記憶が曖昧なくらい幼かった時のこと。
最初の思い出はいつ頃のどんなものだろう。
私の場合は──あれをなんて呼ぶべきか、名前もつけにくいもどかしさを覚えている。
『和音ちゃん、大丈夫? 無理しないでね!』
5歳かそこらだと思う。小学校よりも前ぐらい。
私は年の近いウマ娘の間で、『気遣われるべき虚弱な子』だった。
後になって振り返れば分かることだけど、この頃の私も別に虚弱ではないんだ。大きな病気とかもしなかったし、ヒトミミ基準でいえば丈夫な方。
ただこの年頃から周りの──普通のウマ娘は、どんどんヒトミミ離れしていく。
私は取り残された。ばっちり目覚めていたのはソウルの衝動だけ。
何が訴えかけて来てるのか、
何を強いられているのか、
どうしてそんなことが必要で、
それを満たすのに何が足りないのか、
私は何も分からなくて。言葉にもできなくて。
ただ、全力の駆けっこは少し気分が軽くなった。
ほんの僅かな爽快感でも、この時期の私には麻薬みたいなものだ。他の何をしていても付きまとう切迫感から、たった1つ解放される行為なんだもの。
そりゃあもう、依存に陥る。
しばらくはお母さんも応援してくれていた──はずだ。ワオンって呼んでくれてた頃は。
私も少し分かったことがあって、がむしゃらな競い合いもいいけど地道な努力も悪くない。お父さんの指導でフォームを気にして、撮影してもらったのを何度も振り返ってちょっとずつ最適化して……そういう時間も、軽い気晴らしぐらいにはなった。それを発揮する場があればっていう前提だけど。
お母さんが反対し始めたのはいつだったかな。最初からずっとそうだった気がしてくるし、明確にどのタイミングとは分からない。出られるレースには手当たり次第に出まくってたのもあって──どこかの、どれかの、幾度目かの、敗戦の後としか。
『
『どうして?』
『他にも楽しいことは沢山あるのよ?』
音楽。お芝居。ファッション。水族館そろばんお菓子お料理プログラミング書道華道。
連れ歩かれた諸々は──全部、イライラするだけだった。
私は走り続けて負け続けた。
そうするしか無かったんだよこっちとしても。
『
『…………』
理由を訊くことすら億劫になって、私は無言でランニングに出た。
お母さんは逃げなかった。向き合おうとし続けた。
その姿勢が、やがて。
実家を出たのは4月のはじめ。今日は12月の半ば。
丸8ヶ月ぶりってことになるのか。
「おかえりワオン」
「……ただいま、お父さん」
お父さんとは10月に会ったから2ヶ月ぶり。メールとかは頻繁にしていた。
それに対して……。
「……おかえりなさい」
「ただい、ま」
お母さんとまともに言葉を交わすのは、本当に久しぶりだ。気まずいってレベルじゃない。それはお母さんもそう。耳や尻尾を見るまでもなく落ち着きが無い。私もきっと似たようなもの。
だけどここで向き合うことは、吐き気に苛まれながら決めたことだ──そうせずに居られなかっただけだとしても。
意識して息を吐く。それからゆっくり吸って。
「お母さん、謝りたいことと謝って欲しいことが……ううん、謝って欲しいことと謝りたいことが、ある」
「……教えて?」
「私が5年生になる少し前。──覚えてるよね」
「忘れたことなんか無いわ」
良かった。忘れてるなんて言われたら今すぐ家を飛び出すところだった。
お母さんも私のことが嫌いなわけじゃないんだ、と自分に言い聞かせる。言い聞かせてやっと納得させた。
「あの日のことを、謝って欲しい」
これはそういう、自制に基づく譲歩だ──だというのに。
謝ってくれたらこっちも頭を下げると、私の方から大人になったのに。
「──やり方については、確かに私が悪かった。ごめんなさい。
でもやり方
「は?」
私は(諸説あるとしても)温厚な人間で。
人を殴りたくなったことなんて、今回がまだ2度目だよ。
「どうして!?
なんで本気で走らないの、
なんで私を勝たせるの、
なんでそんな嘘つくのお母さん!!」
1度目もあなただったよね、お母さん。
「っ……怖い顔したってダメ。駆けっこで手を抜いてあなたを勝たせたのは良くなかったけど、
今みたいに走れるようになるなんて、誰にも想像できなかった」
ウマソウルの覚醒云々を予期しろとか、流石にそんなことは求めない。今じゃなく、あの頃の話だ。
「私はあんなに走りたがってたのに!」
「それでも。あの頃のあなたの危うさは、止めるのが親の義務だった」
おかしい。開き直りだ。そんなの納得できない。
「じゃあお父さんは? トレーニングを考えてくれて、私はそれ通りにしたから怪我もせずに──!」
「でも、栄養は足りてなかった」
……栄養?
