ディアヌ賞を翌日に控えた土曜日の朝。
千田サキと共にパリにやってきたウマ娘がいる。
「お姉様ー!!!」
「わっ、と。もう……ムーン、ここは空港ですよ」
「うふふふ、ごめんなさい」
ムーンカフェがきついハグで迎えたのはもちろんマンハッタンカフェである。ただし彼女の滞在予定はとても短い。
「こちらこそごめんね、本当は直接応援して行きたいのだけど……」
「激励だけでも充分ですっ。私のやる気は今マックスになりました!」
「出来れば明日をマックスにしてくださいね」
なんであれ、日本を長く離れているムーンカフェにとって『お姉様』との会話は何よりの栄養だ。時間の許す限りのんびり話をしようということになり、ラウンジでコーヒーを囲む。
「千田さんからは、ずいぶん慌ただしい1週間だったと聞きました」
「そうなんですよ、全くグラのやつったら……聞いてくれますか?」
「もちろん。聞くのを楽しみにしていました」
この場にアナグラワンワンは居ない。自分のトレーニングをしている。サキも既にそちらへ向かった。
──ただし空港ラウンジのマンハッタンカフェとムーンカフェは、2人きりというわけではないのだが。
月曜日。
昼休みには突然シンボリルドルフが現れて2人を驚かせた。
その夕方は日本人の記者がアナグラワンワンへの取材を行った、が……日本から飛んできたわけではなくフランス支局に勤めるその記者は、非常識耐性が育っていなかったらしい。
会話がすれ違ってしまい、日本人同士にも関わらずムーンカフェに通訳を頼むことになった。
頼まれた側も『どこが通じないのかしら?』と首を傾げることが何度かあったが、全体としてはスムーズに依頼を達成。完全に常識を忘れたわけではない。今のところ。
火曜日。
相変わらずフランスのウマ娘たちはアナグラワンワンと走ろうとしたが、その1人がムーンカフェの怒りに触れた。
東京優駿で3着だったルーテデラソワである。うっかり『アナグラワンワンのライバルは私よ』的な空気を匂わせてしまったのだ。その日の放課後、1対1の模擬レースが行われた。
「
「ウマ娘同士の揉め事にはうってつけでしょ。そもそも600mくらいじゃどうってことないし」
「……ひぃ……」
かつてのムーンカフェはそんな短距離で実力を出せる脚質ではなかった。そしてルーテデラソワも決して弱いウマ娘ではないのだが……模擬レースの着差は半バ身。きっちりと差を見せつけた形だ。グラが戦慄を覚えるのも当然である。
水曜日。
フランスウマ娘たちはムーンカフェの方に絡み始めた。普通なら遠慮する時期だが、ルーテデラソワと走ったなら自分ともどうかと誘いをかける。そうすれば
「ムンちゃんはディアヌ賞近いんで邪魔しないでください。そんなに走りたければ私が相手します」
【喚起】を浴びることが主目的な彼女らとしては願ったり叶ったりである。
が、しかし。
フランス勢の常識が本格的に破壊され始めたのはここからだ。
「グラ、模擬レースで何したのよ? ルーテが大慌てだったんだけど」
「さらっと仲良くなってんだね、ルーテさんとも」
「彼女の気持ちは分かるもの。1度でも競い合えばグラへの執着は大なり小なり生じるものだから──じゃなくて、何かやらかしたんでしょ?」
「やらかしたというか……心当たりはあるけど」
ムーンカフェはトリウムフォーゲンと練習していたため直接見ていないが、フランスのウマ娘たちは視た。
アナやグラが『領域モドキ』と呼ぶような不完全な形ながら、黒き異形がUMA娘の身を包むのを。すなわち
本番ではない模擬レースの場で。
ムーンカフェは思い切り顔を顰めて溜め息をついた。
「……貴女は本当に……」
通常、“領域”は本番のレースでしか使えないとされる。例外もあるにはあるが。
アナグラワンワンに常識が通用しないことは重々分かっているから、溜め息ひとつで流すことにした。流すしか無い。
「異常なのは言うだけ無駄だからいいとして……【喚起】はどうしたの?」
「普段通りの垂れ流し。一緒に走った5人は効果を経験したことになるね」
「凱旋門で敵になるかも知れないのに」
「今日だけだよ。もう感覚は掴んだから」
「また何か変なことしようとしてる……」
「サキさんにはちゃんと相談してますー!」
木曜日。
本人にしか分からないことだが、その日のアナグラワンワンは
