2月半ばのある夕方。
美浦寮の談話室に置かれた大型テレビは地方レースの様子を流している。
『圧倒的! まさに圧倒的だ! ペガサスの片翼、生まれ故郷に見事錦を飾りました!』
『1着ティーガードンナ、あぁ嬉しそうですね。スタート前もお伝えした通り、この白鷺賞は彼女が初めて生で観戦したレースだそうです』
1月末にペガサスワールドカップを制したティーガードンナは、帰国後の初戦として故郷で行われる神戸新聞杯 白鷺賞を選んだ。姫路レース場は当然のごとく超満員。地方レースを管轄するNAUは嬉しい悲鳴だろう。
一方『ペガサス独占』のもう片翼、アナグラワンワンは日本に戻っていない。またドバイに籠もっているという。
テレビの音量を下げると、部外者を締め出した秘密の会合が始まる。真剣な面持ちの美浦寮生たち、目的は"金剛"対策会議だ。
「──分かった、分かったナもう! やりゃあ良いんだろ!」
司会を 押し付けられた 引き受けたのはナーサリーナース。ぶつくさ言いながら確認したホワイトボードには、既に10のレース名が記してある。
「あー、っと……改めて目的の共有からナ。
あのバ鹿になるべくGⅠを獲らせねーこと。海外はもう好きにさせとくとして、国内じゃそうは行かせねー。1つでも削ってくし、なんなら0個にしてやるんだ。
とはいえウチらはフランスとは違う。私が言うのもなんだけど、露骨なチーム戦術はやっぱ肌に合わねえ。だから同じレースでかち合うよりは効果的な分散を相談しちまった方がイイ。ナ?」
問うように見渡せば頷きが返ってきた。ここまでは異論無いらしい。
「そのために、普通はやらねーけど、ここに集まった中では出走計画とかをオープンにする。もちろん外には漏らさねーこと。
嫌なら今のうちに出てってくれナ」
原則的には明かしたくないことのはず。しかし席を立つ者はいなかった。
「全員参加とかマジかよ。ムーン、この手のつるみ方は嫌うと思ってた」
「嫌いよ、でもやるわ。速く進めて」
「へいへい」
実力ではトップのムーンカフェが司会をしない理由である。他の面々もナーサリーナースと比べれば何かしら
「じゃあとりあえずドアホの予定をおさらいしとくナ?」
URA賞を受賞した際に公表された出走予定の内、ホワイトボードに記された国内の10戦は以下の通り。
高松宮記念。
大阪杯。
天皇賞(春)。
ヴィクトリアマイル。
安田記念。
宝塚記念。
天皇賞(秋)。
マイルチャンピオンシップ。
ジャパンカップ。
有馬記念。
溜め息を呑み込んでナーサリーナースは続ける。
「3200mの春天はムーンが本命だナ。これは任せることになる」
「あら。もちろん出るけど、ドゥームは?」
「ヒ、ひ。練習だと距離がギリギリっぽくてよゥ。ジイさんがうるせえンだ」
トレーナーからの不安視を払拭すべく、ドゥームデューキスは3月半ばの阪神大賞典(GⅡ・3000m)を走るという。その感触によっては春天にも出られるかも知れないが、難しい公算が高いと。
「分かった。安心なさい、少なくともシニア無敗とかはそこで挫いてみせるから」
「ンこと言って、今んとこ負け越しだろー?」
「ここまで2勝3敗ね。それが何よ、じゃあ貴女は諦めるわけ?」
「バ鹿言っちゃいけねえ」
ムーンカフェに絡んだテセウスゴルドとて"金剛"に勝ったことは無い。確かに戦績など問題ではなかった。
問題は、他にある。
「あー、ドゥームがちっと弱み晒してくれたし、私も隠さないで言っとくわ。霞ちゃんが言うには……私のピークは、早めに終わる、らしい。
だから上半期のラスト、宝塚記念をメインターゲットにしてぇ」
重い告白だ。クラシック夏の成長期を早めに迎えた以上、ピークアウトも早いのは道理かも知れないが……テセウスゴルドがこれを吐き出すには覚悟や勢いなど、色々なものが必要だった。
しかし面々の反応は軽い。
「うィー」
「宝塚だとドゥと被るけど、それは問題ねーナ? よし、じゃあ他に譲れねー予定のある奴は?」
「 いや軽くねぇ!? 」
淡々とホワイトボードに書き込む
無駄である。美浦寮での評価は揺るぎない。
「テセウスならジャパンカップか有馬には元気に走ってんだろゥ?」
「秋天には復活してるでしょ。やらかしたものねクラシックで」
「宝塚から秋天まで4ヶ月近くあんだ。その間になんとかすんだろナ?」
「やべぇ、常識的ウマ娘が私しかいねぇ」
「「「明らかにUMA側」」」
とりあえず春天のところにムーンカフェの名が、宝塚記念のところにドゥームデューキスとテセウスゴルドの名が書き込まれた(書記は自分を上に書いた)。
それを見てテセウスゴルドが続ける。
「ち、納得いかねえ……あぁドゥーム、いっちゃん上にも私書いといてくれ」
「ゥーい……ア?」
「高松宮記念?