遮られて眉を顰める私に、横からお父さんが頭を下げる。それは自分の落ち度だと。
「ワオンがうちにいた頃の食事な。少なかっただろ?」
「……考えたことも無かった」
「それはそれで深刻だな……」
飢えていたような覚えは本当に無い。ご飯は高タンパク低脂質なアスリートメニューをお父さんが決めてくれたよね。
だけどそれはヒトミミを基準にしていたせいで、競走ウマ娘(を目指す小学生)にはまるで足りていなかったそうだ。
確かにトレセンの食事にはお腹いっぱい感があるから、以前は飢えてたってことになっちゃうのか。
「お父さんはワオンを守れてなんか
「そんな、こと──」
「トレーナー資格って取るの大変なんでしょう? そういう専門家が見てくれなきゃ危ないレベルのことを、あなたはやろうとしてた。……止めるわよ、親なんだもの」
「──じゃあどうしろって」
ダメだ、イヤだ、納得したくない。
でも安全性については確かにそうで、サキさんがしてくれるのと同等のことを普通の両親に期待するなんて明らかに無理。
無理だから危ない、危ないからやめさせる、親としての義務。
──じゃあ私はどうなる?
私のあの、怒りは?
「それなら……やめさせたかったなら、おかしい。どうして私を勝たせたの。あの嘘を信じて初勝利を喜んで、余計レースにのめり込んだかも知れないのに」
「……やり方は良くなかった。本当にごめんなさい」
「そうじゃなくて。あれで私がレースから離れるなんて、そんなわけないって話」
当時10歳の私、トレーニングはしてたけどウマ娘の底辺未満。当時31歳のお母さん、レースの経験とかは無いけど健康で平均的な成人ウマ娘。あと私に遺伝してない長身の持ち主。
勝てるはずが無かったし、あんなの勝ちとは言わない。
思えばちびっこレースとかで競った子たちは、私に同情的な目を向けることこそあっても勝ちを譲りはしなかった。せずに居てくれた。
お母さんだけだ、そのラインを破ったのは。
「怒ることは分かってた──あんなに怒るとは思ってなかったけど。それで、できることなら、レースのことを嫌いになってくれたらと……思って」
「大嫌いになったのは嘘と手抜き」
「…………」
お母さんのことも。とは言うまい。言っても仕方のないことだ。
「っ、…………」
「──母さん」
「大丈夫、私が話すから」
お父さんが話を引き取りかけた。その方がさくさく進んで楽な気もする。
こんな、涙目のお母さんと話すよりは。
「正解が、分からなかった。何をしても止まってくれないんだもの。何度負けても、レース以外の楽しいことも、大怪我をしたウマ娘の話も、学校の先生やお友達に相談しても、全部ムダだった」
「待ってお友達って誰」
そんな子はいない。
いたとしても──覚えていない。
「ほら、届いてない。あの嘘以外の試行錯誤は、全部無視されてたようなものよ」
「……私の……せいだって?」
「そうじゃないわ。さっきの質問──『どうしてわざと負けたのか?』 飾らずに答えれば『何をやっても失敗続きだからダメで元々』ってこと」
「ダメ元……」
やらないよりはマシ、という。
その発想は案外私にとって頷けるもので──、
「むしろあんなに怒ってくれて最初は喜んだくらい」
「それはおかしい」
──いややっぱ相容れない。
「最初だけね、最初だけ。……本当に意外だったの。『今回も大した反応は無いんだろうな』って思ってたんだから」
「そんなわけなくない?」
「あの頃のワオンならその方が自然だったわ」
お父さんもうんうんと頷いている。
いや、でも、嘘だよ? 怒るでしょ。
──違うか。
アレは嘘を嫌いになったきっかけだ。『嘘だから怒った』じゃ前後関係がおかしい。
なら私は……何に腹を立てた?
負けた時と同じく、偽られたって死にはしない。
違うな。たぶん違う。
怒ったのは
強いられた衝動じゃなく、選ばされた義務でもなく、怒らなくても構わないはずのものを、わたしが自ら拒んだのだ。
走る理由が無いと揺らいだ私の、揺るがない
闘争が愉しいと咲ったわたしの、
──こんな剣呑な自尊心だったのか。
「…………あのね、私は
みじめ。これまで見つからなかったのが不思議なほど。言葉にしてしまえばなんてちっぽけで当たり前な。
「同級生から『和音ちゃんは仕方がない』って言われたり。お母さんから『危ないでしょ』って止められたり。
私だってウマ娘なのに。気遣われて守られて遠ざけられて。それが優しさだとしても、私はイヤだった」
「うん……」
「──そっか。あの日わたしは、嘘や手抜きだけじゃなく
「あ、あ……ごめんね、ごめんなさいね……!」
泣かれても……困る。
この傲慢なウマ娘は、結局自分を嫌わなかったのだから。嫌えなかった? そこはどっちでもいい。
自分を嫌わないために、無力感を遠ざけるために、つまりは自分のために──鍛錬を続けた。
周りのことなんかまるで気にせずに。
「……私も、ごめんなさい。これまでのこと、たくさん」
ところで。
「さっきの栄養とかの話って、サキさんから聞いたの?」
「それは──」
「いいえ、トレーナーさんのお父様ですって」
ふたりが同時に答えかけて、お父さんは途中で言葉を飲んだ。割とよくみる光景だ。だから気にせず先を訊いたんだけど──、
「え、ギンさん?」
「そうそう。私たちの至らなかったところを、わざわざ教えに来て下さったの」
──お母さんの答えに驚いていたら、お父さんは何故か頭を抱えていた。
「…………」
「お父さん?」
「母さん……そのことは……」
「どうしたのあなた──あっ」
なんだか分からないけど失言をしたらしい。お母さんは冷や汗を浮かべて口を抑えている。もう遅いけど。
お父さんが仕方ないと補足する。
「……千田さんからは、『自分がここに来たことは内密に』と頼まれてたんだ」
「なんで……え、まさか」
「はっきりは仰らなかったが、娘さんにも学園にも言わずにいらしたんじゃないか」
「ギンさん……!?」
それ色々とヤバくないですか……!?