不活性状態でも本番のレースなら再現ができることは羽田盃で(図らずも)体験済み。模擬レースでも活性状態ならいけることは昨日実証済み。これなら不活性かつ模擬レースでも可能だと手応えを掴み、木曜日はそれを実行しただけ。
「一緒に走った人たちの反応を見てやりたかったわ」
「見ものだったよ。不思議がってた」
2人は意地の悪い笑みを浮かべた。個々人はともかく集団としてのフランスウマ娘にはそれなりに苛立っている。
「受けられると思ってた【喚起】の恩恵が受けられなかったんだものね」
「そうそう。だからって『話が違う』とも言えないわけで」
「いい気味」
彼女らはアナグラワンワンに模擬レースを申し込んだだけだ。ベレヘニヤやムーンカフェがそうしたように【喚起】を浴びさせてくれと頭を下げたわけではない。ナーサリーナースやドゥームデューキスのように正面から友情を育んだわけでもない。
むざむざメリットを与えてやる義理など存在しないのだった。
「
「? 昨日
「はい……」
お姉様に頷き返す。
全く心臓に悪い邂逅だった。トレセンでやる模擬レースの観客に紛れてていい人じゃないでしょう。
「ヴェニュスパークさんが来てまして……」
「それはまた……でもそうですね、本番以外での“領域”を見定めようと思えば、頼める相手は多くないでしょう」
「あの人も使えるんですかね」
「だと思いますよ」
ヴェニュスパークさんは以前トリィに会いに来て、私も少し併走をしてもらった。走ってる最中の鬼気はまるで時間も凍らせるようで──え? あの
そんなヴェニュスパークさんから観ても、やっぱりグラはUMA娘だったようだ。
「『あの若さであそこまで使いこなしてるなんて』って目を剥いてました」
「同感です」
お姉様もできると聞いている。本番以外での劣化版“領域”。
ただそれはドリームトロフィーリーグからの引退直前に*身についたもので、それだけの経験の果てにようやく辿り着ける境地なのである──普通は。
グラは、まぁ、ねえ?
「確かにタキオンさんと調べた限り、少数でもギャラリーがいれば不完全な“領域”は開けます。でもクラシックの時点でそこまでウマソウルの理解が深いだなんて、まるで──」
「…………」
途中で言葉を切ったお姉様。
『ありえそうもない可能性』として語られる続きはヴェニュスパークさんと同じものだ。
それは実のところ『事実ドンピシャ』だったりする。
「──ウマソウルと話でもできるみたい」
「ほんとですよね」
くっ、私がお姉様に隠し事をするなんて……! でもアナさんには皐月賞の借りがあるし、流石に暴露して良いような話ではない。
──ともかく、この1週間はそんな感じだった。
グラが来てからというもの、日付が進むのがゆっくりだった気がする。
たったの1週間なのに。ディアヌでトリィに勝つには(もちろん挑むからには勝つつもりだ)力が足りないと焦ってたはずなのに。
「おかしいですよね、こんな風に感じるの」
「聞いた感じ、毎日イベントが起こりすぎじゃないでしょうか……?」
お姉様がしみじみと零す。それは本当にその通り。
「はい。でもお姉様がフランスに来てくれたこのビッグイベントが何より嬉しいです」
「……うーん……」
照れ臭そうに微笑みながら、しかし反応に困るお姉様。
視線を横へやる。そこでは真壁さんが所在無さそうに小さくなっていた。
……フランスに居るままでもトレセンの仕事はリモートで対応してるとか、私に嘘をついて。帰国予定を誤魔化しに誤魔化して私の育成を優先し、とうとうキレた駿川さんによってお姉様という回収部隊を送り込まれた“クセ
大いに伸ばしてもらった私としては文句を言いづらいけれど、お姉様からの視線はとても冷たい。
飛行機の時間が来て、とうとう2人とお別れだ。ただし真壁さんはお姉様に首根っこを掴まれている(『やっぱりディアヌ賞を見届けてから』とか言って逃げ出そうとしたので)。そんな状況から真顔で激励されても面白さが勝るんですが。
「ムーンの成長は目覚ましいよ、自信を持って」
「タキオンさんと一緒に日本から応援してますから」
「ありがとうございます」
笑顔で2人を見送って。
いよいよ明日はディアヌ賞。
うん、本当にイベント盛り沢山な1週間だった。今日も含めて。
『最終直線たたき合い! 先頭トリウムフォーゲン脚を緩めず、2番手ムーンカフェじりじりと差を詰めるが──届かなぁぁいディアヌ賞を制したのはトリウムフォーゲン!!』
