世間ではクリスマスだとか年越しの準備だとか言っているけれど、私たちにそんな暇はない。……サキさんには本当に頭が上がらない年末の、ホープフルステークス前日。
作戦とか来年の見通しといった真面目な話をみっちりとして(ギンさんは年度末まで勤めるらしいので、辞職を思い留まらせる件は少しだけ先送り中)、気付いたらもう夜だ。
お茶を挟んで一息入れていると、サキさんが「そういえば」と首を傾げた。
「ジュベナイルフィリーズで“領域”の裏返しを知った今は納得してるけど……その前からドゥームデューキスを警戒していたのはどうして? こう言ってはなんだけど、テセウスゴルドの方が強敵に思えていたわ」
「あれ、サキさんドゥの戦績みてない──わけないですよね」
「重賞経験なし。デビュー後に限ると2戦1勝」
うん、サキさんの言う通りだ。
その通りで間違ってはいないんだけど。
「確かに2戦とも重賞じゃありません。1600mのサフラン賞は短くて4着。2000mの葉牡丹賞は余裕の1着」
「サフランと葉牡丹……なるほど」
頷く。サキさんには言うまでもないけれど、その2つはどちらも中山レース場。すなわちホープフルステークスの舞台である。
ドゥはきっと“慣らし”をしてたんだ。年末の大一番を見据えて。
──まぁ出走条件がかなりギリギリだったみたいで直前に焦っていたから、何もかも計算尽くの知将タイプっていうには微笑ましいけれど。
「9月時点から年末を意識してた、か……」
「多分そういうことかなぁと。ちょっと前に『ホープフルではまだ追いつけない』とか言ってたのも……私ほどには嘘やブラフに抵抗ないでしょうし」
「ワンは大嫌いだものね」
「ええ。でもドゥはきっと有効なら使ってくる。だから本人から聞いた“領域”の効果も話半分にしてるわけです」
「嬉しそうにしちゃってまあ」
だって私に勝つために心を砕いてくれるの、普通に嬉しくないですか。それでこそってやつでしょう。
ムンちゃんが嘘も吐かずに真っ向勝負で勝てるのはラスボスじみて強いからだ──“領域”じゃなく基礎能力が。〈新月〉までならムンちゃんに有利な効果はひとっつも無いんだし。
「それにしても、晴れたわねぇ」
「晴れましたねぇ……」
明日は雲ひとつない快晴。なんならこの3日ほどは季節が巻き戻ったみたいな陽気で、乾燥注意報が出たりもした。
要するに芝の状態は良も良である。悪いほど私に有利だったんだけど、路面からの恩恵は受けられないと見るべき。
ちなみに今日まで、
何も出来ないわけじゃないから前よりは進歩してるし、夢の中で練習は続けてるけど……私やアナさんのガバガバ安全基準でさえ『このままじゃ危なくて使えない』という判定だ。
逆に有利な条件としては、恐らく無風であること。
それと選手の多くが既知の相手であること──これは有利って言わないかも? ムンちゃんを除いて最低4人は“領域”の使い手がいると分かっている。タイミングが悪くてそれら全部が〈極点〉に統合されたら……? 考えたくもない。
全くどうしたものやら。
〈新月〉を使わせない──これは無理な話だ。たぶん誰かひとりでも“領域”を使ったら条件を満たす。全員に使わせないなんてことはできない。
どれだけ広いか分からない〈新月〉の範囲から走って逃げる? ムンちゃん相手には不可能。
〈新月〉に囚われてしまったら、それが〈極点〉に変じることは避けられない。アナさんにとって本質的なことだから。
〈極点〉を破壊するような手段も無い。きっとアレは長時間の維持とか不可能だけど……〈新月〉を使うのは大体ゴール前だし。ムンちゃんが使い所を間違えるとは考えにくいし。
「結論としては〈極点〉の中で勝つしかない、と」
「…………」
サキさん的にこんなものは作戦と呼べないらしい。でも不甲斐ないだなんて思わないで欲しい。沢山助けてもらった。
「サキさんの予測も頼りにしてますよ。ドゥ以外が“転象”を使ってくるかもですし」
「当たることを祈ってる。……でも何より、怪我なく帰ってきてね」
「え。私にそんな心配要ります?」
「ムーンカフェと走る時は特にね」
むう。微妙に反論しづらい。
『ジュニア級の最後を飾るGⅠレース、ホープフルステークス。それにしても凄い緊迫感です』
『芙蓉ステークスを思い出しますね。あの時と同様、ムーンカフェとアナグラワンワンも闘志を燃やしているでしょうが……今日はその2人だけではないぞといったところ』
『はい。ここでパドックの間近から中継してもらいましょう』
マイクは実況席からパドックリポートに移り、新人アナウンサーが必死に様子を伝えていく。
アナグラワンワン以外はみな勝負服の初お披露目だ。
