※実在ウマ娘ちゃんの未来を捏造しています。
目覚ましより早く飛び起きた。
5月最初の土曜日、時刻は5時過ぎ。
普段なら『もう少し』とお布団を被り直すところだけれど。
《選抜レースってのは何時だ。あと何時間ある?》
頭の中に焦った声。
よかった、夢じゃない──喜ぶのは後にしよう。
「午後2時からなので、9時間弱ですね」
《足りない。そのレースに次の機会は無いのか》
「ありますけど、休むとかはナシですよ」
《落ち着け。手元を見ろ》
くしゃり。落ち葉でも握り潰すような感触がした。言われた通りに目をやると、粉々になったパジャマのボタン。わーお。
ちなみに、ウマ娘的には『あちゃー』程度の話である。私以外は小学生の内に似たような体験をして力の制御を学ぶ──その位の年齢ならヒビを入れちゃう程度で、ここまで粉微塵にはしないだろうけど。
《レースなんだろ? 君も、一緒に走る仲間まで危険に晒すぞ》
「……午前の授業はサボります」
《それでも無理がある》
慎重にボタンを外すのももどかしく、微妙に千切るような感じで服を脱ぐ。制服に着替えるのは難儀しそうだけど体操服ならなんとかなるだろう。
……さすがにビリビリで走るのはイヤだから、脱ぐよりずっと慎重に服を着て。あー、靴は寮母さんに履かせてもらおうかな。頼んでも大丈夫だろうか。
《運動をして慣らすのはいい。だがレースは見送るべきだ》
「いやです」
《病欠みたいなものだろう》
「嘘は、嫌いです」
《っ……》
お姉さんが黙った。
え、嘘ついてたんだ?
いやまぁ──ちょっと納得だけど。
夢の中から疑ってたとか、そういうことではなくて。極端なこと言ったら異世界の話なんて全部嘘でも分からないけれど、ただ人柄で信用はしていた。
無闇な嘘はつかないだろうな。
でも私や誰かのためなら平気で嘘つくんだろうな、って。
そう考えたら、あぁなるほどという話。
「お別れだなんて嘘なんですね。お姉さんはずっとそこに居られるんだ」
《いや、待っ──》
「急に苦しそうな演技再開してもムダ過ぎます。物言わぬ
《…………》
慎重に立ち上がって、そっとドアを開ける。握り潰さないように、ゆっくり通って、音を立てないように閉め、て……今更だけど、
──うん、後で考えよう。
『お姉さんお姉さん、心の声でも聴こえますか』
《……聴こえてる》
『良かった。ならどうにかなるでしょう』
《おい何考えてる? ──まさか、》
『せっかく話せるウマソウルなんですから。パワーの制御、手伝ってください』
《うわぁ、
『君の人生に影響を与えたくないんだ』とか『好きに生きろ』とか言うお姉さんを問い詰める。
だって今更すぎるでしょう。影響っていうならかなり手遅れだし、黙ろうと黙るまいとお姉さんはそこにいるんでしょう。
まずコールサインじゃない名前を吐かせた。フルネームは聞けなかったけど、近しい人からは“アン”と呼ばれていたそうだ。
『じゃあアナさんでどうですか。アナグラワンワンですし』
《好きにしろ》
夢の中よりだいぶぶっきらぼうになったアナさん。心の距離が縮まった証拠。私の渾名も決めてくれた。
《……君のことはグラと呼ぼう》
『お、いいですね。アナグラコンビ』
《由来は違うが》
──
少し悩んだけれど、寮母さんには正面から相談した。授業に出る気は無いけど身体を動かせる広いスペースが欲しいって。
サボりなのに隠れられないわけだから、すぐに連れ戻されちゃうもんね。
さすがに困ったご様子だけど、こちらも引けない。教室や机を壊しかねないとか頼み込んで、寮の裏庭なら目を瞑ってもらえることになった。
あと靴紐も代わりに結んでもらった。
「いつもありがとうございます」
「ヒュッ」
「あ」
《おい、この人大丈夫か!?》
『寮母さんはすぐ灰になるし雑に復活するので大丈夫ですよ』
《ウマ娘、神秘の生態……》
『基準にされると困るんですが』
さて。
私の身体が昨日までと全く違うことは、ストレッチや柔軟の段階でありありと分かった。そっと力を入れるだけでぐいっと関節が回る。痛みはないけどびっくりして、全身そんな感じだ。
《当たり前だけど可動限界はあるからな》
『それを確かめてるんです』
《頭で分かるもんじゃない。身体に染み込ませるために時間をかけるんだ》
『それはもちろん』
手の小指をピンと伸ばして、薬指から離す方へ力んでみる。骨と腱とがストッパーになってある角度で止まり、更に力を込めれば引っ張られるような感覚はあるけど……痛みはない。強くなったのは筋肉だけじゃないんだ。
こんなちまちましたことを、ひとつひとつ確かめていく。
《全力疾走で身体にかかる負担はこんなものじゃない》
『たぶん全力疾走はしません』
《ん?》
『今日できるベストを追求してるんです』
《ほう》
恐怖が無いわけじゃない。痛みは普通に怖いし、誰かに怪我させるのも恐ろしい。アナさんに伝わってしまわないか心配だ。
ただ、仮病とかで走らないのも嫌。嘘は大嫌い。かけっこで手を抜かれ勝ちを『プレゼント』された時、私は初めて人を殴りたくなった。
やれることをやらないのは虫唾が走る。
《……何か怒ってるか? 身体はいい感じのようだが》
おっと。全く伝わらないわけじゃないのか。
『すいません、アナさんに怒ったわけじゃ。身体の方は、心配してたよりマシですね』
