8月。
ジャック・ル・マロワ賞に勝ったワンワンさんが
こんなに早く勧誘が済むとは思っていなかったが、ここまでの戦績を見れば自然な帰結かも知れない。トゥインクルシリーズ3年目の前半だけを切り取ってもドリームトロフィーリーグ行きは確定的だろうから。
予想外というならサキさんが繋駕のトレーナーまで志すというのが一番の驚きだったが……平地ではお世話になるつもりなので、実家との顔つなぎをしておいて損は無い。
おふたりを伴っての帰省は、私が日本で勝ち取った成果を連れ帰る凱旋のようなものだ。実に誇らしい。
だというのに窮屈な思いをさせてしまうのは痛恨の極みである。
「申し訳ございません、過去に色々とあったようで」
「まぁ護衛さんたちもお仕事なんだから仕方ないよ」
そう、私には普段から護衛がついている。トレセン学園では距離を取って隠れていたからさほど意識せずにいられたが、それは日本での知名度がゼロに近いおかげの自由だ。祖国ではそうもいかない。
お母様の顔を知らないスウェーデン人はほとんどいないし、瓜二つと言われる私も昔からしばしばメディアに露出してきた。護衛を要するような事件はお祖母様の代から起こっていないので、過剰といえば過剰なのだが。
今はストックホルム近郊にあるブロンマ空港に着いたところ。一般の利用客が入れない専用の入国ゲートをぴりぴりした護衛に囲まれながら歩いている。
「……ロスの乗り手になったらずっとこんななの?」
「いえいえ。当家の周りや所有する練習場ではのびのびと過ごしていただけますよ」
流石にこんな重点警護をいつも受けているわけではない。要は身元の知れない者がふらりと近付いて来れるシチュエーションを前もって塞いでおけば良い。
「こうした空港は最も面倒な──」
「あ、ロスも面倒だとは思ってるんだ」
「──もとい、最も気を遣う場所のひとつです。広々としていますから」
おっと本音が漏れた。まぁ隠すことでもあるまい。どんな生まれ育ちだろうが、こんなのは鬱陶しいに決まっている。
空港から車に乗って本家へ。
両親と家人による出迎えは──あまり仰々しくしないよう伝えてあって、そのような気遣いは窺えたものの──ここでもワンワンさんたちに肩肘を張らせてしまう。敷地の広さだけでも遠い目をしておられたからな……。
ともかく一旦は休んでもらおうと、客間に通した後は私とミネイだけが側につくことになった。
(目を輝かせる弟たちのことは私も今すぐ構ってやりたいが、晩餐の席で挨拶をするまでは待つよう視線で制しておいた)
「あー……妙に緊張した。晩ご飯までのんびりさせてもらおうかな」
「お疲れ様です。少し意外ですね」
「ん〜、確かに? 自分でもちょっと意外」
気疲れというやつだろうか──本当に?
サキさんは繋駕のトレーニングを見学したいと早速出ていった。お母様から許可は出ているし通訳もつけたから問題は無いはずだが、ワンワンさんが部屋で休むことを選んだのは……少し心配になる。
「驚いてるんだよね、こんなに歓迎されると思ってなかったから」
「え。こちらからの頼みを請けてくださったんですから、感謝して当たり前ですよ」
「ロスを
「誰よりも私が望んだことだと、家の者はみな知っています──平地の件も含めて」
「あぁ、そっちももう話したんだ」
「…………」
すっと目を逸らす。話してはいない。お母様に気取られただけである。
「反対はされなかった?」
「内心では色々言いたい者も多いでしょうね。ですがお母様が黙認と決めたようですので、表向きは何も」
「なんだか大変なお
大変……大変、か。そういう面もあるだろう。
こういう環境で育つこと、この家の名を背負って走ること。それがどういうことなのか、言葉では伝えられない部分が多い。ある意味で重いのは事実だ。
しかし悲観する必要はない。ワンワンさんもきっと大丈夫。私やお姉様がやりたいことをやっているのはご存知だから。
それに今、ミネイの淹れた紅茶を飲んでほっと息を吐いている。
以前の彼女なら、のんびり座ったまま給仕を受けるようなことはできなかった。立ち上がって手伝おうとして、断られてもそわそわとして……それがいつの間にか、世話されることに慣れている。
パリトレセンでもロンドントレセンでも、メンタルを崩したりはしなかったらしい。だからこの面倒な家にも、いずれは順応できるだろう。
順応といえば、そもそもこの人は何処か
レースを音楽やボードゲームなどと捉えることで常識外の戦い方を持ち込む優駿が日本にもいた*はずだ。そういった異質さをワンワンさんにも感じる。
いや、ただ異なっているというよりも『レース以外の勝負で重ねた歴戦の経験を用いてレースに順応している』ような。
……果たして順応できているかと問われたら答えに窮するが、適応はしているだろう。あれだけ勝っているのだから。
異なる
それは私の想定を上回るほどの──、
「ふぅー。ありがとミネイ、だいぶ落ち着いたよ。
さてと、晩ご飯は前哨戦ってところかな。先にロスのお母さんのこととか教えてもらえる?」
「え。構いませんが……前哨戦とはやけに剣呑では?」
──応用性。どうしてそんなに戦意ビンビンなんです? 一体誰と戦おうと?
