初めて“領域”に近いものを展開したアストロさんは、私の注射で眠ったまま運ばれていった。
その際に誰より間近で特濃な毒霧(?)を浴びた私はというと、ほんの短い時間ながらかなり激しい症状も出ていたのですっごく心配されたんだけど……状態回復弾をどかどか打ち込んだ上でタキオンさんにじっくり診てもらい、頂いたのは『おかしいほど健康』と(いつもの)お墨付き。安心安心。
観客席のうち、宇宙服を着ていた人たちは全員なんの異常も無かった。
マスクだけだったタキオンさんと桐生院さんは軽い発熱があったらしい──アストロさんからは余裕で300m以上離れてたのに。私も含めて念の為にと病院へ行って、そこではお薬さえ出されず『部屋を加湿してよく休んでください』で帰されるほど僅かであっても、無症状ではなかったわけだ。
「桐生院トレーナーでも37度の発熱か……普通のヒトミミだともう少し重くなりそうだ」
「……あの、桐生院さんってそんなに丈夫なんですか?」
失礼だけどあんまりそうは見えない。サキさんと比べると背は低いし、顔立ちが少し幼いことも相まって周りからの扱いに違和感を覚えてしまう。
本人は納得してるっぽいんだけど──、
「ははは、最近の若者は桐生院トレーナーの伝説を知らないのか」
「タ、タキオン。恥ずかしいので昔のことは……」
──納得はちょっと違うのかな、ヒトミミ離れしてるって自覚はあるっぽい?
「恥じることじゃないだろう? デジタル君からよく聞かされたよ」
「デ……ワンワンさん、まさか寮でそういう話とか聞いてます?」
「寮母さんですか? うーん、基本的にあちらからは声をかけてこないというか、ニコニコしながら見守ってるというか」
少なくとも私は桐生院トレーナーとの昔話なんて聞いたことがない。そう答えるとほっと息を吐いた。
「ああ、『壁』を満喫してるのね」
「壁……あぁはい、たまに『私は壁』って目を閉じたりしてます」
「それ、思い切り聞き耳立ててる*ので気を付けてください」
「大丈夫です、『寮母さん取扱い
「デジタルぅ…………」
おや、桐生院さんはあのマニュアルの存在を知らなかったのか。寮母さんのことで困った時の緊急連絡先にこの人も入ってるんだけど。
まぁ仮に私が困ったら、わたわたしながらサキさんに連絡しちゃいそうな気がする──と、視線を送っていたら。
誤解させてしまったらしい。
「ワン、私に葵先輩と同じことを求めないでね。併走とか無理だから」
「そりゃ当たりま……え!? 桐生院さんはできるってことですか!?」
「言わないでってばサキさぁん!」
叱られる(?)サキさんという珍しいものを見た。
つまりこの人、併走は本当にできるんだ……。
「私だって年をとるんです、今は1000mも走ったら息切れするんですから!」
「普通ウマ娘のペースでは100mだって走れないんですよ、先輩」
なんだろう、微妙に親近感。
その日の夜。
いつものように夢の中で話すつもりだったのに、眠りに落ちた瞬間のアナさんは驚くような声。
「んん? どうして……あ、まさか」
そこはアナさんの世界ではなく、私の夢でもなく。
うっかり繋がってしまった、誰かとの混線だった。
記憶が曖昧なくらい幼かった時のこと。
最初の思い出はいつ頃のどんなものだろう。
何を謝られたのか、当時はまるで分からなかった。それまでに住んでいた小さなアパートを出て立派なお屋敷に引っ越して以来、毎日はぐっと楽しく快適になったから。むしろ『すごいおうちに連れて来られてうれしい』とさえ思った。
それが多分、3歳か4歳ぐらいのこと。
年月が経つと段々分かってくる。この『すごいおうち』では速く走れることが大事らしい。だけど母親はレースが好きではなかった。
それどころかどうも嫌いらしい。母親はこのお屋敷で生まれ育ったはずなのに、どうもあまり居心地がよくなさそう。
