大昔のウマ娘レースは、よーいどんで走り始めたり棒やロープで仕切ったりしてたらしい。でも今は機械式のスターティングゲートが当たり前だ。
この機械に求められることは多岐にわたる。
全てのゲートが厳密に同じタイミングで開くこと。当たり前。
スタートの瞬間、ごく短い時間で開き切ること。そうじゃないとスタートダッシュの邪魔になっちゃうからね。
簡単に移動できること。ゴールラインは幾つかの理由で動かせないから、代わりにスタートを動かすことで色んな距離のレースをやる。
移動の際に芝を傷つけないこと。
ウマ娘が内側からぶつかっても怪我をしにくく、また壊れにくいこと。
箇条書きにしてみると中々大変だ。
まぁ優先順位はあるんだろうけれど。
《──ウマ娘を傷つける位なら機械が壊れる方がマシだ、みたいな設計思想なのだろう》
『だと思います。割と綺麗に
チャンピオンズカップ当日、中京レース場。
今は出走予定時刻の数分
ゲートインまでは予定通りだったんだけど、気合いの乗り過ぎたウマ娘が約1名、ド派手にフライングをかましたので。
《ウマ娘のパワーはとんでもないと、改めて実感したよ》
『ゲート全体が浮き上がったみたいになってましたね……』
……ニュクスさんなんだけどさ。
え、これ私のせい? 私のせいじゃないよね? 昨日と一昨日は会ってすらいないし!
直後から自分で立って歩いてたし、頬の辺りを小さく切った他は無事っぽい……けど、レースからは除外になって地下に戻っていった。
ゲートの方は、彼女が居た枠の扉が吹っ飛んだだけに見える。他に異常が無ければそのまま使えるということで、今はメンテナンスチームの皆さんが緊急で機能チェック中。
『あれが使えないと大変なんですよね……どうするんでしょう』
《代わりの機械とかありそうなものだが》
『あるなら機能チェックじゃなく交換してると思うんです。それにアレ、ものすっごく高価なんですって』
《ほう》
アナさんが知らない小学生時代、トレーニングジャンキーだった私はゲート練習がしたいと親にせがんだことがある。それでお父さんが調べてくれたんだけど……個人で買うようなものではなかったよね。
『トレセンにも練習用の小さいゲートあるじゃないですか、4人くらいしか入れないやつ。あれでも3000万以上するんですよ』
《いまいちぴんと来ないが、自動車が買える値段という感じか?》
『庶民の感覚だと車より家ですね』
《おう……え、あのサイズでそれか。じゃあ本番のレースで使う方は》
『たぶん億単位ではないかと』
実際のお値段は知らない。というか機械単体では売ってないと思う。定期的で精密なメンテナンスが必須だから、運用チームとセットで契約する感じになるんだろう。
そういう意味ではニュクスさんが出した『損害額』は算定が難しい──いや、それは比較的どうでもよくて。私には今日のレースをどうするかの方が大事だ。
『あの装置が壊れててすぐには直せないとなったら……え、本当にどうするんだろう。レースできるのかな』
《ここに無いなら近くから借りるなりするだろう。名古屋にもレース場があるじゃないか》
名古屋レース場は、確かにありますが。この中京までは車だと50分くらい? レース予定を遅らせて移送してくることも、距離的にはできそうに見える。
でもどうかな。あればいいけど、あるだろうか。
『そこは地方管轄なのでURAのモノでは……いえ、そういう団体間のしがらみを別にしても、無い袖は振れません』
《……無い?》
『日本全国のレース場に、常に1セットずつゲートがあるわけではないんです。限られた数を使い回してるらしくて』
スターティングゲートは旅をする、らしい。あるレース場での開催が終わったらメンテチーム共々別の土地に移っていくのだ。
実際、『どこのレース場でも見かける馴染みの顔』に幾つか覚えがある。あれは会場ごとにいるURAのスタッフさんじゃなく、ゲートの面倒を見る
……そういえば何度かぎょっとされたな。『この子つい先週も●●で走ってたじゃないか』とかそういう驚きだったのかも。
《それは……手詰まりか。近くに無いとなると》
『京都か阪神にはあるはずですが、時間がかかっちゃいます』
《あの装置が無事に使えることを祈るばかりだな》
『はい』
『ご案内申し上げます。問題のゲートは、10番を除いて全て正常に動作することが確認されました。このゲートを空けての15名でレースを行います』
『出走は予定時刻から30分遅れとなります。ライブも同じだけ後ろにズレますのでご了承ください』
