桐生院葵は歴戦のトレーナーである。
自らを省みれば、初めての担当ウマ娘であるハッピーミークの頃は色々と不手際があったし、アグネスデジタルの強烈な個性に振り回されもした。千田サキを含む後輩たちをしっかり導けたかと言えば反省も少なくない。
しかしいずれも過去のことだ。
ニュクスヘーメラーがシニア1年目を迎えた3月、現状把握までは完全にできている。
『チャンピオンズカップと東京大賞典で刻まれたゲートへの苦手意識。払拭し切れていませんね……かなりマシにはなりましたが』
年末に比べれば状態はずっと良い。トレーニング中の失敗はほとんど無くなったし、たまの失敗も少々の出遅れに留まっている。スタートが苦手という評価はもう当てはまらないだろう。
一方で、苦手
『こればかりは本人が本番で乗り越えるもの。
今なら失敗のリスクは最小限だし、これ以上レース間隔を空けたら気が逸って逆に危ない。大阪杯は良いタイミングでしょう』
ゲート難といっても色々なタイプがある。狭さ自体がストレスだったり、ぶつかって怪我をする恐怖だったり。
ニュクスヘーメラーの場合は『失敗したら壊してしまう』こと──より正確には『ゲート自体を使用不能にしたらレースができなくなってしまう』ことへの懸念。
皆、1つのレースに向けて調整してくるのだ、何週間も、時には何ヶ月も費やして。
競走不成立はもちろん
だから──、
『全レース場が常に、予備も含めたスターティングゲートを保有してくれればニュクスにとって最善なんですが……無理なものは仕方がありません』
──かなり本気で、札束による解決も検討はした。いくら金を積んでもメンテナンススタッフが今すぐ倍増するわけが無いので実現は不可能だったが。
となれば出来ることはこれまで通り、信じて送り出すだけ。
案じる必要は無い。気に病むことはデメリットばかりだ。
そもそもスタート時のリスクや恐怖は全員が背負っている。チャンピオンズカップ以前のニュクスヘーメラーとて、圧迫感に怯えたり僅かに出遅れたりはあった。それでも問題なく走れていたではないか。
……などという声かけは彼女には適さないだろう。ことに本番の直前には。
「久々の実戦、緊張してますか?」
「…………はい」
「いいんですよ、怖がっても」
「そう、でしょうか」
「だけどそれ以外も忘れないでください。ワンワンさんとのレース、楽しいとは思えませんか」
「楽しみでは……あります」
「彼女以外は、トレセン入学前から好き放題に走ってきた子たちです。ニュクスはそれが妬ましいんですよね」
「……率直に言えば、はい」
「気に病むことはありません。怖がりながら楽しみながら妬みもする、貴女はそんな自分をまっすぐに話してくれました。胸を張って自慢できる、私の担当ウマ娘です」
時や場合や相手が違えば別の言い方を選んだが、ニュクスヘーメラーにはこの言葉が良い方向に刺さった。
「……ありがとうございます」
笑顔が浮かぶ。口の端を釣り上げるような、不遜で不穏で不敵なもの──それでいい、と葵は頷く。レースにおいて自分本位は大前提なのだから。
高松宮記念の翌週は大阪杯。
シニア4戦目の今回は通算38戦目にあたる(とんでもなく多いことは分かってる)わけだけど、実はある点で初体験。
阪神レース場に向かう車の中で、ついつい笑みが溢れて──、
「ふ、ふ。愉しみです」
「怖いからやめて?」
──隣の席から抗議されてしまった。
そう、アリー先輩との対決だ。安田記念で怪我しちゃってたから去年は機会が無かった。
「私、ワンちゃんの好みには合わないと思うの」
「そんな寂しいこと言わないでください」
「いやだって、完全無欠に常識的な一般ウマ娘だし」
「ナーも昔は似たようなこと言ってましたよ」
