ある敗北をきっかけに、強かったウマ娘が調子を崩したり。逆にたったひとつの勝利が、振るわなかったウマ娘を一気に成長させたり。そういったことはしばしばある。ファンにとってはそれらも心揺さぶられるドラマだ。
そのことを踏まえれば、5月半ばのヴィクトリアマイルで──、
『4コーナー過ぎまして、しかしここで伸びてこない! "金剛"が集団に飲まれました!』
『悲鳴のような声援を受けて再度上がってくるかアナグラワンワン、僅かに抜け出したが先頭は遠いぞ、届くか届くのか──届きません先頭は、ベレヘニヤだぁあ!』
──アナグラワンワンが2着となり天皇賞からの2連敗を喫したことも、驚くには値しない。
そもそもレースは勝ったり負けたりするものだ。だからこそ連勝や無敗といった実績は達成困難で、故に尊ばれるわけで。
要するに『そういうこともある』という話。
……などと、軽く受け止めるここまでの見解も間違いではない。少なくとも常識的ではある。大部分のファンやプレス関係者も、多くの競走ウマ娘もこのように受け止めるだろう。
しかしアナグラワンワンに脳を灼かれて執着していれば『そんなわけあるか』と即答する。現にゴール直後のベレヘニヤがそうだった。
『なんか
『……怒られても仕方ないとは、思う。でも負けるつもりだったわけじゃない。私たちの想定をベレーが上回ったんだ』
『想定以下ならさっきのでも勝ててたって?』
『そのつもりだよ』
敗戦の苦さを噛み締めつつ、買ってしまった怒りを理解しつつ、敗者は謝らなかった。勝者が振り仰げばちょうど掲示板に確定が灯ったところ。
1着と2着はアタマ差。半バ身の更に1/3ほどで、長さにすれば約40cm。僅かな差と言っていい。
『……言わなくても伝わってそうだけど』
『ムーンカフェでしょ。次ぶつかる時こそ勝つために、必要ななにかを試してた』
『あー、まぁうん、大体そう。
でも今言おうとしたのは今日の言い訳じゃなくて──』
『?』
ヴィクトリアマイル前の時点では、アナグラワンワンに先着したことのあるウマ娘は日本にたった2人*だった。
そこに名を連ねたことで、ベレへニヤは改めて好敵手と見做される。
『──ベレーにも、もう絶っ対敗けないから』
『っ……ふん。仕方の無いヤツね』
3ヶ月ほど前、美浦寮では『アナグラワンワンに日本のGⅠをこれ以上渡さないこと』を目的とした対策会議が催された。そこで議題になった国内GⅠ10戦のうち、ここまで4戦を消化して2戦を阻止。
| ①高松宮記念 | ★ワン |
| ②大阪杯 | ★ワン |
| ③春天 | ☆ムーン |
| ④ヴィクトリアマイル | ☆ベレー |
直近の勝者ベレへニヤは会議のメンバーから大いに称えられた。
(ムーンカフェは既にドバイに渡ったためトレセンにはいない)
……ただし、穏やかな祝福ムードは最初だけ。
ゴール後の会話について──何かを試していたようだと共有するつもりで──話したところ、空気が一気に尖る。
「っ!……」
急変に戸惑い息を呑むベレヘニヤ。
しかし少し考えればこの反応も分からなくはない。どこかのUMA娘とは違うので。
ヴィクトリアマイルでのアナグラワンワンは何かを試していた。はっきりは分からないが彼女にとっての最速ではなかった。
それは罪かも知れないが、善悪はひとまず脇に置こう。本命のレースで勝つために別のレースを
ただ、
だってそうだろう。もしヴィクトリアマイルにムーンカフェが出ていたら、アナグラワンワンは『試す走り』ではなく『最速の走り』をしたに違いない。あの異端児はそういう形でライバルを特別扱いする。
そして今後はベレへニヤもその対象に加えると言ったのだ。
『ベレーにも、もう絶っ対敗けないから』
あの言葉に、ベレヘニヤ自身も思った。次はアナグラワンワンの最速を超えてやろうと。それこそが完全な勝利で、心から欲するものだと。