「んや、実戦は初」
ジュニア期は別として、これまで彼女が走った最短は1800m。高松宮記念は適性外と思われた。追い込みの加速力は短距離にも応用しやすいとはいえ……訝しむ周囲に、本人は涼しい顔。
「そーゆーこと言うから心配するだけ無駄って評価になるんだナ」
「心配されたいわけじゃない、ウマ娘扱いされたい」
「諦めなさい、手遅れよ」
唇を尖らせながら、確約するのは高松宮記念と宝塚記念だけにしておくと口を閉ざすテセウスゴルド。
書記はムーンカフェに確認を取ってからジャパンカップと有馬記念にも名を添える。
| ①高松宮記念 | テセ |
| ②大阪杯 | |
| ③春天 | ムーン (ドゥ?) |
| ④ヴィクトリアマイル | |
| ⑤安田記念 | |
| ⑥宝塚記念 | ドゥ テセ |
| ⑦秋天 | |
| ⑧マイルCS | |
| ⑨ジャパンC | ドゥ ムーン |
| ⑩有馬記念 | ドゥ ムーン |
これで空欄なのは5戦。
ヴィクトリアマイル・安田記念・マイルチャンピオンシップの3つはすんなりと進んだ。どれも1600mで、ナーサリーナース・ベレヘニヤ・ホウカンボクの得意距離である。
残るは2戦。
大阪杯と秋の天皇賞、いずれも2000m。
「私にはちょっと長い、ドゥにはちょっと短い。秋華賞で実感したナ」
走るだけなら走れる者は多い。しかしこの距離が得意だと言い切れる者は(この場では)限られる。
かたやテセウスゴルド、今のところどちらにも出ないと宣言。秋天については信用が薄い──なんだかんだ言って出るものと思われている──が、大阪杯は難しいだろう。高松宮記念の7日後だからだ。
では大阪杯は易々と獲らせるしかないのか?
そんなことはない。アナグラワンワンに対抗しうる寮生はもう1人いる。
「………………」
ここまで無言のまま声をあげられずにいる黄昏の
チャンピオンズカップでのゲート破壊も、年末の東京大賞典の大幅なスタートミスも、それが尾を曳いていることも、全員が知っている。
その上で誰も疑わない。諦めず這い上がってくると。
但しいつどこで走るかは別だ。大阪杯を獲れとは命じない。そもそも
ニュクスヘーメラーはひどいスランプ状態だ。ライバルたちとて無理なプレッシャーをかけるつもりは無い。
仮にここで『復活には時間がかかるので、大阪杯は誰かお願いします』などと答えたなら『じゃあ誰が走ろうか』という話に移行しただろう。
そういう気遣いをはっきりと感じながら、ニュクスヘーメラーは。
「…………やります。自信があるとはとても言えませんが、全力で大阪杯を駆け抜けてみせます」
渇望、欲求、それもあった。
報恩、義務感、否定はしない。
但し恐らく、『本格化の遅かった私は、この場で唯一の高校生なのだから』などという思考は余計だったのだろう。それは明らかに関係が無い。ムーンカフェなどは実年齢を問わず同期に敬語を使わないし、ニュクスヘーメラーの方も普段は気にしない要素である。
無理をしていると感じた者は多い。しかし『無理をするな』とは言わない──言えない。アスリートが強くなるには無理を乗り越えるのが正道だから。彼女の安全は桐生院トレーナーの担当である。
「おっけー。できることがあったら言ってくれよナ。
じゃ、名前が被ってるとこはぶつかるなり分担するなり相談すんぞ。マイル組〜」
| ①高松宮記念 | テセ |
| ②大阪杯 | ニュ |
| ③春天 | ムーン (ドゥ?) |
| ④ヴィクトリアマイル | ナ・ベ・ホ |
| ⑤安田記念 | ナ・ベ・ホ |
| ⑥宝塚記念 | ドゥ テセ |
| ⑦秋天 | (テセ?) |
| ⑧マイルCS | ナ・ベ・ホ |
| ⑨ジャパンC | ドゥ ムーン |
| ⑩有馬記念 | ドゥ ムーン |
ナーサリーナースの仕切りで距離ごとに分かれていく際、それぞれに複雑な視線が絡んだ。
テセウスゴルドに絡まれ始めたニュクスヘーメラーを心配する者がいる。寮室が隣であり趣味の時間なども共有したホウカンボクは特に、声をかけようか迷う様子。
