6月のはじめ。
安田記念(GⅠ)、芝1600m。京王杯スプリングカップと同じ東京レース場の左回り。
シニア2年目のウマ娘もいる中、京王杯SCの勝者であるボゥ先輩は2番人気だ。クラシック級かつGⅠ初挑戦となるアリー先輩は14番人気。
あ、ちなみにアルバイトスタッフさんは3番人気とアナウンスされて憮然としていた。
「アリー先輩の人気低くないですか?」
「そりゃ身内贔屓ってもんだぜ」
今日もギンさんが先生役である。ありがたい。
「2月のクイーンカップも東京レース場で、1600m左回り。つまり今日と同じコースだ。アソカツリーは5着だった」
「クイーンカップって確かクラシック限定ですよね」
「そう、シニアがいなくて5着だ。今日はシニアもいる」
うぅ……そう聞けばアリー先輩が勝つのは難しそうに感じる。
「前走は4月のニュージーランドトロフィーだ。レース場と距離は?」
「えっ。エラズリー*でしたっけ……?」
「中山1600mな。GⅡも頑張って覚えていこうぜ」
『ニュージーランドトロフィーなのに……』
《そんなこと言ったらエリザベス女王杯は日本で開けないだろ》
『ただの愚痴ですし、この世界の知識でツッコミを入れないでください傷つきます』
ギンさんが優しい目で続ける。かなしい。
「アリーは3着。で、その時の1着と2着もあそこにいるしな」
「むむむむ」
改めて聞けばアリー先輩はクラシックに上がってからまだ勝てていない。本人は『ジュニアの頃からシルバーコレクターとか言われてたし〜』とぽわぽわしていたけれど。
聞く所によるとレース中もそんな雰囲気のまんまらしい。想像しにくいなぁ。
今日もスターティングゲートは観客席から遠いけど、ゲートインの様子は分かりやすい。ボゥ先輩が周りからものすっごく意識されている。どうも先月の京王杯は前評判を覆す結果だったようで、急成長株と見られているらしい。
「今日はどう見るよ、アナグラ」
「ボゥ先輩もアリー先輩も調子は良さそうです。周りは……どうなんでしょう?」
感覚としては今日もボゥ先輩が勝ちそうな予感がしている。でも自信は持てない。
作戦とかはまだまだ勉強中だし、私の感覚だと多くの選手がダメダメという評価になってしまうからだ。流石にこれは私が間違ってるような。
「何が気になる?」
「私が感じてるのは、たぶん集中力の向かう先なんだと思います。先輩たちは自分自身やコースに意識が絞られてて……あぁいえ、視野が狭いってことではなく」
「言いてぇことは分かる。ボゥはパドックから俺らを見つけたみたいだしな」
「はい、視野は広くて……余計なものを見てない? みたいな」
ギンさんはひとつ頷いて、先輩たち以外はどう見えたかと問うた。私は自信のない直感を答える。
「皆さん、ボゥ先輩のことばっかり見過ぎな気がして」
「そりゃ有力な選手はマークするだろう。おそらくスローペースの展開になるぜ」
ゲートが──開く。
『今一斉にスターッと同時に2枠3番アソカツリー飛び出しました!』
客席がざわめく。追込みなボゥ先輩の最後尾は想定通りとして、アリー先輩1人が大逃げみたいに前へ離れたからだ。
いや、大逃げとはちょっと違うのか。
「……周りのペースも遅いですよね?」
「だな。アリーも速すぎってほどではねぇ。追込みを警戒するならペースを落とすのが定石だが」
えーと、確かハイペースは一般的に追込み有利なんだとか。だからアリー先輩以外はやや抑えめにして脚を残しつつ、ボゥ先輩の進路を塞ごうとする。
でもそれは……前走でアルバイトスタッフさんが仕掛けて敗れたやり方だ。
となれば、逃げや先行の人はボゥ先輩を気にするより前へ前へ進んでリードを稼いでおかないと──つまりアリー先輩みたいにしないと──あの末脚と真っ向から争うことになる。東京レース場の直線は520mもあるのに。
そう思ってみていたら、2位集団が前後に分裂した。アリー先輩を追ってリードを作る方と、速度を抑えてボゥ先輩をマークする方。
「? ギンさん、あの速度を抑えた側の狙いが分からないんですが」
「そりゃボゥの進路を塞ぐつもりなんだろ」
「え? どうやってですか?」
「どうやって?」
「?」
おかしいな、前走も一緒に観てたはず──あ、そっか。“領域”ってヒトミミには見えないんだっけ?
