ダービー。
名前や通称にダービーと入るレースは国内に複数あるが、日本で単にダービーといえば東京優駿(日本ダービー)を指す。
東京レース場、2400m──クラシック限定。ウマ娘にとってはたった1度立てるかどうかの夢舞台。
5月最後の日曜日、太陽は季節を勘違いしたかのように地上を灼いている。いや、逆に会場の熱気が勘違いさせたのかも知れない。
そう思えるほどの熱量が、記録的な数の観客からパドックへと注がれている。
『私たちは伝説を目の当たりにしています。かのミスオンワードすら届かず、チトセホープ以降は挑む者すらなかったオークス・ダービーの連闘制覇という前人未踏を、ただの夢と仰ぐつもりのない金剛の蹂躙者──アナグラワンワンの登場です』
『今回は勝負服のケープ部分を外しています。この気温では流石に暑苦しいということか──インナーは大きく背中の開いたノースリーブ、引き締まった筋肉が圧巻ですね』
そんなダービーの観客席に、2人の1年生が並んでいた。空気に呑まれてろくに言葉も出てこないが、この熱気を一身に浴びる中心がたった1つ年上とは信じがたく、呆然とこぼす。
「……すご、いね……」
「うん……」
2人がアナグラワンワンに向けるのは一方的な憧れ。見学してもよいトレーニングは頻繁に見学してきたが、直接話しかけたことは無い。
ちなみにジュニア級のレースは6月──ダービーの後から始まるため、本格化の兆しが見えているウマ娘でも4月5月は自由にできる時間が比較的多い。この間にあわよくばお近づきになりたいと考えていて……あまりにも詰まったレース間隔ゆえに断念せざるを得なかった。
よって憧れの"金剛"はまだ2人の名前も認識していない。
『さぁ続いて現れました──どよめくような歓声! アナグラワンワンとは昨年末以来、5ヶ月ぶりの激突となるテセウスゴルド、真っ赤な勝負服での登場です』
テセウスゴルドはこれがクラシック3戦目。
3月にフラワーカップ(GIII)で1着、4月の青葉賞(GⅡ)でも1着。
その好成績が1年生には──実に失礼な話だと分かってはいるが──意外な事実だと感じられる。ここ2ヶ月で得た彼女に対する印象は、『なんかいつも変なことやってる先輩』だ。
昨年末のホープフルステークスに敗れてからというもの、テセウスゴルドはゴールドシップに頼み込んで鍛え直してもらった。
『おめーはどう頑張ってもこのゴルシちゃんにはなれねえ! おめーのまんま“芦毛の奇行種”を襲名しやがれ!』
『押忍!』
テセウスゴルドは栗毛である。
『諦めるな、
『押忍ッッ!!』
『返事がうるせぇー!!』
『!? 押忍ッッッ!!!』
午前の授業中から焼きそばを買う客はいない。というか授業をサボらせるな。
沖野トレーナーもついていたから、おそらく何らかのトレーニングなのだろうが……1年生から見れば奇行以外の何ものでもなかった。
(なおゴールドシップは毎日のように学内で目撃されているがとうに卒業済みである。サブトレーナーになったなどの事実も無い)
しかしそれでも、“栗毛の奇行種”には明らかな成長の証が見て取れる。
『夏の成長期を逸早く迎えたか、前走から更に筋肉の厚みを増してきました。並び立つとアナグラワンワンが細身に感じられてしまいます』
『本日の支持率は1番人気アナグラワンワンと2番人気のテセウスゴルドで大半の票を占めています』
気負いもなく、泰然と勝ち気な笑みを浮かべた強者の風格。アナグラワンワンもそんな彼女を警戒している。
……もっとも、勝負服の背中には相変わらずゴルシちゃん焼きそばの広告が入っているが。
世間からの評価では、(オークスがドゥームデューキスとの一騎打ちであったように)テセウスゴルドとアナグラワンワンの『どちらが勝つか』といった見方が強い。
1年生たちはそう思いにくいのでアナグラワンワンが6つ目の冠を戴くと信じている。
しかしながら、もう1人。
アナグラワンワンが非常に強く警戒する相手がもう1人いる。
「……ね、ワンワン先輩あの人のことめっちゃ見てない?」
「そう、みたいだ」
『最後にご紹介します大外18番、
「──ニュクスヘーメラーさん、だってさ」
「先輩とのレースは初だよね」
「そのはず」
彼女の改名は後輩たちが入学する直前である。またこの春から高等部に上がっているので廊下ですれ違うような機会もなく、2人はそのウマ娘を初めて目にしたらしい。
というか、ニュクスヘーメラーの外見はそうそう忘れるようなものではない。
「きれぇ……」
「金と、青毛?