そんなホウカンボクも傍目には苦しんでいた。今この部屋には3人のGⅠウマ娘がいて、そこに彼女は入っていない。
同じく“マイル組”のナーサリーナースが声をかけようとした。だってベレヘニヤでは励ましようが無い──ホウカンボクからマイルチャンピオンシップを奪った張本人*なのだから。
ドゥームデューキスは幼馴染を視線で制し、首を横に振る。言葉は無力だ。
それにホウカンボクもいつかのように引きこもったりはしていない。そのサボり期間*を深く悔やんでいるが故に。2月の頭には東京新聞杯(GⅢ・1600m)できっちりと姉を降している。
完全に余談だが、アソカツリーは『ボクがマイルチャンピオンシップに負けて凹んでる、これはチャンス』というつもりで妹の得意なマイル戦を挑んだ。ホウカンボクも(口にはしないようになったが)『怪我からの復帰後2連敗
「──ったく、どいつもこいつもお優しくてヤんなっちまゥ」
「貴女も世話焼きの部類だと思うわよ、私は」
長距離組のドゥームデューキスとムーンカフェ。春天は未定だがジャパンカップと有馬の両方でぶつかると決まっている。
話し合うべきことが特に無いから周りに目を配る余裕があったものの、ムーンカフェにはニュクスヘーメラーたちを励まそうとか慰めようとかいう姿勢が見当たらない。
「そういうムーンはちっと冷たくねェ? 合宿、ニュクスも一緒だったんだろ」
「心配はしてる。出来ることなら手を貸す。でも、何も出来ないわ」
「……ま、そゥだわなぁ」
苦手意識というものは実に厄介だ。本職のトレーナーであってもすぐには取り除けない。
それにここにいる全員は危機感を共有している。
美浦寮生は奮起した。必ず、かの傍若無人の"金剛"を止めねばならぬと決意した。
既にクラシック3冠とティアラ3冠を独占されているのだ。この上シニアでも春の3冠(大阪杯・春天・宝塚記念)と秋の3冠(秋天・ジャパンカップ・有馬記念)を占められようものなら、それは世代が丸ごと1人に敗けたも同然の焼け野原。断固として受け入れられない。
というわけで『ニュクスヘーメラーやホウカンボクには悪いが他人を気にしている余裕が無い』というのが概ね共通見解なのであった。
「ただの観客だったら、アイツが芝を総ナメにするところ観てみたい〜とか無責任に思うんかね。気楽で羨ましいぜ、こっちは必死なのによゥ」
ドゥームデューキスは憂鬱そうに軽口を叩いた。いつものことなのでムーンカフェも適当に返す。
「どうかしら。まぁそういう人もいるか、普通じゃありえないものだし」
「今年はありえるって思ってる外野は少なくねぇぜ?」
「ありえないわよ」
余りにもきっぱりとした否定に、ドゥームデューキスは首を傾げる。
否定自体は分かるのだ、ムーンカフェならば。しかし今のは決意表明ではなくただの事実のような口振りだった。さらに続く言葉も予想外なもの。
「仮に……仮にね、私が春天を落としたとして。それでもあのバ鹿に春シニア3冠は達成できない。宝塚は無理がある」
「…………私やテセに期待してる、てのとは違いそゥだな?」
「期待、うーん。期待でも間違いじゃないけど。グラに訊いてないの? 放送ではナイショとか言ってたところ」
「あー、訊けば答えるんだったなアイツ。安田記念と宝塚記念の間だっけ」
「そう、6月」
ムーンカフェは具体的には明かさなかった。何故なら──、
「もし、宝塚をグラに奪られるようなことがあったら。私は貴女を軽蔑するかも知れないわ、ドゥーム」
「そんなにかよ。どんだけ無茶すんだアイツ」
「直接訊くといい。できたら私の居ないところで」
──その予定を知れば、ドゥームデューキスたち(宝塚記念の出走者)は腹を立てるに決まっているから。
怒鳴られるべきは本人であって、ムーンカフェがそれを受ける筋合いなど無いのだ。
なお、ドゥームデューキスから直接訊ねられたグラは回答を避けた。
なに出るつもりだ?
組んでやがるからだが?
ドゥームデューキスのやる気が上がっている。