矢部は自分を凡才だと思っている。
地方トレセンでのトレーナー経験を経て、中央での指導資格と職を得た時にはすでに29歳。
もっと若い内からここに居たトレーナーは少なくない。彼らはきっと天才と呼ばれる部類だ。
自分も非才ではないのだろう。しかし『その時、ふと閃いた!』などと浮かんだ名案に助けられた覚えは無い。
まさに今、そういう天啓が欲しいのに。
──何がどうしてこうなった? 誰かこの状況を説明してくれ。
時は10月、場所はトレーナー室。矢部の仕事場だ。
向かい合わせのソファに座るのは担当するウマ娘と彼女のクラスメイト、あわせて3名。
まず担当は……状況が飲み込めていないように見える。トレーナーである自分に近い立場のようで良かった。
さて、残る2名が問題だ。共に重賞ウマ娘であり、将来にわたってこの世代を代表することを期待される綺羅星たち。
深々と頭を下げるムーンカフェと、そのムーンカフェに頭を抑えられているアナグラワンワンである。
「──この度はアナグラワンワンが、ベレヘニヤさんとトレーナーさんに大変なご迷惑をおかけしております。私も止めるのが遅くなってしまい、申し訳ございませんでした」
「ちょっと、ちょっとムンちゃん? 私が悪いんだったら私に謝らせてよぅ」
2人の会話からは肝心の前提が読み取れない。担当するベレヘニヤに視線をやるが、首を横に振って『分からない』と返ってくる。
その表情は心底から困り果てた様子で……矢部に自身の過ちを自覚させた。
あぁ、俺は担当の
『凡才の自分にこそ導ける相手もいるはずだ』。
中央で最初の担当ウマ娘を選ぶ際に考えていたのはそんなこと。
新天地での初手からして見誤っていたのだろう。
中央トレセンに学籍を勝ち取った中学1年生は、口では「自分の実力は分かっているつもりです」とか「3冠制覇だなんて夢は見てません」とか言ったとしても、自身をエリートと認識している。その気位は高くて硬い──鋼の勁さなのかガラスの脆さなのかは別として。
また矢部の側、凡才という自認にも少々問題がある。担当ウマ娘にとってはたった1人のトレーナーなのだから。はじめから頂点を諦めるような気構えでは噛み合うはずがない。
とはいえ彼は無能ではなかったし、彼女も決して弱くはなかった。おかげでメイクデビューは予測と想定をなぞるような快勝。
それを踏まえてベレヘニヤが選んだ次走は、あえての重賞。函館ジュニアステークス。
「高すぎる壁かも知れませんが、早めに体験しておきたいんです」
「そういうつもりならいいでしょう。ですがレースは良くも悪くも何が起こるか分からない。勝つつもりで挑みますよ」
「はい!」
厳しい戦いになるだろう。それでも勝ち目はゼロではない。
負ける確率は高いだろう。それでも得られるものはある。
そういう認識を共有できていると誤解していた──もしかしたら双方とも。だから戸惑う。12着に終わったレースの直後はともかく、その後も長く尾を引くとは思っていなかったのだ。
彼女は次走にもGⅢを望んだ。距離適性にも出走間隔にも問題はないが──、
「小倉ジュニアステークス……? 待ってください、函館に負けたらオープンで経験を積むという話になったでしょう」
──あえてそこを選ぶ理由が無い。もとい、実際には在るのに彼は共感してやれなかった。
「あの落ちこぼれに
「落ち着いて、ベレヘニヤ」
“落ちこぼれ”。かつては確かにそう呼ばれても仕方のない非力だった、しかし今やGⅢウマ娘となったアナグラワンワン。
かの異常な急成長には大人たちも驚いているから、競い合う同級生にはより衝撃的なことだろう。
彼はすでに──函館JSとコスモス賞を観た8月半ばの時点で──『アレは別格だ』と線の向こうに置いてしまっている。そのまま口に出すほど無神経ではないが。
「アナグラワンワンは、授業でのトレーニングや模擬レースでは力を隠しています──そうとしか思えない。仮想敵に据えるならしっかりと研究して挑みましょう。
しかし彼女に勝つことを中長期の目標にするなら、次走に小倉JSというのは疑問です。意図を聞かせてもらえますか」
「…………」
彼は担当ウマ娘をプロアスリートとして扱った──それは一概に間違いとは言えないが、この時の2人には無視できないヒビになってしまう。
『ただただ獲得グレードで張り合いたいだけの意地』なんて動機だとは思いもしなかったのだ。そんな理由で選ぶことを許さないような誤解もさせたかも知れない。
ベレヘニヤがありのままを話していれば、矢部はそれを尊重して計画を組んだだろうが。
話さなかった/話せなかったのが現実で、心の通わない独断は結果に反映される。
8月の末に交わしたクラスメイトとの会話もマイナスに働いたか。
ムーンカフェは新潟ジュニアステークスを際どいところでもぎ取りGⅢウマ娘になった──しかし1600mは得意距離から外れている。
