『いよいよゲートイン、8番アナグラワンワンは今日も真っ先に入っていきました。中で待つのは苦ではないとのこと。それと“後ろから見ていたら余計に緊張させてしまうでしょうから”とも話しています』
『いやぁ、あの後ろ姿を見ながらゲートに入るのも覚悟が要りそうですけどね……?』
そんな会話の示す通り、クラシックに上がってから無敗のアナグラワンワンは存在するだけでプレッシャーを振り撒く。ゲートインが先でも後でも。
そのプレッシャーのせいで中々ゲートに入れないウマ娘がいるのもいつものこと。
しかし、観ている側にはまず分からないことだが──、
『全ウマ娘、ゲートインを完了しました。スタッフが離れていきます』
──ゲートインさえ済ませてしまえば、アナグラワンワンの競走相手はプレッシャーのことなど忘れる。
よってその意外な開戦は、ウマ娘たちのミスによるものではない。
誤算はあったかも知れないが。
『ついに今、日本ダービーの幕が開きます──っとこれはスタートのミスでしょうか!?』
『いえ意図的なものでしょう。少なくない人数がやや抑えたスタートを選んだようです』
これまで逃げか先行で戦ってきたアナグラワンワン。彼女のゲートが8番という悪くない位置だったため、先頭争いを諦めた者がいたようだ。
しかしそれだけでなく、当のアナグラワンワンが差しどころか追込みに控えるように前を譲ったことで全体が戸惑っている。
『さぁ序盤の先頭争い、ここは偶然にもフランス・イギリス・アイルランドと海外勢で三つ巴になりました』
『4番手以降の国内勢には困惑が見えます。恐らくアナグラワンワンを追う形でのレースを考えてきたのでしょう』
『──まずは奇襲成功、でしょうか』
《どうかな。肝心の2人は揺らいでくれていない気がする》
アナグラワンワンは現在16番手。後ろに居るのはニュクスヘーメラーとテセウスゴルドだけ。
2人は慌てず騒がず背後に並んで風除けとして利用してくる。利用されるばかりではつまらないのでアナグラワンワンも15番手との距離を詰めて脚の温存を図った。
『4番手から最後尾まで長く連なった縦隊です。先頭3人だけは鍔迫り合いながら後ろを突き放していきます』
日本のウマ娘たちは既に確信している──追込みでも戦えるのだろうと。一時的に戸惑いこそしたが相手はあのUMA娘である。
現状を『スタートに失敗するなんて噂ほどじゃなかった』などと捉えているのは海外勢だけだ。
対してアナグラワンワンにも『計算通り』などと笑える余裕は全く無い。内心ヒヤヒヤものの、行き当たりばったりな綱渡りをしている。
『テセさん、足音だけでも重く強くなった感じがしますね……!?』
《あれがクラシック期の急成長というものか》
『先月までのデータとは別人と考えましょう』
かつてのテセウスゴルドはスリムな体型だった。しかし3月頃からみるみるボリュームを増して、今ではそれこそゴールドシップを連想するような重厚感を備えている。
だからこれまで最も多用してきた戦法を取らなかった。『主に
《海外勢が3人とも逃げというのも意外だな》
『サキさんのデータにも一致しませんね。あの人たちが中団にいないなら〈コンゴウ〉でも良かった気がする〜!』
《ま、それは結果論だ。仕方ない》
桜花賞でそうしたような『
──つまり、最後方につけた現状は消去法的な苦し紛れと言って良い。パドックでテセウスゴルドの仕上がりを目の当たりにするまではいつも通りの逃げ戦法が有力だった。
『さぁ集団はコーナーに入っていきます。ここ東京の第1・第2コーナーはゆるい下り坂になっていますが──』
『これまで下りのカーブでは鋭い加速を見せてきた“金剛”アナグラワンワン、今日はまだ進出していきません。これは中団からの仕掛けどころが難しいですね』
いつどこで仕掛けるべきか、当のアナグラワンワンも迷っているというのが真相なのだが。
その迷いを誰よりもポジティブな方向へ誤解するのが現在17番手、ニュクスヘーメラー。
「やっぱりすごいなぁ……いきますよ!」
『また何か誤解されてる気が……!』
《誤解で的外れなことしてくるなら良いんだが。いや、これは──?》
領域
瞬間、選手たち全員の体感温度がぐっと上がる。暑いどころか熱い。真夏を通り越して砂漠を思わせる強い日射し。
自然な変化とは考えにくく、多くのウマ娘が“領域”だと勘付く──しかしだとしても不可解。視界はどこを見回しても元のターフのままなのだ。そういう“領域”があってもおかしくはないが……。
使い手以外で最初に察したのは、やはり喋るウマソウルだった。
《“領域”の名が視えない──まさか
『え、待ってください。アナさん“領域”の名前なんて視えてたんですか』
《私がいちいち名付けてたわけないだろ!?》
『そうだとばかり』