「あはは。やだなぁロス、そんなのお互い様じゃない」
「えっ」
「もしかして実家に帰って警戒心とかオフになってる?
あの百戦錬磨っぽい親御さんが、単なる善意と感謝で迎えてくれてるとか、ないない。色々交渉しなきゃいけないことがあるでしょ?」
「仰る通りです。我が家のポンコツお嬢様はすっかり腑抜けておいでで」
「ぐぅ…………」
言い返せない。我が家に悪意は無いが、何らかの意図は確実にある。
私は大人しく降伏して、ワンワンさんからの質問にひとつひとつ答えていくのだった。
勧誘に成功した喜びと実家の安心感とで抜けてしまっていたが、決めるべきことがあるのは確かだ。
ワンワンさんは私の乗り手を務めると言ってくれた。現時点では
我が家とその
我々には非常に多くのライバルがいる。そうした競走相手の駕車を拒んでくれるのか。
その辺りは全く白紙の状態。
もちろん家としてはできるだけ囲い込んでしまいたい願望がある。本人の意思を無視するつもりは無いが、だからこそ話し合って決めなければ。
ビジネス等の場では交渉を戦いにたとえることも珍しくないわけで……全くもって失態だ。ご指摘の通り私が腑抜けていた。晩餐の席に備えようというワンワンさんが完全に正しい。
見苦しく言い訳をしておくと、そもそもが私から頼み込んでの話という点。
だからワンワンさんには乗りたい牽き手も乗りたくない牽き手も特に居ないだろうと。ライバルに協力しないでくれと頼めば無条件に頷いてくれる気になってしまって──言い訳どころか恥の上塗りだな、やめよう。
ワンワンさんは腑抜けていなかった。
晩餐の席で軽く水を向けられると──、
「私が組む相手をそちらが決めるとして、私にどんな見返りがあるんですか?」
──無償で縛られることはしない、と線を引く。
敵対的に感じるかも知れないがそんなことはない。むしろ損得勘定を押し出した方がスムーズとも言える。
何を譲り何を求めるのか。
引き受けるものと拒みたいこと。
上手くやっていくには互いに明らかにしなければ。
……とはいえ食事の片手間で片付けることなどできないし、そんな必要も無い。ワンワンさんにとってこの3泊4日は休暇に類するものだ。
そんなわけで、食事の後はお楽しみの時間である。
ゲストに母屋の中を案内する途中、屋内運動場で
3人は歳上のウマ娘というものに慣れているので、全く遠慮なくじゃれつこうとする。対するワンワンさんは……全く子供慣れしていない様子だな。
「わっ、危ないですよ……あれ、ちょっとあの、どなたか止めて欲しいんですが!?」
避ける、避ける、転びそうなひとりを助けてまた避ける。
弟たちは段々真剣になってきた。9歳と7歳と4歳の男児、鬼ごっこにも全力だ。速いかどうかはさておき慣れている。ウマ娘を追い回すことに。
「え、連携が上手すぎません!? なんですかこの家!?」
元気な男の子がいると小さなウマ娘も元気に育つので。そういう家である。
広々としたジムルームを逃げる内、彼女が目をつけたのは大きめのバランスボール。その上にひらりと飛び乗ることで弟らを避けた。
そんなことをすれば当然、勢い余った3人はボールに横からぶつかるわけだが──、
「よ、っと……落ち着きましたか?」
──ボールは微動だにしない。その弾力で子供たちを優しく受け止め、同時に横向きの衝撃は乗り手が体重移動で相殺した。
過不足なく。遅滞なく。ボールの上でよろめくこともなく。4歳児が不思議そうに(そして遠慮なく)体当たりをかますが、やはりボールは動かない。
弟に返る衝撃も柔らかく、代わりに真上に抜けた力がワンワンさんの膝を撓ませるだけ。球体への作用も球体からの反作用も、全て乗り手の制御下にある。
ふ、ふふふふ。
アレだ。アレこそが私の惚れ込んだ資質。どんな足場でもどんな速度でも、こともなげに真っ直ぐ立っていられる体幹。お母様でさえ息を呑むほどの軸の確かさ。
「ラウラが惚れ込むだけのことはありますね……あなた、アレ真似できますか?」
いいや無理だ。いくらお父様であっても。
「バランスなら任せとけ、と言いたいけど……落ちることは無いにせよ球は動くよ、あんなに思い切りぶつかられたら」
「ですよねぇ」
「だけど、君に捨てられたくはないからね。筋トレのやり直しかな」
