昨年の有馬記念に臨む際、グラはこんなことを考えていた。
『3着以下になるとしたら、それは私の大ポカ。ムンちゃん以外に敗けることは考えにくい』
それを知っているわけではないが、今年のムーンカフェも似たような戦力分析だ。
『掲示板を逃すことは無い。今の私を正攻法で倒せるとしたらグラくらい──奇策で予想を覆してくるとしたら……トリィ、ウィル、ニュクスの誰かか』
テセウスゴルドはピークアウトしている。ドゥームデューキスは地力に劣る。2人とも弱くはないし伸びてもいるが、異常性もとい危険性はそこまでではないとの判断。
事前のデータだけでなく今日の走りもよく観察した。先頭近くから中団の後ろまで下がりながら、最後方のニュクスヘーメラーとテセウスゴルドまでを見た上で『分析に修正は要らない』と結論づけたのは第2コーナーの手前辺りでのこと。
緩やかに位置を上げながら考える。
『残り1400を切った。グラも動く頃だわ』
第2コーナーから向正面前半は降りだ。ムーンカフェの考え通り、アナグラワンワンにとっての仕掛け所にあたる。
実際、何事も無ければここで仕掛けていただろう。しかしその直前に動いた者たちがいる。
未現領域──
『『『────っ!!』』』
〈喰卓〉は友愛に溢れている。
同じレースで競い合う自分たちは仲間だと、家族だと、裏表のない愛を謳う。
16人のうち15人は敗れ去るという残酷で無慈悲な競演。ならばこの出会いは共通する
そしてその先も隠さない。
『だから、私が勝っても文句は無いだろ?』
悪い方向に言い換えるなら『愛している、だから全員
やはり捻れて狂っている。確かに自らが勝つことと他を負かすことは
殺伐兵士脳のグラでさえギョッとせずには居られなかった。ムーンカフェもトリウムフォーゲンも一瞬身体が強張った。
後ろから見ればその変調は明らか。大きなチャンスだ。
領域転象──
ニュクスヘーメラーだけが、マルディンウィルトの捩れを当然のものとして受け流せた。怯えないどころか『ヌルい』と断じながら。
実際、〈喰卓〉はこの場の全員に作用するものだ。力が散っている。その点ニュクスヘーメラーの牙は目移りしない。
未現領域──
ネメシス*──復讐の女神と訳されがちだが、人の憍慢や神への不敬・不信心を戒める裁決と呵責の神性。因果応報という意味では復讐と言えなくもない。
〈
「行きます!」
「っ! 速い……っ!」
ムーンカフェも呻くほどの追い上げ。
曰く、“必然としての”ネメシス。
それ以前からマルディンウィルトの〈喰卓〉が全員に作用していた。
使い手自身は『ライバルたちの長所がよく視えるようになり、それを取り入れて自分を強化できる』などと認識しているが……そんな大人しいものではない。
『『これ、〈極点〉……!?』』
グラとムーンカフェの印象通り。効果はささやかながら内容は極めて近い。他者の力を齧って使う、友愛と矛盾しない殺意。
残り1000m、向正面の半ばで第2コーナーからの下り坂は終わった。
現在ムーンカフェは11番手。いや、ここで重要なのは順位よりも位置関係だ。マルディンウィルト8番手、ニュクスヘーメラー12番手。理屈の通じない2人に挟まれた現状は苦境と言って良い。
なればこその3人目。
強力なライバルが苦しんでいるなら、潰す。
領域具現──
「トリィ!?」
「謝らないわよ?」
ムーンカフェが意表を突かれたように、トリウムフォーゲンがこのタイミングで仕掛けたことは合理的とは言い難い。発動時の順位を固定する〈虹霓神〉は先頭に立ってから使うべきものだ。
先頭は依然アナグラワンワンのまま。橋守による抑止効果は3番手以下にのみ働いている。
苦境は大歓迎。頬を釣り上げて笑うムーンカフェに絶望は無い。ただし──、
「私から仕留めようってわけね……!」
──それは少し、違う。
決して口にすることはないが、トリウムフォーゲンは困っている。
このことは妹にも隠し通すと決めた。というより妹にこそ明かせない。
『ムーンを先に潰しにかかった』のではなく『グラを後に回した』。
後者の表現でも間違ってはいないが、より正確に言えば『グラを潰しにいきづらい』側面が確かにある。
『やっぱり私、甘っちょろいのよねぇ……』
気に食わない、生意気なUMA娘だったはずなのに。
妹のワガママを受け止めてくれた。妹の夢を応援してくれた。実家に顔を出せば弟たちにも懐かれ、両親からも気に入られて。ミネイ辺りはすでにあちらの方を
つまるところ、トリウムフォーゲンの中でアナグラワンワンは『身内枠』に組み込まれつつある。たったそれだけ、取るに足らないはずの情。刃を鈍らせる余計なもの。
