バーデン大賞。
ドイツ南西部のイフェツハイム村、バーデン=バーデンレース場で行われる2400mのGⅠ競走である。
今年は日本の旅行会社が『アナグラワンワン応援ツアー』のような企画を組んだので、現地に赴いた日本人は少なくない。そして多くは戸惑いを覚えた。GⅠレースにつきものの混雑が、そこには無かったので。
『めちゃくちゃ空いてる!』
『むしろ
『これが国際GⅠのレースなのか?』
どちらかというとネガティブな印象だが、事実の一端はとらえている。日本やフランスといったレース大国と比べると、ドイツのウマ娘レースは規模が小さい。
国内随一の大レースにあたるバーデン大賞でさえ、賞金額や動員数を日本のレースと比べればこじんまりとしたものだ。出走するウマ娘の数もここ数年は6〜8人前後で落ち着いている。
中でも今年の出走ウマ娘、僅かに4人。
これはアナグラワンワンの負の影響力に相違ない。
日本のレースファンの一部には『地方レースみたいな雰囲気だ』と感じられた。
レースを観る観覧席には余裕があり、パドックでのウマ娘との距離も非常に近い。嬉しいことではあるが。
なおイフェツハイム村は温泉地として知られる反面、交通の便はあまり良くない。それゆえ大勢の観光客が訪れるような機会は少なく、今回は絶好の商機だと沸いている。
多くの屋台などが立ち並び、それがますます町興しイベントのような印象を招く──地元にとっても嬉しい限り。
さて、これらのことはレースにどう影響するか。
今回アナグラワンワンと競う3人のドイツウマ娘は、いずれも国外で戦った経験が無いために事前情報が少ない。
ただしこれは日本から来た観客にとっての話であって、選手とトレーナーは綿密に下調べしているはずだ。
走る選手が少ない点──駆け引きの余地が小さい点も、問題にするタイプではない。
ならばなんの不安要素もなく、余裕の大差勝ちを決められるだろうか?
多くの日本人はその通りだと考え、何バ身つけて勝つかを予想する気の早い者さえいた。
しかし当のアナグラワンワンは、このレースに小さくない懸念を抱えている。
『最後までもつれましたが半バ身前に出たのはアナグラワンワン! 一体どこまで勝利をかき集めるのか!?』
あ、あぶなぁ……勝ったことは勝ったけど。辛勝と呼ぶべき着差だ。こういうシチュエーションは実にしんどい。
『想像以上に走りにくかったですね……』
《これほどとはな……疲れた、私は寝る》
『お疲れ様です』
本っ当に良かった、このレースにムンちゃんやトリィさん級の強敵が居なくて。居たら敗けてた気がする。
良く言えばのどかで、悪く言えばゆるーいバーデン=バーデンレース場。
芝というか路面の整備、もうちょっとどうにかなりませんかね!?
樫本所長から注意されてはいたんだ。ここの芝と地形は年によって違いすぎるから『君の場合は
その時は意味が分からなかったけど、現地にきて理解と同時にびっくりした。私の知るターフとは色んなことが違う。
例えばレースの最中、カメラを載せた自動車がラチの内側を走ってきた。それ自体は海外で何度か見かけたけど、足回りを見て目をこすりたくなってしまった。見間違いじゃなければ普通の、一般道を走るようなタイヤに見えたから。
日本ではそんなことしない。必要があって芝の上を通る必要のある車は、必ず芝を傷めないための専用のタイヤを履かされる。ここでは特に気遣いなく芝の上を走ってたし、トラックの内外を出入りさえしていた。芝が潰れるのでやめて欲しい……!
もっとも、タイヤ跡なんかより更に大きな問題がある。
車が通ったところに限らず、路面全体がぼっこぼこ。まるでウマ娘に掘り返された凸凹が
贅沢なことにこのレース場、公式レースに使われる機会はとても少ない。春と夏と秋の3回、年間を通してたったの10日間かそこらしかレースが無いのだ。
レース場のすぐ隣にトレセンがあるので、普段の練習にも使われてるんじゃないかな。日常的に走ってれば整備もされるはず。
頻繁に整備されてこれなのだから、たぶん芝を整備する方針みたいなものから日本とは違うのだろう。思い返せばロンシャンのゴール前も日本の平地に比べてかなり凸凹していた。
……大昔のウマ娘レースとかを考えれば、『多少は荒れてる方が伝統的』みたいな捉え方もできなくはない、かも?
