※たまたま投稿日と開催日がかぶってしまっただけで、浦和のゴールドカップとは無関係です。
ムンちゃんと共にやってきましたアスコット。
イギリスには前に少しだけ立ち寄った*けど公式レースは初めてだ。
ロイヤルアスコットミーティングは本当に大きな催しで、それこそ世界中からレースのファンや関係者が集まっている。
私の顔はきっと売れているし、出ることを宣言している宝塚記念の直前だから見つかったら大騒ぎになりそうだ。
まぁ顔を隠してれば大丈夫──ううん、今なら顔を見られてもアナグラワンワンだと思われないかも知れない。こんな情けない姿なら。
『胃が、胃が痛い……』
《……本当に嘘や手抜きが嫌いなんだな》
ストレス。すっっっごくストレス。おなかいたい。
このレースでは1着になれないだろう。しかも全力を絞り尽くしての敗けじゃなく、使える手札を自ら縛っての戦いだ。
自分で決めたことだし、この先で勝つために避けられないとも思っている。だからサキさんも『目の前のイヤなことはぱっぱと片付けて、目標を達成できた後のことを考えましょう』なんて風に意識を逸らしてくれてるんだし。普段ならそんなこと言わないだろうけど、私がストレス性の腹痛を訴えるなんて初めてだもんなぁ。
《逆に考えたらどうだ。高松宮記念のテセウスゴルドだって勝つ気はなさそうだったぞ》
『あれは、【喚起】を浴びに来たわけで』
《今日のグラも似たようなものだろう。ムーンカフェとの戦いを糧に成長するために走る。よくある話なんじゃないか》
『む〜……!!』
こんなに苦しむくらいなら本気で走っちゃえって衝動もあったり無かったりする。ただしそれは最悪の選択だ。将来を不利にするだけでなく、今日ここでの勝利も恐らくは掴めないから。
ムンちゃんの〈新月〉は破らなきゃならない壁となった。私の天敵である。
……天敵といえば、ベレー自身も〈懸濁海〉も見違えるように強くなっていた。ヴィクトリアマイルでも〈閉ざす者〉の練習を狙って走ったけど、あれは勝てるつもりでいて──敗けた。
こんな半端な状態じゃいられない。早く使いこなそう、うん。
『練習の時は大人しくて本番レースだと荒ぶるの、ほんとやめて欲しいんですけど……』
《ラケル先生が他人の都合で動くものか》
『説得力があり過ぎるんですよねぇ』
日本の常識からするとアスコットは奇妙なコースである。
トラックはコーナーが3つだけの三角形、右回り。南側の西端にゴールと観客席があるのでそこをホームストレッチと呼ぶが、
3辺の直線はそれぞれ500〜600mほど。ホームストレッチは東方向に長く延長しており、最大1600mの直線レースも可能だ。4000mのゴールドカップは三角形の外側、この直線の途中からスタートする。
『ゲートインやや時間がかかっているでしょうか、やはりかなりの緊迫感です』
『日本から来た2人はどちらも要注意ですからね。特にご存知ムーンカフェ、彼女は──』
ここイギリスにおいては、昨年K&Qを制したムーンカフェの方がアナグラワンワンよりも広く知られている。あのレースは特別だ。
『──日本で春のテンノー賞、エンペラーを冠したレースに勝ちまして、長距離の
そこで何故プリンセス呼ばわりになるのかという話だが、意地でもクイーンとは呼びたくないらしい。
色々と複雑なのだ。心情的には英国のタイトルを“
そうでもしなければ品の無いジョークを飛ばしそうになるので。
『さてこちらも台風の目となるかアナグラワンワン、3日後にはタカラヅカを控えているはずですが、果たして彼女は
『ン゛ン゛ッ』
『──失礼しました。脚は大丈夫なのか心配になる、過密なローテで知られています』
王室主催のレース実況では絶対に漏らすべきでないジョークだったが、下町の酒場では定番だ。『アナグラワンワンとは顔も背格好も同じ3つ子か4つ子が交代で走るチームなのではないか』という俗説は世界中のあちこちで囁かれている。そうでもなければ理解できないと。
後日、これについて千田サキはクレームを入れ、放送側は正式に謝罪することになるのだが……発走直前の本人とムーンカフェは思った。
『『こんなのが複数いる方がヤバいでしょ……』』
真面目に受け取る意味は無い。主に酔っ払いたちの現実逃避なので。
ぴりぴりとした空気の中で枠入りが進み、ついにゲートが開く。それと同時に。
この
幼いアナの思い出に振り回される限り実用はできない。これに慣れるため、最初の目標は『長時間の維持』。4000mを保たせられれば他のレースには余裕が生じる。
「っ! 良いわグラ、保たせてみなさい!」
「──っ、うん……!」
返事をするのも精一杯。まだ誰も“領域”を使ってはいないのに、周囲にウマソウルが燃えるだけで
『今スターッ飛び出しました日本の2人! これは、このアスコットでは無謀なペースに思えますが!?』
『昨年ムーンカフェが勝った際は先行策でした。逃げもできなくはないでしょうが、この距離に対応できるでしょうか?』
4000mという長い旅路。多くのウマ娘は脚を溜めながら走り始めた。それが当たり前だ。
ゴールドカップはスタートから1000m以上も直線が続く。歓声の中でゴールラインを通過した後、三角形のトラック約2800mを
最大の要因はおそらく高低差にある。このコースに平地はほぼ存在しない。最初の直線は平均斜度1.4%ほどの登り坂で、それが1200m近く続く。途中に緩やかな地点がほんの僅かにあるものの、脚と心肺にかける負担は極めて大きい。日本のレース場にはありえない長さだ。
「っく……」
「訓練所でもやったでしょ?」
「やってなかったらもう千切られてるよ……!」
苦しげに零すグラ。訓練所にあった最長の登坂直線は1000mほどだった。このゴールドカップの完全なシミュレーションはできていない。
今は〈ハチドリの舞〉によるスタミナ回復を頼って限界まで脚を使っている。
その少し前を行くムーンカフェは、実はまだ少し余裕がある。この後ペースを落とす予定だが上げることも可能だ。じっくりとライバルを観察中。
『確か
見られていることに気付いたライバルは位置を下げて離れていった。
冷徹に考える。相手はグラだ、将来的には勝つつもりでいるはず。ならばどう来る? どうやって自分を越えようとする?