『どうして?』
ベレヘニヤの問いに、ムーンカフェは正直に答えた。
『──他言はしないで。
単なる意地よ。獲得グレードで張り合いたいだけの』
彼女はそれをトレーナーに訴え、その為に鍛えて勝ってみせたのだ。
焦りや誇りがますます自分を追い詰めると頭のどこかで理解しつつ、それでも捨てられぬ尊大な羞恥心──いや、臆病な自尊心の方も。
9月前半、アナグラワンワンは2つ目のGⅢである札幌JSに勝利。
その翌日ベレヘニヤは小倉JSに挑むも──結果は10着。矢部は力不足を詫びたけれど、彼を責められるわけがなかった。
何も話せていないのだ。自分の中の不合理なまでのプライドも、函館JSのレース中に襲われた未知の感覚についても。
総じて2人にはコミュニケーションが足りていない。
足りていなかった。
10月のトレーナー室。
ようやく事情を説明してもらい、矢部は穴にでも入りたい気分だった。
「──そうした経緯で、3人でこちらに伺った次第です」
「……よく分かりました。どうもありがとう」
担当するベレヘニヤのオーバーワーク。アナグラワンワンによって未然に防がれた事故。そして話せていなかった“領域”のこと。
深く謝罪して、感謝して──そして今度こそ取り戻す。
「それで、訊ねていいものなのかな? アナグラワンワンさん、貴女は他人の“領域”を引き出せるらしいなんて胡乱な噂もあるんですが」
「ベレヘニヤに効いてたかどうかはまだ答えてもらってませんが、できますよ。これまでのレースではほぼ毎回“領域”を相手にしてきましたから」
「あっさり答えるんですね……」
一通りの説明を済ませた後。
ベレヘニヤの“領域”習得のために【喚起】を活用するというプランについて、矢部トレーナーは。
ベレヘニヤの意思を問うた。彼女は迷った末に『可能なら』と答えた。
ワン子の都合を訊ねた。予想通り『サキさんが許す範囲なら』と丸投げした。
すぐ千田さんに電話していた。どうやら幾つかの条件付きで認められたらしい。
それでプランは決定になった。後は細かいスケジュールを詰めるという話に。
……この間と同じだ。
【喚起】の安全性についての問いはあがらなかった。矢部さんからもベレヘニヤからも。
──どうして?
そんな思いが顔に出ていたのだろう。退室後、ベレヘニヤから指摘されてしまった。
「……そんなに気に入らない?」
「気に入らないって、わけじゃ」
ワン子はさっさと練習に行った。ベレヘニヤは保健室行きを指示され、休養日の私はその付き添いを頼まれてしまった。
廊下を歩きながら、あまり親交の無かったクラスメイトは刺々しく零す。
「アナグラワンワンの力を借りてまで強くなろうとする私が、あなたからは卑しく見えるんでしょうね」
「何それ。そんなこと全然思ってない」
「じゃあ何が不満なのよ」
「不満というか、心配。ベレヘニヤは気にならないの? 【喚起】のこと」
芙蓉Sの後でお姉様から聞いた話だと、多くのウマ娘は自身の“領域”に納得するか居心地良く感じるらしい。つまり私たちの内面と少なからず結びついたもの。【喚起】はそんなものを掘り起こすのだ。
「気になるって何が?」
「そりゃあ“領域”は、無いよりは有った方が有利というか。レースでの選択肢は増える」
「そうね」
「でも本来目覚めなかったものを引きずり出すのって……危なっかしくない?」
危なっかしい。不安がある。……怖い。
どういう表現をするにせよ、そこには明らかにリスクがある。トレーナーさんたちもウマ娘もそこに触れない。
触れないどころか、目の前のベレヘニヤから返ってきたのは戸惑いだ。
「はぁ?」
……侮蔑という印象も受けたけれど。
どうやらそうではない。本当に予想外のことを言われた、みたいに見える。さっきまでの尖った印象も失せたような。
「何をそんな──あぁ、そうか。そういえばそうね」
「……何に納得したの」
「常識のギャップってやつ。あなた、家族や親戚に競走ウマ娘は居ないんでしょう?」
頷く。私とお姉様に血の繋がりは無い。
「私たちは──名門だなんて言える実績は
聞けば、函館JSで2着だったミルファクはベレヘニヤの従姉妹。芙蓉Sで地震みたいな“領域”を使ってたペトリファトラスも遠縁で、一族には黄金世代と戦ったウマ娘も含まれるそうだ。『どうせ知らないでしょ』と名前は教えてくれなかったが。
「そういう家に生まれてれば危なくないってこと?」
「違う。えーと、どう言えば伝わるかな……」
つっかえつっかえ、ベレヘニヤが語ったところによれば。
まず、私の心配は単なる可能性に過ぎないということ。
例えばベレヘニヤが【喚起】を受けて“領域”に覚醒めた後で故障したとしよう。じゃあもし【喚起】を受けなかったら故障もしなかったのか?
