『ゲート入りスムーズに進んでいます秋の天皇賞。本日の東京レース場、バ場は
このレースについて、グラの率直な見通しは『油断や大失敗をしない限り負けは無い』というものだ。
もちろん口には出さないし、相手が弱いという意味でもない。
『昨年の雪辱を晴らしたいテセウスゴルド、獲り逃したGⅠを拾うかアナグラワンワン、そうはさせない芝に復帰のニュクスヘーメラー』
『ゲート入り完了しました──今スタート!』
未現領域──
テセウスゴルドは宝塚記念でグラと引き分けている。
彼女の〈錨破〉はレース中に自分自身の能力を組み替えるという奇怪な“領域”だ。
スタート直後は自らの得意戦法を逃げに変えて先頭を争う。
『飛び出したのはアナグラワンワンとテセウスゴルド! どちらも譲らない、譲らない!』
『集団最後方でちょっと遅れたのはニュクスヘーメラー、しかしいつものことです慌てる様子はありません!』
もはやテセウスゴルドに得意戦法というものは存在しない。スタートと同様に中盤では先行適性に、終盤では追込み適性に(つまり元通りに)変化するはずだ。しかもその度に疲労を全身に散らして誤魔化すおまけ付きである。
対するグラも宝塚記念とは違う。
あの時はまだ新しい勝負服が──つまり、左手の腕輪が──無かった。
加えて今回のレースにはムーンカフェが居ない。すなわち〈新月〉への対策が必要無い。
防御のことを考えなくて良いとなれば喰核を選び放題だ。
「はぁ!?」
「その衣装、そういうことでしたか!」
なお、テセウスゴルドたちが
とはいえ──、
「このUMA娘が!」
「テセさんに言われたくないですよ!?」
──この3人は3人とも常識を語る資格が怪しいのだが。
中でも〈錨破〉にはオンリーワンな特異性がある。使用するとその効果で毛色まで
もっとも、共に競うウマ娘から見ればグラほどではない。
「ワンワンさんは元祖UMA娘ですから〜」
「あ? 元祖はゴルシさんだが?」
「そんな看板張り合うつもりありませんったら!」
それぞれに異常さの方向性が違うのだろう。グラはドロップキックも袋詰め誘拐もしない。ただ色々な精度が並外れているだけだ。
例えば──、
「って、ニュクスいつからそこに居やがった!?」
「さっきです!」
──ニュクスヘーメラーが静かに3番手まで上がって来ていたことに、グラは驚かない。〈コンゴウ〉でずっと聴いていたから。
『今回はスタートが比較的よかったようです、ニュクスヘーメラーが向正面で先頭を射程に収めます』
『今日は果たしていつどこで仕掛けるでしょうか、セオリーの通用しない変幻自在の戦術に注目しましょう』
ものは言いようである。前を行く2人からすれば『何をして来るか分かったもんじゃない』という類の脅威がニュクスヘーメラーだ。
だからこそグラはよくよく観察していた。パドックからずっと。勝負服に加えられたごく小さな変更にもきちんと気付いている。
闇色のポンチョを飾る黄金の星々、その中のひとつがさりげなく林檎に置き換えられていることにも。
領域具現──
周囲の視線・注意・意識がニュクスヘーメラーに吸い寄せられる。元になっているのはエリスという女神の逸話だ。
複数の神々が集まる祝いの席に黄金の林檎を1つだけ贈りつけたという。ただし宛て先を『最も美しい者へ』としか書かず、それによって『これは私に贈られたものだ』と女神たちを争わせた──ちなみにこの争いが巡り巡ってトロイア戦争を引き起こす──厄介ごとの種。不和を象徴するもの。
『これだからギリシャは……!』
《まぁエリスが何もしなくてもヘラやアフロディーテは仲違いしそうだが》
『私は北欧神話の方が好きそうです』
グラからすると理不尽ないし感情的と感じられる。
そもそもその宴席は結婚式だった。そこで『最も美しい者へ』ならば花嫁のテティスに与えれば良さそうなものを、自分のものだと名乗り出た女神たちは全員参列者だというから現代日本の感覚とは噛み合わない。
……ギリシャの神々が持つ自分本位さを、ニュクスヘーメラーは好ましくすら思っているが。
ちなみに黄金林檎を投げ込んだエリスは夜の女神ニュクスの娘にあたるため、“領域”を発展させる素地は充分。たったひとつの林檎を奪い合う状況はレースという現実にもマッチしている。
よってエリスの林檎までは、グラやアナにも想定できた範囲。だからニュクスヘーメラーはその先を行くのだ。
領域転象──
その“領域”の名に、アナは思わず言葉に詰まる。
《 げ 》
『? アテって知恵の女神とかで、割と
《それはアテナ*だな。アテは
『うわぁ』
《司るのは、一言で言うなら“狂気”だ》
ごく端的に説明されたグラだが、その“領域”の効果はよく分からなかった──何も感じられなかったのだ。〈
『とすると……ターゲットは私じゃなくてテセさん?』
