朝、早い時間に教室へ入る。誰もいない。席を何度も確認して、ムーンカフェちゃんの机にお手紙を忍ばせた。
内容は主にお詫び。
これからはちゃんと距離を取ります、私が悪かったです、ムーンカフェちゃんは何も悪くないです、迷惑かけました。
でもレースはしてくれると嬉しいです。
直接話すと余計なことを口走りかねないと思ってお手紙にしたのだ。アルヘイボゥ先輩にも相談して、言われた通り人目を避けた。誰にも見られなかったし、机を間違えるなんてお約束もやっていない。
──私はベストを尽くした、はずだ。
なのに、なんでかなぁ。
「面倒だから直接話すわよ。お昼、付き合いなさい」
「ひぇ。う、うん」
またちょっと怒らせてしまったみたいだ。コミュニケーションて難しい。
先週の月曜日にも向き合った食堂の隅。
あの時はアラガミっぽい悪霊とかの話ばかりだったけど、今日はちゃんと(?)レースの話。
「公式レースで貴女に勝つ、その意志は変わっていないわ。……ただその前に、メイクデビューはできるんでしょうね? トレーナーは?」
「まだ確定ではないけど目処は立った感じ」
「そう」
千田さん──サキさんとトレーナー契約を結ぶかどうかは確定していない。私からすれば歓迎だけど、アソカ先輩と検証し始めた結果が出るまでは結論を急ぐなと止められてしまった。
まぁ確かに、“領域”の習得を助けられるとしたら私を欲しいトレーナーは多いのかも知れないけど。
対して、ムーンカフェちゃんは。
「そっちは……聞くまでもないね」
「ええ、何の不安も無いわ。お姉様のトレーナーだった人だもの」
教室の真ん中で自慢していたので聞き逃しようもなかった。彼女が敬愛する(血の繋がりは全く無いらしい)マンハッタンカフェさんと言えば、"皇帝"と並び称されることもある*優駿だ。トレーナーさんも優秀に決まってるし、ムーンカフェちゃんがメイクデビューに失敗するとも思えない。
私が気をつければ。
「それで、芝でデビューするんだよね?」
「……それよ、それ。さっきの手紙のダメなところ1つ目」
「えっ」
? 何かまずかっただろうか。
「お互いメイクデビュー頑張りましょう、的なことしか書いてないはずだけど」
「そんなつもりで“私はダートでデビューするから安心してね”なんて書いたの……?」
「だって、かち合ったらどっちかのデビューが遅れちゃう」
「当たり前に勝てるつもりでいるのが腹立つって話よ」
むぅ。見下したつもりはないのだけれど。
見上げるつもりもないだけで。
「──絶対に負ける、なんて思わない」
「……そうね。見下しではないんでしょうね」
溜め息を吐かれてしまった。あ、でもその諦めた感じの反応はアルヘイボゥ先輩に似てる。
受け容れられた……? いや、これを喜んだらまた甘えることになっちゃう。
「なんて書けば良かったのかな」
「私が考えるのそれ?
んー、貴女はメイクデビューに不安が無くて、私が失敗するとも思ってなかったのよね」
「私のことは微妙だけど……まぁ、うん」
「なら触れるまでもないんじゃない? そうよ、私は思ってなかったの、メイクデビューを頑張ろうだなんて」
「おお……自信満々。でもそっか、なるほど」
確かに、頑張るまでもなく当たり前にクリアできるつもりのことを応援されるのはなんとなくイラッと来るかも。その程度ができないと思ってんのかーって。
私自身はそこまで自信満々じゃない。メイクデビューに失敗したら未勝利戦を頑張るだけだから、不安があるかと言えばあんまり無いけど。
でもムーンカフェちゃんは自信満々で、だから頑張れなんて言われたくない。なるほど。
「納得した。メイクデビューの件は取り消すよ」
「……いいわ。もう怒ってない」
「えっと、じゃあ2つ目かな」
「それもおしまい」
「そうなの?」
「貴女が自信過剰に思えたのよ。でも自信を持つのは悪いことじゃないし、それが過剰だともまだ言えない。今はね」
私にそんなつもりは本当に無かったけれど、ムーンカフェちゃんとしては上から目線に感じた、らしい。
実際、先々週までの──選抜レースよりも前までの私は落ちこぼれだった。クラスの底辺だった。そんな立場から『メイクデビュー大丈夫? 頑張ろうね!』なんて言われたらクラス頂点の彼女は面白くないだろう。
「先週の貴女は信じられないほど急成長してた。……いやほんと意味不明な速さで。何よあれ?」
「何って言われても」
「まぁ少なくとも、貴女は弱くない。だからお望みの通り、決戦の場を決めましょうか」
「──うんっ!」
「大きいのよ声が」
だって嬉しいんだもの。
