8月の合宿で、私はアナさんと喧嘩したり神融種アラガミの
実は全っ然上手くいかなかったこともある。
ニュクスさんが合流した後の(つまりアナさんと仲直りした後の)ある夜、こんな会話があった。
「根本的にアプローチが間違ってる気がするんだよな」
「というと?」
「これは『アルヘイボゥの力』じゃない、みたいな」
「え。いや先輩以外の血なんて飲んでませんよ」
そう、アイビスサマーダッシュのラストで図らずも飲み込んでしまったボゥ先輩の血液。それ以来私の中に間違いなく存在している力の塊は、綺麗に赤白青に分かれている。
……これの使い方が、てんで分からない。〈
「すまん、言葉が足りなかった。アルヘイボゥは──グラの先輩は、異世界のウマから魂や逸話の力を引き継いでいる。ここまではいいな?」
「……はい」
「異世界のウマから継いだ力と、この世界のウマ娘が獲得した力。分けて考えるなら〈3色柱〉は前者で、これは後者のように思えるんだ」
「……むーん? あー、言われてみれば?」
心当たりが2人ほどいる。アナさんが『未現領域』と呼ぶものだ。
未現領域──
彼女の“領域”はああじゃなかった。阪神ジュベナイルフィリーズで戦った時は
「アソカツリーとの関係でいうなら、あれは文字通りのホウカンボクではなくインドボダイジュだったんだろうな」
「?」
「和名で宝冠木といえば普通はマメ科のブロウネアを指すが、大きな花が宝冠と呼ばれることはボダイジュ*もあるんだよ」
「はぁ……ええと、その樹だとなんなんです?」
「仏教における聖樹だ。
「出たな神話オタク」
「役には立ってるだろ」
「いつもありがとうございます」
まぁ細かい背景はともかく、阪神JFの時はきっとホウカンボクという
そして〈執着の棘〉は違う。ブロウネアにもインドボダイジュにも棘とか無いらしいし。
年始からしばらく練習をサボってたとか、アリー先輩と喧嘩したりネオユニヴァースさんと走ったりとか、そういう経験をしたホウカンボク自身が練り上げた鬱屈と逆撃の牙。
「ドンナさんのもそうですよね?」
「あぁ。あれにはグラの──私たちの走りも影響したんだろうなぁ」
未現領域──
【喚起】の影響もあるにせよ、自身の“領域”を巧みに使いこなしてるドンナさん。デビュー戦で〈雷轟疾駆〉が通じなかったから10月には〈開闢雷霆〉をもってきて、それを〈烈風刃〉に踏み潰されたら東京ダービーには〈黒雷武踏〉を用意してきた。『必要な能力を意図的に組み上げてる』感じすらある。
おまけに身体面も私より恵まれてるので、8月9月(レパードステークスと
少なくとも他者の“領域”を砕く〈黒雷〉はウマ由来とは考えにくく、ウマ娘としての経験に根差すと考えていい。
ふむふむ。とすると先輩の血の力は──あれ?
「待ってください、ボゥ先輩の未現領域なんて見たことありませんよ」
「だから使えないんじゃないのか」
確かに私はこの力で〈3色柱〉みたいなことをやろうとしていた。そもそもそういうモノじゃないとしたら失敗は当たり前だ。
じゃあどう使うのが正解なのか? ウマではないウマ娘の先輩は、どんな体験からどんな力を形作ったのか?
