中山レース場・芝2500m、有馬記念。
言わずと知れたGⅠレースで、賞金においてはジャパンカップと並んで国内最高額となっている。
《レース名は創設者の有馬
『はいはいそうですね安田記念だけじゃありませんでしたね!』
かつてのグラ*にとっては数あるレースのひとつに過ぎず、なんら特別視するものではなかったが……今では違う。
自身にとってクラシック最後の闘い。激突するのはドゥームデューキス、テセウスゴルド、ルーテデラソワ、そしてムーンカフェ。滾らずには居られない。
ちなみに世間においては『蹂躙者にして征服者である"金剛"が彼女らを迎え撃つ』ような語られ方がよくされている。
そういった風聞を気にしないグラだが、今回はたまたま耳に入った。
3週間前なら『実績はともかく実力はそんなに離れてない』などと否定しただろう。
しかしマンハッタンカフェやネオユニヴァースらとの特訓を終えて──シンボリルドルフに打ち切ってもらって──身体にも変化が現れた後は違う。自らが『受けて立つ格上』のような立場にあることを、部分的には認めるようになった。
部分的には。
『3着以下になるとしたら、それは私の大ポカ。今の私がムンちゃん以外に敗けることは考えにくい。
……あ、これはこれで結構プレッシャーだ』
《勝って当たり前と思えるレースは多くなかったからな》
『そういえばそうですね』
控え室で時間を待つ間、なんとなしに手をやるのは勝負服の一部──赤い腕輪。
見る限りでは新品同様。しかし指を滑らせれば細かな傷が幾つもついていることが分かる。グラはこれまでに転倒などをしたことが無いので、巻き上げられた砂や土が少しずつ刻んできたのだろう。
駆け抜けてきた激戦の歴史であり、砂礫が金属を削るだけのスピードの証明。グラが密かに『GⅠタイトルよりも誇らしい』と思っている兵士の勲章。
今日のレースでもきっと新たな傷が刻まれる。ライバルたちとぶつかり合い削り合うことになる。
それはとても嬉しいことで、何より愉しい時間で。少しでも長く味わいたい、なんて気持ちも無いではない。
無論そんな欲は無視する。誰より早く平らげた者こそ勝者なのだから。
その両取りこそ目指すところだ。
最初に仕掛けたのはドゥームデューキスだった。前日の阪神カップ(GⅡ)を
『いよいよゲートイン、真っ先に向かったのは1枠1番ドゥームデュー……おっと、これは?』
『スタートダッシュを決めるぞという意思表示でしょうか』
彼女はゲート内で出来るだけ後ろに下がって構えた。スタートの瞬間に初速を得ておこうというのだ。
普通、ゲートが開く瞬間のウマ娘は全員止まっている。速度はゼロ。その時すでに前進を始めていれば有利なのは間違いない。
なのにドゥームデューキスのやり方が一般的でないのは、タイミングがシビア過ぎるからだ。
少しでも早ければゲートにぶつかる。外枠に移されるだけならまだしも、怪我をする危険も小さくない。
そして少しでも遅れれば、周りより後ろからスタートするだけとなってシンプルに不利。
選択を迫られたのはスタートを何より重視する逃げ〜先行のウマ娘たち。その1人、ルーテデラソワは──、
『あれが成功すれば、スタート直後の先頭は譲ることになる。……それはそれで、風除けにするのもアリかな』
──最初はこう考えた。ぶっつけ本番で真似をするようなことはリスクに見合わないと。
しかし直後、再考を強いられる。
『あーっと!? ドゥームデューキスの体勢を見てからゲートインしたムーンカフェ、同じく枠内の後ろ端でダッシュの構え!』
『あの位置から先頭を取るつもりでしょうか!?』
ムーンカフェの枠番は13。有力視されている中では最も外側だ。
そこから強引に先頭を取る気なのか? 差しの走りでも周りからは先行に見えてしまうほどの強者が?