つまるところベレヘニヤは、レースには勝ったもののUMA娘には勝てていない。あちらもレースに負けただけで本当には敗けていないなどと思っているのかも。もしそうなら改めてねじ伏せてやらなければ。
他のメンバーとて同じである。
ナーサリーナースだけは『レースで勝ったなら勝ちだろナ』などと考えるタイプだが、彼女は例外。特にドゥームデューキスが『同着だったオークスは自分も勝者だけど、あれでワンワンに勝った気はしねェ』と歯噛みするように、レース
その為にはまず本気を引きずり出すこと。ベレヘニヤは先んじて条件を満たした。いわば挑戦権を勝ち取った。
要するに美浦の仲間たちが抱いたのは、羨望や嫉妬に似た重い感情なのだろう。
となれば当然、次にぶつかる面々は特に奮起する。
アナグラワンワンの次走はヴィクトリアマイルの3週間後、東京レース場で行われる安田記念だ。
「次はボクだ」
「いーや私だナ」
この会議のメンバーからはホウカンボクとナーサリーナースの2人が出る予定となっていたが──、
「……私も出ていい?」
──そこに加わろうと言い出したのはベレへニヤ。
(ウマ娘の中では比較的)頑丈な彼女にとって中2週というローテも不可能ではない。多少は負担になるもののヴィクトリアマイルに勝ったことで精神的な絶好調にあり、その際に『試す走り』をされたことで再戦のモチベーションも極めて高い。
元々走る予定だった2人も、出るななどと言える筋合いは無いと承知している。それはそれとして面白くないが。
「「は???」」
不満げな声を漏らしてから、ホウカンボクはしまったという顔で口を閉ざした。ベレへニヤが出るとしても勝てば良いだけだと思い直したらしい。
対してナーサリーナースは引き下がらない。
「そりゃ約束が違うだろベレー」
「ここでの取り決めに拘束力は無いと思ってたけど」
「レースの出る出ないはそうだ。でも目的は共有したナ? あのバ鹿に国内のGⅠタイトルを獲らせねえ──ゼロは無理でもできるだけ減らす。そういう集まりじゃねーか」
アナグラワンワンが何かを試すフェーズにあるとして、それは紛れもない好機だろう。
なのにベレへニヤが出走すれば『試す走り』をやめて『最速の走り』を選ばせてしまう。こちらの勝ち目は減る。ナーサリーナースに言わせれば悪手でしかない。ターゲットがムーンカフェ対策に悩んでいる隙に勝利を奪うことこそ正道。
そしてこの大目的に『賛同しないなら出て行ってくれ』と促されて残った者だけがここにいる。
「ベレーが出たらあいつを強くしちまうぞ」
「それは……確かにそう、ね」
「えー、でもさぁ……」
ベレへニヤは引き下がったが心底から納得できたわけではない。ホウカンボクも不満を口にした。この場では『最速の走り』こそ望むところだとする者の方が多数派なのだ。
結果、この場は軽く紛糾することになる。
最終的に、ベレヘニヤは出ないことにしたのだが──実は彼女の出る出ないは、レース結果に大した影響を与えないのだった。
6月最初の日曜日。
雨がパラつく午後4時頃、安田記念のゴール
『──言葉遣いが乱れまして失礼いたしました。いやぁそれにしても、すごいレースでしたね』
『はい……』
放送席の2人がしみじみと言葉を交わす。レースは終わったが2着と3着が写真判定となっているため、しばらくは録画映像を振り返りながら時間を繋ぐ形だ。
『1マイルの戦いが実に短く感じられました。決め手はやはりスタート直後だったでしょうか』
『終わってから振り返ればそうなりますね。最初の2ハロン──いえ、1ハロン半までが最大の勝負どころでした』
信じがたいハイペースから始まったこのレース、有力選手のほぼ全員が脚を溜めずに解き放つ中、僅かに前に出たのは2人。
