ムーンカフェ&真壁さんとの夏合宿にニュクスヘーメラー&葵先輩も合流して、あっという間に1週間が経った。
学園は夏休みだから、真壁さんでなくても事務仕事を放り出してトレーニングに専念できる──と言いたいとこだけど、実は他にもやるべきことがあって、スケジュールはそこそこ厳しい。
日本のウマ娘レース界、特に上澄みの上澄みに居るウマ娘にとって、夏は休養と成長の季節。
なにしろ国内ではGⅠ競走が無い。6月末に宝塚記念と帝王賞があって、そこから9月末のスプリンターズステークスまで間が空くのである。
それを踏まえてスプリンターズSの前週、すなわち9月の第3週に催されるのが聖蹄祭──中央トレセン学園・秋のファン感謝祭だ。
ところでワンのスケジュールは次のようになっている。
ムーラン・ド・ロンシャン賞(9月1週)→ヴェルメイユ賞(9月2週)→スプリンターズステークス(9月4週)
これを見て驚くのはビギナーだけで、ウマ娘レースを熱心に応援してくれる人たちは今さら驚かない。
それどころかこう考える。
『お、聖蹄祭の週は空いてるな』
常識…………いえ、私が言えることではないか。
その週は日本でもフランスでもGⅠレースが無いから結果的に空いたというのが真相。まぁ参加できるのはいいことだ。
もちろんこれが普通のウマ娘なら、1ヶ月に3戦も入れてるところに文化祭まで出ろなんて言うファンは居ないし(ゼロではないけど必ず猛烈な批判に遭う)私もゆっくり休みなさいと諫めるところだけど。
ワンは普通じゃないのよねぇ。
聖蹄祭の実行委員に加わったボゥとはこんなやり取りがあったらしい。
ワン子メインの企画を1つは用意したい
そう、集団の前で歌い踊る時はレース中ほどではないにせよ回復弾などの効果が向上する。つまりワンの身体にとっては負担どころか回復タイムなのだ。
それにこの子は歌詞や振付けを覚えるのがとても速い──いや、速いと言うと少し違うか。身体を休めながら頭の中で反復して、それだけで身体に馴染ませる。そういうやり方に慣れている。
だからボゥに答えた通り、ワンの負担はそう大きくない。そして幸運なことにライバルたちの日程も調整がついた。
つまり今回の夏合宿には『聖蹄祭の準備』という目的も含んでいる。それを踏まえて合同の形をとったのだ。
桜花賞&皐月賞、オークス&東京優駿という大レース連闘制覇を2組なしとげた"金剛"アナグラワンワン。
ワンにクラシック初めての土をつけた"変幻"ニュクスヘーメラー。
ジュニア期にはワンを抑えて無敗、皐月賞で敗れたもののフランスで力をつけて日本ウマ娘として初めてKGⅥ&QESを制した"金字塔"ムーンカフェ。
なんとも豪華な
(ムーンカフェ本人はマンハッタンカフェさんの"ターフにそびえた摩天楼"に
しかしこのステージの準備は、事前の見積りよりも難航してしまっている。このままだとちょっと危ないかも知れない。
トレーナー3人でのミーティングは密に行っている。走りに関することはいつも活発な意見交換があって──私はつい真壁さんに食ってかかって葵先輩に宥められたりもするけれど──概ね有益な時間と言えるだろう。
ただ、ライブの話になると一転。葵先輩の口は重くなってしまう。
そう、黄色信号が灯っているのはニュクスヘーメラーなのだ。
ワンも今は課題を抱えてるけど日々の上達は順調で、聖蹄祭にはきっと間に合う。ムーンカフェは最初からほとんど躓いていない。だから彼女は1人だけ取り残されるような格好になり、焦りは更に事態を硬直させつつある。
「ええと、あまり良くなさそうな雰囲気ですが……今日のレッスンはどうでした?」
歌とダンスよりも走りを優先して見ていた真壁さんが訊ねた。葵先輩は悩ましげに答える。
「…………今日も習得は一進一退ですね……目標に届かない日が続いてしまっています」
「困りましたね……」
私も打開策が見いだせていない──いや、ニュクスヘーメラーが音痴なんてことはないんだけど。
彼女が苦戦してる曲は2つ。
かたやラ・クープやポルト・マイヨの勝利ナンバー。ワンがフランスでも勝ったことを示すには欠かせず、当然フランス語。
かたやKGⅥ&QESの専用ナンバー。ムーンカフェをセンターにして歌うのは必須で、もちろん英語。
言葉の壁というやつである。短く言うならそれだけで、ただし難易度は高い。
「実際、フランス語の発音は日本人には難しめかと」
「ワンに言わせると、ムーンカフェの発音も正しくはないらしいです。『日常会話には充分だけど、歌になると聴き取れないところがある』とか」
「僕らもムーンと同じ、日常会話レベルだからなぁ。ワンワン君は凄いよ」
ワンは脳内に
「ニュクス君も日常会話から入ってみるかい? 時間がかなり厳しいけど」
「あまり賛成できません。時間の問題だけでなく、会話を目標にしてしまうと変な癖が心配なので」
「「あー……」」
確かに。フランス語に比べれば馴染みのある英語の曲は、その馴染みが壁になっている。