そんなことは誰にも分からない。別の誰かの“領域”を体験して結局は同じことになるかも。現実の選択と
「それは……そうだけど」
「納得いかなそうね」
「すっきりはしないわ」
「私も昔はそうだったのかな、思い出せないや。
だけどムーンカフェ。芙蓉Sの直後あなたの脚に故障が見つかったとして、それでアナグラワンワンを責める?」
「…………責めないと思う」
「そういうことでしょ。言ってしまえばね、【喚起】が危ないものだとしても構いやしないのよ」
「え」
流石に、それは。構うべきではないだろうか。
でもベレヘニヤは確信を持って開き直っている。
「故障の原因がなんであれ、治るまで練習できないとかレースに出られないとかの不利益はウマ娘が負うことになる。トレーナーに肩代わりはできないし、明らかな加害者がいる場合だってそっちに怪我が移ってくれるわけじゃない」
「……うん」
「だから彼らは
「もちろん」
「ならいいじゃない」
「…………」
良くはない、けれど。
ベレヘニヤの弁はつまるところ信頼だ。【喚起】にせよ何にせよ、ウマ娘の身体に異状があればトレーナーは必ず気づいてくれると。そういう兆候が見つかったなら、その時に初めて対応(ワン子とのトレーニングを辞めるとか)を考えれば済む話だと。
仮にワン子や千田さんが──あの2人に限らず一般論として──【喚起】は安全だと主張したところで、真壁さんや矢部さんはそれを丸呑みにはできない。どうしたって疑いは生じるから、私の漠然とした不安なんかよりずっとシビアに『本当に安全か』を注視する。
……そもそも、ウマ娘の身体には
だから『本当に安全なのか』なんて誰もわざわざ問わなかったし、これからも問われない。“危ないものだとしても構いやしない”とは“危なければちゃんと防ぐから”ということらしい。
「ずいぶんと極論じゃない?」
「そうかもね。でも競走ウマ娘には常識っていうか、自然とこうなるのよ。でなきゃレースなんてできないし」
「……それもそうか」
シビアというかリスキーというか。私の育った常識とは異なる、レースの世界。
ベレヘニヤのおかげで、納得とはいかないまでも理解はできたように思う──そこまで分かってるなら危ない自主トレなんかするなという話だけど。
……いや、ちょっと待って。
ワン子は
──少し未来の話。
アナグラワンワンとのトレーニングから手応えを得たベレヘニヤは、11月前半のファンタジーステークス(GⅢ)にて見事に“領域”を開花させる。
ただし順位は3着だった。
「完全に掴んだ! サンキューワンワン!」
1着は【喚起】を浴びるためだけに芙蓉Sに挑んだスプリンター、ゲージスプレイ。
「むー。せっかくドゥが応援に来てたのにナー」
2着はレース外の【喚起】を受ける機会が多かったナーサリーナース。
「…………」
ベレヘニヤは勝てていない。喜べはしない。だが“領域”が無ければ更に順位は落ちていたと思われる。
──4着も5着も使い手ではあったので。
素直に感謝するのは難しいところだ。
「……ねぇ、この世代“領域”使いだらけにならない?」
「もう遅い。手遅れよベレヘニヤ。あのワン子どこでも走るから」
「…………まずはオープンで1勝を目指すわ」
中央は魔境。ここには地元なら負け知らずのウマ娘がごろごろしている。
そんなよく聴く現実が、ベレヘニヤには少し遅れて訪れただけ。挫折も再起も、きっとまだまだ経験することになるのだ。
□オリウマ娘ちゃんの名前の由来など
ペトリファトラス:Petrify + Atlās
石化+ギリシア神話の巨人。ペルセウスとも縁がある。
固有スキル〈アトラスの試練〉
黄金世代と戦ったウマ娘
アプリに登場するモブウマ娘、アルゴルのこと。
アルゴルもミルファクもベレヘニヤもペルセウス座の星。