芙蓉ステークスに勝った数日後。
ワン子と千田トレーナーから『話したいことがある』と切り出されて、私とトレーナーの真壁さんは並んで話を聞いた。
まずは【喚起】のこと。
一緒に走ることで“領域”の覚醒を促す力。それはほとんど真壁さんの推測通りの内容だった。
「──え、全部分かってたってことですか!?」
「全部じゃないけど、大体はね」
「はぇー……」
真壁さんの反応にワン子は驚いている。でも隣の千田さんは涼しい顔だ。
「サキさんが『隠しても無駄』って言ってたの、こういうことなんですね」
「そう。“領域”そのものが見えなくたって、ワンの出たレースが普通じゃないのは見逃しっこない。特に真壁さんみたいな凄腕はね」
「千田さんは俺を持ち上げ過ぎじゃないですか。カフェ君やタキオン君に意見を求めないと“領域”だと断言はできなかった」
「ご謙遜を。ほとんど分かっていて、最後の確認程度でしょう」
千田さんは……真壁さんよりは年齢もトレーナー歴も若い人で、だから言葉遣いとかは丁寧なんだけど。
バシバシと対抗心を感じる。芙蓉ステークスで私が勝ったばかりだものね? 悔しいんでしょう。そんな態度に担当ウマ娘の方が苦言を呈する。
「サキさん、謝りにきたんですからそんなにトゲトゲしないでくださいよ」
「別にトゲトゲしてません。ワンも念のための説明に来ただけで、謝ることなんて無い」
いやトゲトゲしてるじゃないの……と思ったけれど。
珈琲に口をつけた千田さんは──、
「うん? 真壁さん、いい珈琲お飲みですね。マンハッタンカフェさんのブレンドとは少し違うみたいですが」
──いい人じゃないか! まさかそこに気づくとは。
「ありがとうございます! それは私のオリジナルブレンドで」
「え、すごいわね。まるで高級品」
「嬉しいです、気に入ってもらえたなら」
私のブレンドはお姉様の味にかなり寄せていて──というか完コピを目指した未達成なんだけど──何度か黙って真壁さんに出しても指摘されたことはない。
今日だって全員に同じものを淹れたわけで……あ、隣で真壁さんがびっくりした上に落ち込んでいる。それを見た千田さんも思い切りドヤってくるし。
「もしやお気付きになりませんでした? 担当の努力は走り以外も評価してあげなきゃ可哀想ですよ真壁さん」
「ぐ、いや、この場合は気付かないことこそ最高の評価なわけで……」
「そ、そうです! 真壁さんはバ鹿舌なんかじゃないです!」
真壁さんを貶めるつもりなんて無かったんですって。気付かれたのが予想外なだけで。
ちなみにワン子は珈琲の美味しさが分からないと蚊帳の外だった──そんなに牛乳入れてたら分かるわけないか。お子様舌ね。
さすがにそんなマウント合戦を引っ張ることもなく。
【喚起】の話を前提に、本題として切り出されたのは──ゴール直前のアレについてだった。
「私とワン子の、『合作』……?」
「合作はもののたとえだけど。ムンちゃんにだけは、他の人には無かったプラスアルファの影響を与えちゃったって話」
「ムーンの実感としてはどうだい? ゴール直前のことは『自分でも分からない』って言ってたけど」
「どう、と訊かれても……」
私の“領域”。
あの月の世界は開いてみて納得感があった。初めて教わった時につい『インチキ』なんて言いかけたように、どうも私は“領域”全般を好ましく思えないようだから。そういうの無しで身体ひとつの勝負をしたい欲求が確かにあって、あの月面ではそれが叶うのだ。
だけどその清澄な世界はゴールまで続かなかった。ワン子の言葉を借りるなら【喚起】による侵食。私の感覚としては……うーん。
「近いのは……『何かが降ってきた』感じでしょうか。ターフから追い出したはずの色んなモノが、全部引っくるめて私に向かって落ちてきた」
「それがテセウスゴルドやアイオブエンヴィの力だというのは?」
「正直分かりません。それを『使った』とか『ワン子に向けた』みたいな意識は全然無いんです。そういう──能動じゃなく受動だったって意味では、ワン子の説も一応納得できます」