いや、それ以前に。“領域”はウマソウルの極致であって、誰でも使えるものじゃない。大半のウマ娘は体験したことすら無いんだ。
ってことは、もしかして。
「アリー先輩についてったのはシニアで、クラシックの人は後ろめに残ってたりします?」
「ぉん? あー……ほぼ、そうだな。前に行ったクラシック級もいるが、あの子はGⅠも経験してる」
「なら、“領域”を知ってるかも」
「……そこで分かれたか」
前走を映像で観ると、ボゥ先輩がどうやって2位に躍り出たか謎なんだよね。集団に空いた隙間はそんなに大きくなかったから。あんな風にすり抜けられるようには見えなかった。
──でも、全く無かったわけじゃない。だから『ちゃんと塞げば今度は抜けないはずだ』って考えて……それでボゥ先輩の前を遅めに塞いでるってことだろうか。
でもそういうやり方じゃ無理だ。
“領域”は理屈じゃない──いや理屈とか法則があるにはあるけど、それは物理法則とは別物。もしかしたら先輩のあれは、隙間が狭いほど突破力を増す可能性すらある。
理外の理。先輩だけの。
領域具現──
『第4コーナーの途中、アルヘイボゥ今日も凄まじい加速で集団をすり抜けました現在6番──5番手! 直線で一気にまくれるでしょうか!?』
「すごい、前よりずっとはっきりしてる……」
「今、使ったのか。やっぱなんも見えねえな」
この前は見間違いかと思うくらいの、陽炎みたいなモヤだったのに。今日は赤と青と白の3色が淡く淡く見えている。複雑な絡み合いを
先行集団が前後に分かれた時、前へ進んだのは4人。その最後尾は実況の途中で抜かれ、残る3人もぐんぐん追い抜かれていく。
先頭アリー先輩、2番手ボゥ先輩。差はたったの2バ身で残すところは200m以上。このペースならボゥ先輩が悠々と──と思ったところで。
領域具現──
「む、ボゥが減速したか?」
「……アリー先輩の“領域”です」
「マジかよ」
「バチバチぶつかってるみたい……」
アリー先輩の──お花? みたいな“領域”はモヤみたいな薄さだけど、ボゥ先輩のとぶつかることで輪郭が見やすいのだろうか。
聞いていた通り、ぽわっとした笑顔のままなのが逆に怖い。効果は割とえげつない気がするけど。
「順位の固定、みたいな? ボゥ先輩の加速はアリー先輩の追い風になるし、その逆にも働く……そんな感じじゃないかと」
「ほんとに“領域”ってなぁなんでもアリだな」
本当に。とりあえずアリー先輩のアレは差しや追込みからすればとんでもなく厄介な効果なんじゃ──っヒィ!?
「今ボゥ先輩こっち睨みませんでした!?」
「流石に気のせいだろ」
《睨んでたように見えたぞ。『余計なことしやがって』みたいな感じで》
「ですよねぇ!?」
戦意を漲らせた先輩は、一瞬だけ寄越した視線を正面に戻して──そのまま、ぶちぬいた。幽かな桃色の花びらが散り、鮮やかさを増した3色の帯がまっすぐにゴールを貫く。
その瞬間、私は叫んでいた。客席全体も歓声に沸いた。
『最後はアソカツリーをかわしてアルヘイボゥ先頭でゴォール! 初のGⅠ勝利をこの安田記念で飾りました!
2着はアソカ──おっとゴール前で疲れたでしょうか、アソカツリーとアルバイトスタッフは写真判定になるようです。しかし1着アルヘイボゥは確定しています着差はおよそ1バ身半』
すごいすごい、ワンツーフィニッシュだ!
『荒く息をつきながらも笑顔で拳を突き上げるアルヘイボゥです。おっとそこにアソカツリー笑顔で抱きついて、これは祝福しているようですね。アルヘイボゥもアソカツリーの背中を優しく叩きます』
『2人は同じトレーナーに師事する先輩後輩ですからね。真剣に競い合ってなお称え合う、美しい光景です』
ぶらぼー! さいこー!!