『元気よく飛び込んできましたテセウスゴルド、おーっとこれは非常に見覚えがある赤! 似ているを通り越してそのままに思えますが、唯一の違いであるタスキには大きく“ゴルちゃん許諾済”の文字! 背中には大きく焼きそばの宣伝が輝きます! あちらは良いとしてもテセウスゴルドはこれで良いのか!?』
彼女が例の奇行種(の走り)を尊敬していることは事実である。赤い勝負服に対する憧れもあった。しかしその場で焼きそばのCMをする様はヤケクソにしか見えない(恐らく沖野トレーナーが後で何らかのフォローをするだろう……)。
グラはうんうんと頷いた。自分はクセウマ娘などではないと安心しているらしい。思うのは自由である。
『──続いてドゥームデューキス、マントを脱ぎ捨て露わになったのは──これは美しい、夜会用ドレスとでも申しましょうか。ジュニア級の子に使う表現ではないかも知れませんが“妖艶”といった印象です』
グラは驚いて声をあげそうになった。友達付き合いで受けた印象から、こんな色っぽいデザインを選ぶとは思えなかったので。
次々と勝負服を紹介していくアナウンサーはかなり緊張しているようで、言葉を間違えたり言い直したりしてしまう。解説席や客席からも異様に感じられるウマ娘同士の威圧に、パドック間近にいる分あてられているのだ。
18人目の紹介など、絞り出したように言葉少なになってしまう。
『ムーンカフェの勝負服に大きな歓声が上がります、ファンが予想していた通りマンハッタンカフェのものとよく似たデザインです』
ムーンカフェの銀芦毛にあわせて基調色は変えられているものの、形はほぼ同じでシックな印象。髪型もそっくり似せているので誰もがかの名ステイヤーを重ね見た。
また、目立つところにアルファベットの小文字で『mc』と刺繍されている。実はネット掲示版発祥の略称なのだが彼女はこれを好んでおり──というより『カフェ』と呼ばれるのを嫌っており──それが公的な愛称に据えられた瞬間である。
ムーンカフェの登場で、いよいよ18人が出揃った。
ますます激しく火花を散らす闘志に、これまで必死に食い下がってきたアナウンサーも言葉に詰まってしまう。
『それに、しても……っ、失礼しました』
『機材のトラブルでしょうか?』
『いえ、私が竦んでしまっただけです。これがGⅠレースの緊張感なんですね……!』
経験の浅い新人にとってこんなレースのパドック中継は過酷としか言いようがない。
しかもここに更なるトラブルが襲う。言葉に詰まる彼を見かねたのか、隣でパドックを見ていた一般人がマイクに手を伸ばし引き寄せたのだ。
『いや、さすがにここまでの鋭さはそう無い。GⅠ全部がこうだと思われては困る』
『ちょっとダメですよ──タ!?』
一般人……今は。確かに一般ウマ娘と言えなくもない。
『まぁまぁ、これでもレースにはちょっと詳しい自信があってね。それとも私では不足かな?』
誰が不足などと言えるだろうか。かつてGⅠを獲ったことがあり、更にはこのホープフルステークスの前身にあたるレース*にも勝ったウマ娘を相手に。
『タ、ア、タ……』
『自己紹介は要らなそうだ──おっと』
あわれ、若いアナウンサーはキャパオーバーで目を回した。
乱入者は彼が頭を打たないよう受け止めて、その後は適当な場所に横たえてカメラへと向き直る。
『一応名乗っておこう、アグネスタキオンだ。解説席、聴こえてるかい?』
中継クルーももちろん目を剥いているが、プロ根性が勝った。こんな『おいしい』状況でカメラを止めるわけもなく、タキオンにはそっとイヤホンが差し出される。受け取る方も慣れたものだ。
『こちら解説席です。アグネスタキオンさん、今日はムーンカフェさんの応援で?』
『あぁ。あの子はカフェを慕っていて──いや、特定個人の応援というのは良くないか? まぁ他にも気になる若者がいてね。誰なのかは伏せておこう』
なおこの時、パドックから去るムーンカフェはすごい顔でタキオンを睨んでいる。テレビの向こうにいるマンハッタンカフェも同様。
それを察しつつ、やめるつもりは無い。目的があってやっているのだから。
『なるほど失礼しました。それで先ほどのお話ですが』
『あぁ、今日のこの雰囲気について。私はあるレースを思い出したよ』
あるレース。当然皐月賞の名前が挙がるが、タキオンは違うという。出走したのではなく客席から観ていて、今日のようにひりついた覚えがあるのだと。
『そういえば、アレも年末の中山だった』
『それは、まさか──!?』
『有馬記念──カフェが勝った時のね』
ああ、とレースファンたちは理解する。今日ここに居ない者もその息苦しさを察した。
マンハッタンカフェ、テイエムオペラオー、メイショウドトウ、ナリタトップロードといった顔ぶれだけでも尋常ではなかったし、オペラオーとドトウはその有馬*をラストレースと定めていたのだ。
