アナグラワンワンが強く警戒するのはムーンカフェやドゥームデューキスだが、他の選手も無視はできない。特にアイオブエンヴィだ。
彼女の〈歪み果てし遠近法〉は凝視する1人を減速させるもので、恐らく距離が離れているほど強烈に作用する。芙蓉ステークスでも大いに苦しめられ、しかもあの時が初めての“領域”行使だった。今回は効果を増している可能性が高い。
アイオブエンヴィが居る故に、ただそれだけで、逃げという戦法の難易度が上がる。彼女はそういう存在だ。
つまりアナグラワンワンが後方につけた狙いのひとつは、〈遠近法〉のターゲットを誰かに押し付けることである。
『先頭はドゥか……』
《アイオブエンヴィがドゥームを排除してくれる、か?》
『どうでしょう。エンヴィさんの“領域”はドゥも察してるかと……いや、どうかな?』
ドゥームデューキスは逃げ以外の戦法が不得手だ。スタミナに優れるがパワーは不足気味なため、先行はまだしも差しや追込みでは戦えない。
〈遠近法〉の効果を察していてもこうするしかなかったのか、察していないのか──察した上で、問題ないとの判断なのか。
『ワンワンめ、差しでも戦えるってことかよゥ──ふひ、なら行くかァ!』
『先頭ドゥームデューキス飛び出した後もギアを落としません、一気に坂を駆け上がり1コーナーも登ってゆく──少し心配なペースでしょうか?』
『かかってしまっているかも知れません。
4バ身離れてムーンカフェ率いる先行集団、更に2バ身半あいてアナグラワンワン、テセウスゴルド続いていきます』
ムーンカフェは侮っていない。彼女自身の意識は約1名にばかり向いているが、トレーナーの真壁がきちんと全員のデータを伝えた。分かる範囲で、だが。
『ドゥームの脚質ならゴール前の伸びは怖くない。“領域”も脅威じゃなさそう』
〈否定〉については事前情報を得られなかったし、スタートと同時の“領域”行使には驚きもした。
しかしそれも一瞬のこと。怖れるに足らないと分析・判断を済ませている。
スタートと同時に訪れた脚の痛み。肩や腕の疲労。心臓や肺の悲鳴。
──
つまり〈否定〉が齎す
精神面への影響は小さくないのだが……アナグラワンワンも効果を察した上で意識から外して走っている。2人の走りを見てアイオブエンヴィやテセウスゴルドも混乱から脱してしまった。
(ペトリファトラスも焦って“領域”を開き返すのではなく観察に回れば気付けた可能性が高い)
『ドゥームの“領域”は、極論無視できる。身体の感覚に頼らずカウントすればオーバーペースにもならない』
宿敵が後ろに陣取った理由は分かる。アイオブエンヴィの“領域”は確かに脅威だ。
一方で分からないこともある。
『そういう精確さはワン子の得意分野のはず──なら、どうして?』
何故あんなにもこちらを差し置いてドゥームデューキスを注視しているのか。何があるというのか。
気に食わないが警戒はすべきだ。
〈遠近法〉の対策か、〈否定〉以外の何かか……その正体は分からないし、〈新月〉で消し飛ばせるかはもっと分からない。誰にも予測はできないはずだ。
その未知に対しムーンカフェは──、
『どちらでも構わない。あの月面で誰かが“領域”を使うとしても、私は正面から捻じ伏せるだけ』
──アナグラワンワンが“ラスボス的”と評する態度で迎え撃つ。
ただ、先頭との差はもう少し詰めておくことにした。
『2コーナー下りながらムーンカフェ僅かに位置を上げます。先頭との差を2バ身強に調整したか』
『釣られるようにアナグラワンワンも進み先行集団に合流。テセウスゴルドは留まって脚を溜めるようです』
先行集団はムーンカフェが離れて残り3人。
アイオブエンヴィを含む彼女らの後ろにぴたりと追いついた6番手の位置で、アナグラワンワンはタイミングを窺う──仕掛け始めれば考える余裕など無くなるから、最後の考察タイムだ。
『実際には無い弱化を有ると思わせる〈否定〉、これ引っくり返したらどうなるんです?』
《“転象”と表現したのは私だが、“ひっくり返す”に囚われ過ぎじゃないか。むしろ『表を補う裏』という印象がある》
『……なるほど?』
ティーガードンナの〈
ナーサリーナースの〈
確かにそういう見方もできそうだ。
『なら〈否定〉は……ドゥが持ってる苦手を無くすとか、持ってないものを補うとか』
《どちらも最終直線の加速になりそうだ》
『はい。ただ〈新月〉でどうなるか……』
《ドゥームは〈新月〉を知らんだろう。あれは外から観て効果を測るのも難しそうだ》
