ニュクスさんが調子を崩してることは察していた。だってあんなにレース大好きな人がシニアに上がってから1戦もしていなかったのだ。
何かトラブっている、となれば去年やらかしたゲート関連だろうことにも思い至る。
そうして迎えた3月末の大阪杯、ニュクスさんは──、
『これは! 有マ記念でドゥームデューキスらが見せたロケットスタートの構えです、大丈夫なのかニュクスヘーメラー!』
『スタートに不安があるとの噂もありましたが、そんなものは吹き飛ばすつもりのようですね』
──すっごいスタートを決めた。
ていうかなんですか、追込み脚質のはずなのに差しと先行を通り越して逃げですか。
解説の人が困ってしまうような型破り。これこそニュクスさんの心が望んでいた、脚質に縛られず寮母さん因子にも引っ張られない走り。
……この人、誰かを後ろにおいてドヤってる方が調子が出るんだ。まぁ先頭は気分が良いってのは分かる。
テセさんよりも我道を行ってるんじゃないの。それでも速く強く仕上げてくるんだから全く葵さんは。
「そんなんで体力もつんですか!?」
「体力も脚のダメージも回復できますので!」
「そうでしたねえ!!」
自己加速系が無いにせよ、昼夜の女神が秘める力は多種多様で変幻自在。昔のナーがやってたみたいな『オーバーペースの体力切れを“領域”で補う』形だ。ただし名家生まれの彼女はナーよりも身体的にかなり恵まれている。
その結果どうなるかと言うと。
『大阪杯はスプリントレースだったのかと言いたくなるハイペース! 逃げ2人が完全に抜け出しました、3番手アソカツリーまでかなりの開きです』
『アナグラワンワンもニュクスヘーメラーも長距離を走れる選手ですから、スタミナの余裕はあるでしょうが……』
ひどいハイペースでの削り合い。ゴールラインを駆け抜けた私たちも、確定が出るまでどちらが勝ったか分からないぐらいだ。
つまり、今回も想定以上にソウルを削られてしまったということ。
「はっ、はっ、はっ……♪」
「たのし、そうですね、ニュクスさん」
「そりゃあもう!」
ああ、かなり鬱憤が溜まってたみたい。失敗の記憶って中々振り切れませんものね。緊張から解放されて思い切り走って、スタート前とは別人みたいにのびのびした雰囲気だ。
「苦労してましたか」
「たはは、お恥ずかしい……お陰様で、来週からバンバン走れそうです」
「おー、連闘仲間!」
「その点ならムーンさんより私が上ですっ」
今後の話とかをしてる内に発表された順位は私が1着。
でもニュクスさんの不調を案じるような声を掻き消すには充分な、文句無しの力走だったと言えるだろう。
だけど……大阪杯からたったの2週間後、私は思い詰めた様子のニュクスさんと戦うことになる。
順番に行こう。
まず大阪杯の翌週は、オーストラリア・ランドウィックでのドンカスターマイル。
オーストラリアもウマ娘レースが盛んな国で、特に短距離からマイルまでは人気も実力も高い。だから私のこともそんなに(日本に比べたら)知られてなくて、ちょっと楽できるかもなーとか思ってたのは秘密。
その
「2週連続で全力出したでしょ、今週は楽したいんじゃない?」
「ここで仕掛けてきたかぁ……」
アリー先輩の妹、ホウカンボクである。
ちなみにシニア3戦目。1月の京都金杯と2月の東京新聞杯(どちらもGⅢ)は共に勝っている。
「海外初挑戦でいきなりなんて。ここで私が負けたら樫本さんの恥になるじゃん」
「うえっ。そんなこと考えて走るタイプだっけ?」
「少しは考えるようになったんだい」
「あー、ダートを切り上げた頃か。
まぁボクだって3月後半はずっとこっちにいたんだ。芝の違いなんて踏み越えてみせるから覚悟してよね」
芝の違い、ね。
ここランドウィックの芝はキクユグラスといって、日本ではほとんど見かけない品種だ。
私は最適化するのにずいぶん苦戦した。本当なら高松宮記念より何週か前に余裕を持って帰国したかったのに、直前になったのはこの芝のせいである。
2週間かそこらでフォームを適合させるのはかなり難しいんじゃないかなぁ。
「…………」
「そんな微妙な顔しなくてもいいじゃないか、“克服した”とは言ってないでしょ!」
「あぁ、力技で“踏み越える”わけね──」
なるほど、確かにホウカンボクなら多少の違いはそれでなんとかなるかも知れない。
でもキクユグラスの特徴は葉の太さと長さだ。西洋芝は和芝に比べて摩擦力が大きくて加速も減速もしやすいわけだけど、深く繁るキクユグラスは西洋芝よりももっと“引っかかり”が強い。強引に駆け抜けようとすれば脚を絡め取るみたいに力を削いでくる。
「──それならこのレースは
芝に合わせるんじゃなく芝に逆らって走る場合、日本のウマ娘には2000mよりも長く感じられるはずだ。マイル特化のホウカンボクには長過ぎる。
あ、私は芝に合わせるから無駄な体力使わないけど。
『これは既にセーフティリード! 軽やかに駆け抜けました日本の至宝アナグラワンワンです!』
『我が国ではかのブラックキャビア*を思い出す人も多いでしょう。"金剛"は来週のクイーンエリザベスステークスにも出走を表明しています──好きにさせると思うなよぉ』
最後思いっきり聴こえてます、小声にしてもマイクに乗ってちゃ意味無いですって。
……そんなドンカスターマイルと同じ日。
日本では阪神ウマ娘ステークス*があった。GⅡの1600m、ナーやベレーにとっては得意な距離だ。でもそんな2人を抑えての1番人気は、大阪杯からの連闘となるニュクスさんだった。
