クラシックの1年間で、グラとは3度戦って全て負けた。
完全な準備不足でアナさんに迷惑をかけた皐月賞。〈
実績としては私の方が下ということになる。それは事実だ。
ただ、グラはきっと『小細工抜きの実力ならムンちゃんが上』みたいなことを言うだろう。それも間違いではない。
菊花賞ラストの些細なブラフにせよ有馬のアレにせよ、グラは正道ではないと認識していた。私のことを『邪道に頼らないと勝てない相手』と捉えて、だからやったのだ。
まぁ何を小細工と呼んで何を正道とするかにもよるけどね……。
年明けすぐの頃に受けた真壁さんからの質問は、中々答えづらいものだった。
『仮にムーンが〈新月〉を使わないとして、全力のワンワン君に勝てる見込みはあるかい?』
『…………』
嫌な現実を突きつけてくる頼もしいトレーナーですこと。必要なプロセスだと納得はしてますよ、ええ。
『無理、でしょうね』
『うん、同感だ』
グラが〈ゼノ〉と呼ぶ槍のアラガミ。その槍を振るうアナさんの【ブラッドアーツ】。更にボゥさんやデジタルさんの“領域”。
これらを好き放題に使わせたら私の勝ち目は限りなく薄い。私に限らず、同期の誰も勝てないんじゃないかしら。
だけど〈新月〉なら神機以外は封じることができる。【ブラッドアーツ】も“領域”もだ。
『つまり極端な言い方をすると、君の勝機は〈新月〉にかかっている。そしてこのことを──』
『グラもサキさんもよくよく分かっている。だから──』
『何か用意してくる、だろうね』
『……はい』
相手は力を絞り策も講じて来るのだから、こちらが力だけでぶつかるわけにはいかない。ここまでは共通認識だ。
その先では意見が割れた。
真壁さんが考えた『ワンワン君がとってくるだろう〈新月〉対策』は、また新しい“領域”を使ってくるというもの。そりゃ、真壁さんが知る数々の優駿たちの中には〈新月〉を破りうる人たちもいるだろう。
だけど私は首を横に振る。その可能性は低いと。
『理由を聞いていいかな』
『血が必要なんです。ボゥさんの時は事故で、デジタルさんは……ほら、鼻血が日常らしいですし』
『大した量は要らないと言ってなかったかい?』
『それでも相手に自傷させるようなことは嫌いますから。合宿の時だって私たちの側から説き伏せたんです』
真壁さんは曖昧に頷いた。あまり納得していない様子だ。『彼女ならそれぐらいやるんじゃないか?』とか思ってるんだろう。
事実、アナさんなら躊躇わずにやる。小さなものでも流血を避けたがるのはグラの方だ。
(アナさんのことはできるだけ──作戦立案に支障ない範囲で──伏せているから、グラのえげつなさだと誤解するのも当たり前ではある)
『ムーンはどう思う? 何を仕掛けてくるだろう』
『これまで使ったことの無い
『あちらの
頷く。私は全てを知ってるわけじゃない。
夏合宿の時、アラガミの姿をスケッチする名目で色々と喋らせた。主に名前と能力を。〈盈月〉を活かすのに必要だったからだ。
グラはほとんど無警戒にペラペラ答えてくれたけど、アナさんもそうだったとは考えにくい。あの人は必要ならグラにだって隠し事をするし、切り札を無闇に晒したりもしない。秘められた刃はきっとある。
そして意図的に隠されているなら、それがどんなものかを推測するのは不可能だ。
『なら、こちらが取るべき対応は』
『はい。方向性は考えてあります──』
グラ、愉しみにしていなさい。
菊花も有馬も獲られてしまったけど……春天は私のものよ。お姉様のこととは関係無くね。
4月最後の日曜日、京都レース場。
春らしいうららかな陽気のもと、全くうららかではない戦いが始まった。
『スタートは揃ったものとなりましたフルゲート18名、3200mの旅路まず先頭とったのはやはりこの子です、連闘の疲れなどまるで見せませんアナグラワンワン』
向正面からスタートした一団はすぐ登り坂に立ち向かうことになる。このレースでは2度踏破しなければならない難所で、しかもスタート直後でスピードが乗り切っていないのだから、程々に流して登るのが一般的だ。
しかしグラはいきなり脚を使って後続を突き放しにかかった。
『おっと? 長距離レースとしては速いペースで入りました、2番手以降の選手は対応に迷うところです』
『"金剛"が疲れてダレるところはあまり想像できませんからね』
先行集団のウマ娘たちは判断の前に背後を窺う。ムーンカフェの動向が気になったのだ。
最有力のライバルと目される白銀は10番手よりも後ろ辺りに留まって脚を溜めている。まだ動くつもりは無いらしい。
『今回ムーンカフェは差しまたは追込みの位置、ここで順位ひとつ落としますが全く動じません』
『この距離なら彼女のようにどっしり構えるのがセオリーですが、中団では早くも順位が細かく変動しています。アナグラワンワンの逃げを放置はできないといったところでしょう、2人いや3人が追走を選んだか』
下り坂の3コーナーを抜けて4コーナー、そして大歓声のホームストレッチへ。
ここまでのムーンカフェは、2つの理由からかなりペースを抑えていた。
1つはもちろん脚やソウルを温存するため。
もう1つは観察。最後方に陣取ったオーストラリアの強者に意識を集中していた。