むしろ逆に、日本の芝が真っ平ら過ぎると言われたら反論できない気もする。細かいところがクレイジーとか語られがちだし。
どっちが良いとか悪いとかじゃないけど、私にとっての走りやすさって点でバーデンは最悪だ。上りや下りの勾配とは違う意味で平らなところが無い、まさに不整地走。
こんなの危ないんじゃないかって懸念も最初はあったけど、実際のレースを振り返ってみれば──、
『なんだなんだ、ビビってるみたいだな日本のチャンピオン?』
『……これだからウマ娘って生き物は』
『君がそれを言うのか!?』
──真っ当なウマ娘の脚力なら大して問題にならないらしい。くそう。
この程度の凹凸でも、何処にどれだけあるか全く分からないのは厳しいって。路面状況にきっちり合わせた走りを予め作ってこないと、私はこういう苦戦を強いられてしまう。
私が以前のままなら、つまり春天でムンちゃんに負けてなかったら厳しかったかも。
終わってみれば怪我もなく勝てている。大きな問題は無い。
何より、こんなに路面が悪いレース場はここが最後の予定だから。
……レース場は、ね。
余談。
レース後に驚きがもうひとつ──いくつか──あった。ウイニングライブである。
初体験だったのだ、4人っていう少人数のレースは。日本でも重賞以外や地方レースならありそうだけど、私は
普通ライブって上位3人がセンターをやって、4着以下はバックダンサーを務めるわけ。じゃあ出走が4人だけの場合は……バックダンサーが1人? それはそれでやりにくそう。センターの3人じゃなく後ろの1人が。
どうするんだろうと思い至ったのはもうライブの直前。サキさんは傍にいないしアナさんは寝ていて、運営スタッフさんも特に説明はくれないまま
ステージに出て最初にびっくりしたのはお客さんとの距離。うちの両親を含む日本からのお客さんたちも戸惑ってる感じがする。
ふっと思い浮かんだのは幼稚園の学芸会。それぐらい、はちゃめちゃに近い。そしてぎゅうぎゅう詰め。
そしてもうひとつ驚かされたのが4着だったドイツのウマ娘。
『
彼女はいつの間にか観客席に紛れて私たちを応援していた。え、最初は演者側にいましたよね!?
根性で笑顔を保ちながらステージ上の2人に目配せしてみるけど……通じた感じがしない。仮に(例えば)あのウマ娘さんにはサボり癖があって普段からこんなことしてるんだとしたら、申し訳なさそうに目礼してくるみたいな反応がありそうなものだ。なのに2人はむしろ『どうした?』と心配してくる雰囲気である。
どうもこれは異常事態ではなく、彼女も非常識ウマ娘ではないらしい。マジですか。
結論から言えば私がここでのライブ事情に不案内だっただけで、なんの異常も無かったようだ。
……後から振り返ればそうと分かる。先に説明しといて欲しかった。
4着の彼女は曲が後半に入ると舞台袖に戻り、最後の大サビではステージ上に戻ってきた。ただし──、
『っ!?』
──独りきりではなく、大勢のバックダンサーと共に。びっくりしましたよ本当に!!
バーデン大賞に出走したわけでもない彼女たちは、すぐそこにあるバーデントレセンの学生たちである。
バックダンサーが足りない時、大急ぎで呼ぶならそこから集めるのは道理だ。本当にすぐそこだから。
ダンスパフォーマンスの経験を積ませる教材に使われてる気もするけど……まぁそこは文句無いですよ、本番って何よりの勉強ですし。
ただ日本ではこんなの聞いたことないですからね!? ていうかドイツの事情としても全くの初耳である。全体がこうならどこかで耳にする機会はあったはずだから、すぐ横にトレセンがあるバーデン特有のやり方なんだと思う。
慣れ親しんだ常識に思わぬ角度から刺さる不意打ちがこんなに心臓に悪いとは。反省しよう。
──いやでも、よく考えたら私の場合は……今さら常識に寄せる方が(頭でも打ったのかと)心配されてしまう気がする……?
余談の余談。
バーデン特有のライブ事情について私が知らなかった理由はシンプルだ。
サキさんが隠していたのである。
なんの為に? 私をびっくりさせるために。
「まんまと腰が引けた瞬間を撮られてる……」
1人だけと思ってたバックダンサーが集団で現れたらビクッとしますって。現地のメディアからはベテランのくせに段取り忘れてたみたいに見えたようだ。
「ワン、演技とかできないでしょう」
「怒ってはいませんよ。ただ、完璧にサキさんの計画通りに踊らされる私がチョロいなぁと」
目的は好感度調整──東京優駿で勝った時の号外の件*と同じ。間抜けな側面をメディアに流すことで、勝ち過ぎによるヘイトを和らげる的な? その辺を丸投げしたのは私だから文句はありませんけど。
それに……そろそろ恐怖が過剰になるって心配も分からなくはないんだ。レースの方はもうこのまま年末まで勝ち続けるつもりでいるから尚のこと、レース外でコミカルな側面を見せるくらい痛くも痒くも無い。
こんな風に脇の甘い姿を見せたところで、誰も油断なんかしてくれないだろうから。真剣勝負には全く影響しない。
目ぼしいライバルもおらず、周囲からは大勝するものと思われていたバーデン大賞。しかし着差は半バ身ほどで、本人の様子からも余裕は見られなかった。
当然ながら、このレースも大いに注視されている。そして分かる者には分かってしまう。
予測のつかない路面の荒れは、アナグラワンワンの明確な弱点だ。勝負の純粋さを突き詰めれば『荒らしてしまえ』と考えるのは当たり前。
意図的な妨害を好まないウマ娘も少なくないが。
かつての、野生の獣だった彼女は──躊躇うような倫理観に欠けていた。
今の、競技者として彼女には──手段を選ぶほどの余裕が無い。
だからやらない手はない。確実にしかけてくるだろう。
バーデン大賞の2週間後、アイルランドで激突するライバル、マルディンウィルトならば。
※現実のバーデン=バーデン競馬場について
路面は別にひどくありません。グラが神経質なだけです。あるいは日本の競馬場で使ってる車が芝に手厚いせい。
空いててのどかでお馬さんと距離が近いのは現実準拠です。