幸せな幼年期は、しかし突然に終わった。
きっかけはお屋敷が毎年開くちびっこレースに初めて参加したこと。それから半年ほど経って小学校2年生になっていたある日、初めて体質を教えられて。
いっつも軽い風邪が流行っているのは
──
大人たちはなお優しかった。
『走りたいかい?』
『走りたいなら、すぐには無理だけど、なんとかする方法を一緒に探そう』
『まだ諦めるには早いよ』
答えられない。楽しかったはずなのに、今は怖くて堪らない。
『もうやめておくかい?』
『それでもいいんだよ』
『お母さんは、レースなんか嫌いだと家を出たけれど……走らなくたって家族なんだから』
そうだ、やめておこう。そうすれば病気を広めない。
ただ、母親も大人たちも余りに優しくて。
誰からも責められるようなことが無かったから、これは流石におかしいと気付く。
──あぁ、あぁ。
優しい沈黙と甘い嘘を、年月と共に理解する。
──そういうこと。なんて、こと。
でもこの家を飛び出した時にはそうじゃなかった。健康なウマ娘だった。
──
身体が弱くて生活に困って、だから仕方なく嫌っていた実家に戻ったのだろう。ならばこの家で過ごす苦痛も私のため。
全部全部、私のせいで──
「ちっがぁぁーーーう!!」
「っ!? ワンワンさん!?」
「あ、繋がった」
アストロさんの視点でいえば夢の中に突然私が乱入してきたわけで(おまけに完全初対面のアナさんもいる)、混乱するのは仕方がない。
一方でこっちも説明してあげられるほどには分かっていなかったりする。どうしてこんなことに?
「えっと、理由は分からないんですが──」
「原因は血だろう、おそらく」
「血?」
口を挟んできたアナさんは、戸惑うアストロさんに軽く名乗ってから続ける。
「麻酔薬か何かを注射しただろ。針が無くてほとんど出血しないと言っても僅かには出る。それが手についた」
「それはそうでしょうけど、だからってわざわざ舐めたりは──あ」
そっか、その後すぐ手で口を塞いだから。アストロさんの血液を微量ながら摂取してしまったわけだ。
「……いや、血を舐めたら夢が繋がるってのもかなり意味不明ですが?」
「感応現象*──いや、そこは今更だろ。
アストロ、不可解だろうが『アナグラワンワンはこういうウマ娘なんだ』ということで理解して欲しい」
「は、はぁ……?」
今更はそうですけどー。
アストロさんは病院着姿で、たぶん本人は病院で寝ている。栗東寮とどれだけ離れてるかなんて……考えるだけ無駄か。ウマソウル案件だ。
「あー、っと。ともかく現状は事故みたいなものです。こちらも意図してのことではありません」
「え、と。はい」
「で、それもわざとじゃないんですが……すみません、アストロさんの過去っぽいものを観てしまいました」
「えっ」
子供の頃には宇宙服でもなくイヴィルアイと呼ばれていたみたいだけど、あれはアストロさんの記憶だった。本人の許可もなく盗み見てしまった形だ。
申し訳ないと、深々と頭を下げる──けれども。
「その上で。もうかなり踏み込んでしまったので、差し出がましいことを言わせてもらいます。
……お母様は、あなたを恨んでなんていませんよ」
「っ!」
強く睨んでくる──たぶん睨まれている。眼の模様の前髪を貫いて届く怒り。
適当なことを言うな、というのは分かる。
でも適当なことじゃないんだもの。
「アストロさんを眠らせた後、病院に行く前に少しだけお話をしたんです。お母様と」
「え……」
長々と話したわけじゃなくって、要約したら『ごめんなさい』『迷惑かけます』『ありがとう』ぐらいの……ちょっとしたご挨拶だ。
だけど最後にふっと漏らした言葉がある。
『どうにかあの子を解放してあげられたらいいのだけど』
解放。
単に宇宙服の狭苦しさから?
それとも家のプレッシャーみたいなもの?