「えぇ……参ったな、それじゃ先輩も分からないってことに」
この問題の困ったところは誰も正解を知らない点。それでも参考にできるのは先輩しかいない。
教えてください
憧れてきたか、みたいな
文字じゃ埒が明かないってことですぐに通話がかかってきて、いつもの如く洗いざらい吐かされたよね。
「えぇ……」
「わざとじゃないんですってばぁ!」
血を飲んだこと自体も、そこから何らかの力を得ようとしてることも、ドン引きされたのは仕方ないような気もする。
それでも私はそうしたいのだ。
「先輩と一緒に走れるみたいで素敵じゃないですか」
「………………なら、吐き出せとは言わないけど」
照れた。かわいい。
「吐き出し方も分かりませんしね」
「じゃあもう無駄にするなとしか言えないじゃないの。ったく……ええと、私から見たヤマニンゼファーさんってことよね?」
「はい」
先輩はじっと言葉を選んでから、それでもこれしかないというように言い切る。
「あの人は、風よ」
まぁそんな一言で上手くいくはずもなく。
先輩もあれこれ相談に乗ってくれたものの、最終的には「もうヤマニンゼファーさんに直接会ってみるしかないでしょ」という話になって。
しかし彼女は現役のお天気お姉さんである。大人気の。レースからは完全に引退している。
(なのにURAからも協力を打診してくれたらしい。シンボリルドルフさんが約束してくれた凱旋門サポートの一環だろう。ヤマニンゼファーさんやテレビ関係の人には圧力かけたみたいで申し訳ないけど)
9月いっぱいみっしり練習に付き合って欲しいなんてことは流石に言い出せず、それでも何日かもらえたら嬉しいなと思っていたら……あちらの都合がつくのが10月頭だけだったとかで、なんかフランスに同行してもらうことになっていた。
しかもスプリンターズステークスが終わった翌日、凱旋門賞の6日も前から。
改めて、飛行機の中で訊いてみる──流石になんの会話も無しで半日以上は息が詰まるし。
「あの……フランスまでお付き合い頂けるのはとてもありがたいんですが、こんなに早く前乗りするのはどうしてですか?」
「? あなたは、かの地で風の光を掴みたいのでしょう?」
「? えーと、多分、はい?」
「私は秋津風しか識りません。天津風に国境など無いとはいえ、あちらの
「???」
ネ、ネオユニさんに近い難しさを感じる! でも秋津は日本のことで、天津は高い空ってことだから……要するに『現場を見てからアドバイスします』ってことでいいのかな。
それにしたって、毎日のようにテレビに姿を見せる彼女を1週間も独占してしまうのは何か申し訳ないような──、
「私が決めたことですから。あなたがそんなに湿ることはありませんよ」
「うえっ。初対面でそんなに見透かせます?」
「あなたはまるで台風ですもの」
「えぇ……?」
──いや怖いなこの人。アナさんのことすらバレそうに思えてくる。
というかめちゃくちゃ失礼だけど、人にものを説明するの下手そう。気象予報士としてどうなんだ。
「気象の一般知識としては──」
「ごめんなさい心を読まないでください」
「──フランスの気候は偏西風の影響を強く受けます。西からの風……西は、恐ろしいですよ。甘く見てはいけない」
……いやぁ、私も下調べくらいはしてまして。パリ近郊でレースを左右するような西風が吹くことは多くない。台風大国の日本とは違うからね。嵐なんて年に3回も来たら多い方だとか。
そしてゼファーさんが恐ろしいというそれは……風ではないのでは?
「あの、ニシノフラワーさんは居ませんが」
「それでもです。意識外から吹き込む
どうやら合っていたらしい。ある年のスプリンターズSゴール直前、先頭にいたゼファーさんはニシノフラワーさんに差されて2着になっている。
そういえばゼファーさん、スプリンターズSには3度挑んで1度も勝てていない*んだっけ。
それは風を読み損ねたんだろうか。それとも風に乗り損ねたんだろうか。
上手くやってなお敗けたって可能性はもちろんあるけれど、ボゥ先輩は違うと言っていた。
『真似ようとしても出来たことがないから上手く言えないんだけど、ゼファーさんの走りって
『はい。安田記念も天皇賞も……確かに、気合い炸裂みたいな印象は抱きませんでした。軽やか〜な感じ』
『うん。スプリンターズステークスはそうじゃなかったと、変な
『なるほど──うわ、改めて見るとサクラバクシンオーさんの走りって本当にパワフルですね。比べるとゼファーさんの軽さが際立ちます』
『バクシンオーさんと比べたら大体みんなそうじゃないかしら』