ちなみにムーンカフェちゃんのお怒りポイント2つ目は、どのレースで勝負しようかと訊ねた部分だった。『どこでもかかって来いや』みたいな感じで確かに上から目線に読める。
「そうじゃなくてその、ムーンカフェちゃんがこだわってるレースとかあるかも知れないから」
「もう怒ってないったら。
……とはいえ、私が狙ってるレースに貴女が出られるかは別問題よね」
「目標、訊いてもいい?」
「ジュニア級の最終目標はホープフルステークスよ、もちろん」
「もちろん……」
う、うーん。ダメだ、これは恥をしのんで頭を下げよう。
私にはその『もちろん』が分からない。平均的なウマ娘ならこんな風に思ってるってイメージを共有できていない。そういうのって本や教科書じゃ分かんないしさ。
「あぁ、友達いなかったのね……あっ」
「本当のことだから構わない。ホープフルSってどういう位置づけなのかな」
「どう、って。私の脚からすればジュニアで唯一のGⅠだもの」
「えっ、GⅠってそんなに少なかった?」
慌てて手帳を取り出す。1つきりなんてことはなかったような。
「ジュニア級芝のGⅠレースは3つ。ホープフルSと朝日杯フューチュリティステークス、阪神ジュベナイルフィリーズ」
「うん、そうだよね。……あぁ、朝日杯と阪神はムーンカフェちゃんには短いのか」
「そういうこと。マイルも走れないわけじゃないけど本領は中距離以上だし、無理して走る理由はないわ」
GⅠだけを書き出したページによると、朝日杯FSと阪神JFは1600m。走れないことは無いんだろうけどね、12月前半だし。
「ありがとう。私の目標ね、ぼやっとしてて『GⅠ勝利』なの。だからホープフルSを目指すことにしようかな」
「言うじゃない。私は芙蓉ステークスや京都ジュニアステークスでも構わないけど?」
「え、ちょっと待ってちょっと待って」
「覚えときなさいよレースの名前ぐらい……」
ひぃん、勉強中なんだよ。手帳の別のページ、全レースをまとめた一覧を開いた。ごちゃっとしてるぅ。
「芙蓉Sは……9月後半。京都JSが11月後半。ムーンカフェちゃんはどっちも出るの?」
「トラブルが無ければ。貴女が少しでも早く戦いたいっていうなら、うーんコスモス賞あたり?」
「コスモス賞? ……コスモス賞?」
「さっきから何を──うわ、ごちゃごちゃじゃないの。8月前半よ」
手帳を覗き込んでムーンカフェちゃんが眉をしかめた。私もそう思う。
「8月……あ、マイルなんだね。中距離のところ見てた」
「走れるって言ったでしょ、それ1800だし。
ていうか貴女、その一覧……」
「もうちょっと整理した方がいいよね、うん」
とりあえず全部挙げといたら便利かなと書いてみたものの、これは考え直しだなぁ──なんて思っていたら。
「ふぅん……本気なのね……?」
「え、ムーンカフェちゃん?」
なんか耳絞ってるんだけど……!? なんで!?
「キョトンとしないでよ、もうこの子は……! あのねぇ、そういうレースの一覧みたいなこと、どうして授業でやらないと思ってるわけ?」
「……関係ない人が多いから?」
「そう。私にはダートや短距離のレースは関係ない。暗記してるのだって自分が出るかも知れないものだけ。そんな、
「うん、だから自分で作った」
「…………」
ムーンカフェちゃんは顔を紅くして何かを叫びかけ、でもそれを飲み込んでもごもごと口の中で呟いた。『この子に悪気は無い』とか『両方走れるっぽいのは事実』とか『トレーナーもついたなら無理はさせないはず』とか……。
「あの、ごめん。私が何かまずったのは確かだと思う」
「謝らないでくれる? 脚質は生まれ持つもので、走れるレースを走るのは自由。へそを曲げる私が子供なだけよ」
「そんなことない。ムーンカフェちゃんは大人だよ」
「? いやに言い切るわね」
確かに私は、彼女のことをほとんど知らない。大人だなんて知った風なことは言われたくないかも知れない。
だけど私より大人なことは今までの会話から明らかだ。
それに加えて──彼女の大きな水筒を指差す。そこからカップへ注がれた中身は、スポーツドリンクとは全く違う特徴的な香りを放っていた。
「ブラックコーヒーも飲めるし」
「やっぱりバ鹿にしてるわね?」
「してないよ!?」
ええ……。どうしよう、やっぱり人付き合いって難し過ぎる。
『ところでアナさん、ムーンカフェちゃんがどうして怒ってたのか分かります……?』
《はっきりは分からんが、とりあえずあそこでコーヒーはないだろ》
『大人になったら美味しくなるよってお母さんが言ってたので』
《……グラ、お前……》