〈新月〉はムーンカフェを強化しない。他者にも“領域”を解く以外の弱化を齎さない。特化している故に効果は強大で、他との対消滅は起こさないし表だろうと裏だろうと例外は無いと考えられた。
だからアナグラワンワンから見てドゥームデューキスの勝ち目は薄い。
……薄い、はずだ。隠された策略家的な側面を不気味に感じるとしても。
残り1200mを切り、先頭が2コーナーからバックストレッチに入る。
『コーナー出口、外からペイジで仕掛けます。
残り950、
《ああ。今や私の唯一の出番だからな》
『……信じてます』
《ビビるほどコケるぞ》
──時間切れ。考察と相談の猶予は尽きた。
後はもう、伸るか反るか。
『さぁ向正面に入っていきます、2番手ムーンカフェと3番手アイオブエンヴィは少し開いたか3バ身、っとここでアナグラワンワン外に開いた仕掛けるか!?』
『下り坂凄まじい加速で一気に順位を上げる! しかしこれでは傾斜が変わる際に脚が──』
中山レース場内回り、2コーナーから向正面前半の下り坂はかなり急なもの。これがいきなり平地になれば墜落するようなものだから、向正面の後半は軟着陸するような緩い下りになっている──それでも速度が過ぎれば脚を痛める作りなのだが。
更に切替え、ペイジからバーリオルへ。脚を護る刀身にもうひと工夫を加えて衝撃を和らげる。同時に加速も。
『アナさん!──マジで怖いんですからね!?』
《“死にゃしない”と自分で言ったろ?
私を信じて
空気以外に何も無い空間を、抉る。鈍器のごとき蹄鉄は虚しく空回りするようで──電光のような赫が瞬いて脚力を受け止め、反発を以て加速に変えた。
『い、ま、見間違いでしょうか!?』
『比喩ではなく空を駆けたように──いえ、ともかくアナグラワンワン3番手に上がりました各選手一斉に動き始める!』
早口の実況解説が追いつかないこの瞬間。
先頭ドゥームデューキスは直線から3コーナーに入ろうとしている。〈否定〉は依然として展開中で速度は全速に近い。
2バ身後ろにムーンカフェ、“領域”温存中。速度にもスタミナにも余裕はあるが、真後ろにアナグラワンワンが迫り戦慄と歓喜に貫かれた。
3バ身ほどあった差を一瞬で喰らったアナグラワンワン、この瞬間の速度はムーンカフェを上回っている。仮に今〈新月〉が開かれても、下り坂で稼いだ物理的な速度は減じない。流石に速すぎて持て余すので、これまでのようにコーナーでも減速せずとはいかないが。
アナグラワンワンの進撃に一瞬遅れてテセウスゴルドも動いている。現在5番手。本当なら3コーナー以降に仕掛けたかったが、ここを逃せば間に合わなくなると見た。
アナグラワンワンには千切られテセウスゴルドにも迫られたことで、4番手アイオブエンヴィも動く。
実は〈遠近法〉のターゲットには先頭以外も選べるが、どう頑張っても1人にしか掛けられない。誰に仕掛けるべきか、迷いはある──誰を選んでも自分は1着になれないような弱気も。それでも何もしないよりはマシだと心を決めた。
領域具現──歪み果てし遠近法
効果の最大化を考えれば合理的だ。
彼女の選択を誤りとは言えない──知らなかったのだから。
“領域”の応用というだけでも想定しがたいし、“転象”を知るアナグラワンワンも『まさかこんなヒネくれた形で』と驚くのだから。
また、一瞬の迷いと決断の中では些細な印象もバ鹿にできない。上位3人の中で最も目を惹く勝負服はドゥームデューキスのものである。
すなわち誘い。“領域”を待ちうける“領域”。
領域転象──
『3コーナーでドゥームデューキス急加速、速い速いぞ!?』
『ムーンカフェ一瞬目を見張ったか、外からアナグラワンワン並んだ追い越した2番手交代!』
〈否定〉は『ありもしないマイナス』を錯覚させる。本当に疲れている者や怪我をした者には何の効果も無い。
〈二重否定〉は『実際にあるマイナス』を裏返す。例えば〈歪み果てし遠近法〉を、アイオブエンヴィとの
『そこは〈肯定〉じゃないんかいっ!』
《ドゥームデューキスらしい……のか?》
先頭を追う形でアナグラワンワンも3コーナーを駆ける。2人ともスピードは凄まじいがコントロールはしきれておらず内ラチから膨らむ軌跡をとった。
3番手に沈んだムーンカフェからはインコースの隙間が見えているが、今は抜きようがない。自分もすでにギアを上げたのに──差はじりじりと開いていくのだ。
「っ──やるじゃない、の!」
興奮。全力が及ばぬかもという恐怖。
彼女らはどう来るだろう。
大回りなど知らぬと速度を維持する? 最短を抜けるために少し減速する? ホームストレッチの登りの対処は?