確かにテセウスゴルドははっきりと変化を感じている。
「こ、の、何しやがっ!?」
マルディンウィルトが〈
彼女は危険性を把握しないままやらかした側面が強いが、ニュクスヘーメラーは分かっていてもやるタイプである。より
左腕:アバドン
テセウスゴルドが少し遅れたので、先頭に立ったグラは逃げを特性とするアバドンに切り替えた。
ところでこの時点では微妙に勘違いをしている。当然といえば当然だが、ニュクスヘーメラーは最も厄介な相手を狙って〈
「えっ、ワンワンさん何ともないんですか」
「えっ、私は対象外なのでは」
「むしろメインターゲットなんですが?」
「はて?」
そう言われても首を傾げるしかない。〈閉ざす者〉は纏っておらず、ならば〈歓談〉の効果は素通しでグラに届いているはず。
ではどうして効果が無いのか──アナは腹を抱えて笑う。
《く、くく。元から自制心ゼロの欲望まみれで走ってるってことか。あぁ可笑しい》
『なんてこと言うんですか!?』
《だって、ははは、アテというのはだな──》
アテという神格を“狂気”の一言で表すのは端折り過ぎだ。きちんと説明するなら“愚かさによる破滅、または自滅”といったところ。ここでいう愚かさとは“自制を失った不道徳”を指す。
つまり今、テセウスゴルドや後続のウマ娘たちは『道徳的たらんとする自制』を失って乱れているわけだ。そうあろうとする者
『──なら……納得かも……』
《だろう?》
グラは渋々ながら飲み込んだ。そういう神ならば惑わされないのは納得だと。
「そっか、ワンワンさん
「ああ、ニュクスさんもそうですね」
走りを乱されたテセウスゴルドを心配する気持ちがあるとしても、手を差し伸べようとは思わない。乱される方が悪いのだと断言することは躊躇うけれども、心は自力で立て直すのがウマ娘だと信じている。勝負の最中は特に。
ナーサリーナースが苦手とする割り切りで、彼女の価値観で言えば狂気にも見える酷薄さ。
それはもちろん非情なだけではなく──、
『第3コーナーでニュクスヘーメラー2番手にあがりました、更に前との差を詰める、詰める!』
『いえ! 3番手に沈んだテセウスゴルド終わっていない! 抜き返して更に先頭を狙うか!?』
──油断すれば喰われるという危機感から来る備えだ。グラの期待通り、テセウスゴルドは〈歓談〉で自滅するどころか力を増した。ニュクスヘーメラーが仕方なくその“領域”を解除しても勢いは止まらない。
3人の位置は未だ第4コーナーの入り口。東京のここはやや急な曲がりだが、そんなことは知らぬと黄金が仕掛ける。
未現領域──錨破
領域具現──
本来の栗毛と脚質を取り戻したテセウスゴルドは、大きく外へと膨らみながら先頭へ飛び出した。
走る距離は無駄に伸びるし、加速エネルギーとしても効率は良くない。しかしそここそが勝利への道だと信じて。
ニュクスヘーメラーの背筋がゾクゾクと震え、気付けば。
無意識に溢れた〈尊み〉によって、その先頭のすぐ後ろにまで追い上げていた。
この瞬間、彼女の視界にアナグラワンワンは居ない。
『しまっ──』
遅い。遅らされた。待たれていた。
ライバルが先に飛び出すことを。最短の内ラチ沿いが無人のヴィクトリーロードになることを。
コーナーを完全に抜け出すことを。それどころか、最後の坂を登りきるまで我慢して。
左腕:カリギュラ・ゼノ
平坦直線における〈ルフス〉と〈ゼノ〉は最速の組み合わせだ。ここで全てを燃やす。
ずっと溜めていた力を出し尽くすのにかける時間はほんの10秒強。先行していた2人が止まっているように観えたとしても、実況する暇などありはしない。
『アナグラワンワン3番手! このまま終わってしま──きた、きたぁぁああ!』
『なっ……坂の上、平坦区間の最内を……ゴールしたテセウスゴルドとニュクスヘーメラーも、信じられないといった表情です』
| ① | アナグラワンワン | ||
| > 1 | |||
| ② | テセウスゴルド | ||
| > クビ | |||
| ③ | ニュクスヘーメラー | ||
『よし……!』
カメラ判定不要な差をつけて勝利したグラは内心で快哉をあげる。
宝塚記念での同着は自分の判断ミスだという後悔があって、今回はその反省を活かす形で完勝できたから。
快勝と言って良いだろう──しかし。
今回ほど短い時間で全てを出し切ったのは初めてだ。
だからノウハウが無かった。
グラはいつもの健康診断を受けて無傷だったし、身体の問題は何も無い。
次走のマイルチャンピオンシップは3週間後で、ソウルの消耗も余裕をもって回復できる。
だから万全だと思い込んだ。
グラもアナもサキも気付けなかった。
天皇賞でかかってしまった負荷。見過ごされ、潜んでしまったリスク。
こうしたものが牙を剥くのは、得てして勝負の真っ最中である。