『──あぁ、家の中にはあの子の才能を惜しむ声もあります。すごい才能なのは確かだもの』
迷わず頷いた。それは本当にそう思う。
『ありがとう……でもさっきのは“領域”云々の話じゃなくて。はっきり伝えた本当のことを、素直に信じてくれたら楽になるのにって』
──その時にはなんのことか分からなかった。
今は分かる。アストロさんの夢に出てきたから。
「ちゃんと説明してもらったじゃないですか。お母様が車椅子になったのは交通事故ですし、その時アストロさんは保育園にいました。あなたのせいじゃありません」
「そんな、そんなわけ。私のせいに決まってます」
「病院の記録まで見せてもらったのにですか?」
「あの家なら、それぐらい偽造できちゃうんですよ……!」
うーん。夢と混線していた時はそう思ったよ。『こんなのは私を安心させるための嘘に決まってる』とかなんとか。
でも元通りにバラけてみるとそうは考えにくい。アストロさんの力は精々微熱を起こすくらいで、ましてやその威力も胎児期ならずうっと弱かったはずで。下半身不随にはなりそうもない。
彼女の疑い方はまるで──、
「陰謀論だぞそれは」
──あ、アナさんがはっきり言ってしまった。そうなんだよね、証拠出されても証拠を疑うっていうのは何にも信じないってことだ。
「……そんな、こと……」
「長く抱えていた思い込みを直視するのは難しいと思うが。事実は事実として認めないとな」
「それじゃ、私……」
うーん? なんだかアナさんが積極的な気が……訊くのは後にしようか。今はアストロさんのことだ。
「自分のせいじゃないって思う方が簡単な気がしますけど」
「グラ、人はそう簡単じゃない。
「重石?」
母親に障害を負わせたとしたら、それがひどく重いのは分かる。重すぎるから、(本当は自分のせいでも)自分は関係ないって投げ出したくなる気持ちは分からなくもない。
でもアストロさんはその逆でしょう?
「だって……だって、私は、走りたい……」
「…………走ればよいのでは?」
絞り出すような言葉に、私は深く考えずに答えてしまった。
反省だ。この件は珍しく、ちゃんと考えてれば私でも共感できるような類だったから。
「私用の宇宙服とか、わざわざ新規開発なんですよ!? しかもちょっと背が伸びる度に作り直して、これまで幾らかかったことか! 私のわがままひとつで!」
おぉう……うん、お金持ち怖い。
アストロさんが昔にぽろりと『いっそ宇宙服でも着たら』と呟いたら半年後に完成品を渡されたそうだ。それは引く。
理事長の私有コースを見た時の反応も、慣れというよりは呆れと諦めに近いらしい。あそこよりは狭いけどアストロさん専用の常時独占ターフもあるとかで──芝生には定期的なお手入れも必要だから、使わなくてもお金と人手はかかり続ける……。
「え、なら走るの諦め──あぁそっか、影響が強まってるから“領域”を制御するために走るしかないのか」
「それもありますが、走るのは正直楽しくて……」
「おっと。まぁ、はい」
つまり、アレか。割とダメダメな感じがしてきた。
走るのは誰に強制されるでもなく楽しいんだけど、お金や迷惑をかけてて申し訳ないから、後ろめたくて楽しみづらい。楽しんではいけない。だから『私は●●の為に走らなきゃいけないんだ』っていう理由を重石として求めてた、みたいな?
「……それお母様を理由にしちゃダメなのでは」
「知りたくなかった……!」
「教えられたのを都合よく曲げてただけじゃないですか……」
「せ、正論……年下の子から……」
まぁ夢で追体験した限りだと、アストロさんは自覚的に記憶を書き換えたわけではない。あらたまって事実を説明されたのは10歳頃の1度きりだし(彼女は『お母さんが車椅子になったのは自分のせいだ』と思い込んでいてもそれを誰かに言うわけじゃなかった。言ってたらその度に訂正されただろうけど……)。
そもそも病気を振りまく体質のストレスは想像に余りある。
ま、過ぎたことは過ぎたことだ。
「いいじゃないですかシンプルで。“領域”さえどうにかすればアストロさんは誰に引け目を覚えることもなく走れるわけでしょう」
「……そうですけど、どうにかって」
それについてはうちの頼れる英雄さんが何か閃いたらしい。
「ムーンカフェの事例からすれば可能性がありそうだ──リスクとか、色々と検討すべきこともあるが」
「え」
朝起きてしばらくすると、アストロさんからメッセージが届いた。『変わった夢を見ました』と、ただそれだけ。
……これまさか、夢オチって感じで流そうとしてる? しっかりしてると思いきや意外とダメオーラ出してくるなぁ。
アナさんのプランにも同意してくれたでしょ。今後は実行に移していこうって決めたんだから覚悟を持ってほしい。
あの会話は本当にあったことだって誤解・曲解の余地なく伝えるには……うん、これなら一言で分かってもらえるはず。
『陰謀論』──送信っと。
次話、アストロ改造計画。