最悪、ストレッチで身体をひねったらブチィ! みたいな想像もしてたから。そういう自壊は起こらないみたいでちょっと安心。
ただ、走るのはやっぱり難しいな。頑丈さは筋力に合わせて上がってるけど、重力はそのまんまだ。思った以上に身体が浮いてしまい、当たり前に足が空振る。
『地面が遠い!?』
《力を抑えるか、もっと後ろへ蹴り出すかだな》
アナさんの言う理屈は分かるし、軽ーく蹴ればそれなりに前には進める。
でも強い踏み込みで上じゃなく前へ進もうとすると──、
「ずべっ!?」
──摩擦が足りずに足が滑る。これは蹄鉄から調整しないとダメなのでは。
《! あーもう、先に転ぶ練習をしろ危なっかしい》
「チッ……くそっ」
ヤバい、ヤバいヤバい。今日までに研いできた走りを全く再現できない。パワーは格段に上がってるのに、これじゃ昨日までよりも遅くなってしまう。
──心が萎えかけると、強制的に焼べられる
勝てないとしてもベストは尽くさなくてはならない。1秒でも多く練習を。さぁ、すぐに立ち上がれ。
急かされるまま地面に手をついて身体を起こし──、
「……あれ?」
──顔の左右に、すでに手はついている。受け身の際についこうしてしまった。
……うーん、この角度だと手首とかを痛めててもおかしくないんだけど。
無痛。不自然なほどに。
『アナさん』
《知らん》
『嘘つきは嫌いです』
《よく考えたら君に嫌われてもノーダメージなんだよな》
『あ、そういうこと言います?』
そりゃ、アナさんからすれば私に協力する義理は無いだろう。
でも
『本当のことを言ってくれなきゃ安全なんて得られないと思いません?』
《それは……そうだが》
『脅したいわけじゃないですけど、アナさんに隠し事されたら私はそれを解き明かすために色々試すしかないんです』
《やめなさい。分かった、話そう》
最初に言われたのは、アナさんもおっかなびっくりの慣らし運転の最中であること。自分に何が出来るのか探り探りの段階にあること。
《考えるより先に使えたから、きっと前世の……兵士としての力だと思う。さっきのは『
『盾、ですか』
アナさん、すっごく嫌そう。私たちの世界に殺し合いの道具を持ち込んだことが申し訳ないんだって。
『私を護ってくれたじゃないですか』
《他は『
『むぅ』
《それと、これも伝えなきゃな。力は全部で4つある》
『盾と剣と銃と……もう1つ?』
《そうだ。だが使えない。危険すぎる》
アナさんはそれを、ぎちぎちに縛り上げて封印していると言う。それでも暴れ狂おうとする忌まわしい貪狼だと。
《とりあえず『
『あー。そういえば今朝は大分マシな気がします、アナさんのおかげ?』
《……その分だと自覚が無いのか? グラ、さっき転んだ時に思い切り舌打ちしてたぞ》
『えっ』
舌打ち? ムカツく過去を思い出してもそんなことしなかったのに?
《してたんだよ。私が盾を使って、そのせいで鎖が緩んだ。すぐに締め直したが》
『おー……って、アナさん』
《ん?》
『それってつまり、眠りにつくどころか不眠不休でソレの番をし続けるつもりだったんですか』
《…………》
『そういうことですよね、それで私には気にせず好きに生きろとか言ってくれやがったんですか、ふーんさすが英雄サマはかっこいーですねぇー』
《何を怒ってる》
『そんなの私だって知りませんが、お願いしますやめてください。その自己犠牲、なんていうかドン引きです』
《ドン引きかぁ……》
何故かアナさんの勢いが弱まった。ドン引きはされたくないらしい。
いい機会だから反撃に出よう。
『私、さっきの話がそもそも違うと思うんです』
《どの話だ》
『その今にも暴れそうな狼が、私の強迫の原因だっていうの』
あくまで私の実感として。
私を苛む闘争欲は、他人を害そうとしたことが無い。戦わずにいる自分を、腑抜けた怠惰を、1秒後に危機が迫ったら死ぬしかない無力を、深く烈しく憎むのだ。
これまでのレースだって勝者のことは素直に称えられた。喰ってやるだなんて欠片も思わない。たぶん、私は負けても生きていたから。
そう伝えるとアナさんは悲しげに呻く。
《……なんてこった》
『どうしました?』
《確かにそれなら、
『え』
世界を救った英雄の、向上心や克己心。言い換えれば諦めの悪さ。戦わなければ死ぬ──あまりにも身近な死と危機感。
それがどれ程のものか、私は一端を知っている。小学生の小娘を焦燥で衝き動かし、勝てもしない
《本当に、済まない……》
『謝るような、ことでは』
アナさんが悪いわけじゃない。世界が違う、前提が違うのだから。
見方によっては、この世界で平和にレースに打ち込む私たちを憎んだとしても理解はできる。なのにこの人は全力で、さらっと
《私が元凶か……それなら──》
『アナさん、自分を責めないで』
《──盾を使ったからじゃなく、グラの無力がきっかけなら。……やりようはあるか》
『えっ』
《ん?》
世界を救った英雄の、心の強さ。
私はそれを、まだまだ低く見積もっていた。
午後1時。選抜レースの1時間前。
私たちの訓練は最終調整の段階に入っている。
主に安全性の面で。
有り余る、過剰なほどの速度を抑える方向で。
「──とりあえず、今日のところはこれがベストですかね……」