「あら! そんなことが不安なんですか、あなたったら。ありえませんよ」
流れるようなイチャつきはスルーさせて頂くが……お父様は正しい。ワンワンさんの安定性を実現するには、バランス感覚だけではなく筋力が要る。
弟たち3人を正面から受け止めて揺るがないだけのバ
後者はお父様にもできるだろう。前者も多くのウマ娘にとって簡単なこと。しかし両立は極めて難しい。
愉しみで堪らないな。あの方を乗せて走ることが。
「お母様、お父様。3年以内に勝ってみせます」
「まぁ……!」
「おお、言うねえ」
両親は繋駕競走の世界王者だ。しかし私の見る限り、その世界は上品で牧歌的に過ぎる。各国の平地競走を荒らし回るUMA娘の暴風から、今のところは安全圏にいるだけだ。
覚悟しておくといい。どうか楽しんで欲しい。私や同胞たちの愛する繋駕の世界は、もっともっと面白くなるから。
この時から数ヶ月後、お母様はレースを休止することになる──ご懐妊が発覚したので。
逆算するとワンワンさんたちが来ていた頃になるのだが、私の勝利宣言が何かしら“盛り上げて”しまったということ、だろうか。実の親ながら不可解な感性だ。
3泊4日はあっという間に過ぎた。
大きなぬいぐるみに埋もれる生後半年ほどの末妹はワンワンさんに不思議なほど懐いたので、将来が実に 恐ろしい 楽しみである。何か特殊な成長をするようならサキさんに丸投げしたい。
サキさんも我が家お抱えのトレーナーたちと熱いバトルを繰り広げていたようだ。
家としては協力する姿勢だったが、個々の矜持やプロ意識はまた別物だから。サキさんは教えを請う前に彼らを納得させる必要があり、そのことに奮起して実力を叩きつけることで、ノウハウを共有する約束を取り付けた(我が家としても平地の知識は欲しい)。
その過程で関わったトレーナーや牽き手が、『もうこの人うちで雇いましょう』とか言い出すほどサキさんを気に入ったのは流石だが、やり過ぎというかなんというか。話をややこしくしないで頂きたい。
肝心のワンワンさんだが、基本的に欲が薄い(または狭い)
ドリームトロフィーリーグには出たいので、その時期は平地に注力させる確約。
『乗るな』と言われた相手に乗らないことは約束するが、『乗れ』と言われた相手に乗るかは個別に判断したいということ──つまり牽き手の実力によっては断る権利。
あとは当家の広い敷地を隅々まで探検する権利くらいか? もとより行動を制限するつもりも無かったが。
場合によっては乗り手と牽き手の間で賞金の分配を話し合ったりもする。今回はどちらもお金に困っていないので話題にも上らなかった。最も標準的な分け方になるだろう。
話し合いは穏やかかつスムーズに合意に至った。交渉というほど押し合い引き合いすることがそもそも無かった。
幼い頃から過ごした自室で、私はほっと胸を撫で下ろす。
「“前哨戦”などと物騒な仰りようだったが、蓋を開けてみれば大人しく真っ当な要望ばかりだったな」
牽き手の力量で選り好みをする件は乗り手にとって当然の権利だ。何しろ安全に関わる。
その会話の際に少しだけ空気が尖ったのも『なら実力で納得させてやる』という牽き手側のプライドだ。サキさんがトレーナー陣にぶつけたものと近く、戦いとか敵意といった物騒さは無い。
しかし私の呟きに、頼れる半身は応えなかった。
「…………」
「ミネイ?」
理性に優れた従者。その表情は──懸念? 疑念?
……何を?
「いささか、我々が得をしすぎに思えまして」
「それはまぁ、確かに。しかし我が家の欲することの価値がワンワンさんにとって低かっただけだろう?」
「……それだけなら、よいのですが」
私とミネイには知らされていなかった。
ワンワンさんの欲するものがすぐそこにあるという事実を。
秘密を気取られぬように隠されたのだと思う。
だから警告しなかったのだ。
家の者の目を欺いての隠密行動など、ワンワンさんにとっては日常的なちょっとした異常に過ぎないことを。こっそりと秘密を暴く位は簡単なのだぞと。
実行に移したのは少々意外だったが……事情を知れば納得である。彼女はレースに手を抜かない。
これでアドバンテージがひとつ消えたことになる、か。
私の失態というのは少し違うだろう。
珍しいな、トーヴェのミスというのは。