ひどい誤解だ。
ナーサリーナースがティーガードンナから教わったように、“領域”の使い手はその本質を『なんとなくしっくりくる名前』として把握できる。
アナは同じ本質を感じ取るだけ。名付けたことはない。
ネオユニヴァース辺りは例外として、ウマ娘は他者の“領域”まで名を暴くようなことはできない。分かるのは自らのものに限られる。
アナがそれをできるのは、ウマ娘よりもソウルに近い存在だからなのか……理屈は不明だが。この熱さの名が視えない現状を踏まえると、他者の“領域”と
《この熱を起こしてる“領域”は
『遠くて名前が分かんないってことですか。それだと……あ、対策が打てない?』
《正体が分からないわけだから、これまでのようにはいかない》
〈
ペルセウスが掲げ持つ戦果といえばゴルゴーンの首に決まっているから鏡が対策になると分かったわけで、“領域”の名前が不明ならそうはいかない。
ちなみにミルファクという名は(ペルセウスの)腕または肘という意味で、それだけなら効果の特定は難しかった。
同様にニュクスヘーメラーの“領域”も、名前が分からないとなると対策は取りづらい。
『コーナー抜けて向正面、ここまで穏やかなレース展開と言って良いでしょうか』
『そうですね──おっと、ニュクスへーメラーがアナグラワンワンを躱してじりじりと中団を上がり始めました』
『く、無策で追うのはリスクが大きい……?』
《間違いなく
『何ができてもおかしくない古い神さま*ですもんね──分かりました、ただの熱として
受動的で場当たり的。そういう言い方もできるだろう。しかし記憶した
炎に強いアラガミは多い。今回は追い上げに爆発的な加速力が求められる。選択肢は1つしかない。
ドスン。
アナグラワンワンの足音ががらりと変わる。前を行くウマ娘たちは思わず振り返り、そこに荒ぶる白竜を見た。
肥大化した下肢による蹴り脚の力強さは、足音を衝撃波に錯覚させられるほど。倒れそうなほどの前傾姿勢で突き出された顔面からは食慾にも似た威圧。そしてゆらりと持ち上げられた、太く真っ白な竜尾。
『『『ついにウマ娘やめやがった!』』』
内心で悲鳴をあげながら、それでも日本のウマ娘たちはそこそこ慣れている。すぐに違和感に気がついた。明らかにパワーアップしているのに、スピードは上がって来ないのだ。
あれほどの極端な前傾で倒れてしまわないのはまだ分かる。あの大きな尾がカウンターウェイトになってバランスを取っているのだろう。逆に言えば尾の動きでブレーキをかけているようにも見えて──、
「……力を溜めてる……?」
──中団の中ほどまで上がっていたニュクスヘーメラーがぽつりと呟いた。
周囲の選手らは『笑えない冗談だ』と目を剥くが、言われてみればそうとしか見えない。あの長い尾を後ろへ伸ばすだけでもずっと走り易くなりそうなのだ。そうしないのは機会を窺っているからでは?
特に強い危機感を抱いたのはアナグラワンワンのすぐ前を走る2人。ちらりと視線をぶつけて頷き合う。
『今、涼しくなったよね』
『多分』
ニュクスヘーメラーによる熱射攻撃は続いている。彼女以外のウマ娘は真夏のように汗だくだ。なのに2人の周りは少しだけ涼しい。
まるで何者かが、炎熱を喰らって溜め込んでいるかのように。
そんな怪現象はUMA娘によるものとしか思えず、だとしたら大爆発の予兆と考える方が自然だ。
「このままじゃマズい──!」
『向こう正面の半ば過ぎから、レースが激しく目まぐるしく動き始めました。中団の後方からひとりまたひとりとスピードを上げて位置をあげてゆくが!?』
『ロングスパートにしても早すぎます! ゴールまで1300以上あるんですよ!?』
解説の言葉はしごくもっともだが、アナグラワンワンの目前(=16番手)にまで落ちた選手はみな僅かな涼しさを感じ取ってしまう。そうなれば後の爆発を怖れて速度を上げ、中団は前から後ろまで順位が激しく入れ替わる混戦模様。
アナグラワンワンとテセウスゴルドは順位を上げないまま、その後ろを静かについてゆく。
──ピキリ。
その不穏な音に気付いたのは、この時点ではテセウスゴルドだけ。
『さぁ残り1000mほどとなりました第3コーナー入り口、4番手5番手が先頭の海外勢3人を捉えます。その後ろもかなり詰まって、これはゴール前大変なことになるでしょうか?』
『中団の何人かはペースを乱されてしまったように見えますが、その他は全員が掲示板圏内とも言うべき接戦になりそうですよ』
レースも半ばを過ぎた。先頭は未だ3人の海外ウマ娘が競り合っている。
海外勢といっても3人はほとんど面識がない。国籍もフランス・イギリス・アイルランドとバラバラで、共闘のつもりはなく単に戦法がかぶっただけだ。