KGⅥ&QESは特別なレースだ。イギリスにとっては王室への敬意とかと密接に絡んでいて、そのウイニングライブ専用ナンバーを聖蹄祭で歌うこと自体に難色を示されたほど。折衝の末、英国は『この歌だけは適当に歌わないでくれ、真っ当なキングス/クイーンズイングリッシュを貫くなら許可する』と言ってきた。
私や真壁さんは英語も『通じればそれでいい』のレベルに留まっていて、ニュクスヘーメラーの歌声が『正しい発音』かどうかもちゃんと判別できない。葵先輩とワンだけが聴き分けられる(ムーンカフェは『自分で精一杯』らしい)。
「ニュクスからすると、私やワンワンさんがOKを出す時とNGを出す時の発音がほとんど同じに思えるみたいなんです」
「すみません葵先輩、私も横で首を傾げてました」
「えっ。サキさん、音感はあんなに鋭いのに?」
「音感はニュクスさんも大したものですよ。たぶん聴覚の別の部分なんです」
高いとか低いとかの問題ではなく、口の中でこもらせるか開放するか──どれぐらい開くか、みたいな違いだったりするので。違いそのものは分かってもどちらが『正しい』かは自信を持てない。
「ワンワン君はどうなんだい? 前から話せたわけではないみたいだけど」
「えぇ、ワンは葵先輩のを聴き取って覚えただけです。だから今回の曲に無い単語は正しく発音できないだろうって」
合宿以前のワンの英語は──ライティングはともかくスピーキングは──割とひどいものだった。スラングの比率が高くて発音も叩きつけるような南部系。いっそ他言語と混じり合ったクレオール系という方が近かった*かも知れない。
この1週間で葵先輩と同じ域に達しているのだから、びっくりするほど習得が速いのは確かだ。
「その習得の秘訣というか……ううん、はっきり言おうか。千田さんも桐生院さんも、同じようなことは考えてるんでしょうし」
「「………………」」
隣の葵先輩をちらり。目が合う。ああ、どうやら同じことを考えている。
つまり──、
「ニュクス君の血をワンワン君に飲んでもらって、夢の中で練習するプランの是非について」
──そういうことだ。3人が3人ともそれを望んで許可を求めてきている。
……ムーンカフェには必要無い気がするんだけど?
葵先輩たちが合流してきたその日の晩、先に眠ったワンの口に血を入れることでニュクスヘーメラーとムーンカフェは夢の世界へ飛び込んだらしい。もちろん2人には厳重に注意した。良く分からないことを軽々しくやらないで欲しい。
冬の間に『アストロ』がやっていた頃は、アグネスタキオンさんやネオユニヴァースさんが色々と目を光らせてくれたから認められたのだ。それが無いここではせめて大人に一声かけて欲しかった。
「これまでのところ安全上の問題が起きてないのは確かなんだけどね……千田さんは試したんでしょう?」
「もちろんです。私も葵先輩も
「中で何かあっても止められるわけじゃないか。まぁそれはいつも通りとして」
真壁さんの言葉に揃って頷く。ウマ娘のトレーニングには常に危険を伴うし、トレーナーにできるのは見守ることまでだ。力尽くで止める腕力が私たちには無い──葵先輩は例外かも知れないけど。
ともかく、夢の中で何が起きていようと脈拍などは現実からモニターできるわけだから、準備さえしておけば安全対策はできるだろう。
「そもそも実効性はありますかね。サキさん、失礼ですがワンワンさんの覚えの良さはその夢のおかげなのでしょうか?」
「……うーん……」
どうだろう。あの子がアナさんと話し始めたのは去年の春だ。非凡なボディバランスなどはそれ以前に身に着けていたのだから、全部が全部アナさんの影響とは言えないと思う。
かといって単なる覚えの良さで片付けるのも難しい。英語の発音の件もあるし、トリウムフォーゲンと会った時だってものの数日で覚えたフレーズがネイティブに通じていたのだから。
結論としては──いつも通り。ワンワン分かんない。分かるために出来ることは限られる。
「試してみるしかないと思います。少なくとも身体を休めたまま歌い踊る感覚は得られるわけですから、マイナスにはならないかと」
もちろん、準備は万端整えてからの話だけれど。
アナさんとのドリームレッスン(?)を始めて1週間。8月も半ばを過ぎた。
ニュクスヘーメラーの発音の問題はどうにか進展している。一気呵成に良くなったりはしていないものの(その可能性もあると身構えていた)、夢の中で上手くできたことは現実でも再現しやすくなるらしい。
適当な発音を耳にするとそちらに引っ張られてしまうということで私や真壁さんは英語もフランス語も話さないよう自粛してるけど、その位は常識的で可愛いものだろう。
非常識かつ可愛くないのは、走りの方にも顕著な影響が出てることよね。
「おふたり共、嘘をついたわけじゃないんですよね?」
葵先輩も真壁さんも、それぞれの担当は成長がゆるやかになり始めたって言ってましたよね? 東京ダービーの時のニュクスヘーメラーもK&Qの時のムーンカフェも素晴らしい仕上がりでしたよね?
