アナグラワンワンというウマ娘にどんな感情を向けたものやら、周囲としては難しいところだ。
ジュニア期のドゥームデューキスの場合、単に変わったヤツまたはおもしれーヤツと思っていた。ライバル視の矛先はむしろムーンカフェで、アナグラワンワンのことはやや下に見ていた──あまりに常識知らずだったから。
年末のホープフルステークスで負けたことでその認識は改めた。かと言って劣等感までは抱いていなかったはずだ。
クラシックに上がってからも……上期の内は。皐月賞では敗れたがオークスでは完全同着。その年の宝塚記念ではシニア勢を捻じ伏せて。自分は戦えると、そういう自信を持てていたのが1年前。
夏が過ぎ、あの理解不能がフランスから戻って……無力感を刻まれたのはそこからだろう。
秋華賞で、ジャパンカップで、有馬記念で。3回やって立て続けに負けた。
振り返れば、2月に美浦寮で開いた対策会議の時はかなり弱気に染まっていたように思う。
春天を回避したのは距離の問題ではない。勝てる気がしなかったからだ。
シニアのジャパンCと有馬にも具体的なプランがあるでなく、半ば惰性のように出るものとして書いてしまった。
勝ちたいと願い、
勝つために鍛え、それでも
勝てるような気がしない。
アナグラワンワンはそういう泥沼である。別の世代に生まれといてくれと切に願う。
そんなドゥームデューキスを心機一転させたのは、いつものようにナーサリーナース……ではない。
おかしな後輩、名はコンバスチャンバー。今年クラシック、桜花賞では3着だった。
6月頭には安田記念に挑み、手も足も出ないまま大敗している。
『スタートしましてぽんと飛び出したのはドゥームデューキス!』
『よくあんなタイミングで飛び出せるものです、一気にトップスピードですよ』
スタートは完璧。実況の声もよく聴こえてる。空気はヌルいが風は心地良い。
こんな気分で走れンのはバスのおかげだ。ありがてェ後輩だよまったく、あの非常識め。
知り合った頃はベアの方が変人に思えて(あっちも変人には違いない)、それと比べたらバスは常識的一般ウマ娘に見えたもんだが。
ベアがこっそり『無茶しないよう見張ってて欲しい』とか頼んできたわけだ。バスはバスで
『スタンド前にやってきます、先頭はドゥームデューキスですが……かなり速い時計ですね』
『かかってしまっているかも知れません。ゴールラインを過ぎて最初のコーナーへ向かいます』
かなり速めなのはわざとだ。だけどかかってもいるのかも知れねェ。
それもバスのおかげっつーか、バスのせいっつーか。
あいつは安田記念を走った。
勝ち目は限りなく薄くて、ジイさんにも止められて、それでも出た。
──いや、出ただけじゃねェ。パドックでのバスに怯みは無かったし、ゴール後は本気で悔しがってやがった。
勝つ気でいたし、勝てる気でいたってわけだ。クラシック級には厳しい6月の上、シニアからはナー、ワンワン、アソカツリーさん、ホウカンボク、ミルファクが揃い踏みしてたレースでだぜ。ベアの言う『バスはマトモに見えてネジが飛んでる』ってのはそういうとこ。
無謀とか勘違いとか“勝てるという誤認”の類だろゥ──勝てる気になれるだけで偉大だろうによ。
知った風に切り捨てていた。バスの毅さを。私自身をも。……幼馴染の挑戦さえ一緒くたに。
ごめんな、ナー。色んな意味で。
後でちゃんと謝るからよ。
「っおいドゥ!?──そりゃ無茶だナ……!」
客席から聴こえたように思えたのは、流石にこの歓声の中じゃ気のせいかも。
だけど同じターフからの声は流石に間違えねェ。
「ドゥ!
「ゴールドカップ帰りのお前が言うなよゥ」
「ゔっ、いやいや今はそっちの話!」
へっ、わざわざ位置を上げてまで訊いてきやがって。相変わらずレース中だけは察しが良い。
そうだよ危ねえよ、破滅逃げとか言われるペースだ。
領域転象──二重否定
観客や実況席からの不安視を。落胆を。諦めを。
普通ならウマ娘の脚を引っ張るそんなネガティブを、煽って煽って裏返す。無茶なら無茶なほど力になるって寸法よ。
「怪我するよそんなの!?」
「そう思ってくれりゃ無事で済むかもなぁ!」
「っ……!!」
第1コーナーを一気に駆け抜けて第2コーナーへ。いつの間にか実況の声は意識から消し飛んでいる。
それにしてもドゥームデューキスっつーウマソウル、こいつ何やらかしたんだろゥな。逆境でこそ輝くとか、大逆転の逸話持ちとかそういう感じかね?