『素晴らしいレースでした──写真判定の結果が出たようです、2着アソカツリー! 初のGⅠで2着に食い込んだのはクラシック級のアソカツリーです!』
──ふと我に返ると。
なんだかギンさんが随分遠くにいた。何してるんですか、もっと声出して喜びましょうよ。
え? ウイニングライブは別々に観るんですか? 別に良いですけど……。
同じ日の夕方、3人のウマ娘と千田親子で開いたささやかな祝勝会。
「アンタなんで去年入学してこないのよ」
「そんなこと言われましても。それよりGⅠ勝利おめでとうございます、ボゥ先輩!」
「おめでとうございます〜!」
「2人とも何度目なんだか……ありがと」
今日のレースから、アナグラワンワンに“領域”習得を促す性質(?)があるらしいことはある程度はっきりした。
ギンの経験から言ってもアソカツリーの覚醒はかなり早いし、また習得の順序も異色。ほとんどのケースはアルヘイボゥのように、『誰かの“領域”を体験する→自身のそれを掘り起こす→外の世界へ具現化する』といった段階を踏むはずなのだ。
「私は〜、『ワンちゃんに掘り起こされて→先輩のを背中に感じて→やってみたら出来た』みたいな感じでしょーか」
「掘り起こ──え、トレーニング中そんな感覚だったんですか?」
「嫌な意味じゃないよー? ギンさんの言い方に合わせただけぇ」
アソカツリーは疲れと喜びと脱力のせいか普段以上にほわほわとして、今にも眠ってしまいそうな有り様だ。
一方でアルヘイボゥは、同じく気を抜いているからこそ遠慮なしに言葉を連ねる──アナグラは満更でも無さそうなので大人たちも止めはしない。
「ギンさんが最初に『体験』を挙げたのはよく分かるのよ、あんなの言葉じゃ説明も理解もできないから。ただそれで言うと、アンタのソレも“領域”なんじゃないのって思えるのよね……」
「あぁ、そう考えればアリー先輩も先に体験したことになりますね。ならそうなんじゃないですか?」
「あっさり頷くんじゃない! じょーしきを身に着けなさいじょーしきを!」
「えぇ……【喚起】が“領域”だとおかしいんですか?」
自らの異常性に自覚が薄過ぎだ。アナグラの額をつんつんと突きながらアルヘイボゥは続ける。
「今日の相手にも居たみたいに、“領域”なんて浴びたこともないウマ娘は普通にいるわ。だけどおかしいと思わない? 体験することが習得の入り口なら、同じトレーナーの先輩から──ううん、生徒会長とかからでもいい──全員1回は食らわせてもらえば
「そうですね?」
「そうですねじゃなくてェ……。出来ないんだってば。私もそうだけど、真剣勝負の最中にしか使えないの。そーいうもんなの」
「あ、私も練習で出せる気はしないです〜」
「でしょ? だからGⅠとかを走らない限りは体験の機会も無い。
……まぁ例外はいるんでしょうし、アンタもそうなんでしょうけど」
“領域”はレース中にしか使えないという話に、アナグラはようやく腑に落ちる思いがした。理事長やシンボリルドルフの前で実演した際、あんなにも驚かれたのはそのせいだったのかと。
「普通は実演なんてできない……なるほど」
「ほんっとにアンタはやること為すこと──」
ややトゲがあるものの、アルヘイボゥの言葉は後輩を教え導くもの。アナグラの方もありがたく傾聴しながら、嬉しそうに飲み物を注いだりお菓子をすすめたりしている。ノンアルコールながら絡み酒のような空気だった。
それを眺めながら、大人2人も静かに言葉を交わす。
「ひとまずお疲れさん、サキ」
「ありがとう、父さん」
ただし彼らは笑顔を取り繕う必要があった。アルヘイボゥの勝利を喜んでいるのは偽らざる本心だが。
(……どうするつもりだ?)
(まずは本人の意思を確認しないと……)
(嬢ちゃんに委ねていいもんかねぇ……)
(…………)
口には出さないまま、視線だけで憂いを共有する父娘。もちろんアナグラの【喚起】に関することだ。
“領域”の覚醒および成長を助ける。それはウマ娘にもトレーナーにも垂涎の的に他ならない。
これを最大限効率的に運用したいなら答えは簡単、隠して檻に入れれば良い。アルヘイボゥやアソカツリー以外とトレーニングをする際は【喚起】を使わせないことだ。
それはレース界全体を考えれば悪しき独占かも知れない。アナグラが多くのウマ娘と交わり“領域”の使い手が増えれば競走は激しくなり、少なくとも見応えは増すだろう。
肝心の本人はどうか。例えばライバルと見定めたムーンカフェと併走などをする機会があったとして、相手に“領域”のヒントを与えることと与えないこと、どちらを選ぶつもりなのか。
サキもギンも色々なウマ娘を見てきた。
ライバルが強くなることを喜ぶ者もいた。邪魔はしないまでも手助けはしないという者もいた。どちらも間違ってはいない。
競走相手──ムーンカフェの立場からも言いたいことはあるだろう。強くなれるならライバルの手も掴むのか、そんな施しは受け取らないと拒むのか。
……受け手の側が【喚起】の影響を拒めるかは分からないが。
「……覚悟の問題、でしょ。正解なんて無い」
「……そうさな。酷なことになるかも知れんが」
「もう、あの子については予想するだけ徒労な気がするから……時機を見て、本人に訊いちゃうつもり」
「逞しくなりやがって」
結論はもう少し先。今はグラの覚悟もまるで定まっていない。
月末のメイクデビューやその先のレースが意味するところ──それはつまり、自分以外の全員を蹴落とさんとすることだ。
踏破する。踏んで、破る。
勝利を、夢を、自尊心を、生き甲斐を。
今のグラにそれをする動機があるのか、サキは疑わしく思う。
理由を必要としない子もいるが、アナグラワンワンは当てはまらないだろう。良くも悪くも敗者を気遣ってしまうタイプだ。
言い換えるなら──どこかで常に、他人の顔色を伺ってしまうタイプ。
そんなサキの見立ては、少なくとも部分的には正しいものだった。