それがなんでこの1週間でまた別物になってるんですか!?
「嘘はついてないんですよサキさん」
「こちらもです」
「じゃあやっぱりワンが原因ですか……」
もちろんアナさん絡みなのは分かりきってる。ワンからもそんな話を聞いてるし。
『夢の中に引き込んでるの、ムンちゃんたちのウマソウルなんですかね。だとしたら剥き出しの魂に直接【喚起】を浴びせてるようなものなので、効果が大きくなるのも納得かも知れませんが』
何それ怖い。
いえ、それを言うなら3人の反応の方が不気味だ。
昔はともかく今のワンは敗ける悔しさを知っていて、ライバルたちが強くなることに思うところはあるはず。なのに異様に泰然としているのは何故?
ムーンカフェだって、自分が一方的に利を受けるような関係には我慢ならないタイプだ。なのにニュクスヘーメラーと共に夢に潜り続けている──何かに追い立てられるみたいに。いいえ、明らかにワンを意識している。警戒している。
ワンだって伸びてはいるけれど2人ほどじゃない。GⅠ6勝を為し遂げたウマ娘*の夏にしては
ということは……つまり?
「ワン、そろそろ聞かせてもらえるかしら。例の『新しいアラガミ』のこと」
「わ、流石サキさん。制御がばっちりになったのでそろそろ話そうと思ってました」
合宿の終わり=9月が目前に迫っても、ワンに焦りは見えない。むしろ自信を深めてさえいる様子。
「模擬レースで新しい
「はい」
「ただ、足裏の『剣』が今までにない形になってるのは視える」
「…………」
「これまでより長くて鋭い──推進力は増した。タイムも確かに伸びた。でも、まだ他にもあるのよね」
私たちに観測できる変化は限られる。見えていない『他』があるのだ。
「はい。それだけじゃ勝てませんから」
トレーニング中のタイムだけから判断するなら、今のワンはムーンカフェにもニュクスヘーメラーにも敗れる公算が高い。
だけど3人の様子はこの推測を否定している。
……なら、答えは消去法だ。
「ワンがこの合宿中にまだ見せていないもの。本番か、ライブでも多少は使えるっていう……【ブラッドアーツ】だったかしら」
「はいっ!」
真面目に居住まいを正していたワンに笑顔が溢れる。
論理的な推理が通用するかはかなり不透明だったけど、今回は正解らしい。良かった。
……ただしそれでも、改めて説明してもらうと驚かされるのだから心臓に悪い。
「──え、つまりワンがその喰核を纏った状態でアナさんが【ブラッドアーツ】を使うって話?」
「そうです!──何に驚いてるんですか?」
そうです! じゃなくってぇ……。
「アナさんは神機や喰核の使い方を教えてくれる
「あー、サキさんに話した時はもう自分で使えてたから……言ってませんでしたね。ジュニアの頃は代わりにやってくれてたんですよ」
「ごめんなさい、私も先入観があったのよ。あくまで言葉を話すだけかと」
もしくは夢の中でならお手本を示したりもするのかな、とは想像したけど。
レースの最中に、しかもワンの側からは全く操作できない能力があるなんて思わないじゃない。
それ大丈夫? とか……アナさんのことが好き過ぎてアナさんと喧嘩してたこの子には訊くだけ無駄だし。
「模擬レースではやらない? それとも出来ない?」
「『出来るけど制御に自信が無かったのでやらなかった』です。明日からはお見せしますよ。本番には劣るものでしょうけど」
「そう。…………怖くなってきたわ」
「そこは楽しみにするところでは?」
怖くもなるでしょう。だってワンは安全性に不安のある練習をやらない──現実では。自信を得るための訓練は夢の中で積んできたってことで、それこそがムーンカフェたちをあんなに警戒させているのでしょうから。
「ムーラン・ド・ロンシャンまでもう少し。不安は無いわけね」
「トリィさんが急に出てくるようなことが無ければ。サキさんの不安を払拭するためにも圧勝してみせますよ」
あぁ、余計不安になったかも。
勝敗じゃなく、あまりにとんでもない勝ち方をするんじゃないかって意味で。
「…………ええ、ワンを信じるわ」
「複雑そう〜」
聖蹄祭の日程については独自設定です。『本作では9月3週』ということでお願いします。
次話から9月のお話。お披露目。