その割にはもうちっとこう爆発力不足っつーか、テセウスみたいにドーンと行ける感じじゃねーのが残念だが。
そういうわけで私みたいなネガティブクソ陰キャには、自分から苦境に飛び込むくれェしか思いつかなかった。
なぁに、元々脚質は逃げだ。『誰が見たって自滅でしかないオーバーペース』を演出することは難しくない。文字通りの自滅前提なら。
そして目論見通り、〈二重否定〉はこれまでにない力で私の背中を押し始めた。
そら見ろ、私は勝てる。気合いや決意とかのふわふわしたもんじゃない、具体的な勝ち筋だ。
……ゴールした後にどゥなっちまうかは分かんねーけど。それこそ
だからワンワンはペースを上げた。まだ差はあるがどんどん詰められちまう。
「こっち来んな!」
「レースなんだけど!? そうじゃなくてもそんな無茶見過ごせないよ!」
ちっ。レース数がおかしいだけあって流石“領域”には詳しいな、〈二重否定〉の効き方をよく分かってやがる。
ワンワンが追ってくることで『誰が見たって自滅でしかない』度合いが下がっちまって(今も破滅逃げそのものなんだが、見た感じの印象としてな)、得られる力が翳り始めた。
「く……良いのか、“領域”の不足は脚で補うことになるんだぞゥ?」
「自分を人質にするのやめない!?」
「他人を人質にしたらダメだろ非常識なヤツだな」
「人質自体ダメでしょうが!!」
はっ、笑える冗談だ。
勝つために必要だって分かりきってるじゃねーか。
「
「──っ!」
……流石に、ワンワンの表情が歪んだ。追走も少し緩んだ。
私って奴はその場の勢いでものを言って夜になってから悶えるような生き物でよ。ひでえことも言うだけなら言えちまう。後悔と罪悪感を後回しにしてな。
悩め、苦しめ、
差を詰めれば詰めるほど私が壊れる危険性は高まる。差を許せばそれだけ〈二重否定〉は強まって私は悠々と安全にゴールできらぁ。そのことはもう伝わったはずだろ。
向正面に入って、レースは残り1400m。
ワンワンには狙い通り(ゲスな)搦め手が刺さった。最後まで効くとは思わねえが足留めとしては機能してる。
もっとも、最後方のもうひとりは見向きもしねえだろう。
今日は特に気合いがやべェし。あの栗毛の奇行、種──え、テセウス……だよな?
あのバ鹿げた追い上げはテセウスしかいねぇはずなんだが!?
ウマ娘の髪や尾も、老齢になるとヒトミミと同じく色素が抜けて白っぽくなる。
何か病気でもない限り若人には無縁の変化。若い内に変わる例外は芦毛のウマ娘だけだ。
様々な色を伴って生まれる彼女らは、それぞれのスピードで色が抜けていく。変色の時期や程度は個人差が激しい。
芦毛の代名詞たるオグリキャップは、地方でデビューした頃は灰色がかなり残っていた。現役として走っている間に少しずつ、誰もが思い浮かべるあの姿になっていったのだ。
メジロマックイーンやビワハヤヒデも現役期間中にそれなりの変化が見られた。
早い時期に変化が済んだ例といえばゴールドシップだろう。デビュー時点で既に、よく知られているあの白銀色だった(引退時の写真と並べて比べれば多少は違うが)。それ以前の姿はあまり知られておらず、初めて見るファンは大抵驚くことになる。鹿毛にしか見えないので。
学生の年頃で毛色などが大きく変化するのは芦毛だけ(トレセン入学後の5月にたった1晩で毛質が硬く変わった青毛UMA娘の例は異常なので無視してよい)。
そういう常識があるから、後方を窺ったドゥームデューキスは目を剥いて叫ぶ。
「誰だオメー!?」
あんまりにもあんまりな言葉に、後を追うグラも振り返る。
「綺麗──え、テセさん!?」
場違いな感想がこぼれるほど、それは魅入られるような美しさ。
文字通り栗に近い黄褐色だったはずのテセウスゴルドが、ゴールドシチーを思わせる
尾花栗毛。
最も美しいと称えられることもある珍しい毛色だ。
繰り返すが、健康な栗毛のウマ娘が若い内に変色するようなことは無い。尾花栗毛のウマ娘は生まれつきその色であって、栗毛から経験値を積んだ進化形態とかそういうアレではない。
つまるところ、テセウスゴルドも異常存在の仲間入りである。
未現領域〈
その真価は変化。もちろん毛色だけの話ではない。
『向正面、残り1200mでテセウスゴルドが進出を開始……え、その、光の加減でしょうか? まるで尾花栗毛のような輝きです』
『追込みとしては早いタイミングの、しかしスムーズな加速。まるで差しウマ娘だ!』
実際、今この瞬間のテセウスゴルドは差しに
得意の追込みと比べ時間をかけて集団を抜いていくこの戦法は、加速力を小出しにしながら周りの選手と駆け引きを繰り返すという意味でやるべきことが多い。ただ全開にするのではなく判断と調節が求められる。普段の彼女なら『できなくはないが面倒臭い』などと言うだろう。脚も100%活かすことができない。
が、〈錨破〉によって自己改造を済ませた今は違う。
我道領域──
『これは! 中団のバ群をひらひらと泳ぐように、テセウスゴルドが順位を上げてきました!』
