レースに出る以上は勝ちを目指す。だから強力なライバルについて識り対策を立てる──その対象として、アナグラワンワンというウマ娘は極めて厄介だ。
まず常識が通用しない。非常識であることは常識になりつつあるが。
加えて引き出しが非常に多い。公式レースで使ったものに限っても〈アバドン〉〈コンゴウ〉〈ボルグ・カムラン〉〈グボロ・グボロ〉〈ハンニバル〉〈ディアウス・ピター〉〈マルドゥーク〉〈ルフス・カリギュラ〉と様々で、これらの
本人(たち)と千田サキを除けば、最も多くの情報を持つのはムーンカフェ陣営とニュクスヘーメラー陣営で間違いない。
他よりは多くを識っている。それは間違いないのだが……。
9月初旬。
ムーンカフェにフランス語のメッセージが届いた。
処分期間が明けてフランスに渡ったアナグラワンワンは、宣言通りムーラン・ド・ロンシャン(GⅠ)に出走。そこには東京優駿3着のルーテデラソワも居たし他からもはっきりと警戒されていたが──最初から最後まで先頭を譲らなかった。
勝ち方も明らかにこれまでとは違う。『相手や状況に合わせたテクニカルな走り』ではなく『地力の差を押し付けた脳筋なパワフルな走り』を披露したのだ。
それこそ──、
『なんという! 信じがたい展開です、2番手ルーテデラソワとの差は5バ身ほども開き全く縮まりません!!』
──トリウムフォーゲンが喜悦と冷や汗を同居させるレベルで。
ムーンカフェとアナグラワンワンから与えられる刺激は彼女を更に成長させることになるが、それはさておき。
夏合宿の最中、グラが制御に成功したアラガミ──初めて見た時はムーンカフェたちが気を失うほど恐ろしい様相を持つそれは、名をカリギュラ・ゼノという。
ハンニバル神属の神融種。つまり身体の一部に融合している
アラガミとしての敏捷性で較べるなら、最速は
しかし
そういった背景もムーンカフェたちは聞かされている。グラはアナの素晴らしさを自慢したいので。
情報として与えられはした。理解できたかは別問題だが。
槍って?
分かるわけがない、とムーンカフェは嘆息する。だって
それは要するに、アナグラワンワンには2つのソウルが宿っているということではないのか?
なにがなんだかわからない。
ムーラン・ド・ロンシャンの翌週はヴェルメイユ賞(GⅠ)。こちらもロンシャンレース場で、しかも凱旋門賞と同じ2400mだ。いい練習になる。
というかムーラン(1600m)はあまり参考にできない。使うコースは同じだから、単純に『ヴェルメイユや凱旋門の800m地点からスタートしただけ』と言えなくもないんだけど……その800m地点って上り坂の途中なんだよね。凱旋門賞の重要ポイントの1つである長い上り坂を、ムーランでは半分も体験できていない。
《今日は最初から踏破するんだな》
『はい。最大斜度はなんと2.4%です』
ぴんと来ないと言われたので補足しておくと、日本で最も急な中山レース場のゴール前でも最大斜度は2.24%。あそこよりも僅かに急なわけ。
それ以上に厄介なのが高低差で、中山の5.3mに対してロンシャンはなんと10m。2倍近く上って下りるのだ。ムーランは上りの途中でスタートしたからそんなに上ってないけど。
《で、着差はどうするつもりだ。サキはもっと身体を労れと嘆いていたが》
『手抜きって苦手だし嫌いなんですよね』
《……サキも大変だな……》
ムーランではルーテデラソワさんと5バ身半ほどの着差になって……サキさんの笑顔、引きつってたなぁ。
でも今回はもっと離れるんじゃないかと思う。だって凱旋門賞まではあと3週間で、出場資格を既に持ってるフランス肝煎りの実力者は今日のヴェルメイユより先週のムーランを選んだだろうから。
まして前回は、私とアナさんの出来もパーフェクトではなかったことだし。
さぁ、ようやくゲートが──、
『アナグラワンワンが静かに佇んでいるだけでどこか入りがたく感じられるというゲートですが、最後の子が入っていきます。フルゲート揃いました』
──開いた。
血が巡る。額から異形の槍が生えた。
装備の換装。足裏からの
条件達成──いつかアナさんが言った
『おっと出遅れたかアナグラワンワン、前走ムーラン・ド・ロンシャンでは素晴らしいスタートダッシュを見せま──っ!? な、なんだ今のスピードは!?』
『一気に先頭に立ちました、しかもまだ加速しているようです!』
槍の基本技〈チャージグライド〉は力を溜めてから真っ直ぐ突進する動き。その派生技である〈エヴォリューション〉は発動直後の低速前進からどんどん加速していくもので、直線でのダッシュにうってつけだ。
ロンシャン2400mではスタートから1000mほどが直線で、しかも最初の400mはほぼ平坦。突撃槍のためにあるようなコースじゃないか。
平坦区間を一気に駆け抜けて先頭で上り坂に入る。約600mかけて10mを上る長い坂だ。勾配は普通→キツい→ゆるいの順になっていて、前走では最後のゆるい部分しか走ってないわけだけど──、