『〈閉ざす者〉を維持されると〈新月〉は使えない──いえ、今の私なら強引に開くことはきっと出来る。ただそれが出来ても喰核は解除できないんだからアナさんは引き剥がせない……つまり【ブラッドアーツ】は封じられないし、その場合は“領域”も奪えない、か』
あの喰核を纏っている限り〈新月〉の効果対象外になると考えて良いだろう。念の為このレース中に実験も済ませるつもりだ。
アナグラワンワンの速度を支える3つの要素。
〈カリギュラ・ゼノ〉の槍、槍を振るう【ブラッドアーツ】、継承した“領域”。
この全てを自在に使わせたらムーンカフェでも勝つことは難しい。
春天では後ろ2つを封じた。
〈閉ざす者〉はその2つを解放するが、反面〈ゼノ〉などの再現はできなくなる。槍を失えばアナは神機使いの最速を発揮できないし〈ルフス〉なども使えない。
『となると一番ありそうなのは……喰核と剣や盾との
『観客席の前に飛びこんで来ました先頭ムーンカフェ、3バ身ほどあけてアナグラワンワン、すぐ後ろに先行集団続きます』
『先行組もややハイペースですね、前につられたでしょうか。早くも縦に長い隊列となってきました』
2番手のグラは焦っている。〈閉ざす者〉を再現し続ける負担が思ったよりも重い。やろうとしていることに集中できない。
その狙いは──、
『上手く、いかない……!』
《本当に出来るのか?
──なんとムーンカフェの予想通りである。恐ろしいほどグラの内心は読まれている。
《そんな神機はあっちの世界の人間も知らないはずだ。つまり信仰や逸話が無い》
『出来なくはないはずです。
《どうやったらあんなことができるやら》
『アナさんもよく言うでしょ、気合いです』
《がんばれー》
気楽に応援するアナだが、【ブラッドアーツ】による支援は続けている。そもそも神機の応用なら現在の担い手が頑張るしかないのだ。
それを実現しない限り喰核再現中は回復弾で脚を癒やすこともできない。できなければ宝塚記念に大きく障るだろう。
『もうちょっとって手応えはあるのに──ッ!』
ぎりぎりまで迫れてはいる。時間があればきっと叶う。
しかし今は真剣勝負の最中だ。
領域具現──
険しい岩肌とそこに築かれた城塞のような“領域”が一瞬だけ展開され、すぐさま〈閉ざす者〉に破られた。
仕掛けたのはイギリスのステイヤー、騎士の鎧をイメージした勝負服のラウンドヘア。彼女も驚きに目を瞠って脚を緩めたが、それ以上に揺さぶられたのはグラの方。雛を襲われた親鳥のように、自動的で極端すぎる愛憎は留まることがない。
『っ、ぐ、ぅ……!』
3番手4番手と順位を落とし、先頭ムーンカフェとの差は開き続ける。
『さぁ先頭は最初のコーナー、残り2600m地点を駆け抜けていきます!』
その背中を好機と見たのか、あるいは異常性に気付いて様子を見に来たのか。また別のイギリスウマ娘が動く。
『"守護騎士"ラウンドヘアは中団内側で良い位置を占めました、ここで、ッ早くも"放浪詩人"が順位を上げた!?』
最後方から一気に5番手まで迫る瞬間速度は誰の追随も許さない。グラも驚くほどの勢いで並びかけてきたのは通称"放浪詩人"──彼女のことはムーンカフェも警戒していた。『読めない相手』であり『イギリスのUMA娘』だと。
「キミは、確かワンワンだったかな」
「なんて速──」
「速さ、じゃないだろう」
低い声はどこか澱み、
「キミの本質は強さに──戦いにあるように思うよ」
「!?」
「騎士か獣か、いやサムライというやつか。さぁて、知らずにはいられない」
身を包む勝負服は獣の皮を継ぎ接ぎしたよう。見た目から受ける印象はさながら
ムーンカフェが『ゴールドカップには来ないと思いたい』と零したのは彼女の“領域”を経験して知っていたからだ。物騒で剣呑で、〈新月〉でも完全には吹き飛ばせなかったあの世界は、グラに何かをもたらすに違いないと確信している。
「なんのこと──」
「言葉は無力だ。狂気だけが暴く」
領域具現──
それは生と死の理。競走ならぬ闘争の落とし子。
どこか呪いじみていながら『イヴィルアイ』のような忌み名ではない、彼女の本質を示す真名は──。
"守護騎士"ラウンドヘア:円卓ウサギ
シニア2年目。〈
コーンウォール地方ティンタジェルに痕跡が遺る城塞はアーサー王ゆかりとの伝承がある。
"放浪詩人"?????????:
シニア1年目。〈
ムーンカフェとは今回が3戦目。昨年のK&Qでは敗れ、アイルランドチャンピオンSでは勝った。