ゲートの問題はきっと沢山の人が心配してて、それは前走で解消したものと思われたんだろう。私もそう思ってたし、たぶんニュクスさんも葵さんさえ疑わなかったんじゃないかな。
でも、駄目だった。
観客席が揺れるようなひどい出遅れだった。
『あぁっ!? ニュクスヘーメラー大きく出遅れました最後方からのレースとなります!』
原因は分からない。でもゲートの動作とかは正常そのもの。遅れて駆け出したニュクスさんの顔色は真っ青で、自分自身のやらかしだと如実に語っている。
スタートミスというのは、ある。私だって実は微かなのを幾度もしている(だからドゥみたいなシビア過ぎるスタートはやらない)。それはただ発走のタイミングが自身の呼吸や心拍と合わなかった*だけの、偶発的で防ぎようの無い出遅れだ。肺や心臓を止めるわけにもいかないしさ。
だけど今回は、それが致命的な巡り合わせだったようで。
年末の東京大賞典よりもっと出遅れちゃってたから、葵さんと積み上げてきた3ヶ月を台無しにしたとか思ったのかな。
それとも私にシニア2年目があるか不透明なせいで焦らせちゃってるのかな。
いずれにしてもレース中に集中力は戻らず、初めて掲示板を逃す結果となった。
で、その翌週である。
私にとっては2週続けてのランドウィック、ニュクスさんにとっては全く初めてのオーストラリア。
こう言っちゃなんだけど、勝つ気があるのか疑問だ。精神的に余裕が無いことは私にも一目で分かる。葵さんもよく許したな。
4月半ばのシドニー近郊は雨が多くて、過去のクイーンエリザベスステークスは重バ場や不良バ場率がとても高い。
今回も昨夜から細い雨が続き、ターフはすっかり重くなっている。
「…………」
「…………」
本バ場を軽く走った後の待機所でも、ニュクスさんと視線が絡むことは無い。怖い顔で周りが見えない様子で、知らなければ研ぎ澄まされた集中力に見えるかも。
でも違う。全然集中できてない。
《運が悪いというか間が悪いというか。不憫な子だ》
『……そうですね。ニュクスさんは何も悪くない。悪くなかった』
《グラ?》
『堂々とすればいいんです。私の【喚起】を浴びるのが目的でも、今日ここでの勝ち目が無くても、それはいけないことじゃないんですから』
あんな後ろめたそうに目を逸らす必要なんか無いんだ。
よし、本人に直接ぶつけてやろう。そう思ったところで──、
《今声をかけるのは止めておかないか》
──意外にもアナさんから止められた。こういうことでのアドバイスは本当に珍しい。
『……別に責めるつもりはありませんよ?』
《分かってる。だが恐らく、あの子は目を逸らしてるんだ》
『目を逸らして? 何からですか』
《考えるのがしんどいこと──このレースの後のこと。脇目も振らずといえば聞こえはいいが、私には視野狭窄や盲信に近いものと映る》
整理すると、ニュクスさんは大阪杯で【喚起】込みの好スタートを切り、阪神ウマ娘Sでは【喚起】無しの大失敗ということになる。
もうなんとしても失敗したくない、それは分かる。でもレースの後を考えるなら……。
今日ここで上手くいったとして、『それでも問題を克服したことにはならない』とか。私と走っても上手くいかないなら、『もうどうしようもない』とか。そういう風に自責する余地がどちらにもあって、むしろどうなってもニュクスさんに良い影響を残しそうにない。
本当によく葵さんに許してもらえたなぁ。いや、たぶん反対はされただろう。でもニュクスさんは押し切った。『目前のレースだけでも良い感じにスタートすること』を望んでしまっている。それが目的なら──後先のことを考えないなら──【喚起】はきっと有用だ。なるほど視野狭窄。
明らかに良い状態ではない。
だけど時間は無慈悲なもので。
『日本から2人の挑戦者を迎えましたクイーンエリザベスステークス、バ場は
ニュクスさんの雰囲気が和らぐこともないまま、言葉をかけることもできないまま、その時を迎えてしまう。
こんな時に限って枠はお隣だ。
先に5番に収まったニュクスさん。6番に入って横目で見ても目が合うことは無い。
何を言っても棘になるだろう。口の不器用さは自覚してる。
……だけどさ、こんな状況で無言と無視を貫くのだって、それはそれで刃になり得るんじゃない? どっちもどっちじゃないか。
──そもそも、レースである以上。無傷なんてことはありえない。ここは既に戦場だ。
「…………」
あぁ、嫌だな。棘のある言葉が喉につっかえる。息がしづらい。こんなんじゃこっちのスタートまで乱れてしまう。
私がベストの走りをするために必要。なら迷うことはない、吐き出そう。アナさんに怒られるとしても言ってしまおう。
仮にこの言葉が、相手のスタートを大きく乱すとしても。今
「……絶対、哀れんだりしない」
『さぁゲート開きまして綺麗に揃った横一直線! 2000mの旅が始まります!』
スタートはニュクスさんもばっちり。
でも私の呟きは間違いなく聴こえたはずだ。それがどう受け取られたかは分からない──なんて。
分からないどころか分かりやすいほどだ。
ニュクスさんは噴火した。持って行き場の無い怒りや鬱屈を、闇雲に叩きつけるようにして。
速いとか遅いとか、強いとか弱いとかではない。これは暴走だ。
無軌道に弾けた神秘がもたらす災厄。
降り続いていた雨はあっという間に豪雨に変わり、ゴロゴロと恐ろしい音が天を行き交い始める。
ウマ娘だけが視る“領域”ではない、
……これは、今度こそ私のせいかも知れない?