スプリンターズステークスにはびっくりした。
バスちゃんからの激アツな宣戦布告。
今年のアイビスサマーダッシュに勝ったゲージスプレイ、真壁さんが鍛えているレヴエルト、そしてずっとライバルだったベアちゃんとに大差をつけて。2着との差は5バ身強。1200mのレースで──というか最終直線までは最後方にいたのに──あんなに突き放すなんて。
かなり心配したけど、半強制で受けてもらった検診は異常なし。あ、『怪我は無いけど常識的な疲労は残ってる』って意味で。
だからひとまず彼女のことは後回しだ。今は凱旋門賞のこと。
かなりモヤモヤしてるっぽいベアちゃんのことも心配だけど……ほら、私が口出して良い方向に転がるとも考えにくいし。
翌週、ロンシャンレース場。
去年と違って今年は快晴だ。
『──以上、パドックの模様をお伝えしました』
『スタート時刻が迫ります。楽しみですね』
パドックで目を引いたのはトリィさんの新しい勝負服。がらりと変えてきた。
以前のモチーフはナポレオン・ボナパルトの軍服。
だけどフランスやパリへの思い入れがそんなに無い──というか故郷と家族が大好きなトリィさんにとって、親しみやすい対象ではなかったんだろう。そのせいで〈エトワール凱旋式〉の出力はほどほど。
ジャパンカップの時はそこが明確な弱点になっていたから、全く新しい勝負服で現れたのは想定内だ。
実家に帰って、ロスと競った原点で何かしていた……そこから考えれば、スウェーデンに由来するモチーフに変更してくるに決まっている。
そしてそれは大きな情報だ。使ってくる“領域”について推し量るための。
だからあの国の偉人さんとかは調べてきたんだけど──、
『近世以降の実在人物じゃないっぽいですね』
《そのようだな》
──どうも空振りだったらしい。
うーん、ナポレオンに引っ張られたかな。
勝負服を見てない昨日時点では、私とサキさんの予想は一致していた。本命はグスタフ2世アドルフ王(在位1611年〜1632年)。大きな戦争に勝って帰ったこともあるし、昔から硬貨や紙幣に何度も描かれた大偉人だ。
もちろんスウェーデンの偉人は彼以外にも大勢いて、トリィさん対策のためにできるだけ勉強してきた。残っている肖像画とか銅像も手当たり次第に覚えこんだ。
その予習から断言できる。あの勝負服のモチーフは数百年程度の新しい時代ではない。
となるともっと古い……民話とか神話とか?
『アナさん、心当たりあります?』
本バ場に移動しながら問いかけたものの、あまり期待はしていなかった。だって手がかりが少ない。
新しい勝負服は緑系でまとめられた簡素な装束だ。かなり古い旅人風って印象で、帽子には羽飾りを差していた。目につく装飾はそれぐらい。
つまり特定に繋がる特徴(家紋とか、私でいえばフェンリルの紋章みたいなヤツ)が欠けている。あれじゃどうしようもないだろう……と思いきや。
《可能性レベルなら思い浮かぶ名前はある》
あるらしい。流石です。
『え。ほぼ衣装の色だけで?』
《他にもヒントはあるじゃないか。スウェーデンという土地、トリウムフォーゲンという名前、大きな
『
背中に袋をくくりつけているのは見れば分かる。でも本当にただの袋って感じで、古い旅人なら誰でも持っていそうなものだ。装飾もないし中身も分からない。
縦長というか底の深い筒というか……ボクシングで使うサンドバッグみたいな? あれよりは細いか。背中に斜め掛けして、大きなバナナ状に弧を描いている。
《北欧神話的にはビッグネームなんだが……スタートまでに概要は伝えるから、頭の隅に書き留めておけ。あくまで候補のひとつとして》
本バ場を軽く走ってから待機所に移ってゲートインを待つ。
その間、サキさんからもアナさんと同じ名前を告げられた。これはもう確定ではないだろうか。
ただし対策としては微妙である。
「
「そこはアナさんも同意見です。特定まではできない、本人の解釈次第で変わりうると」
トリィさんがどんな風に仕掛けてくるかは分からないまま。
ま、そんなのはいつものことでお互い様だ。
「そう。……なんだか立場が逆転したわね。今回はワンがターゲット」
「ふふ、確かに」
くすくすと笑い合う。
そう、以前の私は強敵をびっくりさせて勝利を掻っ攫うような、騙し討ちを仕掛けるような戦い方だった。今回は逆。トリィさんは何かを隠し、私の対処能力を上回ろうとしている。
ムンちゃんとルーテさんも、勝負服こそ変えてないけど全くの無策ではないはずだ。その策が火を噴くのはこのレース中じゃないとしても、どこかに勝ち目を見出してその為に仕掛けてくる。
かかってこい、なんて言い切れるほど強くあれるかは分からない。
でもそういう待ち構え方は、まるでムンちゃんのようで。そんな風にありたいと思ったことは幾度もある。
だから
発走の前から、グラは〈新月〉対策の〈閉ざす者〉を纏い──、
──そしてゲートが開く。
『さぁ今飛び出しました先頭はアナグラワンワン、ルーテデラソワ、トリウムフォーゲンまで固まってぽんと飛び出します』
『ほぼ横並びからルーテデラソワがやや後ろに下がったでしょうか。しかし速い速い、早速後続を突き放します』
