4月。
初対面は段ボール越しだった──寮に入ってきた新入生なんだから、それは不思議じゃないんだけど。
「ふん、ぬゥ……!!」
そいつは、隠しようもなくぷるぷるしていた。腕も足腰も。
「え、なに。どんだけ重いもん持ち込もうとしてるの」
「あ、ルームメ……すみませ、ご挨拶は後で……!」
「ふらっふらじゃないの、もう!」
思わず立ち上がり、抱えられた段ボールに手を添えてしまった。
そして驚く。軽い。
「……? ……??」
抱えてたものを丸ごと奪い取ってみても……やっぱり軽い。筋トレ用のウェイトが入っているらしい重量感は確かにあるものの、その斤量は中央の競走ウマ娘にとって大したものじゃなかった。
「あ、ありがとうございます初めまして。そして遠慮の欠片もない怪訝な視線どうも」
「えっと、重いフリとかしてた?」
「嘘は嫌いです。単に私が非力なんですよ」
アナグラワンワンです、と丁寧に頭を下げた小柄な後輩。
柔らかそうな青毛は長いストレートで、項の後ろでひとつ結び。
視線はまっすぐにぶつかってくる。名乗り返して『短い付き合いになりそうね』とか皮肉をぶつけても怯んだ雰囲気は無い。それどころか、
強かというかふてぶてしいというか、なるほどタフではあるのかも。
当然、荷運びはお断り。小分けにして運びなさいな。
昨日の内に、寮母さんから聞いてはいた。
『え。新入生と同室ですか』
『ご心配ですか? 大丈夫、タフな魂が輝くような子ですから!』
『そ、そうですか……』
ウマ娘を愛してやまない彼女のことは頼もしく思うが、だからこそウマ娘への評価は信用していない。どうせ全肯定なのだ。
『アナグラワンワンちゃんといいます。ほんの少し不器用なアルヘイボゥちゃんの優しさを、ちゃあんと見つけてくれる子ですよ。
……レースでは、苦労しそうですけど』
──こんな風に。
自分は優しくなんてない。まして今年から私もシニア級だ。後輩の面倒など見てやれる心の余裕を持てないだろう。
昔からプライドが高く舌鋒も鋭い自覚はあったから、なるべく接触を減らすのがせめてもの優しさだと思った。実際にそうするつもりだった。
しかしその後輩は、考えられないほど貧弱だったのだ。
入学して最初の1ヶ月なんて、寮や施設に慣れるためのオリエンテーション期間に近い。ほとんどの生徒は本格化を迎えてないし、4月の下旬にはファン感謝祭というイベントまである。5月になったらすぐ最初の選抜レースがあると分かっていても、ストイックに自身を追い込むような新入生はそう多くない。
アナグラワンワンは少数派に見えた。私も寮室には長く留まらないとはいえ、この子も相当に短い。
「──あ、起こしちゃいましたか。おはようございます」
「別に、私も起きる時間だからいいけど……貴女も朝練?」
「はい。お先でーす」
顔を合わせれば言葉は交わすし、奇妙なほどフレンドリーでもある。しかし腰を落ち着けて話す機会は全く無かった。さすがに見過ごせず、オーバーワークしていないかと寮母さんに訊ねてしまったほどだ。
「はぅ、孤高だったアルヘイボゥちゃんが後輩を気遣うとかゴチソウサマですっ」
当然のように尊死なされた。いつものことである。
意識して探してみれば、アナグラワンワンはすぐに見つかった。
……ダイイングメッセージの通り、身体を壊す心配は要らなそうね。
「なるほど、“低負荷を長時間”か……」
色々とやっている自主練習は、本当に負荷が低いものだ──というか、あれってヒトミミ向けのトレーニングじゃないの?
敢えて良いところを挙げるなら、フォームは安定している。ウマ娘よりはヒトミミの走り方に近いけれど、ともかく等しいペースを刻めている。
ただ圧倒的にパワーが足りずスピードが伸びてこない。
「どうやって受かったのよ──む」
ウマ娘と競える水準に達しているかさえ疑わしく思えたけど、ひとつだけ。
コーナーリングは中々のものだ。元が遅いおかげもあるにせよ、スピードのロスなく最適なコースを攻めている。受験生の中で競うなら、直線の不利を多少なりと跳ね返せるかも知れない。
……重ねた努力で磨き抜いた走り、ね。そして可哀想なほど伸び代が乏しい。
運も良かったと考えれば、『どうやって合格できたのか』は一応納得できた。
苛立つくらいに理解不能だったのは、あの子の精神性の方。
どうして勝ち目も無いのに鍛え続ける?