「…………?」
先頭を行くグラは不思議そうに振り返っている。レースに関係無いことはとことんまで察しが悪い。
「待ってなさい、あんたを倒すのは最後よ!」
「! 分かりました!」
3コーナーの入り口はすぐそこ。
前からは嬉しそうな返事があったが、ペースコントロールは憎らしいほど正確だ。昂りに任せて脚を使ったりはしてくれない。
そしてもちろん、敵は後続にもいる。いるはずなのに。
『アレを使ってこない。何を狙ってる?』
残り800mまで来てなお、ムーンカフェが〈新月〉を使わない。あれが〈虹霓神〉を打ち破れることは先月のジャパンカップで証明されているので、すぐに〈極光奏〉に移行することになるだろうという腹積もりだったのだが。
かなりのハイペースで1700m以上を駆け抜けたことで、コンバスチャンバーとベアリングシャフトはすでに息切れしている。4番手・5番手という位置も維持することができずズルズルと後退中。
代わりにマルディンウィルトが5番手に上がってきた。7番手ムーンカフェの真後ろにはニュクスヘーメラーが食いついて離れない。
『もう動かないと間に合わなくなりそうだけど……いいえ、余計な心配よね』
何を企んでいるのかは想像がつかない。
そもそも内面を細かく推し量れるほど親しくもないのだ。実力や覚悟を認めてはいるから『無策ではないのだろう』と考えるが、その辺りが限界である。
その時、後方で誰かが呟いた。
「……っ! マズい!」
何かに気付いたらしい。トリウムフォーゲンの耳では慌てた声の主を咄嗟に聴き分けられないが、位置的にはムーンカフェの近く──8番手・ニュクスヘーメラー。
第3コーナーを曲がりながらという妙な位置で強引に進出を始め、今マルディンウィルトをも抜き去って一気に5番手まで上がってきた。
更に──、
未現領域──讐咎神眼
審判≫トリウムフォーゲン
──〈神眼〉のターゲットを切り替えて追走を強める。何を察したのやら、今の内にムーンカフェとのリードを広げておきたいようだ。
トリウムフォーゲンはこの攻勢を危険視しなかった。一時的になら前に立たれる可能性があるが、それでももう200mも行かない内に第4コーナー、そこに達すれば
ニュクスヘーメラーについての戦力分析は間違っていない。
ただしそれ以外の部分で致命的なことを見落としている。
この時の彼女が警戒すべきだったのは、ニュクスヘーメラーでもムーンカフェでもマルディンウィルトでもなく。
名前も挙がらないようなウマ娘たちだ。みな常識を備えている──ただし、この世代の日本での常識を。
彼女らはジャパンCでも〈虹霓神〉を浴びた。その後〈極光奏〉に変わるのも視た。効果も大筋で察した。
だから『第4コーナーに入ればトリウムフォーゲンが手を付けられなくなる』ことはとっくに予測済み。
よって彼女らは一斉に動く。示し合わせたわけでなく各自が最適を選んで、炸裂するのは第3コーナーを抜ける直前。
領域具現──
+
未現領域──循環否定迷宮
テセウスゴルドとドゥームデューキスの足掻きも揃った。
『! ったく、
乱れ飛ぶ“領域”。あるいはロングスパートを始めた圧力。〈虹霓神〉にかかる後方からの圧力がぐんと増した。
凱旋門賞の時は4人か5人が挑戦を諦めて、護られるに甘んじていたのに。
今日ここでは全員が──混乱から脱する暇のないペガサスヴェールは別として──虹橋を渡らんとする勇士たちだ。日本にまともなウマ娘はいないのだろうか。
「トリィさん、自分が観察されてる自覚無かったんですか?」
「無くはなかったけど、おかしいでしょう色々と!!」
そもそも先月のジャパンC時点で、『トリウムフォーゲンが有馬記念にも出る』と知っていた日本ウマ娘がどれだけいただろう。
腕輪を壊した"金剛"からの連絡と根回しで、出ると決めてはいた。だがわざわざ公表したわけではない。
『グラは軽々しく言い触らすタイプじゃない、知ってたとしてもムーンぐらいのはず!』
つまり彼女らは、戦うかどうかも分からない相手を『次は勝つ』と睨みながらジャパンCを走っていたということ。それが
日本勢は誰も驚いていない。ああ、どうやら普通のことらしい。これがUMA娘の、UMAシスターズのホームか。
驚いてしまった。トリウムフォーゲンは感じ入ってしまった。
──ムーンカフェが予測し期待していた通りに。
『残り520m、やっと隙を見せたわねトリィ』
7番手か8番手、中団に埋もれた危うい位置にいながらムーンカフェは
最後のコーナー入り口、ここからなら間に合うと。
もう1着か2着しかありえない──自分とグラとの1対1だと。