「あの子は幼馴染ちゃんに脳を灼かれた結果じゃん」
「それは、アリー先輩も灼かれてるでしょ?」
「? ……今もしかしてボゥ先輩のこと非常識って言った!?」
いやぁ、常識的一般ウマ娘は鼻出血したら脚を緩めると思うんですよね。無言の反論は伝わったようで(流石にアレはどうかと思ってるんだろう)、先輩は目を逸らしながら言い訳をする。
「とにかく今日の私は【喚起】目当てだから。あなたの大好きな『打倒アナグラワンワンに燃えるライバル』じゃありません!」
「そんなぁ。身体だけの関係ってやつですか」
「えっ、どこでそんな冗談聞いちゃったの?」
うわ、なんか大真面目に心配されてしまった。どこでというとアナさんからなので──、
《すまん、私の軽口は教育に悪いな》
『いえいえ。というかこれはアナさんに判断してもらっちゃダメな常識だと思います』
《むう、それはそうだが》
──先輩には「気をつけます」と流しておくしかない。それはさておき。
今日ここで勝ちに来ないっていうのは残念な話だけど、私好みに解釈するなら『本番は秋天だから』とも取れる。
で、どうやらこの手の
「……秋、ね……ワンちゃんは、私なんかがGⅠに勝てるって思うの?」
そんな風に視線を落とされましても。いや、私に慰めなんて無理なのは承知してるだろう。本当のことを言うだけだ。
「え、分かりませんけど。そんなに悲観する理由も無いんじゃないですか?」
「そう、かな」
「1年間の連対率が100%ですよ? 有馬の人気投票でも上の方にいたじゃないですか」
その自信の無さこそ『誰かに聴かれたら引っ叩かれる』部類なのでは。確かにこれまでGⅠは勝ってないですけど。
去年、シニア1年目の先輩は5戦2勝。勝ったのはGⅡとGⅢを1回づつ、負けたのはGⅠが1つとGⅡが2つ。ただしその負けっていうのは全部2着だった。怪我からの復帰戦(有馬の前日にあった阪神カップ)も含めて。
これを見ればGⅠに挑むのは順当とすら思える。もちろん勝ち負けは相手次第というか、少なくとも今年の秋天は譲りませんが。
……とはいえ、レース前にしょんぼりさせてしまったのは良くないな。アリー先輩は2着でも本心を隠すみたいに笑う方だけど、東京新聞杯で久々に妹さんと
うーん。
今ここにはボゥ先輩いないし、丁度いいかな。
(私たちは前乗りしてホテルからレース場に向かっている。先輩やギンさんはお昼頃の新幹線で大阪に来るはずだ)
「そういえば、前に気になったんですけど。ボゥ先輩って昔は今みたいに勝ち気ではなかったんですか?」
「え、うん。そんな話したっけ?」
「去年の春だったかな、安田記念を連覇するって断言された時に『そんなの先輩らしくない』みたいなことを」
「あぁ、言ったかも」*
あの時は引退するとかしないとかでピリピリしちゃって、雰囲気的に口を挟めなかった。でも私としてはびっくり発言だったんですよ。
「意外だったんです。私の知らない先輩だなって」
「前は違ったんだよ、それこそ今の私みたいな。
……あれ、そういえばいつから……?」
私がトレセンに入る前のことを思い出しながら、アリー先輩は首を傾げた。いつどうして変わったのか思い出せないようだ。
運転席のサキさんが少し考えてから答える。
「……急にガラッと変わったわけじゃない。様子を見ながら、ゆるやかな変化だった」
「いつ頃のことです?」
「きっかけは8月、いえ9月ね。ボゥが初めての合宿から帰った時」
「んん……何かありましたっけ」
心当たりの無い様子に苦笑い。更に続く言葉で──、
「アリーが初めての重賞に負けて、その様子を見たことよ」
「えっ」
──アリー先輩を驚かせた。更に追撃も。
「え、私、そんなに心配かけるほど落ち込んだりしてませんよね」