「なるほど」
ワン子の言葉はあちこち辿々しいというか歯切れが悪いけれど、それを責める気にはなれない。私も似たようなもの。“領域”のことを言語化しようって時点でちょっと無理があるのだ。
永続性は無いとか再現性は有るとか、そんなあれこれを真壁さんはさくっとまとめてくれた。
「つまり君が居るレースと居ないレースでムーンの“領域”は違ったものになるんだね」
「へぁ。あー、まぁ……結論としてはそうです。えと、あくまで推測ですけど」
……周りの“領域”効果を消し飛ばすだけの〈新月〉と、それらを私に味方させる〈極点〉。この子がつけたにしては不思議としっくりくる仮称だ。
本来私の“領域”は〈新月〉だけど、この子と一緒に走ると〈極点〉になってしまう、と。
「よく分かった、助かるよ。ありがとう」
「どうも……?」
肩透かしといった感じで首を傾げるワン子。謝りに来たと言ってたから、真壁さんの反応が意外なんでしょうね。
実際、ありがたい情報ではあるのだ。『〈極点〉を出せるつもりで作戦を立てていたら〈新月〉しか出せなかった』みたいなことになると大きく計算が狂うんだもの。
「あの、ムンちゃん……?」
「なによ」
「怒ってないの?」
「怒られたいの?」
「ひえっ」
怒っているかと訊かれたら──怒っている。
でもそれは私自身に対してだ。
「最後の坂を登り切って貴女が加速した時。私はこのままだと敗けると──良くて同着だと思った。そりゃ面白くないわよ、勝たせてもらったみたいで」
「私も同じこと思ってたけど」
「そ? なら尚のこと、私に〈極点〉を出させる理由が無い」
「それは誓う。わざと負けたとか譲ったとか思わないで」
「大きな声出さなくても分かってるったら。だから責めてはいないでしょ」
ほーっと大きく息が吐かれた。なるほどそれでびくびくしてたのか。
その心配は要らない──けれども。
私としては『他に気にすることあるんじゃないの?』という思いがあって。この子はそれを抱いていないらしい。
そこに関しては千田さんも、真壁さんすら何も言わない。
──うっすら心配になるのは私だけなんだろうか。
『【喚起】ってそれ、本当に安全なの?』って。
本題が済んだからと、大人2人はマウント合戦を再開してしまった。
え、千田さん私の“領域”を事前に予測してたって本当? そんなこと真壁さんもできてなかったのに。
数日後。
私は矢部さんというトレーナーの部屋で深々と頭を下げている。ただし私はオマケで、本来ならワン子がお詫びするべきなのだ──なんで私がこんなことを?
でも仕方がない、乗りかかった船だ。今はこのおバ鹿に喋らせるべきじゃないし。
「──この度はアナグラワンワンが、ベレヘニヤさんとトレーナーさんに大変なご迷惑をおかけしております。私も止めるのが遅くなってしまい、申し訳ございませんでした」
「ちょっと、ちょっとムンちゃん? 私が悪いんだったら私に謝らせてよぅ」
「黙ってて」
そもそも『アナグラワンワンがベレヘニヤに余計なことを中途半端に話してしまった』ことを謝りに来てるの。たまたま通りがかった私が止めてなかったらあのまま話し続けたでしょう? 言うべきでないことも全部。
その境界線を見誤って踏み越えた自覚があるならまずは口を閉じてよ。
「私はただ知らなくって」
「ベレヘニヤさんにはリスクになり得た──知っていようといまいと」
「じゃあなおさら私が謝ることじゃん!」
「これ以上余計なことを口走らないように黙れって言ってるの」
そんな言い合いをしていたら、正面の矢部トレーナーから止められてしまった。何がなんだか分からないという顔をしている──それもそうか。説明もなく引っ張ってきたベレヘニヤも戸惑ったままだし。
「すまないが、順番に教えてくれますか?」
「はい。……私が話すよ?」
仕方がない。私はことの始まりを知らないし。
頷くと、ワン子は言葉を選びながら話し始めた。
「そもそもは、ベレヘニヤが無茶な自主トレしてるとこを見かけたんですよ」