実質サブトレーナーみたいなことしてるけど正式には学園の事務員だから、私がサキさんに報告した食事とかを知ってちゃマズいってのが1つ。
うちの住所や連絡先を(おそらく事務員の立場を利用して)得たことが1つ。
独断で家庭に介入したことが1つ。
いやまぁ『一般論としてダメ』ってだけで、私は別に文句無いし感謝もすべきなんだろうけど……いやダメか、感謝したくても出来ないやつだ。
私が知らんぷりしとかなきゃギンさんの立場が危うい。それどころかサキさんまで情報漏洩とかで責められるかも。
「ワオン、今のは聞かなかったことにできるか」
「分かってるよ……それ、ちなみにいつ?」
「俺がワオンに会った少し後。11月半ばだな」
「はやっ!?」
GⅠ云々のタイミングにしては早い。私がお父さんと会って、それでもメンタルが崩れたりしてないのを見て──あとここに来てからの話でも何かしら判断したんだろうけど──ギンさんは伝えると決めたってことか。
……ん、11月半ば……京都ジュニアの前?
あ、どこも悪そうに見えないのに急に辞めるとか言い出したのってコレ!?
大人は勝手だよ全く! こんなことで辞められて堪るかぁ!
気が重くて堪らなかった実家訪問を済ませて。
アナさんのことは何も話せていない。
話しておくべきかなぁとは思ってたし今も思ってるけど……最優先はお母さんの嘘だったし。それに実家にいた頃のあれこれとアナさんは、ぶっちゃけ無関係だ。居なかったんだから。
『余裕があれば紹介したかったんですけどね』
《私は構わないが、次走に負けたらムーンカフェに明かすことになるんだろ?》
『はい、京都ジュニアの後に約束しました』
《親より先に明かすことについては》
『勝てばいいんですよ勝てば』
《……脳筋め》
アナさんは悲観論も言ってくれる。部下を預かる隊長さんでもあったから、無理無茶無謀には否定的だ。
勝算の見えない戦いもあったし、退路も無いまま勝利を義務付けられたこともあったけど、『勝って当たり前』と思ったことは無いと。できる備えは怠らないと。
今回は特に要らないけどね。
『まぁムンちゃんに話すのは全然イヤじゃないので。負けたら約束通りです』
《むしろサキにどう伝えるか、か?》
それ。ぬぁぁ……どこで疑われちゃったんだろう。トリィさんとの件か。あれさえ無ければ……!*
『ホントにどうしましょう……』
《ありのまま言えば良いと思うがな》
『大人相手だと根拠とか用意しなきゃいけない気がして』
《無いものは無い》
無いから困ってるんですー。
アナさんが私の空想の産物じゃないことを証明するのは難しい。サキさんからすれば嘘か真か判断がつかず、私を鍛える上ではノイズにしかならないとも言える……。
仮に真だと信じても、指導に役立てうるのかは疑問だ。アナさんもウマソウルの秘密とか知ってるわけじゃないから。異世界でのこと伝えても仕方ないし。
『まぁそれもこれも含めて、今はホープフルステークスに勝つことですよ』
《サキとの件はちっとも含まれていないが》
『先送り!』
《……まぁいい。勝ちを目指すべきなのは確かだからな》
『はい!』
──お母さんと話したのは、それ自体が目的であって。
話せずにいたことがレースにマイナスを及ぼしてると感じたことはないし、何らかのプラスを求めて会いに行ったわけでもない。
だからこれはタナボタだ。結果的に良い影響が得られた。
お母さんと話したからというより、私がわたしの輪郭を知ったことで。
ソウルの衝動が無くても、わたしは熱を抱えていた。その惨めさと飢えを私は垣間見た。それ以降、
【ブラッドアーツ】は相変わらずアナさんのものだけれど、神機の3つの外装は全部モノにした。
つまり──、残るは本質のみ。
素直に言うこと聞いてくれるとは思えないけど。
次話、ムーンカフェ視点。