「そうね。逆に落ち込んでないからこそ、心配したボゥは変わろうって決めたみたい」
「えっ」
その年の8月末、新潟ジュニアステークス(GⅢ・1600m)はすごい接戦だったという。アリー先輩は6着と掲示板を逃して、なのに先頭との差が1バ身半も無かったとか。
テレビ越しに応援していたボゥ先輩は健闘に胸を打たれて、その傷心を慰めるつもりで合宿から戻った。そして驚いたそうだ。あまりにもケロッとしていたから。
「しばらくは演技とか強がりとか疑ってじっくり観察してたわ。でも違ったでしょう」
「はい。私にしては良くやった、ぐらいに」
「その反応にボゥは責任を感じてた。自分がいつも弱気なせいで、初めての後輩からガツガツした面を削いでしまったって」
「誰のせいって言うなら先輩じゃなくて
つまりあの人は、元々あんな感じでは──私の知るつよつよな先輩では──なかったのか。自分で決めてそういう風に成ったのか。
……その時のボゥ先輩、まだクラシックだったのに。
「そういえばあの頃、ジュベナイルかフューチュリティに挑まないのかってやけに訊いてきたなぁ」
「あれ、出てましたっけ?」
「どっちも出てないよ。10月末のGⅢ*も3着で、そこまでメイクデビュー以外は0勝だったんだもん。11月にオープンで勝ってジュニアはおしまい。
……あぁ、あの1勝を先輩がいまいち喜んでくれなかったのはそういうこと……」
重賞で立て続けに負けたからオープンで勝ちを拾うっていうのは、それはそれで合理的な選択だと思うけど。ていうかサキさんによると昔のボゥ先輩もそんな感じだったらしいけど。
そんな後輩が“逃げ腰”に見えて、だから先輩は背中で範を示すことにした、と。
はー、やっぱり尊敬しちゃうなぁ。そしてきっと、私以上に感じ入りながら──、
「……敵わないなー」
──アリー先輩は呟いた。ほわんほわんと、眠たげなほどゆるい調子で。
本当にボゥ先輩はすごい。
でも同時に思うのは『流石はサキさん』だ。今の、このゆるーい様子がアリー先輩のベストコンディション。この人なりの気合いバチバチ状態。
今日の大阪杯では【喚起】目当てと開き直ってるらしいから、1着への執着は本当に薄いのだろう。
ただしこのレースから拾えるものはテセさんやトリィさん並みの貪欲さで取り込もうとするはず。割り切りとか集中とか合理性はアリー先輩の怖いところだ。『後輩の手を借りるなんて』とか言いそうなボゥ先輩と違って、そういうのを気にしない強さがある。
2000mの秋天……いや、本来の得意距離である安田記念やマイルチャンピオンシップでぶつかるかも。
席に座り直して正面を向く。高揚や警戒を気取られないように。
「────ぷっ……!!」
「……先輩?」
変な声がして向き直ると、先輩は口を抑えて何かを堪えていた。視線はぶつかる前に逸らされてしまう。だけど言いたいことは明らかだ。
背中が震えている。お腹も抑えている。
わー、レース当日なのに呼吸困難なんてたいへんだー。
「私、そんなに分かりやすいですか……?」
「バレバレだよ! あー可笑しい、バレッバレだから!
安田記念かなーとかマイルチャンピオンかなーとか思ってたでしょ!」
「そんな具体的に分かりますぅ!?」
「やめて、ひーお腹痛い、サキさん助けてぇ」
「はいはい、もうレース場よ」
否定してくださいよサキさんも!
そりゃ、こんな私でも先輩たちのことを少しは分かるようになったわけですから、分かられるのも当たり前かも知れませんが。警戒心とかを隠せないのはマズいじゃないですか兵士的に。由々しき事態ですよ。
『アナさん、ポーカーフェイスとかそういうの教えてください』
《 グラには無理だと思う 》
『諦めが速すぎる!?』