『先頭との着差は1バ身未満、3番手とは2バ身以上離しましたムーンカフェ、今季の日本は侮れませんね』
着差は3/4バ身。
出会った日よりは近付けたと思う。
だけどまだだ。トリィの背中は掴めない。
『彼女は“
『アナグラワンワン! 前々走から15日、前走から11日という過密ローテを跳ね返して堂々の先頭ゴールイン!』
ディアヌの4日後、グラはポルト・マイヨ賞(GⅢ)に勝った。
余裕を残しつつ。というより──、
「凱旋門賞でぶつかった時を見据えての情報収集も兼ねていたような印象だね」
──そう、きっとそんな思惑もあった。
それはそれとして、私は隣をじっとりと睨む。
「なんでまた
日本での仕事を最低限片付けて逃亡したと、お姉様からの連絡はあったけれど。ちゃんとお仕事しましょうよ。
「なんでってもちろん、ムーンの最大の成長期が今だからだよ。特に彼女のレースを観た直後──つまり今日この後はチャンスタイム。トレーナーがついてなくてどうする?」
「…………」
私を理由にされることは、少しだけくすぐったくてそれ以上に申し訳ない。だって真壁さんがこっちに来ると交代でサキさんが日本に帰ることになるのだ。
これについては『まぁトレーナーの本能というか職業病として理解はできるから』と笑って受け入れて下さったけれど、真壁さんはもっと感謝すべきじゃないだろうか。
……などと思ったのは、後から思えば杞憂だった。
ばっちり用意されていたのだ。真壁さんへの仕返しは。
1週間後、6月28日。
サキさんがフランスにやってきた。
「日本でのフォローありがとうございます、千田さん。でもワンワン君も明日には日本へ帰るんでしょう?」
「はい。まぁちょっとした引き継ぎですよ」
「?」
真壁さんは不思議そうにしながら日本へ飛んだ。
それを見送ってから意地悪く笑うサキさんも嘘はついていない。グラの成長についてトーヴェさんがつけていた記録とも擦り合わせたり、やるべきことも無くはないから。まぁその気になればネット越しに済んだでしょうけどね。
ポルト・マイヨの後にあっさり真壁さんと交代したのは、日本での仕事を溜めさせてこの日に再交代するため。
そして例のエキシビションを直接観戦するためだ。
「あのシンボリルドルフの繋駕レースなんて、真壁さん悔しくて歯噛みするでしょうね。ごめんなさいムーンカフェ、トレーナーに隠し事をさせてしまって」
「いえ。真壁さんはサキさんや駿川さんに甘え過ぎだと思うので」
目をかけてもらえるのは嬉しいし、真壁さんが居なかったら今ほど強くなれていない。でもだからこそ独占は申し訳ないのだ。
以前はシニア3年目の先輩がいたけれど、昨年末に引退なさった。真壁さんは本格化の始まった生徒や新入生の面倒を見ることを学園から期待されてるし、生徒側にも彼の指導を望む子はいるだろう。
私も少しは注目されてると思うから、多分ね。
サキさんが来てくれた翌日、6月29日の朝。
真壁さんはまんまと追い返されたので、ムンちゃんと3人でヴァンセンヌレース場にやってきた。
見慣れない大きなカバンを提げていると思ったら、客席についてから取り出したのは本格的なカメラだ。レンタルしてきたらしい。
「わ。ごっついの借りてきたんだね」
「動画くらいは撮っといてあげようと思って。真壁さん本気で泣きそうだし」
よいしょ、と肩に乗せるようなサイズである。
少し悩んで、さり気なく立ち位置をズラした。ムンちゃんのフォローに入りやすいように──カメラを落として壊さないように。
《おや? グラも気付いたのか》
『
《ビリビリと来るな。まるで戦場だ》
『これをお祭りの賑やかしで済ますのは無理がありますよね……』
エキシビションにはサプライズとして伏せられた選手が4人。それぞれ大きな紗を巻いて姿を隠しており、ひとりひとりお披露目されていく。
シンボリルドルフさんはその1人目で、ここフランスではそこまで観客を沸かせることはなかった。
ムンちゃんとサキさんはシンボリルドルフさんが出ることだけ把握していて、なぜ彼女が大トリではないのかと首を傾げる。
だけど……違う。いくらあの"皇帝"様でも、単独でこんな覇気はありえない。残り3人も並んで色褪せないほどの英雄なんだ──それこそ国家級の。
私は良く知らなくて、ぽかーんとしてしまったけれど。
『輝かしきGⅠ通算6勝、そして日本とは現役時代に因縁*があります。ご紹介の必要は無いでしょうが改めてこの名を称えましょう!