『うわ、斜度2.4%って思ったよりキツい!?』
──これは中々、体験しないと分からない。走っておいて良かった。
とはいえもちろん、今日のレースも落とすつもりはない。凱旋門のための偵察とかじゃなく、勝ちに来てるんだから。
《多少は減速させられたな。やるか?》
『あと80m先、上りがゆるくなったところで。タイミングは合図します』
私はどう頑張っても【ブラッドアーツ】を扱えなかった。アナさんだけの力だ。
アナさんは私じゃないし無言のテレパシーとかも無いから、以前は使うシーンを限定してたけれど。そんなの怠慢だよね──
《そこカーブの入り口だろ?》
『アナさんが私のタイミングに合わせりゃいいんですよ』
《逞しくなったなぁ……》
傍観者でいたいアナさんを協力者に引っ張り上げる。そうじゃなきゃこの〈カリギュラ・ゼノ〉は完成しない。
ソウル使いが荒い? 人聞きが悪い。他ならぬアナさんが言ったんだ。神機使いの最高速を見せてやるって。見せたいって。
『右からです、3・2・1──』
『《GO!!》』
血界再現──ガトリングスパイク
突きを放つ際に
あ、ターフには不自然に深い穴が残ってしまうけれど。そこは申し訳ない。
『第3コーナー坂の頂点! 最初に上り詰めたのはアナグラワンワン、2番手との差はどれほどか!?』
『急坂で落としたスピードをすぐに取り戻してしまいました、このまま下りに突入するのは心配ですが……』
ああ、流石に〈ガトリングスパイク〉は坂の頂上付近だけだ。10mもの落差をトップスピードで駆け下りるのはちょっと危ない。特に残り1200mから残り1000mあたりの急降下は前走でもヒヤッとして減速しすぎてしまった。
同じミスは繰り返さない。お願いしますよアナさん?
『
《了解了解》
血界再現──ハチドリの舞
槍を有する〈カリギュラ・ゼノ〉を解除すれば、神機は元通りの
『っ!? な、あ、あの速度で、落ちた!? 脚は平気なのか!』
『
嘘つけぇ!──おっと集中集中。
だけど声を大にして言いたい、ラスト800mはちっとも平坦じゃないと。日本のレース場みたいな平坦区間はこのコースのどこにも存在しないのだ。小さなアップダウンがたっくさんある。最初の400mは頑張れば平らと言い張れる程度だったけど、この先をそう呼ぶのは詐欺*に近い。
もっとも、私にとっては先週走ったばかりの難所だ。
この
『
《了解》
ここまでで3つの【ブラッドアーツ】を使っているアナさんは、そんな様子は全然見せないけど疲れている。先週なんてゴール直後に寝落ちした。皐月賞でムンちゃんを庇った後みたいに。
しんどいなら言ってくれとか弱みを見せたくないとか、またプチ喧嘩になったけど……それはさておき。
『アナグラワンワン一人旅! 完全に独走態勢でホームストレッチにやってきた!』
『はっはっは、悪夢のようだ』
『笑いごとじゃないですよ!?』
ゆるいコーナーを完全に脱して残り500m。手前の300はゆるやか〜な上りで、最後200ではガクガクッと上下するけれど……そこはもう、スピードで突破する。
喰核再現:カリギュラ・ゼノ
──暴れそうになる喰核を抑えつけて、僅かにタイムロス。次回への反省材料。
大丈夫、制御に緩みは無い。残り350m。
《〈ガトリング〉はどうする?》
『やめときましょう、前回使えなかったやつを』
《了解、合図を待つ》
〈ゼノ〉の槍でターフを穿ちながら。このゆるい上りで、私の歩幅は180cm未満──普段より狭いな、息も上がってる。ここに〈疾風突き〉の威力が乗るから、初撃を放つべきは……残り215m地点。
『今度も右から、3・2・1──』
『《今!!》』
血界再現──
212m、踏みしめるごとに風を
──疾風突き・弐
207m、押し出す力は更に増して。
──疾風突き・参
200m、厄介な地形など置き去りに。
──疾風突き・肆/縮地
『
《しんど……》
ダルそうにしつつも充実感が滲むアナさんの言葉に頬を緩めつつ、最後を自力で駆け抜ける。
『もう笑うしかない! アナグラワンワン、ムーランに引き続きヴェルメイユでも大差勝ちをやってのけるなんて!』
『ははははは、幾ら速くたってヴェニュスパークには勝てないさ』
『そういう与太話はプライベートでやってくれません!?』
なんだか解説の人が壊れ気味だな、そんなに凱旋門賞が怖いです?
まぁ、うん、脅威ではあるのか。今回は割と上手く走れたから。肩で息をしながら振り返れば、差はざっくり10バ身ありそうだし。
凱旋門賞は3週間後。
お待たせトリィさん──
あ、私は聖蹄祭とかスプリンターズステークスとかあるけどね。その後にね。
10月までにもっと強くなっておきたいものだ。
『今夜からアナさんも走り込みしましょう、夢の中で』
《それ意味あるのか?》
『さぁ? やってみなきゃ分かりっこないです』
《ウマソウル、分からん……》