トリィさんはエキサイトするけれど、決戦の舞台をすぐに決めてしまいたがってるのは4人中1人だけなわけで。
あえなく『トレーナーを交えて調整しましょう』がとりあえずの結論に。当たり前である。
帰り道、サキさんは──アナさんのことを問わずに──海外への意欲を問うてきた。
「ワン、海外のレースまで全部リストアップしてるの?」
「流石に有名どころだけですよ。具体的に考えたのは初めてですし。いつも目の前のことで精一杯なんですよね」
「それはレースが多過ぎるせいだけど」
「うぐっ」
それもそうか。次走が1ヶ月後や2ヶ月後なら落ち着いて出走計画を考えたりするのかも知れない。
そういえば芙蓉ステークス後は次走(なでしこ賞)まで少し間があったから、あの時に勝負服を決めたんだっけ。
今のところ私のクラシックはかなりの部分が未定だ。もう11月だし、このままじゃ不味いのは分かってるんだけど。
クラシック路線やティアラ路線といった型にハマらないというか、好き放題すぎて決めようが無いというか。
だって私にとって最高に愉しかった走りは間違いなく芙蓉ステークスで、つまり『誰と競うか』が大きいんだよね。そりゃ予定も決まらない。
特に今は京都ジュニアステークスが迫っている。芝の2000m、つまりムンちゃんも出てくるレース。そっちに集中力が振り切れちゃって、クラシック以降の予定は中々考えられずにいたのだった。
愉しみだなぁ……!
そうして迎えた11月の末。
冷たい雨の降る京都レース場、その控え室にて。
「──えっ。……あの、もう1回お願いします」
「ムーンカフェは今日のレースに出ない。体調不良で出走を取り止めた」
「ムンちゃんが……」
アナグラワンワンは顔色を失った。千田サキが慌てて付け加える。
「大丈夫、軽い風邪で様子見のためってことだから」
「軽い風邪、ですか」
その言葉にもあまり安心した様子は無い。
先日、千田ギンが『ぼちぼち辞める』と言い始めたこともあって──年齢を考えれば無理もないことだが──健康上の問題を重い方・悪い方へと捉えてしまうのだろう。
しかし今回に限っては本当に心配要らない。サキは直前にムーンカフェを直接見舞っている。それが許される程度の体調だったわけだ。
「言われなければじっくり見ても分からない程度の、ほんの僅かな不調よ。今日休むのは『ホープフルステークスを万全で戦おう』とも受け取れる」
「……そうですね」
取り止め自体、ウマ娘のレースではままあることだ。体調不良が分かっている時にレースなど過酷すぎる。
アナグラワンワンが出るレースでは(たまたま)これまで1度もそうしたことがなく、この日が初めて。その相手がムーンカフェだったので、少なからずショックは受けたようだが。
「残念です。でもホープフルでやれるなら、うん」
「ええ、切り替えていきなさい。ムーンカフェ以外も弱い相手なんていないんだから」
「はい!」
多少のモチベーションダウンはありつつ、やる気を喪失するまでには至らずに済んだ。
そもそもムーンカフェとの決戦はホープフルSがメインであり、芙蓉Sや京都JSは『都合があえば』程度。戦えない可能性も充分に想定されていた。
だからアナグラワンワンは、おおむねベストのパフォーマンスを発揮する。
『速い! 強い! 2着との差はどれほどでしょうか目測も難しい差をつけて、アナグラワンワン1着でゴォールイン!』
『このバ場でこのタイムは……信じ難いパワーですね』
重バ場や雨というシチュエーションで、ペイジは極めて有利に働くようだ。
『本日のバ場状態、発表は
『はい。強くはないものの昨日から続いた地雨で、ターフはすっかり水を吸っています。強く踏みしめなければ滑ってしまうため脚への負担が大きく、また前進する力にもロスが生じます』
『淀の坂、上り下り共に難しい状況です──今2番手集団がゴールイン、2着ペトリファトラス・3着は──』
アナグラワンワン、京都JSを快勝。
京王杯の不調を引きずるようなことは無かった。ムーンカフェの不在で大崩れするようなことも。
その数日後。
アナグラワンワンはムーンカフェから呼び出された。『ふたりきりで話がしたい』と。
何を言われるやら想像もつかないまま、人気のない教室で落ち合う。
「……これから話すのは、単なる私の想像。当たっていても大間違いでも、貴女は答えなくて良い──今日のところは」
「う、うん」
ただならぬ雰囲気。覚悟の表情。
そして切り出されたのは──、
「貴女はどっちなのかしらね。いえ、答えは要らないけど」
「どっち?」
「グラなのか──アナなのか」
「っ!?」
──『アナ』と『グラ』の区別。
正面から指摘されたことはほとんど無い、『目に見えない誰か』の存在。まして2つの名まで言い当ててきたのはムーンカフェが初めてである。
「どっ──」
どうして、と訊けば答えたも同然。しかし心当たりが無い。
グラの中で、サキやアルヘイボゥから踏み込まれる覚悟はしていた。次点はトリウムフォーゲンだろうか。思えばアナ以外に『グラ』と呼ぶことを許したのは彼女だけだ。
また、両親に対しては自分から明かすことが頭にある。明かさなければという義務感も。
『なんでムンちゃんが……!?』
ムーンカフェに知られることは想定していなかった。
というよりも──、
《……考えられるのは〈疑似極点〉の影響か。そういえばグラ、ムーンになら知られても良いと言ってただろう》
『それは…………あれ、そうかも?』
──芙蓉S後に言われなかったのですっかり忘れていた、というべきか。
落ち着くのを待っていたらしく、ムーンカフェが再び口を開く。