それはホウカンボクでもナーサリーナースでもなく──、
『アソカツリー選手は後続から見てとても抜きにくいらしいんです。ポジション取りが巧み*なようで』
『レース中もお伝えしたように、先頭に立ちさえすればそのまま勝つケースが多いと』
『はい。アナグラワンワン選手は誰よりそのことを知っていますから……先頭を獲らせたら危ないと考えたのでしょう、外枠からの仕掛けはやや強引なほどでした』
──千田サキの教え子たちであった。
安田記念はアルヘイボゥがこだわり連覇を果たした特別なレース。2人が出るのは必然であり、アソカツリーが出るならばグラは『最速』をもってあたる。ベレヘニヤが居ようと居まいと。
『向正面の半ば、スタートから300m辺りまで2人は完全に横並びでしたね。上り坂で"金剛"が先頭を取りました』
『正確には坂の手前というか入り口でのことです。あの短い上りまでは緩やかな下りになっているせいで、急な角度変化に対応しないといけません』
路面への精確な対処。差が付きやすい急変のポイント。
そこが勝負どころになるのはアソカツリーも分かっていた。今日が晴天であればレース展開は違ったかも知れない。梅雨の空は後輩に味方したようだが。
スタートから300m地点でグラが先頭を獲り、以後は譲らずゴールイン。
かつてムーンカフェが懸念したように、〈カリギュラ・ゼノ〉と【ブラッドアーツ】と継承した“領域”とを自在に組み合わせての『最速』を上回るのは難題どころの騒ぎではないのだ。
『写真判定が終わったようです、掲示板に確定ランプが灯ります』
その結果に観客席からも歓声があがるが──、
| ① | アナグラワンワン | ||
| > 11/2 | |||
| ② | アソカツリー | ||
| > ハナ | |||
| ③ | ホウカンボク | ||
| > 3/4 | |||
| ④ | ナーサリーナース | ||
| > 1 | |||
| ⑤ | ミルファク | ||
──群衆のどよめきを貫くように、たった2人の大声が響く。
「ぃよぉおっっし!!」
「えぇーっ!!??」
アソカツリーは『3年連続で安田記念2着』という珍しい記録(?)を達成。また、姉に勝とうと躍起になった妹を初めて降したレースだった。
「ありがとー、これもワンちゃんのおかげだよー♪」
「……あの、すごい顔で睨んできてますよ妹さん」
地下バ道に入ってすぐの場所で嬉しそうに礼を伝えれば、ホウカンボクにも聴こえるのは当たり前。アソカツリーは今さら顔を寄せて声を落とす。
「わざとだよ。ヘイト買った方が都合良いみたいなこと言ってたでしょ」
「あー……確かに敵視してくれたら助かりますけど」
つまり意図的に聴かせているのだった。ひどい姉である。
「うんうん、今後も妹の良きライバルでいてよねー」
「まぁマイルチャンピオンシップで楽ができると思えば有り難いですかね……まかせといてください!」
乗っかる方も乗っかる方だが。もっともグラは、これが嫌がらせも兼ねていることには気付いていない。
たったひとつの勝利がウマ娘を急成長させるようなことはしばしばある。アソカツリーにとっては妹相手の安田記念がそれだった。
この日を境に彼女はシルバーコレクターを返上し、GⅡ・GⅢで連勝を重ねることとなる。
もっとも連闘のような非常識はしない。あくまで常識的強豪ウマ娘の域に留まり、千田サキ陣営の
その点、残念ながらサキはダメだ。6月時点ではまだしも季節が巡るにつれて常識的なブレーキ役は期待できなくなっていく。
アナグラワンワンだけでも限界だったところに、新しく非常識が増えてしまったので。
ヴィクトリアマイルの敗戦については次話〜3話ほど先まででグラの狙いに触れます。
千田サキの常識危機は次話冒頭から。