ムーンカフェは無理に追わない。あの3人が逃げることは折り込み済みだ。今回の相手に逃げや先行で挑むのは無謀と判断している。
観察。今は歯を食いしばって待つ時だ。
3番手にいるルーテデラソワも機を待つという意味では同じ。
【喚起】の影響を受けて、これまでに使ったこともない領域転象の効果を察した。古の商人たちが
同時に『今ではない』ことも直感した。タイミングを考えなければなんの妨害にもなるまいと。
そして、一際猛々しい様子で先頭を争うトリウムフォーゲンは。
『タイミングが難しいわね……早すぎてもいけないし遅すぎてもいけない』
ひどく落ち着いた、アンニュイとさえ言えるような心境。自分でも少し驚いている。
かつての〈エトワール凱旋式〉がしっくり来ていなかったのは事実だが、あの力はスカッとしたシンプルさがある。拍手喝采を浴びて先頭でゴールする、分かりやすい“領域”だ。
迷いがあるとも言えるだろう。新しい力はややこしい。飾らずに言えば使いにくい。
本番で使ったことが無いせいでもあるが、これが自分の
本人でさえ意外に感じた“領域”なので、外から推し量るのはもっと難しい。
実際、この時点のアナが立てている予想(どんな“領域”なのか)は大きく外している。
もっとも、緑衣からアナとサキが候補に挙げたモチーフ(何をモデルにした衣装なのか)までは的中している。
そのことは──、
『400m地点を通過、坂に入りまして内側アナグラワンワンが少ぉし遅れたか』
『僅かな差です、トリウムフォーゲンはラチに寄れません』
──坂道を駆け上る際に確認された。背嚢が揺れることで中身の輪郭が窺い知れる。
『確かに、底の方が太くて上の方が細い……歪んだ円錐みたいに見えますね?』
《やはり
背嚢に収められているのは神話に登場する角笛(をイメージして作られたレプリカ)。
『あの笛、吹くんでしょうか』
《レース中は無理だろ……ともかく、あの衣装のモチーフはさっき話した神で間違いない》
大きな角笛を携えた、緑衣の、そして北欧の。
『よく分かりましたね。北欧神話もすごく沢山の神様がいるんでしょう?』
《まぁな。だが『トリウムフォーゲン』の時点である程度は絞れる》
『???』
《推理の過程はレース後にでも話してやるよ》
後に語られたアナの考えは次のようなものだ。
まず、“トリウムフォーゲン”を凱旋門とするのは
トリウムは『勝利』なので良いとして、フォーゲンと『門』はイコールではない。
bågenが意味するのは
(エトワール凱旋門を思い浮かべて典訳するならトリウムフォーゲンとなるが、戦勝を記念して建てられた門であってもアーチ構造が無ければトリウムフォーゲンとは訳せない)
《北欧神話にはビフレストという虹の橋が出てくるんだ。それは特別な時以外は渡ることができない橋で、普段はある神が番をして塞いでいる》
その
ただし、ヘイムダルのエピソードは『見張ること』や『探すこと』を思わせるものが多い。終末戦争では北欧の厄介者トリックスターたるロキと相討ちになるというから戦えないわけではないのだろうが、強さや速さとは結びつきが弱い。
だからサキは“領域”の効果を推察できなかったし、アナの予想も的を外している。
《ビフレストを渡れるのは
『えっ。なんですかその物騒な欠陥建築は!?』
《ギリシャ神話は理不尽にはた迷惑なものが多いが、北欧神話は大部分が物騒だと思う》
神話に対して何故と問うても仕方が無いが、炎神スルトや火の国のウマ娘たちが通ることで焼失するそうだ。虹なのに。
神話によればラグナロクは世界を焼き尽くすものの、後の世には神々の末裔が繁栄することになっているので……どちらかといえば勝利と言えなくもない。
ならばビフレストも、勝利の
……凱旋して戻っても、その時にはすっかり焼けているが。
レース中なのでアナは過程を省いた。結論はゲートインの前に伝えてある。トリウムフォーゲンの新しい力は勇ましく破壊的なものだろうと。もしかしたら炎熱を伴うかも知れないと。
ヘイムダルやビフレストの神話を踏まえれば自然な推測だ。
が、グラはその考えに全く同意できずにいる。
トリウムフォーゲンが勝負にかける情熱についてはグラも疑わない。高松宮記念でも本気で勝ちを狙っていた。その真摯さや熱量についてはアナと同じ認識を持てている。
しかし“領域”の効果は使い手にとっても未詳・不可知・無意識のものだ。魂、心、生き様、コンプレックス、様々なものが否応なく発露する──発露してしまう。
『最終戦争、何もかも燃やし尽くす……うーん?』
《どうした?》
グラの認識では彼女にそんな非情さは無い。もっとはっきり言えば、甘い。
『トリィさんのイメージと合わない気がして』
《そうか? 必要ならやりそうだが》
珍しいことに今回はグラの方が的確である。
トリウムフォーゲン自身も苦笑いしてしまうほど、それは甘っちょろい側面を持つ“領域”だ。
『先頭は坂を登りきり、並んだまま右へと曲がっていきます』
『残すところ1400m──おっとここで前に出たのは、アナグラワンワン!』
仕掛けたのはほとんど同時。ほんの僅かにグラが先だった。
領域具現──
トリウムフォーゲンの新たな“領域”は天高く。