残りは600mと少し。ここで〈新月〉を展開すればゴール前に解けるおそれがある。
しかしロングスパートは──頑張って無理をして、後で真壁トレーナーに怒られる覚悟さえあれば、どうにかぎりぎり──最後まで保つ距離だ。本当に厳しく叱られるだろうけれど。
脚を回せ。駆け引きの時間は終わり。
なれど頭も回し続けろ。
ムーンカフェの集中力が極限に達する。
彼女は実況などの声が聴こえなくなる方だ。ただしターフ上の音にはむしろ敏感になる。
『後ろ2バ身半にテセウスゴルド、前回よりかなり速い……今の相対速度はほぼゼロだけど、“領域”を使われたら抜かれる位置。私のスパート開始が遅れたせいもあるか』
静寂の中にウマ娘の立てる音だけが際立つ。時間の流れがゆるく感じる。
『先頭ドゥームデューキス、は……かなりつらそうね、大きく膨らんでまであの速度を維持してるけど〈新月〉を使わなくても最後までは保ちそうにない。彼女自身の最高速なら抜ける──ただこの3バ身は小さくない、か』
そのスローモーな世界で、2番手と目が合った気がした。
『ドゥームとの中間点、ワン子。速度とコントロールをちょっとずつ犠牲にして良いとこ取りをしようなんて貪欲な最適さだこと。向正面で稼いだ速度は最終直線までに使い果たす。でもあの子だけの最高速でも、中山の登りと私のスタミナを踏まえると──』
目が合って、にやりと笑まれて、認識が揃う。
このままなら──〈極点〉無しなら──アナグラワンワンが有利。
〈極点〉によって〈
ならばどうする?──
順位は変わらず、ドゥームデューキスとアナグラワンワンの差が少し詰まって残り450m。
ムーンカフェは既にロングスパートに入っているが、更に内ラチを削るようなインを攻めた。僅かにテセウスゴルドとの差が開く。
〈黄金〉は最終コーナーからゴール前の爆発的な加速を齎すが、ここで使っても上手くいかないことは芙蓉ステークスで経験済み。
しかしテセウスゴルドには他の選択肢が無い。憧れの勝負服からも力を借りて、今こそ有馬の末脚*をと。
領域具現──
『装備型』にあたるそれの発動は静かで、ドゥームデューキスは気付けなかった。しかし待っていれば察知は容易い。
領域具現──
幼い頃から霊視体質に悩まされた彼女は、『普通の人に視えないモノ』を嫌う。それら一切を排除する月面は瞬時に世界を塗り替えた。
「んぐゥ!?」
「ち、く、しょー!」
〈遠近法〉が解除されることで〈二重否定〉は斥力を失い、ついでそれ自体も消えた。
〈黄金〉は気合いによってか勝負服によってか僅かに耐えたものの、ムーンカフェと並ぶまでが精一杯。
2人がぐんと減速し、しかし残る1人は変わらない。アナグラワンワンは(カーブ故に僅かに減速しながらも)速度を保っている──それは“領域”や【ブラッドアーツ】に依らない物理的なベクトルだから。彼女自身のボディコントロールがエネルギーのロスを削りに削っているから。
もう目が合うことは無い。前へ、前へ。
残り300m、最終直線。
僅かな下りと急な上りが待ち構える。
領域捕喰──
〈黄金〉がムーンカフェの背中を押し始めた。半ばついでのように発動した〈遠近法〉はターゲットが変わっていなかったらしく、ドゥームデューキスを更に引きずり下ろす。
アナグラワンワンが急坂に入る時点で、背後との差は1バ身未満。速度は宿敵の方が上。残り190mを逃げ切ることはできない──このままでは。
しかし今、ドゥームデューキスを抜いた。ムーンカフェに抜かれるより前に。先頭に立ったのだ。
前に誰もいないこと。
ムーンカフェの“領域”内にいること。
この2つが揃った今この時、切り札を解禁できる──この状況なら危険はほとんど無い。
アナの声が聴こえず【ブラッドアーツ】が使えなくとも、神機はずっとグラと共にある。
かつて喰らいし荒神、その力の模倣。
選んだのは『人を襲った例が確認されていない』という特異なアラガミ──危険ではなく混沌をもたらす〈アバドン〉のコア情報。
その特性は、一心不乱の逃げ足である。
次話、リザルト。
(ゴッドイーター未プレイの方へ)
名前はとても物騒ですが、アラガミ『アバドン』は人を襲いません。
ゲーム的には『逃げ回るので倒しにくいけれど、倒せるとちょっとレアなお宝が出る』という宝箱のようなエネミーで、それを狙うあまりに戦場がしっちゃかめっちゃかになる(本来の討伐対象から目を離してしまいやられるとか)ことから『混沌をもたらす者』と呼ばれます。
かわいい(諸説あり)。