しかも“皇帝超え”のGⅠ8勝目がかかっていた覇王の意気たるや、どれほど周りを威圧したことか。
そんなレースと似ている。アグネスタキオンはそう言った。
『よろしければこのまま解説などお願いできますか?』
『喋ることには慣れていない。耳汚しにならないといいが』
謙遜するようで断らせる気など無い。思惑通りに快諾され、有力選手の見立てなどを訊ねられて──ふむ、と指を折る。
挙げた名前は3つ。
ひいき目を抜きにしてムーンカフェ。
言うまでもないアナグラワンワン。
最後の爆発力が凄まじいテセウスゴルド。
『勝つのはその3人の誰かだとお考えですか?』
『たぶんね。いや、私の予想なんて大してあてにはならないが』
勝敗にはさほど興味が無いので本気で予想したわけではないが、タキオンの本心は違う。ざっと見た範囲ではテセウスゴルドに勝ち目があるとは思えなかったのだ。
本命ムーンカフェ。対抗アナグラワンワン。勝者は恐らくこのどちらかで、あえてもう1人加えるならば──台風の目はドゥームデューキス。
これがアグネスタキオンの直感である。
ナーサリーナースと共にティーガードンナから教えを受けた際、ドゥームデューキスは自らの“領域”に極めてシンプルな名前を付けた。
〈
名前を付ける前から使えていて、アナグラワンワンに浴びせたことはないが、客席から観察されたことはある。だからその性質も伝えた──あくまで大まかに。
『よわーいデバフを広範囲に撒くって感じ……だと思ウ』
『あー、確かにやたらデカかったね』
嘘ではない。全てを伝えていないだけで。
ドゥームデューキスがこれまで中山レース場ばかり走っていたのは、実は中山に慣れるためではない。ある意味では偶々そうなっただけだ。
アナグラワンワンやムーンカフェとの対戦を避けてきた結果である──情報を隠すために。この“領域”の価値は、知られれば知られるほど下がってしまうから。
領域具現──
『緊張の一瞬、張り詰める空気の中──ゲート開きましたぉおっとこれは!?』
──否定
『アナグラワンワン飛び出さない、スタート失敗かそれとも作戦なのか!』
『先頭抜け出したのはドゥームデューキス、大逃げに近いペースでどんどんと進んで行きます』
この“領域”の特性はアナグラワンワンに伝えた通り。範囲に関しては本当に広く、まともにレースをする限り逃れることは不可能なほどである。
代わりに妨害効果は決して強くないものだが、初見では──ましてスタートと同時では──面食らう者も少なくない。
「く、そっ!?」
スタートに失敗したペトリファトラスも〈否定〉にハマった選手のひとり。ターフを蹴る脚に軽い痛みがある。予想外のタイミングで“領域”を受け、脚を捻ったのかも知れない。
それで焦ってしまったか。
領域具現──アトラスの試練
広範囲の妨害という意味ではよく似た“領域”──それが今回は展開されなかった。〈否定〉と対消滅したわけではなく、一方的に押し負けたのだ。
「うそ……!?」
〈アトラスの試練〉は自らも巻き込まれる代わりに範囲と効果が大きい。対して〈否定〉は、自らを巻き込みつつ効果も小さい代わりに範囲が大きく維持が容易い──スタートと同時に展開してもゴールまで持続できるし、他者からも破られにくい。
『先頭ドゥームデューキスひとり旅、4から5バ身あいて2番手集団ムーンカフェがここにいます、アナグラワンワンは更に後ろだ』
『これまで逃げで戦ってきましたが今回はテセウスゴルドと並んで差しの位置。何人かスタートが合いませんでしたが彼女もその影響を受けたか?』
──ドゥームデューキスは内心で毒づく。
『狙い通り
そう、先ほどの実況は的外れだ。
『いや、ワンワン君はわざとあそこに付けたね。スタートのモタつきは僅かだったから先頭争いもできたのに、あえてそうしなかったんだ』
『ミスではない、ということですね? これは周りの子たちも驚いてるんじゃないでしょうか』
『──ムーンに関しては、むしろ楽しそうに見えるかな?』
アナグラワンワンの差し。事前情報が全く無い戦法だ。
その意図は誰にも分からない。ムーンカフェにも──ドゥームデューキスにも。
『こっちのメッキはどんどん剥がれてくってのに全くよゥ!』
やる前から覚悟はしていた。〈否定〉の効果は浴びせれば察せられてしまう。相手次第では混乱や考え足らずからカラクリを見過ごしてくれるかも知れないが、多くの“領域”に触れた彼女ならすぐにこの『弱さ』を見抜いてしまうだろう。
そうなれば無いも同然の、本当に慎ましやかな
〈否定〉の効果とは、実際のところ──、
※タキオンさんが何を目論んでるかは作中の1月には明らかになる予定です。