「えっ」
驚いた矢部さんから、ベレヘニヤはふいっと目を逸らした。本当のことらしい。
オーバーワーク、ね。ここしばらくの張り詰めた様子から見て不思議ではない。矢部さんには意外だったようだけど。
「で、周りにトレーナーさんの姿も無かったので。一応声をかけたんです」
「……本当に一応って感じだったわよね。あんな言い方で止める気あったの?」
「私の言葉じゃ聞かないだろうなぁとは思ってた」
「っぐ……」
実際、ベレヘニヤは耳を貸さなかったらしい。
ただでさえトレーナーさんの指示にない高負荷のトレーニングをしてて、むしろワン子に止められたことでムキになったのか──、
「かなりヤバい転び方しかけたよね」
「えっ!?」
「だ、大丈夫ですトレーナー! 怪我はしてません!」
──あわや大事故、という事態に。
だけどベレヘニヤに怪我は無い。ここまで歩いてくる道中も異状は見当たらなかった。
「『助けてもらったので』ってちゃんと言えば?」
「〜っ! 感謝はしてるわよ!」
ワン子が『流石に見過ごせない』と手を出して、ベレヘニヤは救われた、と。
救われた側の態度としては筋が通らないと思うけど? きちんとお礼を述べてるのは矢部さんばかりだ。
対する救った側の態度もいやに冷めている。もっと不満を抱いても良さそうなものだ。まるで……ベレヘニヤにはもう何も期待していないみたい。
見切りをつけた、ってことなの?
そんな悪寒はどうやら当たっていて、事故を防いだ後のワン子はやや唐突に話題を変えている。
「函館ジュニアステークスのレース中のことを訊いたんです。何か普段と違うことは無かったか、あったとしたらどんなものかって」
あの敗戦が! ベレヘニヤが曇り始めたきっかけでしょうが!
なんでいきなりそんなこと……あー、“領域”についてはどんな些細な情報も千田さんに伝えることになってるのか。そうやって〈新月〉も予測してみせたと。
だからって訊き方ってものがあるだろう。ワン子って時々びっくりするくらい非情だ。
「無遠慮にずけずけと……」
「別に言いたくないならいいけど。トレーナーさんには伝えてるだろうと思ったんだよ」
「「…………」」
ウマ娘とそのトレーナーのペアは、黙ってお互いから目を逸らしてしまった。
──なるほど、これは2人も悪い。ベレヘニヤは函館JSで【喚起】を浴びて予兆を感じたのに、それをトレーナーに相談できてなかったのね。だから私が割って入る羽目になったのだ。
「私が聴いたのはその辺りから──あ、私はたまたま通りがかった第三者です。アナグラワンワンがいきなり“領域”の話をしてまして」
「もうトレーナーから教わってると思ったんだってば」
「確かめなさいよ話し始める前に。
……どうもベレヘニヤさんは“領域”という言葉にも聞き覚えがない様子で戸惑っていたので、慌ててバ鹿の口を塞ぎました」
「バ鹿……」
「あぁごめんね、貴女のことよバ鹿ワン子」
「2回も言わなくてよくない?」
芙蓉Sの前に真壁さんから教わった通り、“領域”のことは取り扱い注意な情報だ。
『決まった教え方というものは無いし、得られる保証も無い。強力な武器なのにね。それなら“領域”って名前だけ教わったって気が
残念ながら私は間に合わなかった。ベレヘニヤはすでに『気が逸るばかり』な状態になっていた。
ならばもう、リスクも含めて正しい知識をきちんと得ないと危ない。それは私たちではなく矢部トレーナーから為されるべき説明だ。
「──そうした経緯で、3人でこちらに伺った次第です」
「……よく分かりました。どうもありがとう」
彼は感謝を述べ、次いで担当のベレヘニヤに深く謝罪して。
それからぱちんと切り替えた。この人も割と非情なタイプかも──ううん、今ここにはそうするだけの理由がある。“領域”の習得は大きなメリットだ。
……リスクもあると思うんだけどね。
「それで、訊ねていいものなのかな? アナグラワンワンさん、貴女は他人の“領域”を引き出せるらしいなんて胡乱な噂もあるんですが」