じている苛立ちが言葉を荒立たせる。
「全く誰も彼もソウルの名前なんかに右往左往して。グラだって私が“トリウムフォーゲンだから”走ってるとか思ってるんでしょう!」
母国には『名前に人生を縛られている』と
ふざけている。ソウルになど縛られていないというのに。むしろ縛ってしまった側だというのに!
一方的な決めつけは嫌いだ。とはいえ無知を責めるつもりは無い。
あれは姉妹の原風景とも言える古い思い出。自分は誰にも話していないし、妹だって他人に明かすなどありえ──、
「え。その辺も全部教えてもらいましたけど」
「ぇ…………話しちゃったのラウラ!?」
──ありえ、ないと。
姉はそう信じていたらしい。
『残りは700mを切ってホームストレッチへ向かいます、先頭はトリウムフォーゲンすぐ後ろにはドゥームデューキス! そして後方から矢のように順位を上げるアナグラワンワン速い速い!』
『おっとトリウムフォーゲンが姿勢を崩したか僅かに失速! チャンスとばかりドゥームデューキスも仕掛けます!』
『ああぁぁ、自爆した……そんなつもりじゃなかったのに』
《身内は隠すだろうと思ってたことが他人に明かされてるの、結構ショックだからな》
『不幸な事故ってやつです!』
トリィさんは最終直線の手前でがくんとバランスを崩した。私との会話がきっかけなことは明らかだ。
でも違うんだよ、ロスから聞けた昔の話をこういうネタにするつもりは無かったんだって! 軽々しく踏み込んじゃマズそうだから!
ただ、ロスによればトリィさんは──呼び名に迷うところだけど──すっごく個人的な『姉としての事情』だけで走っている。ウマソウルの名前なんかトリウムフォーゲンもトロゥスポットも全然関係ないそうだ。
それを知りながらレース中にトリィさんて呼ぶのもどうかなぁとか……そう思ってのことだったんだけど。“レフィさん”と呼んだことがあんなショックに繋がるとは。
「グラァ! アンタねぇえ!」
「不可抗力ですよ不可抗力! それに……!」
そもそも私には勝算があった。そんなえげつないことをしなくたって。
『残り600mを切って最終直線! 先頭は横並び更に外からアナグ──』
領域投射──エトワール凱旋式
放送の声が途絶えた。ロンシャンでも1度見たトリィさんの“領域”だ。ここ東京でも歓呼の声は彼女だけに向けられ、これでドゥたちは“領域”を使えない──いやニュクスさんはどうにかするかな?
いずれにしても私には神機があり、ボゥ先輩もついている。
今は前を行く2人から、そして後ろでキラキラと楽しそうな1人からも、火傷しそうな敵意が向けられている。私に注目し、ライバルと見做し、かつ諦めることなく上回ろうとしてくれる。
それ自体も嬉しく心地良い。
そして気持ちの上だけでなく、戦術的にもありがたい。その戦意こそ私の力になるから。
するりと、空気抵抗が失せたような感覚を味わいながら先頭の2人に喰らいつく。となれば当然もう1人も。
ニュクスさんも含めた4人で横並び。
こうなると一番不利なのは誰か?
事前の想定ではドゥだと思っていた。でも実際は違う。真っ先に半バ身遅れたのは──トリィさんだ。
『ドゥは今回も予想を超えて来ましたけど……トリィさんは
《“領域”に限ればトリウムフォーゲンが最も劣る、と》
『予想通りですね』
身体能力のトップは間違いなくトリィさんだろう。でも“領域”の出力は劣っている──いや、出力っていうと少し違うのかな。
彼女は“トリウムフォーゲン”という名が持つイメージやナポレオン風の勝負服などを好んでいないらしいのだ。〈
現に〈風梳柱〉や〈尊み〉より加速効果が小さい。会場中の応援を一身に集めてるにしては
『というかこの状況でトリィさんより前にいるドゥがやばくないです?』
《秋華賞のナーサリーと同じだ、身体の操作に集中してる》
なるほど。あー、ってことは。
『──びの接戦から金剛僅かに抜け出したこのまま逃げ切るか! いやしかしトリウムフォーゲン沈まない、もうひと伸びを見せるか!』
やっぱり〈凱旋式〉を解いた。ドゥに
だけどそのコンマ1秒を取り戻すのは簡単じゃない。そして東京の直線はロンシャンよりずっと短いのだ。
『なおも伸びた! 伸びたが届かず今ゴールイン!』
『偉業更新、世代圧倒! どこまで行くんだアナグラワンワン、1バ身弱の差をつけてジャパンカップ勝利です!』
ゴール後。
2着から4着の3人は横並びだったからカメラ判定になって確定していない。でも私の1着ははっきりしていたから、係員さんの案内に従ってウイニングランに戻る。
| ① | アナグラワンワン | ||
| > 3/4 | |||
| ② | ニュクスヘーメラー | ||
| > 写真* | |||
| ③ | トリウムフォーゲン | ||
| > 写真 | |||
| ④ | ドゥームデューキス | ||
後でインタビューを受ける場所の正面辺りが、お客さん的には『良い位置』だしウマ娘的にも視線を送りやすい。でも今回はそこから目を逸らしてしまう。ていうかそのベストポジションはファンの人に譲ろうよ、身内が占めてどうすんのさ!