それはそう。
──もっとも、フランスに着いてみたら私なんかの考えはまるで役に立たなかった。厳しいダメ出しの連続である。
「風を
「邪念ですかコレ!?」
「少なくとも私の走りではありません。アルヘイボゥさんも言っていたでしょう。私は風。あなたも新風に
「………………ごめんなさい、分かりません……」
「言葉にできるものではありませんよ。さぁ走ってください」
「はいぃ!」
わ、分からない……! そもそも頭で分かろうとするのが違うってダメ出しは本当に対応に困る。頭で分かってないことを身体で掴むのはものすっごく苦手だ。
ちなみにゼファーさん、流石に脚で走ってはいない。ターフを傷つけないように加工した自転車に乗っている。それは普通の自転車よりタイヤ幅が広くてゴムも厚くて、要するに走りにくいはずの代物なんだけど──、
『やっぱり疾いっ!?』
──意味不明なほどするする進んでいくから手に負えない。トレーニングなので
《薄いが“領域”のようだぞ? 名は〈天つ風〉》
『風に乗るんじゃなくて風になるってどういうことですか!?』
《私に訊かれてもなぁ……?》
風を操るアラガミはいても風になるアラガミなんて居ませんからねぇ。まぁ流石に、ゼファーさんの言う『風になる』が文字通りそのまんまの意味でないことは分かったけど。
それ以外は何も分からないまま2日が過ぎ、凱旋門賞を3日後に控えた朝。
ヤマニンゼファーさんはいきなり方針を変えた。
「……今掴もうとしているものは、仮に掴めても無駄になりそうです」
「え。無駄というと?」
「嵐が来ます。文字通りの、気象現象としての嵐が」
え、それ凱旋門賞どうなるんだろう──という現実的な心配よりも先に。
とっても失礼なことを考えてしまった。『この人、自分の言葉が分かりづらいって自覚はあるんだなぁ』である。ごめんなさい。
『例年は16時頃の出走となる凱旋門賞ですが、今年は悪戯な
『15時以降は豪雨を伴う荒天となる可能性もあるため、レースの時刻が変更となりました──しかし既にかなりの風が出ていますね』
出走15分前、12時45分。
空はまだ白い雲が幾つか浮かぶだけの晴天だが、それらはみるみる東へ流れていく。地表でも轟々と風が鳴き始めた。
荒れてうねり巻き踊る風。こんな状況ではヤマニンゼファーでも『風になれない』という。だから乞われたことは教えようが無いのだと。
「この
「そんな、謝るようなことじゃ」
「特別アドバイザーなんて引き受けておきながら……」
「私のセンスの無さですから!」
グラは大慌てで頭を上げてもらった。こんなことがアルヘイボゥに知られたらお説教は確実なので。
「ワン、地形と風向きは頭に入ってるわね?」
「もちろん」
ヤマニンゼファーはせめてもと、分かる限りの風の動きを教えてくれた。もちろん嵐の最中の細かな風など予測できないから、大まかに『西南西から東北東へ、強く不安定な風』という程度だが。
ロンシャンレース場はコースの西側に観客席・放送席や防風林などがあるので、それらに遮られて吹き下ろしや巻き上げの風に細かく変化するだろう。
コースの前半はほぼ真南に向かうため、選手は右からの風を受ける。コーナーは右方向へ大きくUターンするような形で、ホームストレッチはほぼ真北を目指すから今度は左からの横風だ。
「ゼファーさんには……無駄足を踏ませちゃったみたいですが」
「そう?」
「え?」
「そうでもないと思うわよ」
ヤマニンゼファーとのトレーニングにももちろんサキは同行していた。普段はたいていのことを小器用に
(アナグラワンワンの『普段の走り』は身体のクセではなく意識的な
「ボゥの力は脇に置いて、今日のことだけ考えましょう。ゼファーさんは敵を教えてくれたの。『風は予測なんかできない』ってことをね」
「……あー、確かに」
「でしょう?」
それは文字通りの風でもあるし、レース展開という奇怪な激流でもある。
特にフランス勢の動きは読み難い──隠すことなくチームとして連携してくることだけは分かっているが。方針のようなものはあるにせよ、全体を見渡してそれぞれに指示を出す司令塔など存在しない。各自の判断が繋がって全体の流れを生む。読み切ることは困難だ。
それに比べればトリウムフォーゲンの気性は読み易い。しかし彼女は彼女で巨大な未知を抱えている。
結局のところ、高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対処するしかない。
「まぁ、勝負なんていつもそうかも知れませんね」
「ええ、だから大丈夫。
「はい!!」