『どう、する? ムーンを易々と先頭に立たせるのはマズい気がする……!』
ムーンカフェの得意戦型は先行〜差しと認識されている。ルーテデラソワとしては『逃げで来るなら私の有利だ』と言いたいところだが……予感がある。
前を譲ったら、抜ける気がしない。
こちらは普段から先頭を逃げて戦うタイプであり、今回の枠番は3。
……最初から尻込みしていて勝てるものか、と心を決める。
『なんとなんと3人目! 多くの選手が普段通りに構える中、ルーテデラソワもロケットスタートの発射台を選びました!』
『スタート前から波乱含みですね。ご覧ください、"金剛"アナグラワンワンこの表情です』
ウキウキニコニコの表情が大画面に抜かれたため、スンと表情を消すアナグラワンワン。しかし耳や尻尾までは抑えが利かない。嬉しい、愉しい、血が滾る。
『8番アナグラワンワンは……通常のスタートを選んだようです、枠内後方ではありません』
『枠の中での位置まで実況するのは初めてですよ』
『私もです』
3人以外はいつも通り、それぞれの枠内で前よりいっぱい。16人のゲートインが完了した。
ウマ娘たちの前方、せり上がった台の上で旗を振っていたスターターと呼ばれる職員が、ゲート開放の最終的な操作を行う。
今回務めるのはもちろんベテラン中の大ベテランだ。それでもプレッシャーは大きい。角度的に選手たちからは見えないはずだが、手元に視線が突き刺さるような錯覚を禁じ得ない。
スイッチになるのはレリーズと呼ばれる機械で、握力計のような形をしている。軽く握り込むことでゲートが開くので、腕の動きなどからタイミングを読むことはできない……はずだ。
それは奇跡のような発走だった。
経験豊富で職務に忠実なスターターが『自分の視線や仕草が何かを教えてしまったのではないか』と疑いを抱くほどに、3人の初速は抜きん出て、続く13人も揃ったスタート。
実際にはそのような不正などなく、単純に全員の集中力の賜物である。
強いて原因を挙げるとすれば、それは歓びと興奮のあまり普段より高まっている【喚起】の影響だろう。つまりアナグラワンワンのせい。
『さぁ始まりました、最初に先頭を獲ったのは──ドゥームデューキス! すぐ後ろにルーテデラソワ、ムーンカフェと続きます!』
「*******!」
「おゥ? 話しかけるなら日本語にしてくんねーかな」
「『あのトリウムフォーゲンと並んだウマ娘がまともなわけなかった』ですって」
「いや通訳は頼んでねェんだけど」
先頭3人の位置はかなり近い。特にルーテデラソワとムーンカフェはほとんど横並びであり、ドゥームデューキスははっきりと先頭を逃げている。
「トリウムフォーゲンといいそいつといい、なんでこんなにまともな私をUMA娘扱いしやがんだよゥ」
「まとも? どうだか。初速が一番速かったのは貴女でしょうに」
「最内スタートだからじゃね?」
「騙されない。私たちはフライングを恐れたの、貴女に比べたらね」
その指摘は正しい。リスキーなスタートを選んだ3人の内、文字通りの全力で踏み切ったのはドゥームデューキスだけ。タイミング次第ではゲートを破壊していたこと間違いなしというパワーで飛び出し、だからムーンカフェはひとまず先頭を諦めたのだ。
「あんな危ない真似、トレーナーに止められなかったの?」
「止められたに決まってんだろゥ。だがああでもしなきゃ勝ち目がねえ、非才の身なもんでね」
「悪いけど、貴女の言葉も表情もレース中は信用しないことにしてるから」
「ひっでぇ」
ドゥームデューキスは確かに相手を惑わすような作戦を多く採ってきた。しかし今の発言は『格上の油断を誘うために格下を装う
名だたる古強者たちを集めたという特訓で、ムーンカフェとアナグラワンワンはまた上のステージに至ってしまったと聞いている。格下という自認は本心だ。
格下が常に敗けるなどとは全く思っていないが。
『3コーナーでの先頭はドゥームデューキス、半バ身後ろにルーテデラソワ、すぐ外並ぶようにムーンカフェ、そこから3バ身4バ身ほど空いて先行集団が続きます』
『詰まった大きな集団、おっとアナグラワンワンは前を塞がれたか、現在12番手』
『間を空けて最後尾から前を睨むのはテセウスゴルド』
4コーナーに差し掛かると、先頭3人を目視した観客席からわっと声が上がって1周目のホームストレッチを賑々しく盛り上げる。
この有馬記念では内回りコースをもう1周するので、選手たちは中山名物の急坂を2度登らねばならない。
これから目指すその1度目が最初の勝負どころになるかと思われたが……その前に動き始める台風の目。
『4コーナー半ばで早くも動いた"金剛"アナグラワンワン! 大きく外に膨らんで集団を追い抜きにかかります!』
『かなり早い仕掛けです、彼女なら坂で仕掛けても有利を取れそうですが……狙いが分かりませんね』
わざわざコーナーを膨らんで集団を追い抜き、急坂に差し掛かる前に4番手まで順位を上げたアナグラワンワン。しかしそこから先頭集団に迫ることはせず、ムーンカフェから4バ身ほど空けた位置に留まるようだ。
その意図は察しがたい──普通なら。“かたい”視点では。
しかし同じターフを走る選手の一部は違う。
『珍しい、アナさんの采配かしら?
ムーンカフェには思い当たる可能性があった。
『あー……ちくしょう、イヤらしい手だな』
テセウスゴルドは後ろから見ていたのでもっとはっきり分かった。
『何考えてるあのUMA娘……いいえ! 考えるだけ無駄、走るのに集中!』
ルーテデラソワには分からない。彼女はまだまだ“かたい”。
実力的には勝ち目もあった。しかし未来の視点から非情な事実を述べるならば、この仕掛けをスルーしてしまった時点でその目は失せたと言える。
勝負を愉しむだけでなく勝ちにこだわるようになったグラが、残り約2000mで放った一手。
この時点でその意味を知る者は、本人以外には2人だけだ。