『また、ニュクスヘーメラー選手は規定により競走除外となりますが非常に軽傷との情報が入っています。不幸中の幸いですね』
ニュクスヘーメラーと桐生院葵は地下の選手控え室に戻っていた。
気が気でない様子だったゲート破壊の張本人は、放送を聞いて大きく息を吐く。
「よか、ったぁ……!」
「ええ、そうですね」
「私のせいでレースが中止にでもなったらどうしようかと……」
自分のやらかしでレース自体を潰してしまうなど、負けるよりも競走除外よりも遥かに最悪だ。ひとまずその可能性は消えた。気持ちの上では少し楽になったと言えなくもない。
お陰で別の感情が湧いてくる。
今のニュクスヘーメラーの場合、それはまず──、
「っ〜〜〜!!」
──羞恥だった。タオルを被って顔を隠し、さらに控え室のベンチにうつ伏せてしまう。更に脚をじたばた。部屋には葵しかいないが、彼女にも顔を見られたくないらしい。
ウマ娘がフライングをしてゲートにぶつかってしまうことはそれなりにある。とはいえ多くはジュニア級やデビュー直後の新人で、ニュクスヘーメラーほどの戦績でやらかすことは稀だ。
また、ほとんどはスタートのやり直しになる。繰り返したりすれば外枠に変更されることもあるが、フライングだけなら出走はできるのだ。
今回のニュクスヘーメラーが除外になった理由は2つ。1つは僅かながら出血しているため。もう1つはゲートを盛大に壊したため。
ウマ娘を保護するために、ある程度の負荷で壊れるよう造られているのは確かだ。しかし実際は滅多に壊れない。
「ジュニア級のパワーなら壊れませんよね〜!!」
「まぁ……あまり聴かない話ではあります」
顔を伏せ、くぐもった声のまま叫んだ。葵としても居た堪れない。恥ずかしくなる気持ちは大いに分かるのだ。
直接の原因は10月末に撮影したチャンピオンズカップのCMだろう。
〔シニアではこれまで以上に勝つことにこだわりたくて、だから芝に専念します。その前にダートで勝っておきたいんです〕
〔望むところだ。日本で負けてアメリカに逃げたなんて思われたくないからな〕
アナグラワンワンやティーガードンナ、他何名かの勝利宣言が連なったあの映像において、ニュクスヘーメラーは明らかに筆頭格に置かれていた。
〔最っ高に、楽しみです!〕
これが11月からずっと、今日の会場でも流れていたのだ。このためか今日の最高支持率はニュクスヘーメラー。観客からもライバルからも注目されて……で、
ゲートが使えることがアナウンスされるまでの間、どよめく観客たちには『笑ってはいけない』空気が漂っていた。
ニュクスヘーメラーを貶めることになるから笑ってはいけない。自制はする。
しかし内心で可笑しいと感じた者は少なくない。『あの勝利宣言からこのオチはあんまりすぎるwww』というわけだ。
実際にそんな言葉が聞かれることは無かったが、アナウンス後の特大の歓声はそうした空気を吹き飛ばすためでもあったのだろう。
『改めましてウマ娘ゲートインしていきます』
『どの子も集中力は途切れていませんよ』
控え室のニュクスヘーメラーはベンチに伏せたまま顔をあげようとした。葵がすぐに見易い位置にタブレットを立ててやり、生中継の様子を見せてやる。
「ありがとござます……」
恥ずかしさで真っ赤に染まったまま漏らす礼の言葉は実にか細い。
『今スターッとこれはよく揃ったがかなりのスタートダッシュですね!?』
『アナグラワンワン、ティーガードンナ、それにカモノマツエイと更に2人いや3人か、逃げウマ娘ではない子たちまで先頭争いに名乗りを上げた!』
『素晴らしいスピードで2番手集団を離していく、しかしその中から! じりじりと抜きん出てくるのはやはりこの2人強い強い!』
スタート直後から荒れ模様。1800mのレースとは思えないハイペースをテン(スタート直後)に持ってきたウマ娘が5人ほどもいるらしい。
事前情報からいくと、最近のティーガードンナはこの戦法で逃げ勝ちすることが多い──もとい、ここまでのハイペースは葵も初めて見る。
『テンの1ハロンは──え!? て、手元の時計ですが12秒3!』
『加速力おかしいでしょう、流石に測り間違いでは!?』
放送席が慌てふためいている。1ハロン12秒3としたら3ハロン37秒を切るわけで、ダートでこの数字は上がり(ゴール前)のペースとしても速い部類に入る。それをスタート直後から叩き出しているのだから信じ難い。
もっとも、葵からすれば予測しえた化学反応の範疇である。彼女の目測ではテン3ハロンは37秒以上かかっていることもあり、驚きこそすれ疑うほどではない。