髪はヴェールでも被ったように真っ直ぐで、外側は陽光の黄金/内側は夜闇の紫紺とはっきり分かれている。額の流星も特徴的で、まるで第3の瞳のよう。
また、この日が初お披露目となる勝負服も非常に鮮烈な印象を伴う──若者にとってはともかく、往年のレースファンなら確実に。
『ニュクスヘーメラーは本日がGⅠ初挑戦ですが、勝負服については“見ての通り”と言ったところかも知れません。かのダービーウマ娘からは許可を得ているとのことです』
上半身はだぼっとした長めのポンチョ。両腕と、履いているショートパンツをすっぽり覆い隠す。太陽や星々がデザインされたポンチョのカラーリングは白と金と紺。
──すなわち、自らの髪色に合わせつつもはっきりとネオユニヴァースを意識したものだ。
『どこかドリームトロフィーリーグのような、叶わなかった夢のカードが実現したかの如き錯覚を覚えそうになります。しかし過去の繰り返しではありません。今年のダービーも唯一無二、脚本もリハーサルも無いドラマに期待しましょう──以上パドックの模様をお伝えしました』
パドックを終えたウマ娘は、本バ場を軽く走ってから待機所と呼ばれるスペースでゲートインを待つ。
長い時間とは言えないが、レース前にトレーナーと話せる最後の機会だ。千田サキとアナグラワンワンは小声で言葉を交わす。
「テセウスゴルドの急成長も気がかりだけど……ニュクスヘーメラーはどう? “領域”は推測できそうかしら」
「…………分かりません。何らかの二面性があるのは間違いないと思いますが」
勝負服のデザインがヒントにならないかと淡い期待を抱いていたがそれもイマイチ。
何をしてくるか分からないということだ。
ただし“領域”関連の練度が飛び抜けていることははっきりしている。アナとグラが集中的にそこを鍛えたし、普通のウマ娘とは違い『ウマだった頃の走りを夢で見て知っている』点も無視できない。
「ワンに〈
「あります──私以外にも。もしかしたら〈
「えっ、そんなことする?」
「可能性はあります。今のニュクスさんなら範囲を絞ることも与えた毒を解くことも簡単でしょうから」
グラによるニュクスヘーメラーの人物評は『ぶっ飛びエリートウマ娘』である。
ルール違反にならず、かつレース後に後遺症を残さないようなものなら、勝つためのどんな妨害行為も当然とする──躊躇うどころか考えもせず、ごく自然にそうするだろうな、と。
以前に自らの病毒をあれほど怖れていたのは『レース外にまで及ぶから』であって、『レース中に限られる』衝突なら避けようという発想が無い。お互い様だ。
他人の道を阻み夢を侵すことに罪悪感など欠片もなく、笑顔と友愛を以て叩き潰せる──トップアスリートの力の論理を完全に内面化した
「そう……やっぱり私、彼女の性格を掴めていないみたい」
「ある意味ではひん曲がってますから……」
「ワンがそれを言うの?」
「えっ私めちゃくちゃ素直ですよね」
「アナさんの意見はどうかしら」
「ひどい!?」
ちなみにアナから見たニュクスヘーメラーは《子供》だ。現役ウマ娘の多くにはそのような印象を抱いているが、特にニュクスは《思い切り遊ぶことをずっと我慢してきて、ようやく解禁された。楽しくて堪らないんだろう》と見える。
つまり手持ちの札はなんでも使ってくるという読みで……結論としてはグラとあまり変わらない。
「──だそうです」
「なるほど。警戒するぐらいしかできないわね……っと」
アナウンスでゲートインが近いことが告げられた。
「
「ええ、いってらっしゃい」
ウマ娘たちは待機所から本バ場へ出ていく。2400mのこのレースでは、ゴールラインの300mほど手前──メモリアルスタンドの正面でのスタートだ。
そこはウマ娘だけの世界で、トレーナーたちはついていけない。それぞれに担当の背中を見送ったら観客席などへ移動していく。
待機所からではレースの全容を伺いにくいので、こんな場所に留まる意味は薄い。残るとすれば担当のコンディションに不安があるか自らのメンタルを制御できないか──概ね新人トレーナーがやりがちなことだ。
GⅠレースともなるとそんな者はほぼいない、はずなのだが……日本ダービーのこの日、そこには2人の女性が残った。
「……そんなに睨まないでください」
先に口を開いたのは小柄な方。
言われた側は確かに険しい表情をしていた。しかし睨んでいたつもりはなく、慌てて取り繕うように頭を下げる。
「すみません、緊張というか……意識しすぎてしまって」
「そういうの、案外担当に伝わりますよ。気を付けましょうねサキさん」
気易く親しげな態度。不躾な視線に憤ることもなく、自然体にアドバイスを返した。
だって2人はそういう間柄だったから。少なくとも以前は。
「気をつけます、
「……また視線が鋭くなってますが」
「これは敵意ではなく警戒のつもりです」
「競い合うのはウマ娘のみんなです。
「それは……はい」
桐生院葵。サキにとっては父に並ぶ恩師であり、ハッピーミークやアグネスデジタルを育てたやり手である。
そして現在は、ニュクスヘーメラーのトレーナー。
契約を結んでからはまだ3ヶ月前後のはずだが、そんなことは少しも安心材料にならない。
戦うのはトレーナーではなくウマ娘? 確かにそうだろう。しかし──だからこそ──サキとしては『葵を仰ぎ見る自分』を越えなくてはと思うのだ。
『ワンはテセウスゴルドの身体つきに少し動揺してた……彼女ほど見た目が変化しないとしても、これから基礎体力の不利は増すばかり』
土台となる骨格、遺伝的特徴という素地。
その不利を跳ね返すために、あのUMA娘は技術面やソウル関連などあらゆるスキルを伸ばそうとしている。
ならばトレーナーもその一助にならなくては。
『私にだって成長の余地はあるはず。葵先輩にも沖野トレーナーにも──いえ、テセウスゴルドのトレーナーは沖野さんじゃない*けど──どんな敏腕トレーナーにだって、敵わないなんて思ってたらワンの信頼を裏切ってしまう』
担当するウマ娘を支える──自分の全てで。
それはトレーナーとして珍しくない考え方だし、責められるようなものでは決してない。正道と言っても良いだろう。サキも葵もあえて言葉にしないのは当たり前のことと捉えているからだ。
サキの落ち度というのは酷かも知れない。
ニュクスヘーメラーは葵から与えられる全てを躊躇いなく飲み干すだろう。
ここでもグラの方が異端であり奇人なのだ──ソウルのこともトレーナーのことも、“