「私は本当のことを知りたい」
「うっ」
「でも無理に聞き出そうとも思ってない」
「う?」
「だからこれは提案よ。きっと貴女の好きな勝負。レースで、決めましょう」
「……レースで」
「ホープフルステークス。私が勝ったら教えて欲しい──」
──断るなら今の内に、と言い添えるつもりだったが。
その必要は無さそうだ。ギラギラと
「分かった、そうしよう」
「……貴女が勝った場合は?」
「ん、んー。すぐは思いつかないな……」
「ま、なんでもいいわ。私が勝つんだし」
「ムンちゃん最っ高!」
そういうことになった。
ジュニア級は残すところ12月のみ。
予定のレースは阪神ジュベナイルフィリーズとホープフルステークスの2戦。
どちらもGⅠレースであり──どちらかに勝てば、いよいよ家族と向き合うべき時を迎える。
12月初旬、阪神レース場。
ベレヘニヤはさざんか賞に勝利した。メイクデビュー以来の2勝目である。
──そのまま近くで1泊して、翌日。
トレーナーの矢部はベレヘニヤと共にジュベナイルフィリーズの観戦に来ている。
『皆さんお待たせしました、いよいよパドックです』
『勝負服のお披露目です、楽しみですね』
『本来なら自分があそこで勝負服を着ていた、とか思ってるんだろうなぁ……』
以前は上手くコミュニケーションを取れずにいた矢部とベレヘニヤだが、アナグラワンワンやムーンカフェと話した10月頃から良い方へ変わっている。
とりあえず雰囲気だけで何を考えているかは察せるようになった。というよりベレヘニヤは、虚勢を張りがちな言葉に惑わされなければ割と分かりやすい。
「トレーナー」
「うん?」
「嫉妬とか、していませんから。出走できないことに納得はしています」
「…………」
矢部は言葉の逆に理解した。それで正しい。
『5枠9番、ナーサリーナース。変形ナース服といった装いです』
『フリルエプロンなどはアリス風、加えてナーサリー・ライムからの連想でしょうか、様々な動物を模したアクセサリーがその身を飾っていますね』
『表情には緊張が窺えるような……固くなっていますか?』
『実は彼女、まだ1勝なんです』
『それは大きな挑戦ですね』
ナーサリーナースの戦績は華々しいものではない。デビュー戦は(ドゥームデューキスと共に)敗退。最初の未勝利戦は2着(1着はドゥームデューキス)。2度目の未勝利戦で勝利を掴んだ。
それ以降は勝てていない。
なのにこのGⅠレースに出走できるのは、先月のファンタジーステークスの1着&2着に与えられる権利だから。
ナーサリーナースは2着に滑り込み……ベレヘニヤは3着だった。1着のゲージスプレイまで含めても着差はほんの僅か。
「もう断言してしまおう。短距離は短過ぎるんだ、君は『スプリントも走れるマイラー』だよ」
「…………」
そこは納得した、ということらしい。実際、ファンタジーステークス(1400m)は『あと100m長ければ勝っていたのはベレヘニヤ』という結果だった。
ちなみにゲージスプレイはガチガチのスプリンターなので、マイルにあたる阪神JFには出ない。『だったらその出場権を寄越せ』などと(ルール上できもしないことを)思いはしつつ言えないのもベレヘニヤである。
「俺の目が曇っていたせいで君の貴重な時間を無駄にさせた」
「その話は済んだじゃないですか!」
「ありがとう。今後は君の脚を再調整しながら距離を伸ばしていく」
「シンザン記念*には」
「脚を休めような。メイクデビュー、函館、小倉、ファンタジー、さざんか賞。決して少なくない出走数だったんだから」
「…………」
納得はしているものの渋々、といったところ。
ベレヘニヤは非常に向上心が高い。それは今のところ実力に見合わないプライドで、オーバーワークに走るようなリスクでもあるが、実力を引き上げる賦活剤なのも確か。その角を矯めてしまうわけにはいかない。
『さぁ──歓声が一際大きくなりました、残す2人は非常に注目度が高いですね』
『まずはホウカンボク。新潟ジュニアステークス2着*、サウジアラビアロイヤルカップ1着、デイリー杯ジュニアステークス1着。無数の小花に飾られた
「調整が予定通りなら5月のNHKマイルカップ。より順調なら4月の桜花賞。どちらかでホウカンボクを破ってもらいたい──勝ち目は作ってみせる」
「……はい!」
相手はマイル一筋だ。ベレヘニヤは今後幾度もぶつかることになるだろう。
『最後に登場──アナグラワンワン! メイクデビューから京都ジュニアステークスまで、わずか半年で9戦8勝という驚異的な戦績です!』
『どこか軍服を思わせるかっちりとした勝負服ですね。赤い腕輪はシンプルながら大きくて目を魅きます』
『胸元と背中にあるエンブレムは“三日月に噛みつく狼”とのことです。……月、ですか』
『月、ですねぇ。皆さんご存知の通り、アナグラワンワンに唯一土をつけたのは芙蓉ステークスの勝者ムーンカフェです』
これまでのレースでは、パドックの彼女にはどこか戸惑いが見えた。自己アピールの仕方が分からず、やや義務的に観客や選手たちに頭を下げる程度のパフォーマンスしかしなかった。
それが今日はまるで違う。義務程度の礼儀すら取り繕っていない。
「……あいつ……!」
「……かなり、尖ってるな」
言葉などなくても、ベレヘニヤにも矢部にさえ分かった。誰を見ているかなど明らかで、その胸の内も極めて分かりやすい。
『あなた以外には決して負けない』
それは無言の、しかし極めて雄弁な、勝利宣言であった。
次話は阪神ジュベナイルフィリーズ。
ムーンカフェ視点で何があったかはホープフルの辺りでやります。