『脚力任せの追込みとは明らかに違う、いわば柔よく剛を制す! このようにテクニカルな走りは初めて見せるものですよ』
第3コーナー入り口、残り1000mの地点でテセウスゴルドは5番手。しかしすぐに3番手まで上がってくるだろう。
2番手のグラは内心で悲鳴をあげた。
『脚質も“領域”も別人じゃないですか!?』
《それが〈錨破〉なんだろう》
『そんな無茶苦茶な……!』
《お前が言うか?》
自らを根本から変化させる奇跡。
とはいえ流石に『差し戦法に必要な能力を新たに獲得した』は理不尽が過ぎる。有り得そうなのは『総量は変えないまま力の配分を変えた』といったところだろう。
グラはそう考えて、改めて気を引き締め直す。
『再配分ならまだ分かるか──ううん、それなら差して終わりじゃない!』
《だろうな》
追込みに特化していた能力を差しに合わせたことも驚異的ではあるが、問題はその先。『テセウスの船』は何度でも入れ替わり続けるものだ。
今の差しカスタムで順位を上げた後は、その位置から──追込みならありえないほど前から──元の追込みカスタムに戻して駆け上がってくるに決まっている。
「テセさんまで身体に悪そうなことを!」
「「お前のローテは?」」
「ゔぐっ」
自身を棚に上げた発言に前後からの
確かに中2日の連闘も身体に悪い──普通ならば。しかしグラには当てはまらない。
「私はちゃんと安全確認してますぅー!」
「ご立派ご立派。私にゃそんな余裕は無い」
「ドゥ……!!」
すぐに答えたのはドゥームデューキスだけ。
3番手に上がったテセウスゴルドは覚悟を固めるように沈黙を挟む。
「……私は……私も、決めたことだ」
「決めたって、そんな──」
「勝てる方を選んだ」
「っ」
そう言われてしまえば言葉に詰まるしかない。大怪我と引き換えにしてでも勝利を掴みたいなら、グラに出来ることは受けて立つだけだ。
3コーナーから4コーナーへ。先頭ドゥームデューキス、3バ身後ろにアナグラワンワン、更に2バ身後ろにテセウスゴルド。
曲がりながらでもそれぞれの差はじわじわと詰まっている。直線に出ればテセウスゴルドは最後の追込みを見せるだろう。だから4コーナーが勝負どころだ。
『強制展開:
ゴールドカップで習得した、アラガミ再現と武装展開の並行使用。槍を持つ〈ゼノ〉の最中に小剣を振るうようなことはできないが、盾と銃は使えるようになった。
この重要な局面で選ぶのは──、
『超回避バックラー!』*
《気合いを入れろよ、この盾はちゃんと使わないとゴミだぞ》
『分かってます!!』
──最も軽く・最も摩擦の無い・最も
もっとも、グラの走法に変態的な正確性が求められるのはいつものことだ。一気に加速していく。〈
『4コーナー入り口でアナグラワンワンがテセウスゴルドを引き離しにかかり、おっとドゥームデューキス苦しいか先頭入れ替わります!』
『ここまで相当無理をしていたでしょうからね』
実況の言葉も間違ってはいない。
ただし彼女の狙いは『ドゥームデューキスはもう駄目だ』と思わせること。そして恐らく、苦手としていた追込みのタイミングに〈二重否定〉を爆発させること。
2人のライバルは一瞬でそれを察した。警戒を外すことはない。その反応に舌打ちしつつ、ドゥームデューキスは脚を緩めて力を溜め込む。
『残り400切りました最終直線! 先頭アナグラワンワン、2番手は今テセウスゴルドに変わりましたがドゥームデューキスも諦めない!』
そしてライバルたちの懸念通り、継ぎ接ぎの黄金は進出する。未現領域〈
……元の栗毛に戻ることまでは予想していなかったが。今はどうでもいいことだ。
『残り300──来たぞ黄金の末脚! テセウスゴルド急加速で先頭に迫る! なんとなんと更にドゥームデューキス追い縋ってくるが!?』
うねるような歓声の中、3人のウマ娘はほとんど同時にゴールラインを駆け抜けた。
直後、アナグラワンワンが叫ぶ。
「担架お願いします、2人分!!」
両肩に支えたライバルたちを救護班に引き渡す間、掲示板に確定ランプが点ることはなかった。
アナグラワンワンも地下バ道に下がって更に5分ほどが経ち、ようやく判定が済んだのは3着だけ。
| ① | アナグラワンワン | ||
| > 写真 | |||
| ② | テセウスゴルド | ||
| > ハナ | |||
| ③ | ドゥームデューキス | ||
放送席などが言葉にすることは無かったが、多くの者が事情を察した。
『これだけ時間をかけて確定しないなら完全同着の可能性がある。もしそうならウイニングライブのセンターが2人になって色々と準備が大変なはずだ。
そもそもテセウスゴルドとドゥームデューキスは踊れるのだろうか。心配だし、繰り上がりの可能性も考えると運営側で話し合いも必要っぽいし。大人しく待つか……』
実に訓練された観客たちだ。アナグラワンワンを心配の対象から外している辺り*よく分かっている。
もっともこのレースに関しては、心配の要らないUMA娘がもう1人いるわけだが。