レースへの愛なんてモチベーションじゃないでしょ。貴女、そこまで走りそのものを楽しんではいないわよね。
長時間のトレーニングはプライベートを削り、実感のしようもない成長幅にはストレスを感じて当たり前。そんな抑圧を、聞けば5年近くも前から休まず続けてきたって……それはもう、狂気の沙汰なんじゃないの。
そうやって丸ごとをレースに捧げちゃうウマ娘もいるにはいるけど……そういうタイプは、たとえ模擬レースであっても負ければ真剣に悔しがるものだ。向く先は自分だったり他人だったりするけど、濁った気持ちが湧いてきて当たり前。
アナグラワンワンは違った。授業中の模擬レースを終えた後、あの子は──ほっと、安堵していた。
『わけ分かんない、なんであんな表情になるのよ……こわっ』
負けたのに。大負けしたのに。そのことで柔らかく安堵するようなウマ娘を、私は他に知らない。
あんな、当たり前に賭けていた命を拾ったような気の抜き方。理解できない。気持ち悪い。
5月初頭。
アナグラワンワンは早朝にウマソウルとの会話でアルヘイボゥを怖れさせ、午後に選抜レースに勝利し、夕刻には理事長たちと面談をした──同じ日の、夕食後。
食堂から戻ったアルヘイボゥに頼み込んだのは
「ばっさりお願いします」
「えぇ……他に頼む相手いないの?」
「いません。とりあえずですし、文句は言いませんから」
床にはあらかじめ新聞紙が広げられており、アナグラはそこに座るとアルヘイボゥに背中を向けてしまった。ポンチョのような雨合羽を羽織り、首の周りにはタオルも詰めてあるし、髪も前もって湿らせてある。
このように場を整えてしまえば断りにくく感じるタイプだろうと、入れ知恵をした者がいるらしい。
《もう切ってもらえる前提で、他の話でも始めた方が良いかも》
『はーい』
悪知恵の働くウマソウルである。
「本格化ってやつだと思うんですよ」
「違うと思うわ」
「えー。でも急に変わってるでしょう?」
「それはそうだけど……」
アルヘイボゥはアナグラの髪に触れ、「確かに、まるで別の髪質ね」などと呟く。
昨日までのそれは、いわばサイレンススズカ。アナグラは青毛なので色は大違いだが、柔らかなストレートヘアという点は近かった。しかし今はまるでエアシャカールだ。硬質なツンツン髪に変わっている。
湿っていてもなお髪がまとまりきらないし、乾けばますます大暴れ。理容店育ちの美意識としても収まりが悪く、せめて毛量を減らしてしまいたい。
実家でも
机から櫛や鋏を取り出してアナグラの背後に戻る。
「本格化っていうのはね、こんな1晩でがらっと変わるもんじゃないのよ」
「そうなんですか? 先輩は?」
「動くんじゃないの」
振り向きかけた頭を掴んで戻した。
「次動いたらモヒカンにするわよ」
「ひゃ、ひゃい」
「髪型はお任せコースのみだから」
「はーい」
ゆっくりと櫛を通してうねり具合を確かめ、毛先をほんの僅かに鋏で落とす。
……硬い。色もあいまって鋼を思わせる髪だ。
「──私は、中1の冬……年明け辺りから始まったんだったかしら。はっきりは分からないわ、トレーナーもついてなかったし」
「え。意外です」
「本格化の前に目立てないのは当たり前。その時期を自分で選べないのもね」
1年に4回行われる選抜レース、彼女がトレーナーを得たのは4回目だった。
3回目まで見向きもされなかったことに文句は無い。本格化が始まる前と後とで全く違うのは自身も認める事実だから。
しかしアナグラのこれは異質に過ぎよう。
「本格化で髪質が変わるとか、聞いたことないし」
「でも他に心当たりが無いんです」
「うーん……」
加齢などで髪質が変わることはヒトミミにもウマ娘にもあるが、それとて1晩で急変などしない。ならばそれをウマソウルの影響とする仮説も筋は通る──ただしその仮説だと、本当に何でもありになってしまうが。