共通点を挙げるとすればそれぞれの本国からある依頼を請けていること。『日本にちょっとヤバいウマ娘がいるらしいから、対戦したらよく観察して報告してくれ』といったものだ。誰のことかは言うまでもない。
だからそれなりに事前情報は仕入れた。最初は疑いもしたが事実だと確かめた。そして逃げか先行で来ると備えてあった。
蓋を開けてみれば、3人はここまで“金剛”の姿をほとんど見ていない。
しかしながら、彼女らがそれぞれに抱いていた半信半疑はもう確信に変わっている。
『『『これが……例の力?』』』
対戦相手の潜在能力を引き出すと言われる異能。【喚起】は3人にも届いている。アナグラワンワンのローテ以上に眉唾ものだったが明らかに気の所為ではなく、自分でさえ知らなかったベストパフォーマンスが引き出される感覚。
(アナも確信を持てずにいる部分だが、今の【喚起】は1年前にアルヘイボゥやアソカツリーと検証した時よりも強力になっている)
そんな力があるせいなのか、このレースは様子がおかしかった。
急な気温上昇があって、しかし“領域”につきものの情景変化が無い。中団では幾つかの範囲型“領域”が展開され、それぞれに衝突や対消滅を起こしたのに、赤道直下のような熱射だけは小揺るぎもしない──上空にしか存在しないので他と干渉しないのである。
『ニホンではこれが普通なのか? やべー国だな!』
アイルランドのウマ娘が呆れる。
離れた位置に投射された“領域”には、
『ち、“コンゴウ”の様子が分かりづらいな……だが最後尾にいて、そのプレッシャーがレースを掻き回しているらしい』
イギリスのウマ娘は僅かに悔やむ。これなら中団に紛れていた方が多くの情報を得られただろうと。
ちなみに仮に実行していたら〈ハンニバル〉の姿に度肝を抜かれていただろう。日本のウマ娘はUMA娘に対する精神耐性が鍛えられているのだ。
『これなら最後尾からの追い上げなんて届かせない!』
フランスのウマ娘は前だけを見る。レースは残り800m、曲がりのキツい4コーナーと急坂を含む直線だけ。
熱のせいで想定よりも余裕は少ないが、他の2人を風除けにして脚は残せている。坂を上りきったところで差し脚を切れるはず。
ましてや先頭集団は3人──すぐ後ろの2人を含めて5人とカウントしても、中団は10人にもなるのだ。最後尾の2人はこれを躱して来なければならない。
届くわけがない。
常識ではその通りだ。空しく儚い仮定である。
──ピキ、ピキ。
その微かな音は先頭どころかほとんどのウマ娘に聴こえていない。見えているのも背後のテセウスゴルドだけだ。
〈ハンニバル〉を纏ったことで、アナグラワンワンの外見には3つの変化が起こっている。竜の豪脚と尾、そして背中に渦を巻く逆鱗。これが熱を溜め込むごとにヒビ割れて、今にも爆発しそうになっている──いや、間違いなくする。
そのタイミングを直感で見抜き、アナグラワンワンの出足を封じるように前へ。組み替えられてなお輝く黄金の船出。
「っここだ! 抜錨ォー!」
領域具現──
テセウスゴルドは4コーナー半ばまで確かに最後尾にいたはず。
しかし直後大きく外に膨らんで、直線に入る頃には中団10人の横をみるみる追い抜いていくではないか。
『残り600mほどで仕掛けました外からゴールドシッ……失礼テセウスゴルド、あっという間に集団を抜き去っていく!』
そこへ続いて──ガラン。
『“黄金”に半秒遅れて、更に大外から! 動き出した“金剛”は地を這う前傾、その荒々しさも
アナグラワンワンの背で逆鱗が砕け落ちた。溜め込んだ熱を推進力に変える焔輪はさながらジェットエンジン。
『急坂で逆に加速したかのような、外ラチ沿い2人が完全に抜け出しました残り300、いえ200m切りましたゴールはすぐそこ!』
『先行集団はダレていません、テセウスゴルドも素晴らしい末脚です──しかしそれを上回って! ハナ差、クビ差、更に身体を傾け倒れ込むように──』
『アナグラワンワン! アナグラワンワンが! 焦げ付きそうな熱戦を制し、前代未聞前人未到の連闘制覇を成し遂げました!!』
ニュクスヘーメラーが空に展開した“領域”は〈アイテールの天眼〉と言います。アイテールは天空または澄んだ大気の神です。
(ゴッドイーター未プレイの方へ)
アイテールは、サリエルやニュクス・アルヴァの近縁種なのに圧倒的に人気の低いアラガミです。理由は顔がおっさんだからです(諸説あり)。
モンスターハンターでいう部位破壊がゴッドイーターにもありまして(結合崩壊といいます)、ほとんどの場合はアラガミの防御力を下げるメリットが大きいんですが、ハンニバルの背中にある逆鱗は『結合崩壊させてしまうと攻撃が激しくなる』という罠みたいな部位になっています。
めちゃくちゃ壊れやすいので気付いたら割れていてNPCが倒されたりします。あるある。