モンジューー!!』
ばさりと紗が天に舞う。
あ、ムンちゃんが石化した。カメラは無事。
『達成したウマ娘は未だ10人に満たない偉業の中の偉業。凱旋門に連覇した彼女も今日を祝いに来てくれました。
ヴェニュスパァーク!!』
またも覆いが取り払われ、おっと危ないカメラが落ちかけた。
『最後にご紹介します彼女は、長く持病に苦しんでいました。しかしこの度めでたく全快したとのこと、実は本日、その祝賀も兼ねた催しです』
まだそれしか言っていないのに、会場はどよりと揺らぐ。ムンちゃんはおろかサキさんまでぐらんぐらんしだした。はいはいカメラ預かっちゃうね。
その間も「まさか」「嘘だろ」「結構な歳だよな?」「ああんテメェ喧嘩売ってんのか」といった囁きがボリュームを増してゆく──案外血の気が多いよねパリ。負けないようにアナウンサーさんも声を張り上げた。
『アメリカ生まれイギリス育ちながら、ここフランスでも“最強”との呼び声高い勇者!
リガンッ! トォーナ!!』
リガントーナさんが素顔を露わにすると、もう会場中がわちゃわちゃだった。
カメラを預かっておいて本当に良かったよ。ムンちゃんがこんなに大はしゃぎするの初めて見た。
レースについては何も言うまい。どこらへんが勝負どころだったのか正直よく分からなかったし。
はっきりしてたのは、『また競えるのが嬉しい』丸出しなリガントーナさんを除く3人がどう見ても
手を抜くべきとは言わないけどさぁ。エキシビションがメインイベントを食っちゃったのはどうなの?
興奮冷めやらぬ2人のテンションについていけないまま、同じ日の夕方には日本への飛行機に乗る。結局3週間ぐらいの滞在だった。
その機内で──私ならまず気付かない視点から、諸々の裏側に光が当たる。
『それにしてもフランスって、ずいぶん凱旋門賞に固執してましたね』
《……憶測だが、フランスの──連盟の焦りは、凱旋門賞を奪われることに留まらないんじゃないか》
『? どういう意味です?』
《その先には
アナさんの推測というか、“当てずっぽうの作り話”によれば。
長く病気に苦しんでいたリガントーナさんが快復した。喜ばしいことだ。久々に公に姿を見せる際は、非公式のエキシビションでもいいからレースの形が望まれた。
しかし長患いだけでなく年齢の問題もある。平地競走は負担が大きすぎると判断されて繋駕になった。せっかくだから引退した英雄たちにも祝いに集ってもらおう──それは、もしかしたら集まり過ぎたのかも知れない。
エキシビションが盛り上がるのはいいことだろう。しかし平地競走の優駿たちに盛り上がるような観客を繋駕へと誘導してしまうことは避けたいのではないか。だって世界は娯楽に溢れ、同じ日の同じ時間に2つのレースは観れないのだから。
《URAもそうだが、組織のやってるのは興行──つまり商売だから。客が減るのは死活問題だ》
『それは、まぁ分かりますけれど』
平地競走と繋駕競走では管轄団体が違う。観客という限られたパイを奪い合っているとも言えるだろう。
『それって凱旋門と関係あります?』
《あるだろう。国際大会で自国が優勝する競技と負ける競技、どちらか片方を応援するなら前者をとるのが人情だ》
『あぁ〜……そういう……?』
つまり、凱旋門賞をフランスウマ娘が獲れば平地競走への関心注目が高まって、お客さんが増えて収入も増える。
逆に負けるとお客さんはそっぽを向いて繋駕競走ばかり応援するかも知れない。それを防ぎたい、と。
分からなくもない。日本で言えばダートや障害走の関係者がいつも悩んでいることだ。『芝のお客さんをどうにか呼び込みたい』みたいな。
逆に言うと日本の芝関係者は、お客さんを奪われる恐怖と縁が薄い。繋駕競走という巨大な
そう考えると……なんだかすごく、すごく嫌な感じだ。
『そういう、商売で左右されちゃうみたいなことを……トリィさんは敵視してるんですかね』
《む? あぁ妹の名前の件か、まるで気が回らなかった》
どうだか。アナさんなら結びつけてたでしょ。
《気付けるグラもお人好しだと思うが》
『私は優しくありません。トリィさんの内心を推理できたらレースに有利かもなって』
《それ、どこまでが
『私が嘘をつくとでも?』
これは、優しさなんかじゃないですよ。だってもしそうなら、私には何もできませんから。
次話から日本での話です。