『うう、お母さんがとうとう一番目立つ場所に……』
《いつも塩対応するからだろ。露骨に目を合わせないじゃないか》
『だって……』
応援自体はありがたく思うけどさぁ。
そのファンシーでキュートな横断幕、お母さんの中で私は小学校低学年のままなんじゃないだろうか。そうなんだろうなぁ、まともに話さなくなってたし。
そんなつもりは無いんだろうけど責められているようで、なんかこう、なんかこう──ぁう!?
胸の奥底から厄介ファンの声が騒ぐ。情けない姿を見せるなと私を責める。ぬぁー。
《愛想ふりまくだけだろうに》
『うぅ……そういうのは年末にまとめてやるんです!』
《こじらせてるなぁ》
疲れで若干ぶっきらぼうなアナさんに呆れられながら、気合いで笑顔を繕って地下バ道へ引っ込んだ。
──さて。
このタイミングでトリィさんが掴みかかって来るかも、みたいな覚悟はしていた。意図したことじゃないとはいえ、家族の事情をほじくるような言葉で集中を乱してしまったのだから。
トリィさんなら(あとアナさんやムンちゃんも)『揺らぐ方が悪い』とか言いそうだけど、それはそれとして腹は立つだろう。嫌味のひとつくらいは飛んで来るに違いない。
……そう思っていた。
「トリィさん……? トリィさん! 怪我でもしたんですか!?」
「…………してない」
しょんぼりトリィさんなんて初めて見た。想像よりずっとずっと落ち込んでいる。
負けたことを。勝てなかったことを。“日本一”の座を逃したことを。
ロスが心配していた通り、このお姉ちゃんは過剰なほど背負い込んでいるのだ。妹のためにも負けるわけにはいかないと、その強い意志には義務感もくっついているらしい。
そんな義務なんて無い、と。私が言ってしまうのは簡単だ。客観的にはそう見えるしロスも同意見だった。
でも……私が伝えるべきことではない、かな。
そ・れ・に。今は別の問題がありそう。
「トリィさんトリィさん、落ち込んでる暇は無いかも知れません」
「なに。勝者からの慰めなんてお断りよ」
いやいや全然違う。私
ただちょっと周りを見てほしいのだ。お客さんの目が届かない地下とはいえ、スタッフさんたちがばたばたと慌ただしいでしょ。
「えぇと、『Special Record!』の振り付けは?」
「心配いらない、1着以外もちゃんと覚えてきたわ」
それは良かったというか、残念ながらというか。
ほら、衣装さんが来て勝負服から埃を落としたり着付け直したりし始めた。この後すぐインタビューを受ける私だけじゃなく、トリィさんやドゥたちのものも。
こんなのは普通ならウイニングライブの直前にやること。つまり現状は普通じゃないんですよ。
そして私はこの異常な雰囲気を前にも体験している。ドゥと一緒に。
振付けさんカメラさん照明さん音響さん、色んな部署の大勢の人を引っ掻き回すちょっと迷惑なできごと。
「それ、覚え直しになりそうです」
「は?」
『舞台進行』という腕章を着けたスタッフさんが話しかけたそうにしていたので「通訳しますよ」と水を向けてみると──予想通り、いや予想以上。
2着から4着までの3人が完全同着になるかも知れないらしい。
結論はまだ出てないとのことで、3人はこれから何パターンか覚えてリハーサルを詰め込むことになる。
大変ですね……え?
3人同着だとしたらメインが4人になるから、
インタビューが終わったら私もリハーサルですか。ひぃ。
今回もオークス同様、お客さんを長く待たせることになりそうだ。
次話、姉妹の事情。