1人が盛大なフライングをやらかした後であっても、ぎりぎりのロケットスタートを躊躇うような相手でないことは最初から分かっていた。
「ワンワンさんたちはレースに集中できているようです。『台無しにした』なんて風に気に病むことはありませんからね」
「……はぃ……」
レースを観ている内に昂ってきたのか、今度は照れ臭さや自責よりもフラストレーションや苛立ちが上回ってきたらしい。不満丸出しのニュクスヘーメラーだが、しかし視線は画面を睨んだまま。
『大逃げ! 爆逃げ! 常識的には破滅逃げ! しかし勢い衰えませんアナグラワンワンとティーガードンナ、後続突き放した2人旅ー!』
『僅かに前はティーガードンナか、しかしインを確保したのはアナグラワンワン、前を譲れ内を空けろと激しい鍔迫り合いはまるでホームストレッチだ!』
『まだ800m以上あります、まさかこのまま駆け通すのか!?』
「……最後尾……先頭まで19バ身……まだ出ない、まだ我慢……」
実際のコース上にニュクスヘーメラーはいない。その当人は画面を凝視して『自分なら今ここにいて、そこから先頭はどれくらい遠くに視えるはずで』といったことをシミュレーションしていく。空想上の彼女は現在16番手。
尖った集中力で呟かれるそれは、葵の把握している走力や最適解にぴたりと一致する。自分への過大評価も相手への過小評価も無い。
『第3第4コーナー長い下り坂でアナグラワンワン僅かに先行、3番手以降も力を振り絞りますが──詰められない、先頭2人の背中は未だ遠いぞ!』
「──ここだ」
『直線入っての急な登り、ティーガードンナやはり仕掛けた! 並んだ! 並んだが!?』
残り200mで横に並ばれたアナグラワンワンは、しかしそれ以上を許さなかった。
坂を登りきって平坦に変わる境目は小さく目立たない難所だ。どんなベテランでも1〜2歩は脚の回転がズレる。減速まではせずとも最速からは外れる。
しかし"金剛"の偏執的なテクニックはあらゆるマイナス要素を削ぎ落としている。僅かながら明確な"雷虎"との差。ここで稼いだリードを譲ることはない。
『ゴォールイン! これはきわどいでしょうか、カメラ判定を待ちますか?』
『アナグラワンワンだったと思いますよ。いやしかし信じられない、断言しにくいのも分かります』
『今スロー映像が流れ……あぁこれは、アナグラワンワン1着とお伝えしましょう! まさかまさか、この連闘を──』
『この連闘
『そうでした。ジャパンカップからチャンピオンズカップ、今回の連闘も見事に制しました不壊の金剛、GⅠ5連勝です!』
「………………」
ベンチで不貞腐れていたはずの私は、気付けば立ち上がり拳を握っていました。レースを走り終えたみたいに熱い汗を滲ませて。
ええ、ここは控え室です。私は出走していません。ちゃんと分かっています。走っていたのは想像上の私。
ではその着順は?
「葵さん、どう見えましたか。私は届いていましたか」
「……きわどい。ティーガードンナのことは抜いたと思う」
「…………ですか」
そうでしょうか、私は勝てたと思います。
でもこの人は嘘をつきません。少なくとも葵さんからはそう見えたのです。
そして──葵さんだけでなく。
「ワンワンさんは坂の出口で既に勝っていました。でも更に加速した……してましたよね?」
「ええ、見間違いじゃないわ。ティーガードンナに勝つだけなら最後の伸びは無くても良かった」
「…………」
ダートを離れる彼女は、坂を登りきった後もぎりぎりまで絞り出していました。あの場に居ない私とも競ってくれたのだと、そう思います。
もっとも想像上の勝負なので、きっと向こうも『自分が勝てていた』と譲らないに決まっています。えぇまぁ、そう思うのは自由ですとも。
……事実は揺るぎなく、私は走れていないのですから。
「はぁぁぁあああ……」
考えないようにしていましたが、今も思い出したくありませんが、全くなんてヒドいミスでしょうか。気が逸るあまりフライングしてゲートを
「葵さん私ちゃんと再審査うけますから!」
「え? えぇ、そうね、退屈でしょうけど」
「いえ! 全力でやります!」
「???」
流石に発想の飛躍だったようです。ぽかんとされてしまいました。
いえ、でも油断なく。こんなことは絶対に繰り返したくありませんから。
※ニュクスヘーメラーや葵の実家にはスターティングゲートくらい普通にあったので、物損そのものはグラほど重大に捉えていません。