……何でもありといえば、不可解なことはもうひとつある。見過ごせないほど大きな謎が。
へっぽこだったはずの後輩が、選抜レースで1着を取ったことだ。
「そういえば、食堂で少し噂になってたわ。貴女の選抜レースのこと」
アナグラは食器を壊すおそれがあるので寮母におにぎりを頼んでおり、また親しい友人もいないので部屋で食事を済ませていた。噂話などを耳に入れる経路を持っていない。
「う。ルール違反とかそういう話でしょうか」
「それも聴こえたけど、審判が違反無しって判断したんでしょ? ならその点は堂々としときなさいな」
《めちゃくちゃ良い子なのでは……?》
『そう思います』
「そっちじゃなくて単純に、どうやって勝てたのかって話よ。私も知りたいものだわ、学年最下位の落ちこぼれさん?」
《これはツンデレ》
『口に出したら怒られるだろうなぁ……』
「ちょっと、聞いてるの」
「あ、すみません」
脳内会話と音声会話、取り違えると大惨事になりかねないアナグラワンワン。ひとまず声の方に頭を切り替えた。
ただ、その内容は再びアルヘイボゥを狼狽させることとなる。
「えっと、“領域”ってものだとか」
「は?……はぁ? あんたどこで“領域”なんて知ったの」
「シンボリルドルフさんがそんな感じのこと言ってました」
「"皇帝"!? 知り合いなの!?」
「いえ、ええっと」
面談のことを話すアナグラは──アナもグラも──“領域”がどういうものか分かっていない。シンボリルドルフも一緒に走ったわけではないから“領域”かどうか判断できない。
故に“領域”だと断言もしなかったわけだが、アルヘイボゥからすれば寝耳に水である。
彼女にはGⅠレースの出走経験があり──結果こそ着外だったが──他のウマ娘の“領域”を浴びたこともある。
自分ではまだ、使えそうな気配の断片を掴めたかどうか。早い段階で習得できればと欲してはいたのだ。
とはいえ、『狙って得られるものではない』とも聞いている。
「それどうやっ──ううん、いいわ。言葉で説明できるもんじゃないらしいし」
「そう、ですね。すみません」
「謝るんじゃないわよ。どうせ本格化と同じで気付いたら使えたとかなんでしょ」
「……」
「ウマソウルが喋って使い方教えてくれるわけないんだしね」
「っ…………!」
嘘を嫌うアナグラだが、無言や無回答はセーフということにしている。それでもこの時は雄弁な焦りが顔に出てしまったが、幸いアルヘイボゥは手元と刃先しか見ていない。
「にしても、ルール違反に間違われるような“領域”だったの?」
「……はい。ちょっとターフを傷つけてしまって」
「え。それ危なくないんでしょうね」
「大丈夫です──けど、ご心配は分かります。安全に関わることですから」
重々しく頷くアルヘイボゥ。
その反応から考えるに、理事長やシンボリルドルフも同じように
『やっぱりスパイクは封印ですかねぇ』
《む。良いのか?》
『脚力とかも急成長してますから、これをちゃんと使いこなせばそれなりに走れるはず──というか、本来そうあるべきです。選抜レースに間に合わせるための一時しのぎという側面はありました』
《あぁ、そんなこと言ってたな。とりあえず今日はこれで行くとか》
部屋には鋏の音と毛束が新聞紙に落ちる音だけが続く。
チョキン、パサリ。
チョキン、パサリ。
この時アルヘイボゥは、『この落ちこぼれがせっかく得た力を危ないの一言で奪い去っていいものだろうか』と悩んでいた。もしここが理容店なら──正面に大きな鏡があって脳内会話中のアナグラの表情が見えていれば──心配するほど深刻な沈黙ではないと分かっただろうが。
この誤解が解けるのは少し先の話。
それまで悶々と悩み続けたアルヘイボゥが、『早く言いなさいよ!』とキレ散らかすことは言うまでもない。
次話、