『真壁さんの分析通り、いえそれよりも衰えが見える。ブラフでも……ない、わよね』
そのウマ娘はオーストラリアで11月に行われるメルボルンカップ(GⅠ・3200m)の前年度覇者だ。春の天皇賞には毎年招待されるのだが……彼女はメルボルンCに勝ったタイミングで引退を表明している。
恐らくアナグラワンワンがドンカスターマイルとクイーンエリザベスステークスを勝ったことで引っ張り出された(または自主的に引退を撤回した)のだろう。
足を掬われかねない相手として注視していたが──、
『うん、演技ではなさそう。失礼ですが警戒から外させてもらいます』
──そもそも引退理由は体力の衰え。今年でシニア4年目にあたる彼女は脅威にあたらないとムーンカフェは判断した。
また、今このターフにドゥームデューキスは居ない。3月半ばの阪神大賞典(GⅡ・3000m)はクビ差で勝利を掴んだものの、春天は回避を選んだらしい。
故に、自惚れを排した客観的な戦力分析に基づけば。
状況はアナグラワンワンとの一騎打ちといえる。
『これで憂いなく、前だけを向ける!』
『ホームストレッチは早くも凄い熱気です、皆さんあと1周ありますのでお間違いないようお願いいたします』
『先頭ワンワンから3バ身空いて2番手集団、そこから更に3バ身と少しあるか後方集団ちょっと苦しそうだ、本来差しや追込みの子たちが引きずられて上がって来てしまったようです』
現在ムーンカフェは13番手。先頭アナグラワンワンとの差は7バ身強。
その状態で1度目のゴール板が近付いてくる。京都レース場の外回りコースは1周約1900mだから、ゴールの100m手前が残り2000mのラインだ。
2000mといえば秋華賞と同じ距離。あちらは同じ京都でも内回りコースなので春天と単純には比較できないが、ともかく決して短い距離ではない。いくらUMA娘であっても。
だからこそ意表を突くことになる。
領域具現──
領域捕喰──
『ここで動きましたムーンカフェ! まだ丸々1周を残した段階でみるみる順位を上げていく!』
『ここまでは明らかに抑えていましたがそれにしても早い仕掛けですね。最後まで保つか注目ですよ』
ゴールまで2000m、グラまでは7バ身。
ヒトミミから視えるのは私が加速したことだけ。でも月面は既に先頭を飲み込んでいる。
「もう!? 早すぎる!」
先頭を行くグラは遠く、声は微かにしか聴こえない。でも驚いた感じは確かなものだ。
《……無茶をしても今度は助けないぞ?》
『もちろん!』
グラから切り離されたアナさんは心地よい感嘆を伝えてくる。私が最後まで〈新月〉を維持するつもりでいること、その覚悟が伝わったのだろう。恐らくはグラにも。
真壁さんと話した共通認識だ。
私が〈新月〉を使わないとしたら、全力のグラ(+アナさん)に勝つことは難しい。
じゃあ逆に、何が何でも〈新月〉を展開し続けたら? その前提だとグラが私に勝つことは難しい、となる。
だから今回は〈盈月〉との並行使用をしていない。〈新月〉に集中するために。
これだけでも、じわりじわりと。
残り1800m、差は6バ身。
1バ身近づいた。このままの相対速度なら200m✕6バ身=あと1200m、追いつくのは残り600地点となる。ゴールラインには3バ身差で私が先着するわけだ。ざっくりすぎる単純計算だとね。
グラはこのシンプルな方程式をどうにかして崩さなければならない。3バ身というのは細かな有利不利をかき集めてひっくり返せる距離ではないのだから。少なくとも私相手には。
『答えなくてもいいですけど、あの子は手立てを用意してきたんですか?』
《信じる信じないは自由だが、私は知らない》
あ、つい変なことを訊ねてしまった。ノープランで来ているわけがないと思うのよね。アナさんだって正直には答えないでしょう。無駄な質問だった。
グラの策がなんだろうとやることは変わらない。
1コーナー過ぎて2コーナーへ。残り1600、差は5バ身。
変わらないというか、有馬での〈
絶対に破れないなんて断言できない。だからこう考えた。
破るなら破ればいい。
ただし許すのはほんの一瞬だ。
すぐに、繰り返し、何度だって、私の月に招いてあげる。
アナさんやボゥさんやデジタルさんの力を使わせはしない。
向正面を向いて残り1400、差は4バ身──半。
あの赤いブースターは〈ルフス・カリギュラ〉と言ったか。それが速いのは知っている。
だけどグラ、貴女は前半で少し脚を使った。私も今のペースは上限じゃない。分かってるでしょ?
残り1200。4バ身を切った。
他の誰かが“領域”を使えばそれもこちらの助けになるけれど、無くたって別に構わない。
私は私だけの力で、貴女独りの力を、押し潰すように上回る。これはそういう勝負だ。
2度目の坂を登りながら、カウントダウンのロングスパートを始めよう。身体能力の差を押し付けてあげる。
あぁ、引き攣る笑顔がよく見えて気分が良いわ。
「こういうの好きでしょグラァ!」
「大っ好物、お揃い!」
「負けるのは大嫌いよ!!」
「ほんとに気が合うねムンちゃんとは!!!」
残り1000m。差は3バ身もない。